絶望の海に堕ちた瞬間
「女を殴る男は最低だって、父ちゃんに教わらなかったのか⁉」
そう叫びながら、俺は馬乗りになっている少年の襟首を掴み上げて、その顔を殴る。さらに、すぐさまその腹を思いっきり蹴り飛ばした。
そいつは「ぐげぇ」と口から唾を吐き出して咳き込んでいたが、俺は構わず少女を助け起こす。
「大丈夫? 動け――」
顔を上げた少女の視線に、俺の気遣う声は止まってしまった。
光を一切受け付けないまでに真っ黒な瞳が、強く自分を睨みつけてくる。
邪魔するな、と言いたいのか。余計な真似をするな、と言いたいのか。
目にいっぱい溜まった涙を零すまいと、唇を噛みしめる彼女の目力に、俺は気圧される。
「ガキがこんな危ないことに手を出すんじゃないわよ!」
「……俺、君とそう歳変わらないと思うけど?」
黒髪を長く伸ばした少女に、俺は思わず不服を返した。
助けてやったのに、その口ぶりはないじゃないか……。
そういう彼女は、ボロボロだった。
元はかなり高級そうな白いワンピースが、泥被りであちこち破けてしまっていた。白い肌もあちこちから血が出ていて、見るからに痛そうな青い痣も数えきれない。唇がやけに赤く見えるのは、口角が切れてしまっているからか。
そんな少女が、訝しむように目を細めて、俺を上から下まで見下ろす。
「あんた、よそ者ね? 何も知らないんだから、なおさら早くどっか行きなさい! あんたがどこから来たか知らないけど、この辺は危ないんだから」
年の割に、偉そうな喋り方をする少女である。
だけど、だからと言って、彼女を立ててあげたりするほど、俺もまだ大人ではなかった。
「なんだよ! せっかく助けてあげたっていうのに、そんな言い方ないだろ⁉」
「誰もそんなこと頼んでないじゃない!」
「そんなこと言っても、君死んじゃいそうだったじゃないか!」
「死なないわよ! そうそう簡単に人間は死なないって、父さん言ってたもの!」
口論に夢中で、俺は気づかなかった。
倒した二人の少年が、起き上がっていたこと。そして、その一人が拳銃を持っていたこと。
パンッ。
その音は、どこか軽かった。
ただ、俺はそれよりも、急に俺を引っ張って来た少女のことにビックリして。
膝から転んだ俺の背中に、背中から倒れてきた彼女にビックリして。
彼女の下から身を乗り出すと、二人の少年が真っ青な顔をしていた。
「どどど……どうすんだよ……おれ、しらねーからな!」
「おれだって、こんなつもりは……」
一人の少年の手から、カランと拳銃が落ちる。
拳銃を見るのは、初めてではなかった。物騒なスラム街で生きていれば、嫌でもどこかで目に留まる。だけど、どこか仲間意識の強い地元では、それでも子供には無関係でいられるような配慮がされていたと思う。
後退るように、彼らが走り去っていく。
俺はそれを追いかけようとは思わなかった。ただ、その背中を見て、危機は脱したことだけを理解する。
パンッ。
遠くから、また同じ音がした。
そして、ふと、自分の手が何かで濡れていることに気が付いた。
それはべっとりと少し重く、不快な感触。
見てみれば、手が赤い。この赤いのは、なんなんだろう。なんか、鼻に付く嫌な臭いがする。
この赤いのは、座ったルキノの足を下敷きにして倒れている女のコから出ているようだ。汚れた白いワンピースのお腹の部分に、赤いシミが広がっている。
さっきまで力強かった瞳がどこか虚ろで、ヒューヒューと細い息をしていた。
パンッ。
また同じ音がする。
彼女は撃たれたのだ。
逃げた少年が落としたあの拳銃で、撃たれたのだ。
それを理解して、ますます俺の頭が混乱する。
「ど……どうしよう……?」
「どうしよ……じゃ、ないわよ……あんたは、怪我……ない?」
パンッ。
その音を聴いていながら、俺はそれどころではなかった。
見下すように細められた視線に、俺は首を縦に振る。
すると、彼女が嬉しそうに笑った。
「良かった……黒髪なんて……て、いつも……馬鹿にされてたけど……ちょっと私……カッコよくない?」
へへっと照れ臭そうに笑うけど、傷口が痛むのか、すぐに顔をしかめて。
その時、近くで断末魔が聴こえた。路地の奥。銃を撃った彼らが逃げた方向。
反射的にそっちを向くと、彼女が「大丈夫」と弱々しく言う。
「どうせ……父さんだから……あんたも早く逃げて……誤解されちゃ……」
言葉の途中で彼女の瞼が落ち、言葉も止まる。
背筋に冷たいものが走り、ギョッと目を見開くと同時に、俺は誰かに持ち上げられた。
「小僧……うちの娘に何をした……?」
それは、やたらと目が光る男だった。そいつに盛大に投げられて、俺はズズズと路地に転がる。
「ユイ! おぉ……愛しの愛娘よ……どうしてこのような……」
全身の痛みを堪えて身を起こすと、その男は倒れる少女に涙ながら手を差し伸べていた。
芝居がかったその仕草がなぜだかとても似合う長身の男は、彼女の父親なのだろうか。その男は彼女とは違い、美しい金髪。同じ色の瞳と相まって、やたらと神々しい。
だが、その手は倒れた彼女に振り払われていた。
「父さん……あれでも一応、私を助けようと……してくれた人、だから……謝って」
彼女は死んでいないらしい。辛うじて開けた目が、その男を容赦なく睨み付けているようだ。
「だが、娘よ。お前はこんなにも傷だらけで……」
「御託はいいから……てか、痛い。苦しい……もう無理……任せた……」
一方的にそう告げて、彼女は再び目を閉じる。
そんな彼女を、その父親は軽々しく抱きかかえた。そして無表情で、その男は俺のそばまでやって来ては、俺のことを空いた手で摘み上げる。
「娘の治療をした後で、貴様も診てやる。この女神のごとく慈悲深い娘に、涙ながら感謝するがいい」
「いや、俺……あっちで家族が待ってるから……」
ジタバタと俺が暴れてもビクともしないこの男は、俺が指差した方向を見て、顔をしかめる。
パンッ。
またあの音がする。
「向こう……? 今、発砲音が聴こえた方か?」
「え?」
背の高い男の肩に担がれて見下ろした光景に、俺は絶句した。
往来で、真っ赤な湖に浮かんでいるのは、両親だった。母親の上に、父親が覆いかぶさるようにして、二人が倒れている。
俺がいくら叫んでも、二人は顔を上げない。
「ここいらでは、最近銃の乱用が問題となっていてな。些細な軽犯罪でも銃が使われ、こうした被害が増えている。主に狙われるのは、死海を見に来た旅行者だ。浮かれて危機感を忘れていると――」
男が長々と解説しているが、俺の耳には全く聴こえていなかった。
ただ俺の目に入るのは、ドクドクと赤い湖が広がっていく姿だけ。
「兄ちゃん! ルキノ兄ちゃんっ!」
その声は、両親の下から聴こえてきた。
ニョキッと生えた白く細い腕を見つけ、俺はこの男から飛び降りようとする。だけど、ガシッと尻を押さえられて、俺は飛び降りることすら出来ない。片手で娘を大事に抱えているのに、その男は微動だにしないのだ。
「離せっ! 離せよクソじじい!」
「爺と呼ぶのは、あと三十年は待ってほしいものだな」
その男は俺の足よりも速くそれに近づき、軽々とその腕を持ち上げる。
現れるのは、真っ赤に汚れた弟だった。弟が男の肩の上にも関わらず俺に抱き付いてくる。
弟は泣いていた。
「父ちゃんと、母ちゃんが……スリに盗まれた財布を取り返そうとしたら……撃たれて……そして、そして……」
「感動の対面を私の耳の真横でしている所心苦しいが、娘の治療を最優先したいのでな。大人しくしていてくれないか」
そう言うと、右手に娘、左肩に俺と弟の二人を器用に乗せたその男は、ガシガシと大股で進んでいく。
倒れる両親の横を、通り過ぎて。
「おい、待てよ! 父ちゃんと母ちゃんを――」
「見てわからんのか。すでに死んでいる。諦めろ」
「死んでない! 父ちゃんと母ちゃんが死ぬわけ――」
「娘も、面倒なものを頼んでくれたものだな」
俺の頭が大きく揺れたと思った瞬間、最後に見たのは、両親の手が堅く結ばれている光景だった。




