可愛くない女の譲れないモノ
八つ当たりで突っぱねた行為を、後悔するのは早かった。
机がけっこう重いのだ。
「それこそ、可愛い女の子が持つ重さじゃないわよ」
長い廊下をゆっくり運びながら一人愚痴するものの、それに答えてくれる者はいない。
他のクラスは、すでに授業が始まっているようだった。
ふと見た教室では、つまらなそうにあくびをしている生徒が横目でユイを見ては、気持ち悪そうに眉根を寄せていた。見覚えのある女教師が、なにやらその生徒に対して叱責を飛ばしている。授業がつまらないことで有名な歴史教師だ。
――別にいいのに。
どうせ、髪は黒いのだ。
今まで何度染めようとしても、ただ傷んでいくだけで全然色を変えてくれなかった頑固な髪。諦めて、せめて髪の手入れだけはと頑張った結果、ひときわ黒々と艶めくだけだった。
可愛げのない髪。可愛げのない自分。
友達に助けてもらっても、嫌味しか返せない自分。
――お礼、言い損ねちゃったわね。
彼女にも事情があるのはわかっていた。友達だからといって、ユイを庇いすぎれば、次にイジメのターゲットになるのは自分だ。可愛さで誤魔化せるタカバ相手ならともかく、ユイを助けることによって邪険にしてくる女子は少なくないだろう。
ただでさえ、自分はよく人気者のルキノに助けてもらっているのだ。
モデルのスカウトが来るくらいの容姿。学年トップの成績と生徒会長という立場。ユイなんかにも優しくする博愛主義。王子様とも称される彼が、モテないはずがない。
その上、飛び級で進学している可愛い優等生まで、公にユイの味方をし始めたら――メグが被害に遭わない理由がなくなってしまう。
――いざって時に飛び出してくれるだけで、こんなに有り難いのにさ。
ユイは昇降機の前でため息を吐く。
「ほんと、こんな可愛くない女。フラレても当然なのかもね」
ユイは自嘲しながら机を置いて、まわりをキョロキョロ見渡した。普段なら、学生は体力維持のために階段を使うよう指導を受けているものの、こんな重い物を持って階段を降りる気にはならない。それに、使用するにしても本来ならば、正式な許可を取って毎回変わる専用パスワードを扉の横の操作盤に入力しなければならないのだが。
――こういう時は実力主義バンザイということで。
ユイが二つ折りになった手のひらサイズの小型通信機を取り出して、パスワードを解析しようとした時である。昇降機の明かりが、どんどんユイのいる階へと近づいてきた。
「やば」
ユイは慌てて繋いだ小型通信機を外そうとするも、ギリギリのタイミングでそのドアが開いてしまう。
その真っ赤に落書きされているような個室の中には、血相が失せた半泣きの少年と、血まみれに倒れた担任の先生が乗り合わせていた。鼻につく鉄の臭いに、ユイは顔をしかめる。
――血……?
担任はもちろん、その少年にも見覚えがあった。前髪が邪魔なくらい長く、わざとらしいくらいに金髪が鮮やかなユイより少し年下の少年は、
「く……黒髪の乙女よ……麗しの幼馴染たるメグが、ど、どこにいるかわかるか?」
クラスや学年も違うというのに、よくメグを尋ねてくる少年だった。日頃メグと行動を共にすることが多いユイももちろん面識があるものの、いつもとは趣がだいぶ違っていた。普段は、上級学年に堂々と足を踏み入れるに相応しい無駄な威厳と、細身の体格に似合わない大きな態度と声が目立つはずなのだが、今や恐怖で縮こまってしまっていた。
「ど、どうしたの? えーと……」
なかなか名前が出てこないユイに対して、少年は慌てて昇降機を降りてくる。
「名乗りあげる時間がないのが残念であるが、時間がないッ! 黒髪の乙女も早くこの場を離れるのだッ!」
「え? ちょっと、どういうこと――」
「説明している時間が惜しいッ! そなたの軍事クラスの担任を一瞬で倒してしまうほどの化け物が現れたのだ。早く逃げなければ、学園中の皆が殺されてしまうぞッ!」
「そんな大袈裟な……」
確かに、彼の言う通り担任は無残な姿で倒れている。昇降機と同じように血まみれではあるものの、その胸部はしっかりと上下に動いているようだ。早急に医師を手配する必要はあるだろうが、命に別状はなさそうである。
「ほら、先生も元政府警察の中で軍部のエリートだったとはいえ、もう五十すぎのお爺ちゃんでしょ? お腹の貫禄も無駄にあるしさ……なんか危ない奴が侵入してるとしても、すぐに警備に連絡すれば大丈夫だって!」
エクアの平均寿命は五十代。昔のエリートとはいえ、現役を退いた男に対処できない案件だったとしてもさほど心配ないだろうと判断して、ユイは未だ名前の思い出せない少年を宥めようとぎこちなく笑みを浮かべてみる。しかし、少年は前髪をブンブン振り回して否定するのみ。
そして、彼はユイの手を強く掴んだ。
「そんな安易に話している場合ではないッ! そなたはメグの友達だ。そなたに何かあれば、オスカー財閥の御曹司たるこのアンドレ=オスカー、麗しの幼馴染に二度と顔向けが出来なくなるッ!」
――あ、そうそう。確かそんな名前!
アンドレ=オスカー。
家系や地位を誇示できない学園内では、あえて誰しもが名乗らない家名。それをよく名乗る変わり者の坊っちゃんこそ、この少年であった。実際、オスカー財閥はエクア内でも首位を争う金融機関なので、こんな声高々宣言する以上、彼は紛れもない御曹司には違いない。メグが令嬢と噂されている原因も、彼がメグのことを『幼馴染』と連呼するから、ということも大きな要因の一つだ。
ユイは胸のつっかえが一つ取れたというのに、一向に顔が晴れないアンドレに対して、ユイはいよいよ顔をしかめた。
「だからそんな慌てなくても――そもそも、君だって怪我してないじゃない? 弱そうな君が逃げれるくらいなら何とか……」
「ボクが無事なのはあの化け物が――」
アンドレが唾を飛ばしながら振り返った時だ。すぐそばの廊下の窓ガラスが盛大な音と共に一斉に割れ、廊下をキラキラと彩った。その光の乱反射を綺麗と思う暇もなく、ユイが少年の頭を押さえ込んで身を屈めると、
「ほう……いい反射神経だな、エクアージュよ。それでこそ、世界を破滅させるべき存在だ」
尊厳を自負しているだろう偉そうな声が、ユイたちに降り注いだ。
ユイが顔をあげると、廊下に散らばったガラス片の上に便所サンダルがある。
――えくあーじゅ……?
嫌な予感がしながらどんどん視線を上げていくと、普通のスラックスとシャツを着た長身の男がいた。長い白髪に覆われた、金色の瞳。人形のように精巧な顔の造形に、ユイは昨日の夢のような出来事を思い出す。
その男は、ユイがルキノにフラレて落ち込んでいた夜に噴水広場で出会った、噴水から出てきて噴水に消えていった当人だった。
「あんた……夢じゃなかったの?」
「私にも貴様にも記憶にあるなら、それは間違いなく現実であろう。腑抜けたことを抜かすな、エクアージュよ。そんなでは、貴様はあっさりと死んでしまうぞ」
「だからそのエクアージュってなんなの――」
「屈めええっ‼」
ユイが問い詰めるよりも早く、便所サンダルの男が叫ぶ。それと同時に、今度は昇降機が爆砕した。舞い上がる黒い煙と、機械の焦げた臭い。ユイの喉をジリジリと嫌なものが焦がすものの、爆発音以上のものがユイに襲いかかってくることはなかった。
――え?
視界は影で暗かった。それもそのはず。自分を覆うように、長身の男が抱きしめていたのだから。気が付けば、ユイの手を握る者は誰もいなかった。男の腕の下から覗き見れば、廊下の遥か先で、アンドレ=オスカーが「いたひ」と呻きながら不格好に転がっている。とりあえず、大きな怪我はないらしい。
ユイの頬を優しく撫でるのは、男の白髪。
「怪我はないか、エクアージュよ」
「え……えぇ」
冷たい見た目と違って、むず痒い頬に温もりを感じる。
同時に起こった色々なことにユイが呆然としていると、男は毅然と声を張り上げる。
「そこの坊主よ、貴様の持ってた爆薬ではあるまいな?」
「……ちゃんと、持ってましゅ……」
ヨレヨレとアンドレが銀色の箱状の機械を持ち上げる。それに、男は舌打ちした。
「始めから仕掛けられてたということか。私としたことが、油断したな」
「ちょっとあんた、さっきから何なわけ? なんであの子が爆弾なんて持ってるのよ?」
アンドレはユイの記憶が確かならば、経済学部か何かである。普段から銃器や爆弾の扱いを学んでいるユイたちとは無縁の学部。そんな彼が物騒なものを持っていることにユイは顔をしかめるものの、
「貴様……この私をあんた呼ばわりとは、たとえエクアージュだとしても聞き捨てならんぞ」
見当違いのことで睨みを効かせてくる男に、ユイはますます眉間に力が入る。
「じゃあ、あんたなんていうのよ?」
「今ここで名乗るような名前はない!」
「はぁ? あんた名無しなわけ?」
「良い名ではないか!」
ユイから手を離し、立ち上がった男が「うむ」と何度も噛みしめるように反芻する。
「よし、では今日から『ナナシ』と名乗ることにしよう! でかしたな、さすがはエクアージュだ。私は歓喜に震えているぞ!」
「いや、そんなことで喜んでもらっても何も嬉しくないんだけど……」
ユイは呆れながらも、改めて周囲を見渡した。
昇降機が爆発した。燻る煙の隙間からは、金属片と倒れる黒い肉塊が覗く。改めてそれを目視し、ユイが胸の下からこみ上げてくるものを堪らえようと、口を手で押さえる。
校内でこれだけのことがあったのに、警報一つ鳴らない。各教室はそれぞれ防音設備がしっかりしているが、そうだとしても誰一人生徒や教師が廊下に出てこない。
――何なの、この状況は?
静かすぎる危険に黙っていたのは数秒。
ようやく、転がっていたアンドレがゆっくりと起き上がろうとした時だった。
「見つけた……見つけたぞ、アンドレ=オスカー!」
廊下の奥から、一人の男子生徒が歩いてくる。
うす茶色髪の彼もまた、どこかで見たことがある生徒だった。だけど話した覚えはなく――と記憶を辿るよりも早く、アンドレが後ずさりしながら彼を呼ぶ。
「ふ、副生徒会長おおおおッ! もうやめたまえ、まだ引き返せる。このアンドレ=オスカーも微力ながらそなたの弁明に協力もしようッ! 今なら罪も軽い、早急に自首を――」
「黙れっ! お前みたいなボンボンに何がわかる! 俺たちが、今までどんなに苦しんできたか……ようやく、ようやく俺にも輝くチャンスが来たんだ……メシア様が今こそ立ち上がる時だとお告げになったのだから……!」
――メシア様?
その宗教じみた単語を考えるよりも早く、ユイはそれを見て立ち上がった。
副生徒会長が、自らの髪を投げ捨てる。その下から出てきたのは、黒にも近い焦げ茶色。この世界で疎まれる暗色髪の青年の手には、銀色に煌めく刃が握られていた。
「坊っちゃん⁉」
とっさに名前が出てこなかった。それでも、そんなことは今どうでもいい。
へっぴり腰のアンドレに、副生徒会長が勢いをつけて駆け寄る。彼の腹にナイフが刺さるその瞬間に、伸ばしたユイの手がアンドレの腕を思いっきり引っ張った。
副生徒会長が「くそっ」とユイを睨みつける。次の瞬間ユイが勢いのまま足を振り上げるものの、副生徒会長が慣れたような様子で後ろに跳躍した。
――こいつ、クラス違うじゃないのよ。
学年は同じだったと思うが、軍事クラスではない一般生徒。それとは思えぬ軽やかな動きに、自分の苦手を皮肉に思いながら、ユイはポケットに手を忍ばせる。
「エクアージュ、下がれ! 貴様はまだ――」
後ろから男の呼ぶ声がした。だけど、それにユイは振り返ることなく、
「だからエクアージュって誰だっての!」
と叫び返して、赤く弾む小さなボールを廊下に叩きつける。そして、赤く弾けた。
護身用として、ユイがいつも持ち歩いている小型の爆弾だった。さきほどの爆発の規模とは比べ物にならないほどの、おもちゃのような爆発。それでも直撃すれば人一人致命傷を負わせることは出来るくらいの、絶妙な火力。趣味と実益を兼ねて、ユイが毎日ちまちまと作成しているものの一つだ。
視界を覆う白い煙に目を細めながら、ユイは吐き捨てる。
「こっちだって、伊達にエリートやってないのよ」
「同士を討つとは、罰当たりめ――」
煙の中から声が聴こえた瞬間、目の前がバチリと光った。眩む視界。崩れる膝。腹部から走った衝撃に膝を折ると、視界には青白く光るスタンガンが映った。
だけど、それもまたユイがまぶたを閉じれば、黒く染まる。
最後に聴こえたのは、アンドレの泣きそうに叫ぶ声だった。
「黒髪の乙女よ、どうしてボクを――」
――だって、あんたは友達の幼馴染なんでしょ?
たとえ素直にお礼が言えない女だとしても、情を仇で返すほどに落ちぶれるつもりはない。
どんなに可愛くない女だとしても、どんなに嫌われるのが当然な女だとしても、譲れないものはあるのだ。
――ただの自己愛かもしれないけどね。
だけど、ユイはそれに答えることもできず、意識は黒い闇の中へと落ちていった。




