制服は家で洗えない
アイロンを白いシャツに押し付ける。蒸気がジュワッと噴き出す感触は、始めての時はビックリしたものの、慣れた今となってはなかなか癖になっていた。
このアイロンは骨董品の一種であり、貴重なものである。だが、骨董品といっても木製ギターと同様、残存数が多いため高価な物という認識しかない。金を出せば手に入るというレベルでは、希少価値が高いとは言えないだろう。現に、このクリーニング屋でも五台は常備しているはずだ。
この店で、ルキノはもう五年以上勤めていた。店長にも定期的にご飯に連れて行ってもらい、家庭の愚痴を聞くくらいの仲ではあるものの、今日の店長のルキノを見る目は険しい。
「けど、ルキノ君。その怪我本当に大丈夫なの? 無理しなくたって、知っての通りウチは忙しくないからさ……」
「大丈夫です!」
ルキノはしつこいシワに体重を乗せながら、完璧な笑みを店長に向ける。暑さで額から汗が滲むからこそ、白い歯が煌きがより一層爽やかを演出している。
だけど、店長は無精ひげを撫でながら、顔を渋らせていた。
――まぁ、そう言いたくなる気持ちはわかるけどね。
実際生徒会の後輩がこんな姿で働いてたら、ルキノは間違えなく休むよう指示をしている。
普通、利き手を三角帯で吊るしているような怪我人に、金属の塊であるようなアイロンがけをさせようという者なんて、店長の母親くらいしかいないだろう。よく店長の母親が店長の奥さんに対してそんな無茶ぶりをしては喧嘩を繰り広げ、間に挟まれた店長が苦労しているという話を聞くが――店長はもちろん、ルキノの姑ではない。
それでも、店長だって経営者。家庭の中では情けない苦労人であろうとも、一つの店を運営指揮する立場である。身体を壊してまで働くよう無理強いすることもなければ、いかに善良な人であろうとも、働かない者にお金をあげるほどの偽善者ではない。
つまり、命がけでお金が欲しいルキノにとっては、店長の良心を傷付けることになっても、労働せざる得ないのだ。
だからこそ、ルキノは何てことないとばかりに、アイロンを台の端に置いた瞬間、手慣れたスピードで霧吹きに持ち替える。満遍なく水を吹きかけたら、すぐさまアイロンに持ち替えて、それをまた押し当てていく。
その時間は、まさに数秒。
実際には骨が軋むような痛みが腕から脳天に走るものの、ルキノはそれを微塵も顔に出さず、ハッと驚く演技をしてみせる。
「ハッ、もしかして……いつもより精度が落ちてますか⁉」
そして、ルキノは先程仕上げたばかりのシャツを広げてみせた。
真っ白なそのシャツは、襟がキリッと主張している。もちろん余計なシワは一つもなく、胸のポケットもパリッとしている姿は袋の中で折り畳まれた新品よりも美しい。
「いや……いつも通り、完璧な仕上がりだけどね……」
「良かった。じゃあ、今日もキリキリ働かせていただきますね!」
苦悶する店長をよそに、ルキノはいつも以上の爽やかさと手際の良さで、アイロンを捌いていく。
その時だ。ピンポーンと、来客のチャイムが鳴る。
「ほら、店長。お客さんですよ」
「あ……あぁ、そうだな」
ルキノの契約は、中での技術作業となっている。最初はその見た目から接客もと言われたのだが、ルキノは頑なに断った。学園で常に愛想を振り撒いている以上、たまには無になれる時間も欲しいからだ。その代わり、賃金の分以上の価値を与えられるよう技術を磨いたという訳もある。
店長は作業場と接客カウンターを仕切るカーテンをくぐっていく。
――ようやく一人になれたな。
幸い、今日のこの時間は他に従業員もいない。ルキノは表情筋のスイッチを切って、淡々と次の作業に取り掛かろうとした。溜まっていたシャツは終わり、次はジャケットだ。ジャケットはシャツよりも困難で、腕や肩回りにアイロンをかける時は、専用の型にはめながら行う。
ルキノは無事な左手と、ギブスの先からちょこっと出た右手を駆使して、ジャケットをその型に装着していると、
「お、お嬢さんも久しぶりだねぇ。実習大変だったんだろう? 怪我はなかったかい?」
「はい、おかげさまで」
カーテンの向こうから聴こえた女性の声に、ルキノは思わず手を止めた。少しツンとした喋り方に、聞き覚えがあったのだ。
「これ、お願いします」
「しかし、お嬢さんも今時珍しいよねぇ。こんなご時世にクリーニング屋を使うんだからさ。寮にも洗濯機はあるんだろう? わざわざ持ってくるより、洗濯機に入れてボタン押すだけで、乾燥して綺麗に折りたたまれて出て来た方がラクじゃないの?」
「忙しい時は、私もそうしますけどね。でも、やっぱり仕上がりが違うんですよ。無理矢理伸ばしてないというか……制服、あまり買い替えたくないですし」
「まぁ、それがウチの売りだからね。お嬢さん、若いのに見る目あるよ」
しっかりした言葉遣いには知性を感じる。育ちはそれなりにいいのだろう。
だけど、ルキノは知っている――彼女は短気で、愛想や媚を売るということが出来ないのだ。
「なんかそれ、馬鹿にしてます? きちんとお金払うんだから、学生だってクリーニング屋利用したっていいですよね? それとも私が利用してたら、お店の評判に影響でますか?」
「いやいやいや! そういうつもりで言ってるんじゃないから!」
そんなやり取りに、ルキノは苦笑する。きっと今、彼女は長い髪を掻き上げただろうから。
「本当にごめんねぇ。学生だからとか、黒髪だからとかでお客様を差別なんかしないから……それで、今日はこれだけでいいのかい?」
「……はい、お願いします」
不貞腐れた彼女の顔を思い浮かべながら、ルキノは作業の手を進めた。
いくら難しいジャケットといえど、他のことを考えながらアイロンをかけることもルキノには容易である。ここのバイトも、もう五年。始めた当初はなかなかうまくいかなくて、毎晩徹夜した日々は無駄ではないのだ。
「じゃあ……仕上がりは来週になるから。デート楽しんできてね」
「デート?」
「おや、違うのかい? そんな可愛い恰好してるから、てっきりそうなのかと思ったんだけど」
「……別に関係ないですよね。では、それお願いします」
再び、ピンポーンと音が鳴る。ドアの開閉に合わせて鳴るだけなので、彼女が帰ったということなのだろう。店長の世間話を颯爽と切るあたり、彼女らしいといえば彼女らしいが。
――デート? あのユイが?
一週間くらいの意識がなかった間に、何かあったという可能性はある。だが、今までにそんな脈がありそうな気配はあったのかといえば、
――仲が良いのなんて、タカバくらいなもんだよな……。
彼女と息が合っていそうな人物に一人心当たりがあるものの、あの二人に今さらそういった感情が芽生えるとは考えにくかった。単細胞と筋肉で出来ているようなタカバは見るからにメグのことが好きだし、ユイだってまだ自分のことを好きでいてくれているはず――
――失恋した者同士、傷の舐め合いで……とか?
そう考え出すと、背筋にゾッとしたものが走る。
わからない、というほど怖いものはない。一人で考え込んでいると、思考はどんどん悪い方へと進んでいく。それに加えて、今は手を動かすだけでも全身に痛みが走るのだ。その苛立ちと相まって、ユイとタカバが腕を組んで楽しそうに街を歩く光景まで想像しだした時だった。
「おや、ルキノ君どうした? やっぱりツライんじゃないのか?」
「あ……いえ……」
ルキノは戻ってきた店長の発した言葉に、ルキノはようやく顔を上げた。青白い顔をしているルキノを見て、店長が「うん」決断をする。
「ルキノ君、今日はもういいから。早く帰りなさい。定時までの給料はちゃんとあげるから」
そう言われて、ルキノはようやく我に返る。
「しかし店長! そう甘えるわけには……」
「いつもルキノ君にはかなり助けられているからね。体調不良の時くらい、大人に甘えなさい」
「でも、本当に今はただ呆けていただけで――」
「これは、命令だよ」
ピシャリと上司に言われては、反論の言葉もない。
本当は、ただ立っているだけでもツライのだ。それに給料も定額貰えるなら、ルキノにとってはこれ以上ない申し出。
――情けないには違いないけどな。
それでも、ルキノは店長のいつになく真剣な眼差しに、
「……はい、ありがとうございます」
不服を隠して、頭を下げるしかなかった。