黒い蝶がヒラリと舞う
◆ ◆ ◆
あれだけの騒動があったにも関わらず、正常はあっという間に帰ってくる。
ユイたちが本部を構えていたスラムの市街地に戻り、応急処置を受け終えた時間はもう日没後。
正式な報告は後日ということで、生徒各自は休息を命じられた――これはもちろん、ナナシ教諭による有無を言わせない軍上層部への説得があったからこそだ。
そのため、ユイは再び与えられた個室に戻りベッドで身体を横たえているのだが、正規の軍人たちは後始末に追われて休むどころではないのだろう。廊下を慌ただしく掛ける足音が時たま聴こえる。
砂嵐もどこかへ行き去り、今日はランティス史上一、二を誇るほど過ごしやすい夜。だけど、窓から見上げる空に無駄な光源はなく、ただ黒く塗りつぶされているだけのスクリーンが広がっている。
ユイは自分の小型通信機を片手で弄びつつ、ボーッと過ごしていた。結局この小型通信機はユイが蹴り落とされる直前にルイスが使用していたらしく、無事にナナシが取り返してくれていたらしい。これを受け取る時に、ナナシからルイスは『反政府組織に囚われていた被害者』として無事に保護されたという報告も受けた。何から何まで、ナナシには致せりつくせりである。
――問答無用で蹴り落とされなければ、だけどね。
黒一面の静かすぎる空は、ユイの気分も陰鬱とさせていた。
朝になれば、ユイたちは一番早い列車で首都エクバタへ帰り、そのまま病院に直行する予定だ。治療協力を申し出たブライアン社がすでに提携先の病院を手配しており、手厚い治療を保証してくれているらしい。なので、学園の生徒たちの明日は明るい。面倒な後始末をすることもなく、再び清々しい青空の下で、エクア最先端の治療を受けることが出来るのだ。
だけど、このランティスには当分、今まで通りの朝すら来ない。
マナ施設が破壊されたため、空のスクリーンすら節電が行われるらしい。首都のエクバタ含めて、主要都市には各地で備蓄されていたマナが使われるものの、当該地であるランティスでは、最低限の修復が終わるまで、空気供給程度なのだとか。つまり、ただでさえ砂だらけのスラム街が、さらに暗い街になるということだ。
――追い詰める順番、変えた方が良かったかしら?
そう同情しても、実習がたまたま実習があったからランティスを選んだに過ぎないので、他の最善案が出るわけもない。
――まぁ、こんなこと考えても、あとの祭りだしね。
それよりも、考えるべきなのは今後のことだ。
一時逃れたとはいえ、実習リーダーとしての職務上、避けては通れない仕事がある。
それは、正式な報告書を提出する――ということだ。
それこそ、ナナシから蹴り落とされた後、どうやって生還したのか。
新兵器らしい戦車をどのような手段で一瞬で爆砕したのか。
他にも細かい不可思議な現象を、もちろん魔法のことも隠した上で、辻褄のあった報告ををしなければならないのだ。
果たして、それがユイに出来るかどうか――
「正直、自信がないわねぇ」
ユイが嘆息するしかなかった。一縷の望みとして、事前にナナシが上手く話を纏めておいてくれる可能性に賭けるという手段もあるが――あれからナナシも多忙なのだろうか、今晩はユイの前に現れない。
「それこそ、何から何まであいつに頼りっぱなしっていうのもなぁ……」
一人愚痴た時、扉がトントンと叩かれた。
――噂をすれば何とやら?
こんな深夜、寝室に訪ねてくる相手なんて、ユイは一人しか心当たりがない。
しかし、彼は扉から普通に訪れたがなかった。いつも風呂場やトイレから、水を滴らせてやって来る。そもそも、ノックをするという常識があるとは到底思えない。
「どちら様?」
ユイは尋ねながら身を起し、無防備なシャツの上にベッドのシーツを羽織った。
返ってくる声は、どこか甘い男の声音。だけど声を潜めているとはいえ、どこか弱々しい。
「僕だ……入ってもいいか?」
「“ボク”なんて名前の知り合い、いないけど?」
ユイの許可もないまま、その扉は軋む音を立てながら開く。
「どうぞ、とは言ってないんだけどな」
「だったら、もっと可愛らしく恥じらいある台詞を言ってみたらどうだい?」
そんなことを言いながらも、彼は勝手に部屋の明かりのスイッチを押す。
彼は松葉杖を突いていた。右手は三角巾で支えられており、見るからに怪我人だ。
そんな彼が、やっぱり無断でユイのベッドに腰掛ける。
薄らとした橙の灯りに、彼の金糸は憂いを帯びて煌めく。
影を宿す碧眼に一瞬見とれたのち、ユイはすぐさま髪を掻き上げながら視線を逸した。
「……らしくないじゃない。どうしたの?」
「僕らしいって、どんなだい?」
吐き捨てるように苦笑して言う質問に、ユイは憮然と即答する。
「自信に満ち溢れていて、嫌みったらしいのがあんたよ――ルキノ」
「……男の弱さを黙って受け入れてあげられないんじゃ、彼氏いない歴も頷けるよね」
そう言って、ルキノは落としたように笑う。
――いや、本当にあんた誰よ?
彼のあまりの落胆ぶりにそう言いたくなるのを辛うじて堪えて、
「……何しに来たの?」
膝を抱えて、ユイは尋ねた。
気まずさを誤魔化すために、指先で自分の髪はどんなに弄んでも、その黒髪はしなやかで癖一つ付かない。怯むこともなく異端を象徴し続けるそれは、まるで与えられた命令道理に床を這うしか脳のない虫のようで、ユイはやっぱり好きにはなれない。
だけど、ユイの方を向く彼は、まるでそれが尊いモノであるかのようにユイをあたたかく見つめる。それでも、吐かれる台詞はいつも通りだったけれど。
「無粋な言い方だな。そんな僕に魅力がない?」
「あんたの戯言に付き合うほど、私も暇じゃないんだけど」
彼がなぜ、こんなに落ち込んでいるのかわからない。だけど、彼が何しに来たのか――それは何となく予想が付く。
そして案の定、彼はわざとらしい甘い笑みに切り替えた。
「そうだね。僕が気を失う前の質問に、答えなきゃいけないからね?」
「……てか、こんな夜分に女子の部屋なんかに来て大丈夫なの? それこそ彼女に怒られるんじゃない?」
「本当に君は可愛くないね。むしろ、僕に訪ねられて本当は嬉しいんじゃないの?」
嫌らしく歪むその口元に、ユイは思わずカッとなる。
「はぁ⁉ 誰があんたなんかに――」
「馬鹿、さすがに騒ぐな!」
大きく開いた口が、ルキノの手で塞がれる。だけど、慌てて動いたルキノが重心を崩し、そのままユイにもたれ掛かってきて、
「きゃっ」
ルキノに押し倒される形で、ユイは背中からバタンとベッドに倒れた。
――なななななななななななな⁉
目をこれでもかと見開いて、耳まで真っ赤に染まるユイ。「すまない」と不便そうに身体を起こしたルキノは、そんなユイを見下ろしてプッと吹き出した。
「訂正していいかな?」
「な、何を⁉」
見るなと言わんばかりに自らの顔を覆うユイを穏やかに見つめて、ルキノは「ううん、やっぱりやめとく」と少しだけユイから離れ、本題を切り出した。
「それで、あの時の質問に答えてもらいたいんだけど……あんな高い場所からどうやって来たの? さらに、ブライアン社の新兵器を一撃で撃破したのは、どういった芸当? 僕が納得できる答えをもらえるかな?」
「……ちょっと落ち着くまで待ってください」
「ヤダね。むしろもっと畳み掛けて、君に誤魔化す余裕を与えないようにした方が効率的なんだろうけど――」
ルキノはそう言いながら、未だに起き上がれないユイの髪先に少しだけ触れた。そして「仕方ないな」と笑いながら、ユイの両腕を引っ張り起こす。
起き上がったユイは頬をくすぐる髪を耳にかけて、赤みが治まらない顔を背けた。
ルキノは表情は変えないまま、話を変える。
「――ここに来る前に、ナナシ先生にルイスのことを訊きに行ったんだ。ルイスからの通信は、どう考えても捕虜にされてた態度じゃなかったからね。案の定、反政府組織の一員として今回の暴動に関わっていたみたいじゃないか」
それに、ユイは何も応えない。視線を逸したままベッドのシーツをたくし抱えていると、ルキノは言う。
「ありがとう、黙っていてくれて」
「……別に、わざわざ訂正するメリットもないし」
唇を尖らせるユイに苦笑したルキノは、その顔を片手で無理やりルキノの方に向けた。
「でも、僕に内緒で伝説の秘蔵技術を教わったって、どういうこと?」
「ふぇ⁉」
ルキノの指に頬を潰され、驚こうにも中途半端にしか声が出ない。
そんなユイに、ルキノは真顔で詰め寄る。
「とぼけるのも大概にしてほしいな。先生から個人的に生み出した技術を使って、隠れて開発をしていたって話じゃないか。最近やたらと先生と一緒にいると思いきや、そういったことだったんだな。重力をコントロールする機械や、超小型時限爆弾とか――そんなものが開発できたのなら、どうして僕らに報告しとかなかったんだ? それがわかっていたら、もっと作戦の取りようもあっただろう⁉ それがわかっていたら……」
声を荒げていたルキノが、目を伏せる。
「こんなに犠牲を出さなくても、済んだかもしれないじゃないか……」
長いまつげの端に、淡く光る雫があった。だけどその涙は流れることなく、彼は首を振る。
「すまない、ちょっと感情的になりすぎた。さっき君に静かにしろって言ったばかりなのにね」
「あ……いや、私の方こそ……ごめん。アレはまだ実用的じゃなかったから……」
「わかっている。そんな所だとは思っていたよ」
デマカセである。どうやら、ナナシがそれっぽくすでに嘘を吐いていてくれたらしい。
――それなら、報告書も何とかなるか。
そう打算しつつも、ユイは目の前のルキノを見て、自分の胸を押さえる。
嘘を吐くのが苦しかった。
ルキノの故郷が、このスラムだったらしい。故郷の被害や犠牲に直面した彼にとっては、少しでも被害を減らす手段があったのなら、藁にも縋りたい心地だったのだろう。
――ごめん。
思わずユイの口からその言葉が溢れるよりも前に、彼は悲しげに笑って首を傾げてきた。
「ねぇ……僕がスラム出身で、幻滅した? どっかのお坊ちゃんだとでも思ってたんじゃない?」
「まぁ、あれだけキラキラしてたらねぇ」
ルイスと兄弟だ、ということで、ルキノの出身はすぐさま理解出来たことだ。
ルキノは、どこかのお坊ちゃんなどではなく、このランティスのスラム出身。
どういう経緯で、一人エクラディアに入学したのかは、知らない。
彼の両親が――ルイスの話しぶりだと、ルキノが原因で亡くなったようだが――その経緯も知らない。
それでも、ユイがルキノの問いかけに、純粋に首を傾げ返したのは本心だった。
「だから、多少驚きはしたけれど……どうしてそんなこと訊くの? 幻滅? 出身がどこだろうと、別にどうでも良くない?」
ルキノはユイから手を離して、目を見開く。
「それ、本気で言っているのかい? 学園の王子様と言われている僕が、スラムで生まれ育ったんだよ? 何だかんだ令嬢のユイからしたら、汚いとか、下賤だとか、思ったりしないの?」
「別に実家が繁盛してるから令嬢ってわけでもないけど……出身地がどうであれ、ルキノはルキノでしょう? スラム出身だったからって、急にその顔が不細工になるわけでもなしに。どうだっていいじゃない、そんなの」
ユイがアッサリと言い返すと、ルキノは半眼で尋ねた。
「君は、僕の見た目が好きなのかい?」
「……それも無きにしもあらず?」
「そこはもうちょっと誤魔化そうか。可愛くないからね」
そうユイを侮辱して、ルキノはクツクツと笑い出す。次第に腹を抱えだすルキノに、ユイは訳が分からず、嘆息するしかなかった。
だけど、ルキノの笑い方がどこかおかしい。何かを堪えて、苦しそうな彼を見て、ユイは今更思い出す。
「そういえば、もうそんなに動いて平気なの? かなりの大怪我だったはずだけど」
「はは……心配するなら、僕が来た直後にするもんじゃないのか? だから君はモテないんだよ」
――ちゃんと心配してあげてるんだから、今そんなこと言わないでもいいでしょうが。
ムッとするユイに、ルキノは涙を拭いながら話す。
「看護チームの女の子に、お願いしてね。ドーピング剤を射ってもらったんだ。薬が切れたら、動けなくなるんじゃないかな?」
「……それって、大丈夫なの?」
「さてね。そんな無茶をしてまで、君に会いに来た理由がわかるかい?」
ニヤリと口角を上げるルキノに、ユイはまた嘆息を繰り返す。
「どうせ、私の欠点だらけの報告だとあんた成績に影響出るから、それを防ぎに来たとかでしょう?」
「話が早いじゃないか」
「誰かさんには、ちゃんと自分の足で部屋に帰ってもらいたいからね」
その言葉に一瞬眉を寄せるが、すぐさま、
「そんな情けないことを、僕がすると思っているのかい?」
部屋に入って来た時の『弱さ』はどこへやら。ルキノは、自意識過剰な様で言い放つ。
だから、ユイは苦笑するだけで何も言わない。とりあえず、いつの間にか彼がいつも通りになって何よりだ。
「――まぁ、そういうことだ。だから各々得意分野で乗り切ることにしよう」
「得意分野?」
突如の提案に、ユイは顔をしかめる。
ルキノはゆっくりと立ち上がり、
「君はとにかく、何もわからないとシラを切り続けてくれ。具合が悪いと仮病を使ってもいいや。その間に、僕が粗のない報告書を作り上げ、提出するから。どうだい、異論はないだろう?」
話は終わりだと言わんばかりに、ルキノは去っていく。足取りは重いが、背筋は相変わらず伸びていた。
慌てて、ユイはその背中に声を掛ける。
「待ちなさいよ! あんたが報告書を書くですって? ドーピングでかろうじて動いてる奴が、何を偉そうに言ってるのよ⁉」
「君こそ、何を言っているんだい?」
灯りのスイッチの手前で、彼は振り返る。どんな小さな光すらも洩らさず孕み、輝くことを止めない金糸がサラリと揺れた。自信に満ち充ちている表情は、間違えなくユイを挑発している。
「僕を誰だと思っている。そんなことを言い訳にしなくても、君がボロを出す前に仕上げてみせるよ」
「だから、そういう問題じゃ――」
「君も疲れているんだろう? お休み、僕の代わりにいい夢でも見ててよ」
ユイに抗議する間も与えず、ルキノは灯りを消した。暗闇の中で、ユイは扉の軋む音を聞く。
――まったく、無茶しちゃって。
胸中で嘆息し、ユイは勢いよく全身をベッドに預けた。
目を閉じると、ルキノの言う通り疲れが溜まっているのか、魅惑的な睡魔があっという間に訪れる。
安心もしていた。ユイの杞憂は、ナナシとルキノがどうにかしてくれるらしい。
――結局他人任せになっちゃうけど、まいっか。
意識が落ちかけた時、ルキノの声が響く。
「ありがとう――これはお礼だよ」
ユイは目の前でバサバサと音を立てるそれをとっさに両手で捕まえて、即座にそれを放り投げた。
暗闇の中で、虹色の紋様が刻まれた手の平大の羽根を広げる虫がヒラヒラと部屋の中を浮遊する。
「えらいえらい。さすがに今度は叫ばなかったね」
「……なんでこんなの持ってるのよ?」
低く呻くユイに対して、クスクスと笑う声が返ってくる。
「その蝶ってやつは最近流行りの観賞用みたいでね、喜ぶかと思ったんだけど――まあ、タカバがいつでも嫌がらせ出来るように持っていたのを拝借してきたんだ。綺麗だろう?」
「あんの馬鹿……」
「あの時――僕のこと信じてくれて嬉しかったよ。お休み」
今度こそガタリと扉が閉まって、ユイはルキノの言葉を反芻する。
「信じるに決まってるじゃない」
――あんなに必死になっていたルキノを見て、それこそ疑う者がいるとしたら、それこそ私が……。
そのあとに出てくる言葉に、ユイは自分で自分の口を押さえ、口角を上げた。
「殺してやる……か」
真っ暗な夜の中、虹色に光る蝶がヒラヒラと舞い踊る。
それを見上げて、ユイは笑った。
「私に贈るなら、やっぱり黒いモノの方が良かったんじゃない?」
その皮肉は、無機質に光る虫以外には届かない。




