さぁ、一日の汗を流そうじゃないかッ!
◆ ◆ ◆
それは、運命の出会いのようだった。
尊敬していた生徒会長に足蹴にされ、所狭しとひしめく女性たちのヒールに踏まれながらも店内の隅に移動したアンドレ=オスカー。突然の仕打ちに思考が追いつかず、メソメソと丸まっていた時である。
「お兄ちゃ……だいじょぶ?」
ハンカチを差し出してくる幼女もまた、目や鼻が赤かった。ハンカチもまた一日使い込んだものなのだろう。プリントされている動物がしわくちゃで情けない顔になってしまっている。
しかし、そこはアンドレ=オスカー。もちろん女性の好意を無下にするなんて行為は父親から教わった紳士たる行動指針的に論外中の論外だ。
「あ、ありがとう……」
ムクッと起きがったアンドレは精一杯の笑みを作り、その可愛らしいハンカチを受け取った。そして、鼻をチーンと噛んだ後に「おかげでスッキリだ」と再び幼女に向かって微笑む。
気が付けば、店にたくさんの女性がいたはずだが、客は誰もいなくなっていた。挙げ句に、まだたくさん残っていたはずのパンもガランとなくなってしまっている。
――そういや、誰かが『ドロボー』と叫んでいたような……?
店員も落ち込んだ様子で、店仕舞の準備を始めていた。その中で、目の前に佇む幼女がアンドレを見つめて「汚いの……」と絶句しているが、アンドレは気にしないことにする。
「ところで幼女よ、この御礼をしたいのだが、何か欲しいものはあるか?」
「欲しいもの……?」
「うむッ! あ、もちろんハンカチは洗って洗濯した上でボクの見立てた最高級に可愛いモノも献上する所存だが、それだけではそなたのその温情に報いるに足りないだろう?」
「けんじょう? おんじょう?」
彼女は疑問符を発しながらも「むむむ」と顔をしかめてしまう。
――ボクの言葉が些か難しかったか?
そう察したアンドレは、彼女の幼いながらの尊厳を損なわないように言葉を選んで「もう夜も遅いが、親御さんは近くにいないのか?」と尋ねる。すると、彼女は「ここがマルの家だから、だいじょうぶ」と無表情に答えた。
「ほう、マルと言うのか! 可愛い名前だな」
「本当はマール。でもみんながマルと言うからマル」
「ふむッ! そかそか、愛称ということだな――ではマル嬢、御礼の話に戻るのだが、この店の改装をボクに一任していただくっというのはどうだろうか?」
「いちにん?」
再び首を傾げるマールに、アンドレは「うむッ!」と頷いて長い前髪をバッと払う。
「任せてくれ、ということだ! 僭越ながら、この店はなかなか古風すぎるように見えたのでな。ボクがオスカー財閥のアレやコレを駆使して最先端のデザイナーや建築家に助力してもらい、店の売上に貢献させていただきたいのだが、どうだろう? 無論、その費用はボクのポケットマネーから捻出するから何も心配はいらない――」
「そんなのいらない」
意気揚々と鼻を高くして話すアンドレの説明を、マールは一蹴する。そして、彼女は口を尖らせてハッキリと告げた。
「マル、オヤジと兄たちが頑張って作ったこのお店が好き。そんな『ざいばつ』だとか『さいせんたん』なんかキョーミない」
アンドレの動きが止まった。その首がギギギとゆっくりマールに向かい、辛うじて発せられたのはカタコトの言葉だった。
「それは……古き良きが良いと、そういうことか?」
「そんな難しいことわかんない。でも、マルはこの店が好き。だからいいの」
「だ、だが……大変厳しいことを言わせてもらうが、正直売上があるような店にはとても――」
「今日売れてたもん」
マルは俯き、涙ぐむ。
「ルキノ兄が、頑張って売ってくれてたもん……試食したお客さんも、美味しいって笑って、いっぱい買ってくれてたもん。マルが『また来てね』て言ったら、明日も来るって言ってくれてたもん……」
グスンと鼻を啜って、マールは顔を上げた。
「マルたちのお店バカにするやつなんか嫌いだ! さっさと出てけー‼」
ワンワンと泣き出した彼女は、アンドレの肩をポカポカと叩いて追いだろうと訴えてくる。彼女と家族という他の店員たちも「ウチの子がすみませんねぇ」と苦笑しながら、ペコペコと頭を下げているだけだった。
そんな明らかに自分よりも年上であろう店員に対して、アンドレは淡々と尋ねる。
「つかぬ事を尋ねるが……普通、客商売というものは、たとえ子供とはいえ従業員が客に失礼なことをしたら謝罪するのが当然で、客を追い出すという行為は言語道断ではなかろうか?」
「そ、それは……」
アンドレの父親にも程近い四十歳すぎであろう長身でガタイの良い店員が、身を固くするのがアンドレにも見て取れた。クレームだと思ったのだろう。だが、もちろんそんなつもりではないアンドレはマールに殴られ続けながらも首を横に振る。
「決して抗議というつもりではないから安心してくれたまえ。ただの事実を確認したいだけなのだが、彼女の行為を黙認するということは、店の改装に反対という意見は、彼女個人の意見ではなく、店の総意ということでいいのだな?」
「そうですね……お申し出は大変嬉しかったのですが……」
「ちなみに、ボクの名前はアンドレ=オスカー。商売をしているなら必ずや知っているだろうオスカー財閥の御曹司であるッ!」
手慣れた様子で名乗りながら、アンドレはそっと立ち上がった。店員の顔が険しい。「いつもオスカー様には大変お世話になっており……」などとブツブツ話し出したところを見るに、どうやらこの店の出資にオスカー財閥が絡んでいるのだろうと、アンドレも容易に推察する。
――こういう時、相手に過度な恐縮させてしまうところが、御曹司たる故の永遠の悩みだな。
とはいえ、自分がその通りの存在なのだから仕方がないと嘆息したアンドレは「ただ、もう一度確認したい」と相手の話を遮った。
「我がオスカー財閥がリニューアルに大きく携わったという事実や経緯があれば、この店の今後の売上に貢献できるに違いないと思うのだが――本当にいいのだな?」
それに、店員は大きく頷いた。その肯定する顔は凛々しく、緑色の瞳がハッキリとアンドレを見返していた。それは、見上げてくる幼女もまた同じ。兄妹揃っての意志の強さに、アンドレは再び「うむッ!」と頷く。
「そうか! ならば、ボクの申し出は大変失礼なモノであったな。誠に申し訳なかった――だが、それならボクの方としても善意に報いなかったとして名誉が傷付いてしまう! だから、明日の祝日一日だけでも、このボクを雇っては貰えぬだろうかッ⁉」
そのアンドレの申し出に、店員とマールは揃って目を丸くした。それに対して、アンドレはニンマリと笑う。
「無論、賃金などは貰わないッ! ただのボランティアだ。生徒会長殿の代わりとしては役不足かもしれないが、今日の損害を賄えるように、全身全霊を懸けてボクに働かせてくれたまえッ!」
もちろん、そのアンドレからの申し出を店員は丁重に断り続けたのだが――アンドレの数時間の説得と、眠気の限界が再び来たマールの大あくびにより、店員は渋々ながらも受け入れることになったのだ。
――ふむッ! 今日は実に充実した一日であったッ!
アンドレは意気揚々と、深夜の病院の通路を静かにスキップしていた。
もちろん、ルキノの逃亡にいち早く気付けなかったのは汚点だ。しかし、彼を探して懸命に走り回った挙げ句無事に発見出来たし、その後のメグからの報せでは、大事には至っていないという。
御曹司であるがゆえに無縁のようではあるものの、汗を流すということは嫌いではないアンドレ。
崩れた髪型やボロボロのスーツも、頑張った一日の立派な勲章である。
しかし、どんなに疲れていようとも礼儀はきちんと果たす主義のアンドレ=オスカー。本来ならばとっくに面会時間は終わっているものの、その名前とブライアン社との伝手でお見舞いを許可され、常夜灯と外から差し込む星明りが美しい廊下を突き進む。遠くから何かを叫ぶ声が聴こえるような気もするが、ご機嫌なアンドレは全く気にしていなかった。
そして目当ての病室の扉の前で立ち止まり、そのルームプレートを見上げて腰に手を当てる。
――無論寝ているだろうが、置き手紙くらいは書いてもいいだろう!
そのための便箋もしっかりと準備済み。
そっと息を吐き、静かにノックをしようとして――アンドレは止めた。もちろん礼儀知らずな行為ではあるものの、寝ている病人を起こしてしまっては大変だ。礼儀とルキノへの負担を天秤にかけて後者を選んだアンドレは、その扉を静かに開けた。
だが、その隙間から見てしまう。
アンドレが昼間に装飾した花や調度品はスッカリ片付けられた暗がりの中で、赤毛の少女が横たわる青年の汗を小まめに拭いてあげていた。
「まったく……あたしの手を煩わせるなんて、ルキノ君のくせに生意気なんだからぁ」
小声でそんな文句を言いながらも、桶で濡らしたタオルを絞る。どことなく花の香りがするのは、その桶に花びらでも浮かべているのだろうか。
青年は苦しそうに呻いていた。その腕には点滴や機械のコードが繋がっており、医療に関しては疎いアンドレにも、あまり状態が良いようには見えない。
そんな彼に対して、少女は苦笑したように肩を竦めた。
「でも……きっとユイなら夜な夜な看病しそうだしね。ちゃんと代わりくらいは務めてあげるから、勘弁してよね」
ユイとは、彼女と仲の良かった黒髪の乙女のことだ。
なぜ今彼女の名前が出てくるか明確な理由は定かではないが、それでもどこか悲しげな彼女の声音に、アンドレはそっと扉を閉めた。
アンドレ=オスカーは、メグ=ブライアンの婚約者だった。
だからこそ、彼女の内情や抱えている問題も知っているし、彼女が自分と婚約破棄したい本当の理由も知っている。
今見た光景は、どこからどう見ても、彼女が彼氏の看病をする献身的な姿だった。
それが、彼女の選んだ道。それが、彼女の選んだ恋人。
運命でも、まやかしでもない。頑張っても報われない。これこそが現実。
扉から手を離せないままのアンドレの目から、何かが滴り落ちる。
「あぁ……これは汗だな。そうだとも、そうに……違いない……」
星夜を背にした少年は一人、何度も自分にそう言い聞かせた。
どこからともなくいつまでも――奇人の叫ぶ声が、夜に響き渡っている。




