悲しい現実を共に涙する瞬間
「ちょっと父さん、何してくれるの⁉ せっかく目を覚ましたのに、また気絶しちゃったじゃない!」
「フン、こんな根性のない小僧なんぞに、最愛の娘をやるわけにはいかん」
「はぁ⁉ なな……なんでわたしがいきなりけけ……結婚するなんて話になってるのよっ⁉」
目はまだ開かないものの、騒がしい声が聴こえた。
喧嘩をしているようだ。だけど、遠慮のない論争が微笑ましかった。
あたたかくも芳醇な香りが、俺の鼻孔ををくすぐる。
「私はたまに未来が見えると言ったことがあるであろう? 昨夜、夢で見たのだ。お前がこの小僧と将来、結婚するとな。なかなかの美青年になっておったぞ」
「だから前から言ってるけど、そんなのただの夢だから! 予知夢でも何でもないから‼」
「しかし、残念ながらお前は純白のウエディングドレスというものは着れぬ運命らしい。だけど大丈夫だ。世界中の誰もが忘れらないくらい、美しい花嫁姿だった」
「うわぁーんっ! わたしの些細な夢をそんな夢ごときで否定するなぁー‼」
少女の泣き声。
――ウエディングドレスを着るのが夢だなんて、可愛いものだな。
クスッと笑って、うっすら目を開ける。そして首を横に倒せば、黒髪の少女が父親をポカポカ殴っていた。幸いにも、父親は元のシャツとスラックスという普通の姿に戻っている。
それにどっと安堵感を抱きながら、たおやかに黒髪を揺れる黒髪を眺めた。
――まぁ、あんな欠点持って生まれてしまうと、結婚すら夢で終わっちゃうのかな。
髪の色、目の色。それらは遺伝するもの。俺だって髪の色や目の色は親、兄弟とそっくりだ。
たとえ、あのコがその色の欠点を乗り越えて生きていったとて、その欠点を子供に残したいだろうか。
あのコだって、虐められていたのだ。
路地裏で、拳銃を持っているような輩に絡まれることも、初めてではなかったのかもしれない。
それを考えると、ゾッとする。
彼女はとても気が強そうだが、決して馬鹿のようには見えない。
不本意に、悲しい思いを、苦しい思いをしてきたことは何回あったのだろう。
――可哀想。
それを口にするのは簡単だ。
だけど、俺はなぜか言ってはいけないような気がした。
彼女がこちらに気づき、笑顔で近寄って来る。
「あら、目が覚めたのね。ささ、これ飲んで! せっかくのスープがバカな父親のせいで冷めちゃうわ!」
「言っておくが、私は馬鹿なのではないぞ。親バカなのだ!」
「あー、それは幸せそうで何よりねー」
自慢げに言う父親に棒読みで返す彼女は、サイドテーブルからスープの入った器を差し出して来る。
木の器に入った黄金色のスープが、キラキラと輝いていた。野菜は溶けていてクタクタだ。
「いいの?」
「あんたのために持ってきたんだから」
有無を言わず押し付けてくる彼女の厚意を受け取り、器に口つけて、ホカホカスープに舌を伸ばす。
思ったよりも香辛料が効いているようだ。単純な熱さのみならず、身体の芯から暖かくなるような気がした。
「あ、スプーン忘れた」
子猫のように舐めていた俺の様子に気が付いて、彼女がすぐさま踵を返す。
再び、扉から出ていこうとする小さな背中に、
――待って!
思わず、声を掛けそうになった。
声が出なかったのは、見下ろされる鋭い黄金の視線が怖かったからではない――この男と二人になるのが嫌だったから、引き留めようとしたのは事実だが――だけど、俺が声を発するよりも早く、扉から勢いよく飛び込んでくる存在があったのだ。
「兄ちゃんっ! どーして、どーしてっ!」
泣きながら走って来る少年が、彼女を突き飛ばす。
「きゃっ」
彼女が尻餅を付くよりも早く、その父親が彼女を支えていた。
そして少年、もとい俺の弟が、俺の持つスープの入った器をひったくり、中味を俺にぶちまけてきた。
自分の嫌いな髪から、ポタポタと黄金の雫が滴り落ちる。
頭が熱い。ベタベタして気持ちが悪い。
だけど、それ以上に弟の泣き顔が苦しい。
「何笑ってんだっ⁉ 死んだんだ! とーちゃんも、かーちゃんも……なのに、どーして兄ちゃんは!」
――なんでだろうな。
父親と母親の倒れる姿は、思い出そうと思えば克明に浮かぶ。
血の海に伏せる哀れな死にざま。
それは、とても悲しい最期だ。
それは、とても残酷な姿だ。
まだまだ自分にも、弟にも、親という存在は必要だった。
まだまだ甘えたかったし、教えてもらいたいことがたくさんあった。
だけど、二人の堅く結ばれた手を思い出すと。
二度と離れないことが約束されているような、その手を思い出すと、
「俺ら……いい親を持ったよな」
子供を守るために、身を挺してくれる両親だった。
そして、死ぬときにお互いに手を取り合うような愛し合う親だった。
スープを掛けられた頭より、目の奥が熱い。
――あぁ、そうか。
ふと、その答えが浮かぶが、ルイスに襟元を揺さぶられた。
「いい親を持った⁉ 何だよ、持ったって! 過去形? もう兄ちゃんにとっては昔なの⁉ 寝て起きたら、それでおしまいなの!? だいたい、とーちゃんとかーちゃんが死んだのは、兄ちゃんがどっかにいくから! ほっとけって言ったのに、兄ちゃんがあんなやつを助けようとするから――」
「ならば小僧。貴様は、代わりにうちの娘が死ねば良かったなどと、言うつもりか?」
その低い声が、頭上から降り注ぐ。
俺とルイスを影で覆う男の後ろで、少女が気まずそうに口を噤んでいた。
だけどルイスは、躊躇うことなく言い返す。
「そーだよ! そんなやつのために、どーしてとーちゃんとかーちゃんが死ななきゃいけなかったんだ! おまえなんか黒髪のくせに! 劣等種なんだから、そのくらいの役に立て――」
最後まで言うよりも早く、彼女の父親がルイスの頬を叩く。
鈍い音と同時に、簡単に壁に弾き飛ばされた弟の身体から力が抜けるのはあっという間だった。
俺は反射的に立ち上がろうとするも、
「心配はいらん。殺すつもりで殴っておらんからな」
男はそう言って傍から離れると、ヒョイと弟を担ぎ上げる。
「こいつの頭が冷えるまで、しばらく会わないほうがいいだろう。葬儀の手配もしているが、まだ数日はかかる。ゆっくり休んでおけ」
そう言い残して出ていく背中に、躊躇いは微塵も感じられなかった。
バタンと扉が閉められると、部屋の中にはポツンと立ち尽くす少女と二人きりになる。
その所在なさに戸惑う少女が可愛らしくて、俺はクスリと笑った。
「俺は、親の代わりに君が死ねば良かったなんて、全く思ってないからね」
そう言うと、彼女がグスンと鼻を啜る。
「な、何よ。私がひどい事言われてしょげてると思ったら、大間違いよ」
「はは、それはゴメン」
鼻を真っ赤に染めた彼女がプイッと顔を背けると、黒い髪がサラッと広がる。
そんな彼女の背中がとても小さかった。
「ありがとう。俺が思い出さないようにしてくれてたんでしょ?」
「……父さんが、そうした方がいいだろうって言ったから」
――あ、あの気色悪い姿も、その一環だったのか……。
ありがたいような、ありがた迷惑のような複雑な感情を頭を抱えつつ、俺はポツリと漏らした。
「父ちゃんも母ちゃんも、死んじゃったんだなぁ……」
「あ、違うの! ごめん、そういうつもりじゃ……」
俺が『父さん』という言葉に悲しんだと思ったのだろう。慌てて振り向く彼女が、とても愛らしい。
自分も今、黒髪を蔑まれて悲しいだろうに。
彼女にしてみれば、両親を失くした俺の方が、可哀想ということなのだろうか。
それとも、俺が自分を助けに来たから、両親が死んだと罪悪感を抱いているのだろうか。
「たとえ俺が父ちゃんらと一緒にいたとしても、何が出来たっていうんだ。もしかしたら、助かったかもしれない。だけど、もしかしたら俺が足を引っ張って、ルイスまで死んでいたかもしれない。俺も死んでいたかもしれない。だから、俺は君に感謝してる」
俺は、困ったような顔をしている彼女を見上げた。
「ありがとう。僕は君のおかげで、今こうして生きている。弟が生きているから、しっかりしなくちゃと思える」
「でも……私……私……」
すると、彼女が駆けてきた。俺の首に手を回して、耳元でワンワンと泣き喚く。
「ごめんなさい! ごめん……ごめんなさい」
震えながら何度も謝って来る彼女の背中に手を回して、俺も静かに涙を零した。




