25 令嬢、熊男と対峙する
「まどろっこしいのは嫌いなんだよ」
熊男は舌打ちをすると、首に手をかけボキボキと音を鳴らす。ただその瞳は私から一瞬も離れない。女性を侮蔑するような下卑た笑みは霧散し、その表情は真剣味を帯びていた。
急な雰囲気の変化に私は警戒を強める。熊男の右後方に控えるエリアルも目を細めて注視した。何を言われるのかが私には全く検討もつかない。じっとりと冷や汗をかいた。
「――お前たち、魔法を使ったな?」
熊男は低く重苦しい声で訊ねる。重々しい口調に反した軽い内容の質問に私は虚をつかれた。
香水瓶に魔力を流して香りを楽しむ。これくらいのことならば、日常生活でも頻繁に行われている。責められる要素は一つもなかった。現に、学園寮でも毎日のように香水を楽しんでいた。
私は首を傾けて、下から熊男の表情をのぞき込んだ。
「正直に答えろ!お前たちが魔法を使ったんだな!」
怒鳴り声が通りに響く。熊男はギョロギョロと瞳を動かし、私とエリアルを交互に睨みつける。今にも掴みかからんばかりの勢いが、私の困惑に拍車をかけた。
香水を楽しむことの何が悪いのだろうか?まさか屋外で使用したことを咎めているわけではあるまい。ただ、一つだけはっきりとわかることがあった。
私が確認するようにエリアルに視線を向けると、エリアルは右目を閉じて合意を示す。私とエリアルの意見は一致していた。
「どうなんだよ!早く答えろよ!」
「……申し訳ありませんが、人違いをなされているのではないでしょうか?」
私は申し訳そうに目を伏せながら否定する。
この男の様子は異常だ。もし魔法を使用したと口にしたら、どのような仕打ちを受けるかわかったものではない。私とエリアルを害することに、躊躇しないだろう。
「嘘だ!こっちの方で魔法の気配を感じたんだよ!そして、そこにお前たちがいたんだぞ!」
「――嘘ではありません。本当のことです」
熊男が私に一歩近づきながら叫ぶ。あまりの勢いに仰け反りそうになりながらも私は否定した。
狂気をはらんだ瞳が私を射貫く。竦む身体に叱咤し、前へと一歩踏み出す。見下ろす熊男と視線を合わせた。
わずかに熊男の目が見開いた。
「……お前たちが魔法を使ったのではないのか?」
熊男は幾分か口調をトーンダウンさせて訊ねる。心なしか肩を落としているように見えた。
私はもったいぶるように瞑目し、静かにまぶたを開く。
「残念ながら、その通りです」
「……そうか」
天を仰ぐように熊男は顔をあげ「違うのか」と小さくつぶやく。消え入りそうな声で自問をひたすらに繰り返すが、その声はほとんど聞き取れない。私とエリアルの存在は意識の外に追いやられていた。
数秒後、エリアルは静かに私の隣へ移動する。器用に左手だけで木箱を持つと、空いた右手で私の手を握った。
横目でエリアルを見ると、小さく微笑している。つられて笑った私はエリアルに身を寄せて、繋いだ手を後ろに隠した。
私とエリアルは息を殺して熊男の様子を窺う。上を向いたままピクリとも動きやしない。この男は何を考えているのだろうか。
何気なく見上げた空には雲がかかっていた。今晩は雨が降るかもしれない。
「すまなかった!」
銅像のごとく固まっていた熊男が突如として動き出す。勢いよく叫ぶと、私に向かって深く頭をさげた。
突然の行動に、私の反応は大きく遅れた。謝罪されている――その事実をうまく認識できず、私はぼんやりと熊男を眺めることしかできなかった。
熊男への恐怖心に対して、エリアルの主人としての覚悟でバランスをとっていたのだ。急に恐怖心という重しが外れたことで、安堵するどころか私の心の天秤は大きく振りきれて壊れてしまっていた。
エリアルは「お嬢様」と小さくつぶやく。私と繋いだ手をやさしく握りしめた。呆けた私は数秒間、手を繋いでいることすら認識できずにいた。
ようやく私が握り返すと、答えるように一度だけ握り返される。そして、するりとエリアルは手を離して後ろへ控えた。
前に向き直した私は熊男と対峙する。気持ちを落ち着けるようにゆっくりと息を吸い込んだ。
「顔をあげていただけませんか?」
私が声をかけると、熊男はのろのろと身体を起こす。私よりもひとまわりは大きな体躯を小さく縮こまらせていた。
「……すまなかった」
熊男はポツリとつぶやくと、私から逃げるようにそっぽを向いた。
「もう謝罪はいりません。勘違いすることは誰にでもありますから、気にしないでください」
嘘をついている罪悪感からか、私の声はかすかに上擦る。胸がチクリと痛んだ。
「それでも、謝らせて欲しい。本当に悪かった」
熊男は再び頭をさげようとする。私は両手を前に突き出して思いとどまらせた。
動きを止めた熊男は表情を歪めて私を見る。なんとも言えない居心地の悪さから、私の視線は泳いだ。
「謝罪はもういりません!それよりも、どうして魔法を使ったかどうかにこだわるのか、その理由を教えていただけませんか?」
私は一息で言い切ると、肩で息をする。熊男はいぶかしげな視線を向けながらも姿勢を正した。
「――フローラの嫌疑を晴らしたかったんだ」
熊男は搾りだすような悲痛な声をあげた。
「フローラさん?」
「俺の妻だ。お嬢さんは花屋で一回会っているだろう。……覚えていないか?」
熊男の探るような問いに、私は小さくうなずく。私が「あの時は、貴方が怖くて……」と弱々しくつぶやくと、熊男は慌てて頭をさげようとするが、途中で停止する。
せわしなく視線を動かすと、唐突に熊男は両手で強く頬を叩く。両頬に手のひらの赤い跡が浮かんでいた。
「俺はお嬢さんを傷つけることは二度としない。嘘もつかない。一人の男として約束する」
たくましい胸を力強く叩き、熊男は堂々と宣誓した。私が目を白黒させながら見上げると、熊男は目礼する。私を見つめる瞳に敵意も侮蔑も感じられなかった。
「それは、本当ですか?」
「ああ、本当だ。もう脅しつけたり激昂させたりはしないさ」
「……あれは、わざとだったのですね」
思わず私は大きく息を吐く。下卑た視線で見られるのは、一人の女性としては堪え難いものがあった。
熊男は罪悪感に苛まれるように顔を歪めるが謝罪はしなかった。下げかけた頭をすぐに元の位置に戻す。熊男の様子を見て、私は口元に小さく弧を描いた。
謝罪はもういらない――私の言葉を律義に守る熊男の姿がおかしくてたまらない。変に真面目で、どこか不器用。私のよく知るメイドと重なって見えた。
私は振り返りエリアルを見やる。察しのよいエリアルはジト目で私を見返すと、コホンと咳ばらいをする。
慌てて前に向き直した私は熊男の瞳を真っすぐに見上げた。
「せっかくの偉丈夫が台無しですね」
私は自分の頬を指でつつく。熊男は小さく首をひねった。
「頬に大きな紅葉ができています。二つもつけて、とっても可愛らしいですよ」
からかうように口元を隠しながら私は笑う。数秒間、呆けていた熊男はあたふたと自分の両手で両頬を隠す。恥ずかしそうに私から目を逸らした。
脳内の小悪魔な私も『仕返し成功』とばかりに満面の笑みを浮かべる。熊男へのわだかまりがすっと晴れた気がした。
クスクスと笑い続ける私を見て、熊男もつられて笑う。狭い小道を私と熊男の笑い声が満たしていく。エリアルが「何をしているのよ、全く」と素に戻ってつぶやいていることも気にならなかった。
「貴方の名前を教えてくれませんか?」
ひとしきり笑うことに満足した私は明るい口調で言った。
「お嬢さん、俺の名前も知らなかったのか?」
「当たり前です。知りません」
呆れて訊ねる熊男に対して、私は子供みたいにそっぽを向いて見せる。
「俺の名前は、ゲーベルだ。……お嬢さんの名前は、ルティだろ」
ゲーベルは何の気なしに私の愛称を呼ぶ。前に飛び出そうとするエリアルを手で制しながら、私はうなずく。私の愛称をよく覚えていたものだ。
得意げにゲーベルは頬を緩めた。
「小さいお嬢ちゃんが、何度も読んでいたからな。覚えてしまったさ」
「私のことはルティと呼んでくださいませ、ゲーベル様」私はお辞儀をする。
「俺のことも、ゲーベルでかまわないぞ?」
間髪入れずにゲーベルは言うが、私は首を左右に振る。
「年上の、それも既婚の殿方の名を軽々しく呼ぶことはできません。どうかお許しください」
「……いや、俺に配慮が欠けていた」
ゲーベルは快活に応えると、しみじみと私を見る。小さくさげた頭を起こし、私はゲーベルを見上げた。
「ルティ、お前はいい女だな」
「な、何を言っているのですか!?」
予想もしないつぶやきに、私の頬は思わず朱色に染まる。慌てて言い返した私の声は動揺で震えていた。
遠巻きにされる私を褒める男性はエドモンド様しかいない。そのエドモンド様とも最近はお話しする機会すら得られていなかった。いつの間にか私は男性への耐性をすっかりと忘れてしまっていた。
私は逃げるように後ろへと一歩下がった。
「いや、正直な感想を言っただけだ」
「――そこまでにしていただけますか」
さらに言い募るゲーベルの言葉はエリアルの鋭い声に遮られる。私と入れ替わるようにエリアルは前に踏み出す。
エリアルの背に私は隠された。
「そろそろ本題に入るべきでしょう。お話ししていただけますか?」
エリアルは一音ずつはっきりと言い切る。ゲーベルを一心に見つめる瞳は冷たく輝いた。
ゲーベルは思いがけないエリアルの登場に息をのむと、静かに口を開いた。
「……そうだな。俺はフローラにかかっている嫌疑を晴らしたくて、ルティたちが魔法を使ったのか訊ねたんだ」
私はエリアルの横に出る。ゲーベルの瞳は悲しげに揺れていた。
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