残酷な未来を覚悟する瞬間
「薬、飲むか?」
彼女の父親が再び部屋にやってきたのは、深夜だった。
砂嵐もなければ、星の光もない。ここも無駄なマナを消費しないよう、夜はとても暗く、静かなようである。
その中に現れるこいつは、絵本の魔王かなにかのような、異様な迫力があった。
「……何の薬……ですか?」
一応、恩義があると言えるのだろう。
改めて敬語で話してみるものの、男の機嫌は良くならないらしい。
「娘をたぶらかした記憶が消える薬だ」
「た……たぶらかしたって……」
おそらく、俺の膝の上でスヤスヤと眠る娘のことを言っているのだろう。
泣きつかれた彼女はそのまま寝てしまい、ベッドに腰をかけていた俺の膝で、そのまま寝始めて早数時間。その間、動くに動けなくなってしまった俺の太ももは、すでに痺れを通り越して感覚がなくなっている。
「貴様の弟は、結局癇癪が治まらなかったのでな。少量だが、薬を使わせてもらった。少し記憶がぼやけた程度だろうが、朝には少しは会話が出来るようになっているはずだ。娘にも、飲ませようと思っている。ただでさえ、彼女にとっては生きずらい世界だ。今回の衝撃が強すぎる出来事を受け止めるには、まだ少々幼いだろうからな」
――記憶が、消える薬……?
「そんな薬が、世の中にあるんですか……?」
「無論、あるから提案している。私が開発したのだ。ただ口外してはならぬぞ。こんなものが出回れば、どんな悪用されるか想像もしたくないからな」
「お前……何者なんだ……?」
俺がそう尋ねると、男はフンッと鼻から息を吐いた。
「好奇心が大きすぎた伝説の馬鹿、とでも言っておこうか」
「ばか……?」
「天才と馬鹿は紙一重という、エクアにおいては古代の言葉があってだな。天才も馬鹿も、その杓子によりけりということだ」
「エクアにおいては古代って……どうも鼻にかかる言い方だな」
その引っかかる物言いに、思わず敬語を忘れて、反射的に言葉を返しただけだった。
それに、男は嬉しそうに口角を上げる。
「ほぅ……なかなか頭の切れる小僧だ。嫌いではないぞ。愛娘の将来の伴侶でなければな!」
語尾と同時に睨み付けられ、思わず背筋に悪寒が走る。
だけど、どうにも言い返さずにはいられなかった。
「その……あのコの結婚相手が俺って、本気なの?」
「無論だ。私の予知夢が外れたことはない。現に、貴様はすでに娘に惚れているだろう」
「なっ!」
金眼はすべてを見透かすかのように見下ろして来る。
その断言に、俺の顔が熱くなった。
「べ……別にあんな可愛げのない女のコなんて、俺の好みじゃないけどね」
「もう少し、演技力を磨くことだな。この程度で顔色を変えていたら、世の中渡っていけないぞ」
「これからだよ! 俺はまだまだ若いんだ。いつか俺は……」
「俺は?」
目の前の男は、完全に俺を見下していた。
そして全てにおいて、俺より格上の存在だと認めざる得なかった。
長い金髪が悠然と輝き、肌においても陶器のように艶やか。手足も長く、俺が手を伸ばしたところで、軽くあしらわれるのは容易に想像できる。
全てにおいて妬ましく、全てにおいて羨ましい。
この男のような存在になれれば、きっと何かを諦めなくても済むのだろうから。
スラムに住まなくても良くなるだろうし、周りから差別の目で見られることだってなくなるはずだ。
弟に小さな虚栄心を張らずにも済むだろうし、両親と自分を含めた他の命を天秤に掛けなくても、全てを守れただろう。自分も、弟も、そして俺の膝の上で眠る少女を泣かせるようなことになっていないはず。
「俺は、いつかお前を超える男になってやる。そして、世界を変えてやるんだ」
「ほぅ、世界とは大きく出たもんだな」
「子供の戯言だと笑うなら、今のうちに笑っとけよ。こんな惨めな思いはまっぴらさ! もうルイスをあんなに泣かすもんか。ついでに、お前の娘も笑って暮らせるような世界にしてやるよ!」
笑われると思った。
バカにされると思った。
だけど、
「あぁ、期待している」
その男は、まるで慈しむかのように微笑んでいて。
「念の為に訊くが、薬はいるか?」
「いらないっ!」
差し出された手を、俺は振り払った。
親を亡くした悲しみも。
弟に恨まれた苦しみも。
少女と泣き合うしかできない悔しさも。
全て、忘れてなるものか。
俺は、その皮肉げに笑う男を睨み上げた。
「存分に期待してやがれ。必ず、その顔を歪ませてやる!」
「なんか趣旨がズレている気もするが……まぁいい。楽しみにしている」
それは、青年の大事な記憶。
青年が、青年たる所以の大切な思い出。
――あぁ……何で今になって、こんな夢を見るんだろうな。
靄のかかる思考の中で、青年は苦笑する。
あの時出会った、可愛くも可愛げのない少女は、今でも青年の宝物だった。
あの時の美しさからさらに磨きをかけた女性は、今はさらに美しく、可愛げがなく、だからこそ愛おしい。ほんの少しでも触れてしまえば、全て壊れてしまいそうな儚さ。だけど、それを微塵も感じさせない堂々とした立ち振舞が、尚の事彼に尊いと感じさせていた。
触れたいのに、触れられない。
手に入れたいのに、掴めない。
――もっと強くならなくては。
こんな自分では、まだ彼女を守れない。
――もっと、力を手に入れなくては。
こんな自分では、まだ彼女を幸せにできない。
彼女を大事だと思えば思うほど、自分から手を伸ばせない。
彼女を愛おしいと思えば思うほど、自分から想いを伝えることが出来ない。
理想とする現実はまだまだ遠くて。
あの時誓った約束を、果たすにはまだまだ時間が必要で。
それなのに、いつしか彼女のそばには、他の誰かがいた。
細い彼女を支えるように、凛々しい彼女を守るように。
どんなに背伸びをしても、絶対に届かないほどの高みに、その男はいた。
――お前は誰だ……?
どんなに憧れても、どんなに羨ましくても、いつも自分を見下してくる男は誰だ。
『期待している』
――俺は、その期待に応えられるのか?
絶対に敵わない男からの期待に、つい弱音を零しそうになったその時、青年の目の前に金色の銃弾が現れた。その銃弾は青年を狙うわけではなく、青年の目の前で揺れている。
ユラユラと。キラキラと。
まるで、彼を挑発して楽しんでいるかのように揺れている。
――馬鹿にしやがって!
嘲笑するように煌めくその銃弾に腹が立って。
嘲笑されてしかるべき自分自身がに苛立って。
ルキノは腹いせに、その眩しい光に手を伸ばした。そして――――




