男を心配する女の資格
ユイがちょうど公園に到着した時、ルキノが最後のチンピラを蹴り飛ばしていた。
「ハッ、この俺様に歯向かうなんざぁ、百年早い――」
言葉の途中で、ルキノの膝がカクンと折れる。
糸の切れた人形のように倒れるルキノに、ユイが思わず抱き着こうと手を伸ばすよりも早く――その反対側から、小柄な少女が身長が三十センチは差があるであろうルキノをガッシリと抱き止めた。
街灯に照らされる少女の髪は、今日も陽気に赤く弾んでいる。
「もう、無理しすぎだよぉ」
そう笑いながら、彼女はポシェットから何か鋭利なものを取り出した。
「め……メグちゃん⁉」
「えいっ」
タカバが呼ぶ声を意ともせず、メグは可愛らしい掛け声と同時に、それをルキノの腕に刺す。注射のシリンジをゆっくりと押し込む手付きに無駄はない。
「メグちゃん……注射も出来たの?」
「んー? こんなの救急処置の授業で習ったじゃん。タカバ君だって出来るでしょ?」
「そりゃあ、一応やったっちゃやったけどよォ……オレ、一発で刺せたことねェーし」
「そーだよなぁ。おかげで、しばらく俺の腕は痺れて大変だったんだからなぁ!」
そう言って奥からゆっくり歩いてくるのは、メグと同じく小柄な少年ヒイロだ。タカバをおちょくるような顔で見るやいなや、ユイが呆然と立ち尽くしていることに気付くと、彼は陽気に手を上げてくる。
「やぁ、ユイさん! 怪我はないっすか?」
「え……あー、うん」
目をパチクリさせながら、ユイはとりあえず頷く。
ルキノはメグの腕の中で気を失いながらも、ゆっくりと胸を上下させていた。とりあえず、命に別状はないようである。
その様子を心配そうな目で見つめるユイに対して、
「あ、ルキノ君は大丈夫そうだよぉ。注射したのも、ちょっとした鎮痛剤と栄養剤を病院で混ぜてもらったやつだから。絶対安静だっていうのにさぁ、無茶しすぎだよねぇ。あまりに帰りが遅いから、大事になる前に迎えに来ちゃったよぉ」
「ちなみに、俺はパン屋の前で待ってたところで、メグと会ってね。奇声が止んでも全然戻ってこないから、こうして一緒に探しにきたわけ」
ご丁寧に説明するメグとヒイロの二人。
対して、砂だらけで大した怪我もないタカバは、面白くないと言わんばかりに口を尖らせた。
「なんだよ。だったらもっと早くに来れば、ヒイロも喧嘩に混ぜてやったのに」
「はは、むしろ混ざりたくなかったから、落ち着くまで遠くで見てたんだけど? けど面白かったねー。ルキノんのブチギレっぷり」
「そうそう『俺様』だってぇ! 普段の好青年っぷりはどこ行ったんだろうねぇ。無茶しちゃってさぁ……ねぇ、ユイ?」
話を振られて、ユイは唇を噛みしめる。
――そんなにルキノの具合が悪いって分かっていたのに、メグは面白おかしく見ていただけだというの?
わざわざ薬を準備してきたくらいだ。ルキノがどのくらい無理をしていたのか、この場で一番わかっていたのだろう。それでも、本当のギリギリまで、メグとヒイロは見ていただけなのだという。
ユイは拳を握りしめた。怒鳴ってやりたい。殴ってやりたい。
だけど、ユイにはそれをする資格がない。
――私だって、似たようなものだ。
自分だって、自分の目的を優先して、ルキノを止めるという行為を怠ったのだ。
やるべきこと作戦を優先して、ルキノの体調なんて気にも止めてなかったのだ。
――そんなに具合が悪いなんて、思ってもみなかった。
絶対安静だとは聞いていた。
だけど、ルキノは元気そうに働いていたから。いつも通りキラキラしていたから。
だからその診断は大袈裟なものだったのだと、その大事な情報を蔑ろにしていたのだ。
――言い訳だ。
爪が皮膚に食い込むが、ユイは気にも止めないで力を込める。
――私に、ルキノを心配する資格なんてない。
「……じゃあ、連れて帰ろうかな」
メグは掛け声のようにそう言って、ルキノをヒョイッと持ち上げた。無論、背中と膝の裏に腕を通す形のお姫様抱っこだ。
それに、ユイは思わず吹き出してしまった。メグとルキノの身長差はかなりあるものの、メグはその重さをもろともしないだけではない。実習の時にルキノはタカバに同じように運ばれていたものの、そのサイズ差からしてより滑稽なことになっているからだ。
そんなユイに、メグは意地悪そうに笑いかける。
「あー! ユイ笑ったねぇ? あたしだって、やりたくてやってるわけじゃないんだからぁ! おんぶとか抱っこだったら、ルキノ君の足引きずっちゃいそうでしょ⁉」
「いや、理屈どうこうじゃなくって……さすがにこの絵面はルキノが可哀想かと――タカバ、代わりに持ってあげれば?」
「またオレかよ」
文句を口にしながらも、タカバは即座に動く。今度は以前と違い、メグから受け取ったルキノをタカバは肩で担いだ。かなり乱暴な持ち方だったが、それでもルキノは目を覚まさない。
「……でも、どうしてルキノはここまでして働いていたの?」
何気ない質問が、ユイの口から零れる。
ヒューデルさんを追ったのは、成り行きだろう。バイト先のパンが盗まれたから、従業員としての立場上仕方なく追った――そんな感じだと推察できる。
だけど、そもそも働いていた理由がユイには見当もつかなかった。
それに、ヒイロの話では働いていたのはパン屋だけではないらしい。重症の身体を押してまで、いくつものバイトを掛け持ちするほどの切羽詰まった理由がユイには思い浮かばない。
そんなユイに、手の空いたメグが「あー」と虚空を見上げながら答える。
「多分だけどルキノ君、入院費が足りなかったんだろうねぇ。自分だけでなく、弟君の分も……と考えれば、まぁ普通の苦学生には厳しいでしょ。ルキノ君も弟君も、最先端の治療受けてもらっちゃったし」
「苦学生って、まさかルキノが……」
「考えてもみなよぉ。ルキノ君、こないだ実習で行ったランティス出身でしょう? 学費は奨学金で賄えるにしても、生活費や交際費をユイみたいに仕送りしてもらえるような環境だとは、考えにくいけどなぁ」
さらに苦笑しながら「まぁ、あたしやユイには無縁の話なんだけどね」と付け加えられて、ユイはようやくハッと息を呑む。衝撃だった。同時に、何も見えてなかった自分に落胆するしかなかった。
自分は、ルキノのことを何も知らなかったのだ。
好きだなんて告白しておきながらも、彼のことを自分の物差しでしか見ていなかったのだ。
ブライアン社やオスカー財閥ほどではないとはいえ、ユイもアバドン通信販売会社という有名会社の一人娘である。親の教育方針上、過剰な優雅な生活は送ってきていないものの、それでも食べるものや着るものに困ったことは一度もない。
今だって、普通よりも高額な寮費を払って二人部屋を一人で使わせてもらっているし、厳密に幾らかと聞いたことはないとはいえ、学園にそれなりの寄付金も入れているらしい。それらはユイが黒髪だということに対する親なりの配慮なのだと思うが、そこはユイとしても、あえて見え見ぬフリをしているところだ。
もちろん、だからこそ生活費や被服費、お小遣いも不自由のない程度には十分仕送りをしてもらっている状態。
――そりゃあ、自分が恵まれているとは思っていたけど……。
それでも、黒髪がゆえに、それだけで毎日の生活は大変で。
日々、学園内での生活を生き抜くためには、そんな親のありがたみを噛みしめる余裕なんてなくて。
それこそ親の期待を裏切らないためにも、きちんと成績を維持して、毎日授業を受けることで目一杯で。
――これも、ただの言い訳ね。
唇を噛み締めるユイをよそに、苛立ちを顕にするタカバが舌打ちする。
「ハァ⁉ だったら、なんでこいつはオレらにそれを相談しねェーんだよ! んな無茶しなくても、人気者のこいつのためだ。カンパでも募れば、結構貯まったんじゃねェーのか⁉」
その言葉に、ヒイロが首を横に振った。
「俺も似たようなこと言ったけどさぁ、全然言うこと聞かなかったよ、こいつ。それこそクラスや学年単位でカンパなんて大事にしたら、『僕のプライドがぁ!』とかって怒るんじゃねぇーの?」
「まぁ、そんな感じだろうねぇ。でもさぁ、どうする? このまま病院連れ帰ったとしても、この問題が解決しないと、またすぐに脱走しちゃいそうだよねぇ……」
そう言って、メグはユイに視線を投げかけた。何かを求めるような、訴えるような、甘えるような視線は、明らかにユイに察するように命じてくる。
――私が立て替えろって?
正直情けないが、自分の貯金では足りないだろう。洋服だったり、美容のためだったり、趣味の機械いじりのためだったりと、仕送りを貯めることはせず、ストレス発散も兼ねてその都度使ってしまっていたのだ。
だが、親に頭を下げれば援助できる可能ももちろんある。事情をどのように説明するか悩まなければならないが、入院費用を賄えないほど実家の財政状況は悪くないはず。むしろ、日々その売上は伸びているくらいだ。
――だけど、そんなまどろっしいことしなくても……。
わざわざユイの親に嘘を吐かなくても、本当のことを知った上で、お金に余裕のある人物にユイには心当たりがある。
その眼の前にいる当人が、小さく口を開いた。
「ユイのお願いだったら、あたし考えてもいいんだけどなぁ?」
つまり、彼女はこう言いたいのだ。
ユイが頭を下げてくるのなら、自分が立て替えると。
――彼女のくせに。
ルキノと付き合っているのはメグだ。ユイではない。
エクア随一のご令嬢本人が、ルキノの彼女なのだ。
だけど、彼女は自分の彼氏のために、お金を出すつもりはないらしい。
そのくせ、自分が裏切った友達のためなら、お金を出してもいいらしい。
――舐めやがって!
ユイは自分の髪を掴む。歯を食いしばり、抜けそうな勢いで握りしめる。
憎らしい。
これ以上の屈辱はない。
街灯のそばで羽音を立てる黒い虫が耳障りだった。
この光景を記録しているのだろうが、しょせんはこの程度の小競り合いでは警邏隊もろくに見ないだろう。だからこそ、こんな光景が記録されていることが腹ただしい。
だけど、これが彼の役に立つのだとしたら。
今まで、好きな相手のために何もしてこなかった自分が、唯一してあげられることなのだとしたら。
今まで助けてもらった恩返しが、少しでも出来るのだとしたら。
ユイは目を閉じて、ゆっくり息を吐く。
そして、
「メグ、その病院代……払ってあげられないかな?」
「ん? そうだねぇ。そのくらいのお金なら、すぐに個人口座で用意出来ると思うけど?」
――白々しい!
メグの満面の笑みを見ないようにして、ユイは屈辱的な言葉を口にした。
「……お願い」
「いいよ!」
彼女の陽気な返答は、早かった。
「じゃあ、ルキノ君が今日バイトに明け暮れてたのは、ここだけの秘密ってことで! これで全部解決だねぇ。あ、今度タカバ君のとこのパン、あたしも食べてみたいなぁ。お代は今日の被害分上乗せで払うから安心してね」
「いらねェーよ! あ、いや……パンはもちろん明日学園に持っていくけど、メグちゃんからお代なんてもらえねェーって!」
「えぇ? だってぇ……」
クルリと踵を返したメグの背中を、ルキノを担いだままのタカバが慌てて追いかけていく。
ルキノはやっぱり目覚めない。あの注射の中には眠剤も含まれていたのかもしれない。
――まぁ、本当にこれ以上動かないほうがいいんだろうけど。
ユイが深いため息を吐くと、派手なとんがり頭のヒイロの顔を覗いてくる。
「ユイさん、だいじょぶ?」
「え? えぇ……」
とりあえず頷くと、ヒイロが腕を組んで唇を尖らせた。
「あのコ、なかなかいい性格してるよなぁ。見た目あんな可愛らしいのにさぁ」
「ふーん、ヒイロもあれが好みなんだ?」
適当に言葉を返すものの、返答がなかなか来ない。
それを怪訝に思って、ユイがヒイロの方を向くと、彼は嬉しそうに目を輝かせていた。
「やった! ようやく名前呼んでもらえた!」
――え? そんなことで喜ぶの?
呆気に取られていると、ヒイロが喜々としてユイの右手を両手で掴んでくる。
「ねぇ、ユイさん! 試しでいいからさ、俺と付き合ってみない?」
「はぁ⁉ ちょっと、いきなり何言ってんのよ⁉」
ユイは顔を赤らめてその手を振り払おうとするものの、ギュッと握られたその手が離れてくれなかった。
「お試しでいいんだ! ちゃんと付き合うのは、きちんとユイさんが俺を好きになってくれてからでいい! それまで、手を繋ぐ以上のことはしないから……頼む、ごっこ遊びと思ってくれて構わないから、俺の恋人になってくれませんか⁉」
「ごっこ遊びって……」
混乱する頭で、思い出す。それは、あの『ヒューデルさん』に訊いたこと。
『モナ先生に、家族とかっているのかしら?』
『弟が一人――確か、エクラディア学園軍事クラスの最高学年にこの間なった……と言っていたような気が……』
ユイは息を整える。
「ヒイロって……お姉さん、いる?」
「え? 姉ちゃんいるけど……あれだったら、今度紹介するよ? 学園内で働いてるから、あまり公にはしないでほしいんだけど」
「そっか」
オレンジの髪に、青い瞳。
ユイのようなよほど特殊な黒髪でなければ、髪はいくらでも染められるだろう。現に、ヒイロの髪は月単位でコロコロと変わっている。そして、わざわざカラーコンタクトを常用する人は少ない。芸能人ならまだしも、学生が常用するには維持費が安くはないからだ。
『あの女』と同じ青い瞳が、ユイを真剣な眼差しで見つめてくる。
――使えそうね。
恋愛も友情も、あの夜に捨てたはずだ。ユイは自分にそう言い聞かせ、頭を切り替える。
お前は誰だ――ヒューデルさんにそう訊かれた時の自分の返答を思い返しながら、ユイは笑みを作った。
「……今のは、ちゃんと本気で言っているのかなって試しただけだから、気にしないで。遊びだったら、家族のことは内緒にするって、よく言うじゃない?」
「じゃあ……俺、合格?」
彼の青い瞳に映るユイは頷く。
「うん。本当にお友達からでよければ」
ヒイロがユイの手を離し、思いっきりガッツポーズした。
――私はエクアージュ。世界を破滅へと導く魔女。
恋が前進したと無邪気に喜ぶ同級生の姿を、ユイは長い黒髪を掻き上げながら、冷たい瞳で嘲笑う。