可愛い後輩と天秤に掛けたとしても
◆ ◆ ◆
――完璧だ。
ルキノはそう思わずにはいられなかった。
狭いパン屋にひしめく女性たち。全員がルキノの言動を気にしつつ、今晩や明日のパンを選んでいる。
十人も入れば、このようにまともに動くスペースもなくなるほどの小さな店だ。この店内に圧迫感があるほど、ルキノの客寄せが成功している表れである。
「あら、ごめんなさい」
だから、足を踏まれても誰も文句は言えない。
代わりに、
――すっげえええ痛てええええええええ!
胸中で絶叫をあげた。だけど、ルキノは眉一つ動かさない。
少し派手めのエプロンの下は、シンプルな恰好。ギブスの腕にはパンの籠を持ち、反対の手にはトング。家庭的で少し色気のある弟スタイルが今日のテーマだ。そんな恰好で、女性一人ひとりにパンを選んであげている最中なのだ。可愛い弟がいきなりキレだしたら、もちろん興ざめだろう。だから、彼女たちの夢が醒めないように、ルキノはグッと堪えるしかない。
むしろ、背の高い美人なお姉さんにルキノはすぐ謝罪するくらいのサービスも必要なのだ。
「お姉さんこそ、お怪我はありませんか? ストッキングが伝線でもしたら……それはそれで、いいかもしれませんけどね」
「まぁ!」
こんな台詞の一つでも吐いてやれば、女性客は簡単に頬を赤らめ、ルキノへの好意が増せば増すほど、パンを買う個数が増えていく。
チョロイ仕事だ。今日一番の簡単な仕事だ。
ルキノが客引きすることを、雇用主であるタカバの父親に提案した際、
『オメェ……なんやかんや、いつもそんなんばっかだな』
タカバにはそんなことを言われたが、それが一番効果的なのだから仕方ない。
きっかけは何でもいいのだ。一度、この店のパンを食べてもらえればいい。
遅くまで営業しているパン屋の美味を知ってさえもらえれば、リピーターができる――ルキノはランチ時にここのパンを食べて、そう確信していたのだから。
「ありがとーござーましたー」
タカバの兄だというヒョロっとした男の隣で、袋に入ったパンを渡すマールの姿も好評のようだ。
幼女は、老若男女問わず癒しを与える。彼女が起きているのはそろそろツライ時間かもしれないが、あと一時間くらいは頑張ってもらいたい。眠くてうつらうつらと頑張る幼女の健気さもまた、客の心をくすぐるだろうから。
当初の予定より、売り上げも十倍は増えているだろう。
時給の一割――いや、二割アップは交渉できるか、そうルキノが目論み立てていると、
「痛て……」
急に足が棒のように動かなくなる。半身が引きつり、背中に割れるように痛みが走る。
「どうしたの、大丈夫?」
客の一人がルキノの背中に手を置いて、心配してくる。さっき足を踏んできた女だ。長い銀髪を掻き上げて、切れ長の瞳が覗き込んで来た。
――気安く触るんじゃねぇーよ。
内心で毒づきつつも、ルキノは困ったような笑みを作った。
「ちょっと腕の怪我が痛んでしまいまして……薬が切れてきましたかね」
「やっぱり、そんな腕で働くのは無理があるんじゃない?」
「いえいえ。せっかくあなたに、ここの美味しさを知っていただくチャンスを得たのですから、怪我ごときでこの機会を無駄にするわけにはいきま――」
その時、女性特有の恐怖の悲鳴が狭い店内に響き渡る。入り口付近の客が割れ、外から這い寄ってくるのは白い生物だった。顔だけ持ち上げたそれは、ヨレヨレの前髪をシナッと払い「せいと……かいちょうどの……」と涙ぐんだ眼差しでルキノを見上げる。
「アンドレ⁉」
その正体をルキノが思わず口にすると、彼は真っ赤になった鼻を啜って、ボロボロと目から涙を流し始めた。
「うぅ……見つけた……ようやくこのアンドレ=オスカー、生徒会長殿を発見したぞ……。良かった、生徒会長殿はしかと生きておるな? 何時間も走り続けて、ボクがマヤカシを見ているだけというオチはないのだな……?」
「あ、うん……僕もちゃんと生きているつもりだから、問題ないと思うよ?」
そう答えてあげると、アンドレはますます顔をクシャクシャにして「生徒会長殿おおおおおおお!」とルキノの足に縋り付いて来る。
痛かった。その衝撃で猛烈に痛かった。今すぐこの馬鹿な後輩を罵倒して蹴り飛ばしてやりたかった。
だけど、本気で「無事で良かった」と何度も繰り返しながら泣いているアンドレを見下ろすと、とてもそんなことは出来なくなる。
だから代わりに、ルキノは尋ねた。
「もしかして……僕をずっと探してたのかい?」
「そうだとも……病院で、麗しき幼馴染のメグから、生徒会長殿の容態を聞いて、それからずっと街中を走り回って……ボクを騙すとは酷いではないか。そんなに、ボクのことが嫌いだったのか……?」
――男にそんなこと訊かれても気持ち悪いだけだけど。
だけどルキノは周りの目も気にしつつも、極力本音で答える。
「もちろん、嫌いじゃないよ。その……ごめんね。どうしても、やらなきゃいけないことがあって……」
「怪我を押してもパン屋にいる理由とは?」
――金を稼ぐためです。
入院する費用がないので、働いています。しかも二人分です。自分も無駄に個室という贅沢を強いられている上、弟は特別待遇すぎて一体いくら必要になるのか検討も付かない状況です。ちなみに、貯金も底をついており、親族も本当にいなくなってしまったので、金銭的に頼れる相手は誰もいません。
ルキノはふと思いつく。このことをアンドレに話せば、彼は間違いなくお金を貸してくれるのではないかと。いや、むしろ気前良く全額払ってくれるかもしれない。
なにせ、こんなにボロボロになるまで自分のことを探してくれたのだ。元から体力もないだろう。効率の良い走り方も知らないだろう。そんな正真正銘のお坊ちゃんが、ハリボテの自分を懸命に探し回ってくれたのだ。
――それこそ人を使うとか、お金を掛けて効率の良い手段もあると思うけど。
それでも、わざわざ体を張った彼を見下ろしながら、ルキノは苦笑しつつ愚痴た。
「さすがに、こんな可愛い後輩を利用は出来ないよな」
「生徒会長ど――」
アンドレが目を丸くした時だった。
ひゅーでるでるでるでるでる!
外から奇妙な声が聴こえる。
「ヒューデルたん!」
カウンターのマールの高い声が店内に響いた。
そして店内の客の半数が嬉しそうな反応をし、半数が怪訝な顔をする。
ルキノはその微妙な周りの反応に「ひゅーでるさん?」と眉をしかめると、
「あら、君はヒューデルさんを知らないの?」
嬉しそうな顔をしている客の一人が、聞いてもないのに話して掛けてくる。
「最近、夜の路地を駆けるヒューデルさんが流行っているのよ。この声を聴いた人には、幸運が訪れるんですって!」
「へぇ……じゃあ、僕がお姉さんと会えたのも、ヒューデルさんのおかげかもしれませんね」
「あら、本当にお上手な店員さんねぇ」
息をするよりも簡単に出てくる台詞で応じていると、次に外から聞き覚えのある女性の悲鳴が聴こえた。
――ユイ?
その直後に、爆撃音。
ルキノは笑うのを止めた。
「……外、見てきますね」
ルキノはパンの籠をカウンターに置いて、女性の間をすり抜けるように通り過ぎる。途中で後輩の「ぐげっ」と鈍い声を聞いた気がするものの、残念ながらルキノはそれどころではなかった。
だって、彼女の悲鳴が聴こえたのだから。
たとえ自分を探して半日走り回ってくれた後輩を踏みつけようとも、急に身体を動かして筋肉が悲鳴を上げようとも、それに構ってはいられないのだ。
カランカランとベルが鳴る扉を開けると、星が瞬く夜の路地。橙色の暖かい光が家々の窓から暗い道を照らしている。
その中の電灯の下で、白っぽいワンピースを着た女性が、膝を抱えてしゃがみこんでいた。フルフルと震えている姿に、ルキノはハッとする。
――泣いて……いるのか?
ルキノは全身に走る痛みを無視して、彼女に駆け寄った。
「ユイ!」
「ル……ルキノ……?」
夜に紛れる髪を持つ彼女が赤い顔を上げる。
彼女の目が赤く充血していた。眉間がこれでもかと寄せられており、跡が付くほど唇を強く噛みしめているその顔を見て――ルキノは内心、安堵する。
――何でそんなに激怒しているわけ?
漏れ出そうになる苦笑を誤魔化すため、ルキノは嘆息した。
「こんな場所で、何をそんなに怒ってるんだい?」
「た……タカバに……タカバに……」
「何、パンツでも見られたの?」
冗談で笑おうとするも、失敗だったようである。
彼女は容赦なく、平手を振り上げた。ルキノはとっさにその手を掴む。
「ちょっと、いきなりビンタはやめてくれないかな⁉ 君のはかなり痛いんだって!」
「うるさい! 大人しく殴られなさいっ‼」
「嫌だよ! あの時だって、一晩中冷やしてやっと腫れが引いたんだからね⁉」
髪を片側に寄せたユイは全力で手に力を入れているのだろうが、それを押さえるのは今のルキノでも容易だった。
――可愛いな。
こんなにか弱い彼女が、シンプルかつ大きめのワンピースを着ている。いつもとは違った髪型で、いつもと違った唇の色は、化粧をしているせいなのだろう。
手に持っているボロボロの花束は何のためなのか――そう考えて、思い出したのはメグの言葉だった。
『そのうち来るよ』
――もしかして、俺の見舞いに来たのか? わざわざオシャレして?
クリーニング屋の店長にデートへ行くのかと思われるくらいに気合を入れて、自分のお見舞いに来ようとしてくれたのなら。
「ルキノ……何か拭くもの持ってない?」
その思考を邪魔したのは、ユイの横に立っていた少年だった。
「なんだ、ヒイロ。いたのか?」
「いたのかはないよね……て、怪我大丈夫なん?」
「いや、その質問は僕がしたいくらいなんだけど」
ヒイロは鼻を両手で押さえていた。街灯に照らされたその手には血が付いている。
「鼻血?」
ルキノが尋ねると、ヒイロはコクンと頷いた。
「ちょいと、ときめいちまったい」
「……君に少女漫画を嗜む趣味なんてあったっけ?」
「今回は男の浪漫の方――」
「ひゅーでるでるでるでる!」
その声は近かった。
ルキノが反射的に振り向いた瞬間、帽子が飛んでいきそうになる。とっさにそれを押さえながら、首は風の吹いた先へ動かした。
微かに見える、黒い背中。
ロングコートを着ているのだろうか。同色のシルクハットがやけに長い。
「あいつ!」
「ヒューデルさんか⁉」
次の瞬間、ユイとタカバが凛々しく叫んだ。
タカバがゴミ袋から這い出ている間に、ユイは「これっ!」とルキノに何かを押し付けてくる。
「ふふ……あいつ、絶対泣かす」
ほくそ笑むその血走った瞳は、ルキノを見ていなかった。
ユイはすぐにルキノから離れると、髪を結わいていた飾りをほどき、路上へ投げ捨てる。
広がる黒い髪が、怒りに燃える闘志のようだ。
そんなユイの様子を見て、ルキノは肩を竦めるしか出来なかった。
――これは少しほっといた方が良さげだな。
そう判断しながら渡されたものを確認すると、それは花束だった。小さく青い花がたくさん咲いている花束だったのだろうが、半分くらいの花びらが散ってしまっており、大きな隙間から枝のような茎が見えてしまっていた。
――お見舞いの花ってやつなのかな。
あまり女子らしいとは言えないセンス。男にあげるつもりで考慮したのか、それとも彼女の好みなのか。
――前者だな、きっと。
そう思うと、ルキノは笑みを零さずにはいられなかった。
「君からプレゼントをもらうなんて、初めてだしね」
一人小さく呟いた時、それを隠すようにゴシャッとビニールを投げ捨てたような音がする。タカバがゴミ袋を投げ捨てていた。
「だァァ! なんでオレ吹き飛ばされてるんだ⁉」
「ヒューデルさんの魔力じゃない?」
彼に答えるユイが、いつの間にか不敵に笑っている。そして、ワンピースを着ているにも関わらず、屈伸をしていた。対するタカバは、足を開いて股を割っている。
「ヤべェーな、それ。ぜってェー捕まえて、魔法教えてもらわなきゃ!」
「……魔法なんて使って、何がしたいの?」
「そうだなァ……世界を平和にするとか?」
しゃがんだ状態で止まったユイが、タカバを見上げて吹き出した。
「ふーん……まぁでも、私が先なんだけどね」
そして、ユイが立ち上がると同時に走り出す。
「オイ、抜け駆けは許さねェーぞっ!」
「もう遅いっ!」
タカバが本気を出して走れば、速い。
あっという間にユイに追いついて、二人の背中がどんどん小さくなっていく。
遠くから、またあの奇声が聴こえた。




