可愛い善意の受け取り方
そこは、倉庫のような場所だった。
高い位置の格子のついた窓が、嵐に揺さぶられてガタガタと震えている。窓があるにも関わらず、薄暗くて広いだけの空間に、いっそのこと窓を始めから作らないほうが良かったのではないか、とユイは思う。
隅には、鉄くずのようなものが山になっていた。そのためか、何やら鉄の臭いが鼻につく。
ただそんな場所であっても、砂嵐の中よりは何倍も居心地がいい。
喉のザラつきにユイが思いっきり咳き込むと、
「ちょっと待ってねー」
少年は間延びしたような声でそう言って、壁に付いた明かりのスイッチを押した。それでも、裸電球一つ点いたくらいでは、明るさは微々たるもの。見えるようになったのは、自分の着ている真っ白の制服が、砂汚れで変色しているくらいのものである。
――うわぁ、クリーニングで落ちるかしら?
普段は、定期的に抗菌消臭ライトを当ててケアをしているものの、ここまで汚れてしまっては、洗濯するしかない。寮に置いてある洗濯機でも洗えないことはないのだが、生地が傷んでテカテカ光るのは嫌だった。しかし専門店に出すとなると、けっこう高い。
親からの仕送りだけで生活しているユイである。追加をお願いする苦悩に、ユイが嘆息した時だ。
「はい、お姉ちゃん!」
両手で差し出されたのは、水の入った鉄のコップ。
鉄製品は、口に当てると独特に冷たさと味がしてしまうので、エクバタではまず使われない食器である。ユイ自身その存在は知っているが、実際に見るのは初めてだった。それに、暗くてハッキリと見えないとはいえ、水に透明感がなく、何かが浮いているようにも見える。
それを、少年は満面の笑みで差し出していた。
きっと、これは善意なのだ。咳き込むユイに対する、紛れもない善意。
それを理解しながらも、ユイは思わず、顔をしかめてしまう。
すると少年の笑みが陰り、彼は腕を下した。
「そう……だよね。ラントの水なんて汚いから、都会の人は飲めないよね……」
シュンとしたその姿を見て、
――なに、この可愛い生物は⁉
ユイは衝撃的を受けた。つい最近までこんな生物をよく見ていた気がするのだが、彼女と距離を置いたためご無沙汰だったので、その衝撃は五割増しだった。
――こんな純粋な姿に、いつも癒されていたはずなのにね。
ユイは、胸の黒いリボンを握った。いつもは汚れが全然目立たないそれが、砂汚れで白っぽくなっている。ツヤツヤの生地がザラザラだ。
ユイは苦笑した。
――いつの間に、誰かの善意を、悪意と考えるようになったんだか。
「お姉ちゃん……泣いてるの?」
少年の純粋な瞳が、暗い中でも輝いて見えた。
整った顔の少年である。着ているものは貧相で、手足も痩せて少し骨ばっていた。年は十歳程度だろうか。ちょうど学園に入学するくらいの年齢だろう。
その歳のから、ユイの周りにはすでに善意がなかった気もするけれど。
それでも、特に最近はそれが顕著で。
――まぁ、だから世界の破滅なんかに同意しちゃうんだけどね。
ユイは何も言わず、少年の頭を撫でる。ボサボサの髪の手触りは良くない。だけど、キョトンとユイを見上げる顔が可愛いから、ユイの口角も自然と上がった。
そして、少年の持つコップを受け取る。それに口を付けると、やっぱり鼻につく臭いがした。それでも、喉を潤す役には立つ。
「ありがとう」
そう言うと、少年の顔に花が咲く。
ちょうどその時、ポケットの中が震え出した。ピピピという電子音が何もない倉庫に響く。
「お姉ちゃんの通信?」
「ここ、電波入るのね」
ふと夢から醒めたような感覚で、ユイはポケットから小型通信機を取り出す。
着信はルキノからだった。
――よりによって……。
そう考えて、鼻で笑う。
――まぁ、こんな奴らばかりの世界だから、壊しがいがあるのだけど。
ユイは通話ボタンを押した。
「もしもし?」
『も……も――じゃ、ないよ!』
やはり、電波が悪いのだろうか。雑音が混ざり、きちんと聞き取れない。
だけど、ルキノが怒っているのは明白だった。
ユイは顔をしかめて、スピーカーから耳を離すも、ルキノの声は所々届く。
『いつま……油を売っている……だ!? 通信には出な……し、いつまで経っても、合流……来ないし……また変なオッサンに絡まれてで……していたんじゃないだろうね⁉』
「あの、いや……迷子に……」
『迷子⁉ この歳にもなって迷子って……そんなと……で可愛い子ぶっ……全く意味がないんだけど⁉』
ユイの袖が少年に引かれる。
「そのお兄ちゃん、お姉ちゃんの彼氏?」
純粋な目で訊かれ、ユイは思わず吹き出した。だが、それがまたルキノの逆鱗に触れたようだ。
『なに……は笑っているんだ! 一体、僕がどれだけ……まぁ、いい。どこにい……だ? 君は――いや、やっぱいい。電波……辿たどる方が早……あぁ、ここね。すぐに行く。絶対に……から動くな? いいか、絶対――』
最後まで言い終える前に、ルキノは自ら通信を切る。
ともあれ、ルキノが迎えに来てくれるらしい。ユイは困った顔で、髪を耳にかけた。
――どうしよう、嬉しいかもしれない?
喜んでは、いけないのだ。ルキノは、メグの彼氏なのだ。だから仕事柄、仕方なくユイを迎えに来るだけだろう。こんな砂嵐の中、ご苦労なことである。
「迎えに来てくれそう?」
少年に訊かれて、ユイは頷いた。
「そうみたいね。まぁ、ルキノなら、ミイラ取りがミイラになるようなことはないと思うし」
そう言うと、少年が目を見開いた。
――言葉が難しかったのかしら?
ユイはそう判断して、言い直す。
「しっかりした人だから、ちゃんと来てくれると思う」
「へぇ……そのルキノって人、お姉ちゃんのこと大好きなんだね!」
「いやいやいやいや!」
少年の無邪気な感想を、ユイは即座に否定する。たじろぎながら、ユイは再び胸のリボンを掴んでいた。
「別に、あいつは私のことなんて全然……むしろ、あいつには彼女が……」
思い浮かんだその顔に、ユイは口をつぐむ。
言いたくない、その事実。
認めたくない、その真実。
とても無情で、非情な現実を口にする勇気をユイが持つよりも早く、開かれた扉には、彼がいた。
吹き荒ぶ嵐を背景に、マントを羽織り、背負い袋を肩に下げた彼は、さながら絵本の中の勇者だった。
砂色の重厚感あるマントは、合成皮革だろうか。白い制服の上に羽織ったそれをなびかせる姿は勇ましい。マントから落ちる砂が輝いてさえ見える。
扉を閉めて、ユイを見る碧眼がとても凛々しかった。
「ユイ」
名前を呼ばれると、ユイの胸が高鳴る。これは、怒っている彼への恐怖だろうか。
「君は、どうしてこんなに不用心なんだ? あれか、心配されて嬉しいとか思っているなら、改めた方がいい。男にとってそんなものは、迷惑以外の何物でもないんだよ」
息継ぎする間もなく言い切ってたルキノは、マントを脱ぎながら、ユイのそばにやって来る。そして、それをフワッと広げて、ユイの肩に掛けた。
「わ、重っ」
ときめくのも束の間、ユイは肩にのしかかる重量感を口にする。
ルキノは嘆息しながら、袋の中からマスクを取り出した。
「そりゃ、この環境に耐えられるための天然の毛皮だからね。軽い合成皮革なんかじゃ、マナの余波で劣化が激しいし、そもそもこの砂嵐には耐えられないよ」
「あら、ずいぶんとふぐっ」
――詳しいのね。
話している途中、そのマスクで口を塞がれた。これもまた皮のように厚い生地のためか、呼吸をするので精一杯だ。それに、耳にかすかに触れる彼の手がむずかゆい。
「挨拶はうまくいったのかい? 攻殻機兵鎧は手配できた?」
「それは……」
ユイが唇を噛みしめるよりも早く、ルキノは次にゴーグルを取り出してユイに装着する。そして、ユイの肩に触れ、ユイが促されるまましゃがむと、上からルキノが覆いかぶさってきた。
――え……?
思考が停止した瞬間、ファサッと頭に何かが被せられる。どうやらマントのフードを被せただけのようだとユイが認識した時には、後退ったルキノは腕を組んで、悔しそうに呟いた。
「くそ、僕としたことが、女子はスカートだっていうことを忘れていたとは……」
「あの……ルキノさん? 何をしているのでしょうか?」
マスクを口からずらして首を傾げるユイに、ルキノは即答する。
「なにって、素人がこの砂嵐を進むなんて無謀だからね。色々と準備をしてきてあげたんだ。カッコ悪いとか、文句は言わないでくれよ」
言われた通り、ユイの姿は不審者そのものだった。
フードを目深にかぶった下には、ガッチリしたゴーグルとマスク。マントの隙間からは、チラリと生足がのぞいている。
――私、なんか女として、ダメな恰好している気がする……。
未開地に踏み込む冒険者か。はたまた簡単にいえば、変態か。
仮にも、告白して間もない相手の前でする恰好ではないのは、明白だった。
ユイが戸惑っている間に、ルキノはゴソゴソと腰まわりをいじり出す。
「る……ルキノ⁉」
ユイがその行為に驚いて、制止のつもりで声を上げると、ルキノは半眼でユイを見返した。
彼はベルトを外して、ズボンを脱ごうとしていたのだ。
「なんだい? 素足だと君が痛いだろう?」
「いやいやいや、なに、あんたはパンツ一枚で帰るつもり⁉」
「……仕方ないじゃないか。配慮不足だった、僕の責任だ」
そう言う彼は、子供のようにむくれたような顔。
「もうっ‼」
ユイは慌てて駆け寄った。そして、彼のズボンをグイっと持ち上げる。
「大丈夫だから! もう充分だから、ね?」
「けどね、迎えに来ておいて君に不自由させたら、格好がつかないじゃないか」
「パンツ一枚の男と一緒に帰るって、それこそ屈辱なんですけど⁉」
「見せられないような下着は、身に着けてないつもりだよ」
「そういう問題じゃないでしょ!」
「……じゃあ、見てみる?」
「え……?」
唐突な提案に、ユイのほとんど隠れている顔が真っ赤に染まる。
それを見て、ルキノがニヤリと笑った。
「まぁ、攻殻機兵鎧の件は、予想済みだから大丈夫。迷子も、砂の大森林と呼ばれているくらいだしね。気にすることはないさ」
ユイが顔を上げると、彼はいつも通りの余裕の笑みを浮かべていた。彼の髪に砂が絡まっているにも関わらず、輝いていて見えるほどに。
すると、後ろからクスクスと笑い声が聴こえる。二人して振り返ると、少年が堰を切ったように笑いだした。
「はは……ずいぶんと仲良しだね。お兄さんは、ユイお姉ちゃんの彼氏さん?」
「ちょっと、だから違う――」
ケラケラと笑いながら涙を拭っている少年を思い出したユイは、同時に自分のしている行為の滑稽さに気づき、慌ててルキノのズボンから手を離した。対して、ルキノはその少年を一瞥する。
「ユイ、君はこの子に助けられたのかい?」
「えぇ、まぁ……」
「ふーん」
彼の顔を見上げると、いつになく冷たい視線で、
「ルキノ?」
「いや、なんでもない。行くよ」
そう言って、ルキノはユイの手を握る。ユイが振りほどこうとしても、力が強くてビクともしない。
彼の手に引かれるがままのユイが辛うじて振り返ると、少年は笑顔で手を振っていた。
「じゃあ、お姉ちゃん。またね」
はにかむ顔が、とても可愛いらしかった。
ユイは倉庫の隅に半透明のチップを投げて、少年に小さく手を振り返す。
扉を開けると、暴風が一気に入り込む。
その音の中に舌打ちが紛れているような気がしたが、ルキノの手が腰に回され、すぐにユイはそれどころではなくなった。