さぁ、汗水流して働こうじゃないかッ!
およそ一月前、アンドレに婚約破棄を知ったのは間接的だった。
『ねぇねぇ、知ってる? ルキノ王子、同じクラスの飛び級したコと付き合いだしたんだって』
『特待生? そんな先輩いたんだ?』
『そうそう――名前は何だったかなぁ? うちらと同い年でちっちゃな感じの……』
それは、アンドレと同じ経済クラスの女子が話していた噂ばなし。
――生徒会長と……メグのことか?
教室で次の授業の準備をしていたアンドレの作業の手が止まる。
『でもとにかく、女のコから熱烈な告白があったらしいよ?』
噂ばなしに、真意があるとは限らない――そのことはルキノの評判で重々承知したつもりのアンドレだったが、秘密裏とはいえ婚約者が他の男に告白したとなれば、話は別だ。
気まぐれな彼女だ。ちょっとした遊びのつもりなら、婚約者として堂々としていればいい――そんな心構えで、当の本人に訊いてみたところ、
『うん――ごめんね、アンドレ。あたしやっぱり、この婚約に納得出来ないの』
いつも笑って誤魔化す彼女から真面目に聞かされた話は、噂通りの事実。
『あたし、アンドレとは結婚したくない』
たとえ政略結婚だったとしても、アンドレは彼女のことが大好きだつた。
幼馴染だったのだ。彼女の負っている責務も、苦悩も、全部知った上で、アンドレは生涯彼女を支えるべき存在になりたいと思っていたのだ。
だけど、彼女は言ってくるのだ。
『ごめんね……やっぱり、アンドレじゃダメだよ』
アンドレはその時の、彼女の悲しげな顔が忘れられなかった。
それは今も、これからも――――
そして、翌日。
「なぁオイ……何だよ、この行列は……」
「念の為に公言しておくが、ボクは金にモノを言わせてサクラなど雇ってはいないからなッ! そんなズルをするようなアンドレ=オスカーだとは思わないでくれたまえッ!」
住宅街にヒッソリと佇んでいた『パン屋のヤマガタ』の店の前には、これでもかという大行列が発生していた。まだ時間は午前の開店直後。何軒もの店や民家の前を経由した曲がり角の先まで、この行列は続いていた。
パリッとした白い調理服にコック帽、腰に赤いエプロンを巻いたアンドレは、隣で唖然とするこの店の三男坊のタカバに対して、フフンと自慢げに鼻を擦った。
「しかぁーし、僭越ながらボクの独断と偏見で宣伝はさせてもらったぞッ! 無論、店主殿の意向を尊重して『オスカー財閥』の名は使わず、ありとあらゆる口コミサイトに書き込みしたり、ボクのポケットマネーで早急に印刷されたチラシを朝早くから道行く人に手渡しするなど、一個人として出来る限りの努力はさせてもらったがッ!」
胸を張るアンドレの横で、タカバは路上のあちこちでヒラヒラ舞っていたチラシの一枚を改めて見た。上質な紙に、購買意欲をそそる単語の数々。印刷はさすがに業者にやらせたらしいが、このチラシのデザインは全てアンドレが一人で行ったらしい。
アンドレとタカバは学年、クラスが違うとはいえ、以前から友達と呼んでも過言ではないほどの面識があった。アンドレがメグによく会いに軍事クラスに来ることもあるし、年齢が違うとはいえ何やかんや話が合うのだ。仲良くなるのに時間はかからなかった。
それでも、改めてタカバは言う。
「やっぱり……アンドレってスゲェーんだな」
「ん、何がだ?」
極自然に首を傾げるアンドレに、タカバは苦笑する。
「金持ちなことを今さらとやかく言うわけじゃねェーけどよ……こんな立派なチラシを一人で一晩で作っちまったり、すぐ行動に移してウチみたいな寂れた店をあっという間に繁盛させちまったり……オレには、到底真似出来ねェーぜ。スゲェーな、アンドレ!」
普段なら、もちろん褒められて嬉しいアンドレ。だけど、ふとアンドレは視線を落とした。
「ボクなんて、大した男ではない……」
ふと、アンドレが思い出すのは昨晩の恋人たちの光景。
――どうしたら、ドアを閉めることしか出来なかった自分を誇れようか。
アンドレは苦笑顔をタカバに上げるしか出来なかった。
「さぁさ、タカバ殿! 仕事はボクらを待ってくれないぞッ! 共に汗水流して働こうではないかッ‼ そして、後で出来ることならパンの作り方を教えてはくれないか? 興味がある」
「そ、それは兄ちゃんに頼めばお安い御用だと思うけど……」
タカバを見ながらズンズンと歩いて行くアンドレ。もちろん、前を歩く人に気付くわけがなく――
「ふぎゃッ‼」
ぶつかったアンドレは奇妙な呻き声をあげて尻餅を付いた。
「す、すまないッ! 怪我はないか――」
慌ててアンドレが顔を上げた時には、ぶつかられた貧相な格好をした男は「ひえっ」と怯え声だけを残して足早に立ち去っていく。その背中をタカバが「何だアレ?」と睨みつけながら、アンドレに手を差し出した。
「ほれアンドレ、大丈夫か?」
「う……うむ。ボクは問題ないが……あの紳士は本当に大丈夫なのだろうか? 片腕がないようにも見えたが……」
「お前が心配することじゃねェーだろ。ぶつかったぐれェーで腕がもげるわけはねェーんだし……」
そう言いつつも、タカバがアンドレを引き上げてから虚空を見上げて頭をポリポリと掻く。
それに、アンドレは首を傾げた。
「どうした? タカバ殿」
「いんや、さっきのオッサンどっかで見たような気もするけど……」
タカバが何かを思い出そうとしている時、その背中がペシッと小気味良い音で叩かれる。それはすぐさま、アンドレの背中にも訪れた。
「ふむッ⁉」
アンドレが振り返ると、そこには昨日の可愛らしい幼女がハリセンを持って見上げている姿。明るい空の下では、その艷やかな天使の輪がツルリと光っている。
「サボるの、ダメ」
「おー、マル! それは悪かったなァ」
顔を綻ばせたタカバが、ヒョイッと彼女を持ち上げた。嬉しそうに頬釣りされるマールも満更でもない顔をしたのも束の間、すぐさまタカバの頭を再びパシンッと叩く。
「ごまかしても、ダメ。お客さん待ってる。働け」
「ハハ、手厳しいぜ……でもマル、ハリセン出てきたのか? 今朝ルキノから返って来なかったってショゲてただろ?」
タカバの質問に、マールは無表情で頷いた。
「さっきキレイなお姉さんが届けてくれたの。『見栄っ張りの顔だけ小僧から預かった』って言ってた」
「見栄っ張りの……」
「顔だけ……」
アンドレとタカバは顔を見合わせる。先に口を開いたのはアンドレの方だった。
「生徒会長殿は見栄っ張りか?」
「あー、そんな所も……あるかもしれねェーよなァ……」
濁すタカバにアンドレは顔をしかめるものの、タカバはすぐにマールと向き合った。
「そのお姉さん、他にも何か言ってなかったか? てか、知ってる人か?」
「たぶん、昨日のお客さん。プラチナの髪がキラキラでキレイで、すごく背の高いとってもキレイな人だったから覚えてる。ルキノ兄とも少しだけお話してたよ。そのお姉さんは『昨日のパンはとても美味だった』てマルの頭を撫でてくれたけど……」
「けど?」
少し考え込んだマールが首を傾げる。
「他のお客さんがね、みんな同じこと言うの。昨日夢で、ウチのパンが出てきたんだって」
「夢?」
「うん。ホカホカでね、ほんのり甘くて美味しいパン。目が覚めてもどこで売ってるのかなぁってその夢が忘れられないでいたらね、チラシを渡されたんだって」
そして指すのは、タカバが片手に持っていたアンドレ作成のチラシ。
「お客さんたち、あと言ってた。朝早くからチラシを配るお兄ちゃんの笑った顔を見て、ますますパンが食べたくなったって」
そう言ってアンドレを見下ろすマールの顔は、少しだけ気恥ずかしそうにしかめられて、
「昨日『嫌い』って言っちゃってごめんなさい。うちのパン屋のためにありがとう」
ションボリと謝ってくる。そして、アンドレの顔に手を伸ばしてきた。そっと触れられるのは、アンドレの目の下。薄っすらと紫がかったクマは、子供の目から見ても寝不足なのが明らかだった。
そんな幼女に、ホッコリと胸があたたかくなったアンドレは自然と笑顔になる。
「何を言うか、マル殿? ボクはそんなこと言われた覚えはないが?」
「え、でも……」
「それこそ夢だったのだろう! 昨日も夜遅くまで働いてたのだ。そのくらいの勘違いは誰にもあるものさッ!」
「夢……?」
マールは疑問符いっぱいの顔で眉を寄せているものの、アンドレは爽やかに笑い飛ばした。そして、目のクマを誤魔化すようにゴシゴシと擦り、両頬をパシンと叩く。
――笑っていなくては。
アンドレは、必死に口角に力を入れた。
自分の笑顔が誰かの役に立つのなら。自分のほんの少しの頑張りで役に立てるのなら。貴族の義務関係なく、それは誰にとっても素晴らしいことなのだから。
「タカバ殿、働く前に一つだけ愚痴を言わせては貰えぬか?」
「ん?」
「ボクは最近失恋をしてしまったのだが……それでも彼女のために何かがしたいと、そう願ってもおかしくはないのだろうか?」
「それ、愚痴じゃなくて質問じゃねェーか」
苦笑したタカバが、マールを抱き直す。マールも慣れた様子で、ガシッとタカバの頭にしがみついていた。アンドレから見て、タカバの視界がマールの腕で狭まっているようだが、本人はあまり気にしないらしい。
「難しいことはわかんねェーけど、相手の迷惑にならないんならいいんじゃねーの? まぁ……オレは人のこと言える立場じゃねェーんだけどな」
「てかバカ兄、タッチペンは返せたの? 夜お仕事サボって、タッチペンのお姉ちゃんたちと遊んでたんでしょ?」
「あ、遊んでたんじゃねェー。人助けしてたんだ! 結局、気付いた時にはヒューデルさんいなくなっちまったし、タッチペンは相変わらずだけどよォ」
――タッチペン?
アンドレがそれを尋ねるよりも早く、マールはタカバの頭を急かすようにペシペシとハリセンで叩き出す。
「ダメなバカ兄。せめて働け」
「ヘイヘイお姫様。でもバカは勘弁してくれよなァ」
そう言って、二人は小走りで行列のパン屋へと向かい出す。
仲の良い兄妹の頭上では、今日もいつものようにエクアの晴天が広がっていた。清々しい休日の朝。行列に並ぶ人々が少しでも楽しい一日が過ごせるようにと、彼らは休みを削って働くのだ。
「オイ、アンドレ! 行くぞ!」
「行くぞー」
晴れ晴れとした青年の笑顔と、無表情ながらも愛らしい幼女。
彼らに名前を呼ばれて、アンドレは自然と口角を上げる。
――ボクだってアンドレ=オスカー。たとえ特定の女性から特別な愛情を受けられなくとも、大勢に笑顔を届けることが出来る男にならなくてはッ!
今だって辛い想いを抱えながらも、美味しいパンを届ける手助けが出来たのだ。
きっとこれから頑張れば、もっと大きなことも出来る。たとえ婚約者という立場でなかろうとも、彼女に幸せの欠片を届けることが出来る――そう信じて。
「待ってくれたまえッ!」
アンドレは威勢よく走り出す。彼らに追いつく前に無様に転んだとしても、アンドレはすぐさま笑顔で立ち上がった。




