便所サンダルの裏側
◆ ◆ ◆
巨大な結晶体が弾け飛ぶ。
飛び散る破片にライトの光が当たって乱反射する輝きに、ユイはふと憧憬を覚えた。
――ルキノみたい。
だけど、綺麗なのは一瞬だった。器を無くした水は、溢れ、流れ、透明感のない青白い水が、眼下でドボドボと湖の如く溜まっていく。ふとユイが類似画像として思い浮かぶのは、浴槽に湯を注いている光景。
「なんか地味ね」
「世界の破滅に派手さはいらんと思うが」
「そう? どうせなら華々しく散った方がやり甲斐があると思うけど?」
「じゃあ、せいぜい頑張ることだな」
そんな光景を見下ろしながらのんびりと話す二人の横で、
「ななな……なんで割れたの⁉」
足を引きずりながらも駆け寄ってきたルイスが、眼の前の事象に驚愕していた。
「お姉ちゃんがやったの⁉」
「さて、どうでしょう?」
方を竦めてお道化ながらも、ユイは操作卓を叩く。ありとあらゆるメーターを、最大値まで上げたのだ。
「な……何をしたの?」
青ざめた表情を浮かべるルイスに、ユイは満面の笑みを返した。
「せっかくだからね。派手にしてみようかと」
結晶体に通じていたパイプから、マナの濁流が激しく溢れ出す。ユイが指を弾くまでもなく、天井や隅に渡るパイプに亀裂が走り、勢いよく噴き出した。
「ひゅー、まさにマナ中毒。なんか気持ち悪くなってきたわね!」
「だからお姉ちゃん死んじゃうって言ったでしょ⁉」
「マナってさ、どこにだってあるじゃない?」
噴出したマナの飛沫に、ユイの全身が濡れる。掻き上げる髪が重かった。
「街の灯りや列車だってマナで動いているし、そもそも空調管理から空そのものに至るまで、マナの動力で動かしているわ……黒髪がマナの影響を人より受けやすいのなら、たとえ首都に暮らしていたとしても、私も健康被害みたいなの、受けているのかな?」
「そーだよ!」
怒鳴るように叫ぶルイスは、ユイの腕を引っ張る。
「ランティスの住民の平均寿命が四十年。エクバタのそれは六十年だと言われてるけど、おそらくお姉ちゃんは三十年くらいだ! 前例があるわけじゃないけど、モナ様がそう言ってたよ!」
「あの教師が、なんでそんなことわかるのよ?」
「お姉ちゃんの髪の毛や皮脂のサンプルを取って、メサイアで研究してたんだ! もしかしたら魔法の素養があるかもしれない。キッカケ次第で、いつでも引き込めるように準備しておこうって――でもまさか、お姉ちゃん本当に……」
その発言に、ユイは思わず吹き出す。
「実験ラットにするつもりが、本当に魔法が使えるとは思ってなかったって?」
「違う――いや、表向きは実験体にするつもりだったけど、おれは違う……違ったんだ……お姉ちゃんのせいだけど、でもお姉ちゃんのおかげで……」
泣きそうに震えるルイスの唇を、ユイは人差し指で塞いだ。
「大丈夫よ、慣れているから」
その間にユイたちのいるフロア内でも、マナの水がどんどん足元に溜まっていく。重みに負けて、床が抜けるのが先か。窒息するのが先か。
――私が死ぬのが先かもね。
目を伏せるユイを顔を覗き込んでくるのは、ナナシである。その顔は心配するわけでもなく、悲観するわけでもない。真顔で、ただ事実だけを確認する。
「エクアージュよ。この程度で満足したつもりはあるまいな?」
「まさか」
苦笑しながら、ユイは彼の肩を押しのけた。そして壁に向けて、指を鳴らす。すると、パチンッとした音と同時に、壁が爆破されるように弾け飛んだ。
曇天にも関わらず、外の光がとても眩しい。
「本当に、それは魔法なの⁉」
ルイスが怪訝に顔をしかめるものの、ユイは苦笑を返すだけで何も答えない。代わりというわけではないが、「うむ」と声を発したのはナナシだ。
「よし、そこから飛ぶのだな?」
「は?」
腕を組んで頷くナナシが片足を上げる。便所サンダルの裏のデコボコが、ユイに垂直に向けられた。いつになく突拍子もない行動に、ユイは半眼を返すことしか出来ない。
「……何してんの?」
「見てわからんのか。貴様を蹴り落とそうとしているのだ」
「私はとりあえず新鮮な空気を確保しようと思って、穴を開けただけなんだけど」
「では、どうやってここから脱出するつもりだ?」
「そうねぇ……どうにか空気の確保して階段下って行こうかと――て、ちょっと⁉」
バランスよく片足で立ち続けるナナシの奥で、しゃがみ込んだルイスが発狂したかのように小型通信機に向かって喋っている。通信相手は兄のようだ。
「兄ちゃんっ! なんなの、あのユイっていう女は⁉」
『ユイ?』
――いざって時は、お兄ちゃんを頼るのね。
この兄弟に何があったかはわからないが、いざって時の通信相手がルキノで、ユイは嬉しくなる。あんな胡散臭い女教師に縋るよりも、結局は兄が大事だということだから。
画面の向こうのルキノは苦笑している。それにルイスがまた、怒っていた。
「笑い事じゃないって! なんなの、あの化け物は」
『……彼女が何したか知らないけど、化け物呼ばわりはないんじゃないのか?』
――約束、忘れてないからね。
ユイは濡れて重い髪を絞り、それを払う。そして、ルイスの襟首を掴み上げた。ユイの腕力で持ち上げるのは叶わないが、ギリギリ引きずることなら可能だ。ルイスは振り向きながら抗議をしてくるが。
「わわ! いきなり何すんのさ! 僕は最後兄ちゃんに……」
「挨拶も和解も後で直接言えばいいでしょ! 私は君を連れて帰るって、約束してんのよ!」
その時だった。
横に強い圧力を感じた瞬間、ユイの身体は呆気なく吹き飛んでいた。もちろん、ルイスを掴む手も放してしまっている。壁にぶつかることもなく、気が付けばそこは空の上。ユイが開けた大穴から、身体が飛び出してしまったらしい。
空に浮いた一瞬で見えたのは、便所サンダルの底を向けた変人の姿だけだった。
「遅いぞ、エクアージュ」
――あんたが短気なんでしょうがっ!
そう言い返すよりも前に、ユイの身体は重力に従い落ちていく。人が空に投げ出されて、落ちるのは必然。人間には羽根がないから、鳥のように空を飛ぶことはできない。
長い黒髪が逆立ち、バランスが取れないまま落下する。
頭がぐるりと回る感じがした。マナ中毒のせいもあるかもしれないが、それ以上に物理的な法則によるものだろう。
――このまま気を失えば、ラクに終わるのだろうけど。
そんな考えが頭をよぎるものの、思い出すのは彼の言葉だ。
『無事に帰って来てくれ』
「わかってるわよ」
死ぬわけにはいかない。
このままラクになるわけにはいかない。
罪悪感で彼を苦しめるのも一つの復讐の手段なのかもしれないが、それでも、あの時の真摯な彼の表情を裏切れるほど、ユイは彼のことをどうしても嫌いにはなれない。
だからユイは唇を噛みしめ、覚悟を決める。
――私は魔女エクアージュ。
指を鳴らすのは、ただのイメージ。ユイが思い描くきっかけである。だから、実際に鳴った鳴らないは問題ではなく、ユイが出来ると信じることが重要なのだ。
思い込みが、現実となるのならば、
――だったら、飛ぼうと思えば空だって飛べるはず!
ナナシのような空間転移はもちろん、空を飛ぶ訓練だってしたことがない。
だけど、イメージさえできれば体勢を整えるのは簡単だった。落下速度が落ちた瞬間、黒髪がユイを纏うように、フワリとなびく。
宙に浮いて安堵の一息を吐いたあと、最初に視界に入ったのは大きな爆発だった。
青白い光の明滅が、現実離れしているほどに綺麗だと思えた。
半球に膨らんだ光が、一瞬で消えてなくなる。その反動でユイの目には、その部分が黒くスッポリ消えてしまったように見えた。世の中に『無』というものがあるのなら、まさにそれを体現したかのような感覚。
しかし何回かまばたきしてみれば、市街地から伸びた細い道の途中にポッカリとしたクレーターが存在していて。
そこには、何があったのだろうか。
そこには、誰がいたのだろうか。
考えるだけで、ユイの背筋に悪寒が走る。
――ルキノ⁉




