黒薔薇姫は捨て猫を拾う
「お、お兄様」
少女は兄に触れようと手を伸ばす。
だが、その手は即座に振り払われた。
弾みで欄干にぶつかり、回廊の外に少女の体が転がる。白いプリーツスカートと乱雑に絡んだ赤毛が、水たまりに沈んだ。
「話しかけるな、愚図」
兄と呼ばれた少年は冷たく言い放ってその場を去った。
未だ春の雨が降る肌寒い空気の中、水たまりに転がった少女だけがその場に残された。
嘲笑が、聞こえる。
「なぁに、あれ」
「知らない? グリーヴァンス侯爵家のダメな方よ」
「御長男様は素敵な方なのに、妹はああなのよね」
同じ白の制服を着た知らない令嬢たちの言葉が、槍のように少女に降り注ぐ。
降り続いている冷たい雨も少女の体温を奪っていく。
聞こえる足音は誰かが去っていく足音か、近づいてくる足音かもわからない。
早くどこかに行かなきゃと思っても、体は動かない。
――だって、どこに行けばいい? 家だって、学院だって、どこにも私の居場所なんてないのに。
「あらやだ」
艶やかな声が聞こえた。
――次は何を言われるのだろう。
そんなことを考えていた時。ふと、雨が止んだ。
視界の端に、よく磨かれた黒いブーツと金糸で刺繍が入った高そうな白いスカートが見える。
見上げれば、周囲の空気が変わっていた。澄んだ気配を纏い、一人の少女が護衛らしき人をつれて立っている。
伸びきった前髪越しに、二人の目が合う。
ぼろぼろの少女を見て、彼女は紅い目を細めた。
「こんなところに子猫が捨てられているわ」
艶やかな黒髪を持った長身の少女が、赤毛の少女に傘を差しだしていた。
「はいタオル。今暖炉を点けさせるわ」
赤毛の少女は、黒髪の少女に連れられて貴族学院内の豪華なサロンに来ていた。
深紅を基調にした調度品は全て金細工で飾り付けられており、一目で高級なことがわかる。
建物内にこんな豪華な部屋があったことを、赤毛の少女は知らなかった。
ずぶぬれの少女は、豪華な部屋を汚してしまうのが怖くて小さくなっていた。座れと言われたソファーに座ることもできなくて、立ち尽くす。
黒髪の少女はこの部屋の主らしく、堂々とソファーに座っていた。
「セシル、早く火を起こして。このままではこの子風邪を引いてしまうわ」
「はい、姫様」
彼女は座ったまま、暖炉に火を入れている近衛兵の女性を急かす。
――黒い髪。姫様。やっぱり、この人は。
赤毛の少女は渡されたタオルを握りしめて、その場で跪いた。その行動に気づいた黒髪の少女は苦笑する。
「なぁに、突然。どうしたの?」
「ぱ、パトリシア皇女殿下に、ご挨拶申し上げます」
赤毛の少女は唯一知っている皇族への挨拶口上を口にする。
「あら、ちゃんとわかっていたのね」
このグランディヴェル皇国第一皇女、パトリシア・グランディヴェルは黒髪をなびかせてたおやかに笑った。
「はじめまして、グリーヴァンス家の子猫ちゃん。お話できて、嬉しいわ。名前を教えて頂戴?」
「ぁ、アマリエと、申しま、す……」
消え入りそうな声で、赤毛の少女、アマリエ・グリーヴァンスは答える。
アマリエ。それは愛される人、という意味の、代々受け継がれてきた名前。少女には荷が重すぎる、不釣り合いな名前。
この名前を付けられて、アマリエは最上級の教育を受けて育った。教養の習得は一つ年上の兄より早いほどで、幼い頃は一族中が彼女に期待した。が、生来の引っ込み思案でおどおどした性格は教育では変えられなかった。
会話に入っていけない。社交ができない。
結果、アマリエは貴族学院に入学して一年以上経つのに友人もおらず、優秀な兄と比べてだめなほう、と言われるようになった。
親にも見限られており、自室は何年も前に母の衣装部屋に変わった。物置で寝泊まりしていて、量の多いくせ毛は伸び放題で絡まっていくばかりだ。
――早く、御前を失礼しないと。皇女殿下にご迷惑をおかけしたと知られたら、お母様がどれだけお怒りになるか。
肌触りの良い高級なタオルを握りしめて、アマリエは焦る。
そんな彼女から、パトリシアはタオルを取り上げた。アマリエに頭から被せて、すっかり髪に染み込んでしまった雨粒を拭う。
「全く、この子猫ちゃんは何を怯えているのかしら」
顔に当たる布は毛足が長くて柔らかい。優しく髪を拭われて、アマリエは涙が出そうになった。
――こんなに優しく他人に触れられたのは、いつぶりかしら。
縋りたくなった心を、叱咤して引き留める。
「お、お止めください皇女殿下」
「あらあら、子猫がにゃあにゃあ鳴いてるわ」
声だけで、この人がどこもかしこも美しい人だということがわかる。
アマリエは知らない。
目の前の優しい少女が、狙った獲物は決して逃さない獰猛な肉食獣だということを。
お読みくださりありがとうございます。
短期集中連載となります。短編とするには少し長かったため、連載といたしました。
次話は本日5月24日21時更新です。
この物語はスピンオフで、同じ国の少し未来の話が連載中の本編になります。
第二章まで完結したところなので、お読み頂けたら光栄です。
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