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26 令嬢、熊男の慟哭を聞く

 「それは、どのような嫌疑なのですか?……それに、魔法にもいろいろと種類があります。魔法を使ったかどうかだけでは判断できないのでは?」


 私はおずおずと訊ねる。ゲーベルはかすかに顎を引き「そうだな」と小さくつぶやくと瞑目する。

 魔法の使用にこだわる理由――核心に触れる緊張からか、私の背筋は凍てつき始める。ゲーベルにうそぶいた後ろめたさで胸がチクリと痛んだ。


 「すまない、魔法を使ったこと自体が問題じゃないんだ。――香水を使ったことが問題なんだ」


 沈痛なゲーベルの声を聞いて私の表情が固まる。凍えた手で心臓を鷲づかみにされたのかと錯覚を覚えた。

 私は目線でゲーベルのまぶたが閉じられていることを確認する。ぎこちない動きでエリアルが抱える木箱を見つめた。

 ……この香水に何があるの?ただの香水ではないの?

 騒々しく早鐘を打つためか、胸の痛みが止まらない。呼吸をすることさえ億劫に感じた。


 「香水ならば使っております」

 「――何だと」


 エリアルが言うやいなや、ゲーベルが身を乗り出してくる。私は驚愕してエリアルを見やった。エリアルはいつもの無表情を崩すことなく、ゲーベルに相対した。


 「私はもちろん、お嬢様も使っておいでです」

 「ルティ、どういうことだ!……いやすまない、ルティを疑っているわけではないんだ。ただ何か知っていることがあれば教えてほしい。それだけなんだ」


 私の表情は絶望で染めあがる。エリアル、貴方は何を言っているの?限界まで私は目を見開くが、エリアルは身じろぎ一つしない。声にならぬ問いに答えてくれるはずはなかった。

 呆然とした私をゲーベルの怒鳴り声が引き戻す。小道に響き渡る声に反響するように、私の身体も震え始めた。身体の震えを抑えることができず、両手で私自身の身体を抱きしめる。

 続くゲーベルの言葉は私の耳に届いていなかった。


 「ルティ?おい、聞いているのか?――ルティ!」


 ゲーベルが私の両肩に手をかける。ゲーベルの押し戻しに合わせて私の身体は前後に動く。緊張の糸が切れた操り人形は、自分で糸を張り直したりはしない。人形のような私の瞳は何も映してはくれなかった。


 「失礼いたします、お嬢様」


 エリアルはゆっくりと私に近づくと、ゲーベルを押しのける。抗議の声を無視して、私を右手で抱きしめながら耳元に口を寄せた。


 「ルティ、この香水を使ったことに気づかれているわ」


 エリアルは小さくささやくと、左手で持った木箱を私に押し当てる。私の身体がピクリと反応した。


 「隠すのは危険だわ。素直に使用したことを認めましょう」

 「……でも、何を言われるか」私は震える手でエリアルの背を握る。

 「ルティは何も知らなかったのだから、罪にはならないわ。あの男も私たちが巻き込まれただけだと、薄々と勘づいているみたい。この香水に問題があるならば、敵対するよりも協力してもらった方がいいわ」


 私の背中を右手でやさしく撫でながらエリアルは告げる。引きつっていた私の表情がいくぶんか柔らんだ。


 「ルティは私の主なのよ?もう一度だけ頑張って。……頑張れるよね?」


 背中にまわされていたエリアルの右手が頭に触れる。私の頭をトントンと落ち着かせるように叩いた。

 

 「……それに、いざという時の覚悟はできているから」

 「エリアル?」


 私の間の抜けた声にエリアルは応えてはくれない。一歩だけ後ろにさがると、愛おしそうに私を眺める。支えを失った私の両手は、力なくだらりと下ろされていた。

 エリアルは一つ二つと息を吐き、口元の笑みを消すと瞳の奥を暗く輝かせる。ゆっくりと振り返り、ゲーベルと対峙した。


 「お嬢様に代わり、私から確認させていただけますか?」

 「まあ、いいぞ。言ってみろよ」ゲーベルは眉をひそめて横柄に言う。

 「女性であれば香水を使ってもおかしくないことです。男性はなされないかも知れませんが、香水瓶に魔力を流してお部屋全体を香りで満たすことは、日常的なことです」


 エリアルは淡々とした口調で告げる。ゲーベルは目を細めてエリアルを見下ろすと、苛立たしげに足を踏み鳴らした。


 「それで、何が言いたいんだ」

 「……貴方様は言葉足らずが過ぎます。なぜ香水の使用が問題になるのかを全く説明しようともしません。それとも、言えない理由でもあるのですか?」


 後ろから覗き見ていた私の顔は引きつる。ゲーベルは殺気のこもった視線を向けていた。

 一目散に逃げ出したい。本能的な恐怖に私の背筋は凍りつく。思考とは裏腹に、まるで地面に縫いつけられたかのように足は動かせなかった。


 「お、お答えください」エリアルは今にも消えそうな声で訊ねる。

 「――何か言ったのか」


 ゲーベルは険を含む声で吐き捨てた。エリアルを相手にする気は欠片もないのだろう。まるでゴミを見るような瞳を向ける。

 エリアルの背は明らかに震えていた。発する声も言葉の体を成していない。ただ掠れた音を漏らすだけだった。必死な声はゲーベルが足を踏み鳴らした途端に掻き消される。エリアルは小さな悲鳴とともに後ずさった。

 知らず知らずのうちに、私は両こぶしを握り締めていた。


 「ゲーベル様、私のメイドをいじめるのはやめてください」


 私は前に向かって一歩を踏み出す。ゲーベルの瞳が私を捉えた。


 「いじめてなんていないさ」ゲーベルは大仰に肩をすくめる。

 「……エリアル、さがりなさい」


 エリアルのことを全く意に介さない態度に辟易する。私は心の中で深くため息をついた。

 顔を伏せたエリアルは私と立ち位置を入れ替える。横目で様子をうかがうが、エリアルの表情はわからない。ただ足元に小さな雫で道ができあがっていた。

 私は視線に力を込めて、顔をあげる。ゲーベルは楽しげに口元を緩めた。


 「香水がなぜ問題となるのか、教えていただけますね?」

 「その問いに答えるのは簡単なんだが……先に確認させてもらってもいいか?」


 私の問いに問いで返したゲーベルは、少し考え込むような様子を見せる。ゲーベルはちらりとエリアルを見据えた後、私に視線を戻した。


 「ルティ、お前は何も知らないんだな」


 ゲーベルが一音ずつ区切るように訊ねる。私が首肯すると、ゲーベルは満足そうに微笑む。エリアルに向ける表情とは真逆の姿に、私は眉根を寄せた。

 エリアルの何が気に入らないのだろうか。私にはさっぱりわからない。表情をころころと変えていくため、ゲーベルの本質をつかむことができずにいた。

 優しげな瞳と、憎悪を孕んだ瞳。どちらを信じるにしても、私には明確な根拠がない。考えれば考えるほど、思考は渦を巻く。私の頭はズキリと痛んだ。


 「――人の心を操る香水、聞いたことはないか?」


 私の様子を探るようにゲーベルは言う。数秒考え込んだが、私には聞き覚えがなかった。少し伏し目がちに「……知りません」と私はつぶやく。


 「そうだろうな。その香水が存在することを知っているのは、限られたものだけだ。……それこそ、香水の製造や流通に関わった奴だけだろうよ」


 さも当然のことのようにゲーベルは言い放つ。私がゲーベルを見上げると、お父様が私に向けていた――娘を見守る父親の表情をゲーベルは浮かべていた。

 私はかぶりを振って、ふいに胸へ灯った熱を掻き消した。


 「人の心を操るなんて信じられません!そんなの迷信に過ぎません!」


 内心の動揺に引きずられて私は叫ぶ。やってしまった、と後悔して口元を手で押さえても遅かった。

 ゲーベルは気にするなと言わんばかりに、虚空を手で払い除ける。小さく声を出して笑い始めた。


 「俺もはじめて聞いたときは同じ感想だったよ」

 「……心は誰のものでもありません。自分だけのものです。それを操るなんてできるわけがありません」


 ゲーベルの態度に強張った私の体から力が抜ける。私がつぶやくと、ゲーベルは首を縦に振った。


 「その考えには同意だ。……だけどな、操るまでいかなくても人の心を誘導することはできる、そう思わないか」


 誘導?確かにそれならばできるかもしれない。

 私は顎に右手の人差し指を当て、香水店での出来事を思い起こす。ただ匂いを嗅いだだけで、エドモンド様を想起させられたのだ。ゲーベルの言葉を嘘だと断定することはできなかった。

 エリアルの行動がおかしくなったのも、香水店に近づいてからだった。どこか嫌な予感を覚えながらも、「誘導、できるかもしれません……」とくぐもった声を出した。


 「それが問題なんだ。本人の自覚のないまま、意図せぬ行動をとらせることができる。心を操る香水なんてものがあるとするならば、その香水を使ったやつを罰すればいいだけなんだ。だけれどよ、誘導するとなると別問題だろう」

 「あくまで行動したのは、その本人だから……ということ?」


 私は慎重に訊ねる。ゲーベルはため息をつき、「そうだ」と小さくつぶやく。苛立たしげに頭を掻きむしった。


 「誘導されたとは言え、罪を犯したならば罰するべきだ。そこに疑う余地はない、そうだろ?」


 ゲーベルは不機嫌を隠そうともせずに言う。私は少し躊躇いながらうなずいた。

 誘導されたから罪を犯したのか、それとも罪を犯したものが何かに誘導されたとうそぶいているのか。それを見極めることは難しいだろう。

 そもそも、どれだけ心に作用するのかが検討もつかない。意思をもって抗えるのか否か。もし自然と思いが湧きあがるのであれば、抗えるとは思えない。

 答えの出ない問答が、私の頭の中をぐるぐると廻った。


 「香水の作成に関わった奴も罰を受けるべき……それも納得はできるんだ!」


 悲痛なゲーベルの声に、私の思考は途切れる。ゲーベルの表情は苦しげに歪んでいた。目尻に浮かぶ涙を見つけ、私は目を大きく開いた。

 ゲーベルは言葉を続けられずに言い淀む。腕を目元に押し当てると、力一杯に擦りつけた。目元を赤く腫らしたまま、ゲーベルは自身の胸元を強く握りしめる。


 「フローラは関係ないんだ!ただ巻き込まれただけなんだよ!」


 感情を爆発させたようなゲーベルの叫びが通りに木霊した。

読んでくださってありがとうございます。

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