恋という泥沼に落ちた瞬間
◇ ◇ ◇
昔から、俺は頭が良かったらしい――とは言っても、あくまでスラムの範疇の話だったが。
それでも、八歳で文字の読み書きが出来る子なんて周りにはいなかったし、今までもいなかったらしく『神童』なんて持て囃されたりするのは、悪い気分ではなかった。
でも、俺は知っていた。五歳の弟も、実は文字を読むことが出来たのだ。
だけど、俺はそれを二人だけの秘密にするよう、弟に話していた。
「ねぇ、にーちゃん。どうして、おれが本を一人で読めるって、とーちゃんとかーちゃんに話しちゃいけないの?」
「だって、父ちゃんと母ちゃんはルイスと本を読むのが大好きだからさ。ルイスが一人で本を読んじゃ、お父ちゃんもお母ちゃんも、楽しみがなくなっちゃうだろ?」
「おれが知らないふりしたら、とーちゃんとかーちゃんは喜んでくれるのかなぁ?」
「そうだよ。ルイスは親孝行をしているんだよ!」
嬉しそうに「おやこーこー」と叫ぶルイスを見て、俺は小さな自尊心を満たしていた。
そのことも、弟が俺を憎む一因となっているのだろうか?
家族旅行なんて、絵空事の話だと思っていた。
毎日食べるのに精いっぱいな貧乏暮らしの中で、旅行なんて贅沢の極み。
友達でもそんな娯楽をしたことがある子はいなかった。
きっかけは、俺の一言だったらしい。
「お父ちゃん、海ってなぁに?」
ジャンク屋でもらってきたボロボロの本の中に書いてあった単語だった。
どうやら、かつては全ての生物が、その海という中で生活をしていたらしい。
だけど、エクアには海というものは存在しない。エクアが生誕する前の世界では、そういうものもあったらしいが、少なくとも、両親が生きている時代から海は存在しない。
だけど、父親はこう言った。
「じゃあ、海を見に行こう!」
鈍行に揺られて行った、北のサイカス地方。
西のランティスよりも肌寒いこの地域の中心には、巨大で真っ白な池がある。
スラム街を沈めてしまうくらい大きなその池は、腐敗したマナのゴミ捨て場。
もちろん再利用するために循環されてはいるものの、年々僅かではあるが、少しずつ池の面積は拡大を続けていっているらしい。
それを背後に、父親は堂々と言い切った。
「どうだ、ルキノ! これが海だ!」
違うのは一目瞭然だった。
この池の正式名称は、死海。
この名称の由来は、きっと俺の求めていた海なのだろうが、生命を育む場所はここではない。
むしろ、逆だ。死した生命の墓場と言った方が正しいだろう。実際に本から得た知識によると、お金のない人の死体も焼却処分された後、残った骨が死海に撒かれるのだという。骨の成分がマナの再利用に役立つようだ。
だけど、俺は嬉しそうに言った。
「すげー! 海、すげー‼」
だって、やけに揺れる列車の狭い席で食べた、母親お手製の弁当がいつもより美味しかったから。
だって、あいだで一泊した家よりボロいホテルのベッドで、父親と枕を投げ合ったのが楽しかったから。
隣でフェンスを握るルイスが、笑顔で言ってくる。
「海、おっきいね!」
本当の海なんて、どうでも良かった。
それは、弟と同じ気持ちだったと、今でも思う。
旅行のメインイベントも終えて、最後に名産の『もんじゃ焼き』というものを食べて帰ろう、ということになった。
どうやら、もんじゃ焼きというのは、古代から伝わる伝統的な料理らしく、余った材料を混ぜ合わせて液状化したものを、適度に焼きながら食べるといった、余り物やゴミが集められたサイカスにぴったりの食べ物らしい。
話だけでは、どうにも美味しそうではないが、
「ルキノ、何を言うんだ!? ここまで来たからには、とりあえず何でも食べてみる! それが旅行の醍醐味なんだぞ!」
と、父親がはしゃいでいたので、そういうものということになったのだ。
とびっきりの一張羅をみんな着てきたはずなのだが、サイカスの街ではどうにも浮いていた。
北のサイカスもランティスと同じような地方なのだが、廃棄とはいえ、マナがたくさん集まる地域。
その再利用技術が進んでることと、死海やもんじゃ焼きという名産も相まって、ランティスよりも独自性があり、栄えていた。
だからか、街ゆく人の姿も、どこかみんな上質で。破れていないだけで一張羅な自分たちとは、どこか違う。実際に、俺たちとは関わりたくないと言わんばかりに、誰も視線を合わせてくれない。
そして、散々手垢のついたパンフレットを見ながら歩いたにも関わらず、目的の店は一向に現れない。
人に訊こうにも誰も立ち止まってくれず、道の端っこで地図をあちこち回して見ていた時だ。
ふと、俺が路地裏に目をやったのは偶然だった。
同じ年頃の少女が、少し年上の少年三人に囲まれていた。
よくあるイジメの光景か、とすぐに目を逸らそうとした。
だって、今は楽しい旅行中。邪魔が入るのは勘弁だと思ったのだ。
だけど、それが分かっていてながらも、俺は目が離せなかった。
少女が、自分よりも背の高い少年の一人を殴り飛ばしたから。
殴られた少年は壁に頭をぶつけ、その場でうずくまる。
そして、少女が両手を腰に当てて、胸を張っていた。
路地の影でハッキリとは見えなかったが、どうにも、この少女の髪は黒いらしい。見たこともない髪をした少女の腰まで伸びた長い髪を、彼女はとても凛々しくなびかせていた。
何か言っている。それに腹を立てたのか、もう一人の少年が彼女の顔を殴った。
畳みかけるように、少年は少女に馬乗りになって、殴り続ける。
――あのコが死んじゃう!
俺がとっさに走り出そうとするも、誰かに腕を引かれた。
弟のルイスだ。
「ほっときなよ。今は、楽しい旅行中だよ?」
その声は、とても小さい。
両親はそんな俺らに気づかず、地図をクルクル回しては、あっちだ、こっちだ楽しそうにしている。
「ほっといたら、後味悪いじゃないか。せっかくの旅行なんだよ」
俺はルイスの手を振り払い、路地裏へと走り出した。
喧嘩には自信があった。地元では五歳年上の男の子にも勝ったことがある。相手の数が多いが、どうせ都会暮らしの甘ちゃんだ。日々、今日の昼ごはんを巡って殴り合いをしている自分とは経験が違うだろう。
気丈な少女の姿に目が眩み、ちょっとだけ英雄気取りたかっただけなのだが。
今でも、この時の選択が正しかったのだと、俺は胸を張ることが出来ない。




