悪戯の王道
ユイの足が、教室の前で止まっていた。
昨晩はナナシとの作戦会議に没頭しすぎてしまい、少しだけ寝坊をしたのだ。
それでも食事を摂り、身なりもキチンと整えて、ほんの少しばかり教室に着くのが遅れた――その程度の時間。
今日は珍しく天候モードが節電設定されているらしい。どんよりとした灰色の空は、ユイの心を落ち着かせた。髪が黒くても、青空の下よりは浮かない気がするのだ。
だけど、他の生徒は違うのだろう。今日は広場で遊んでいる生徒もおらず、窓から見える風景は寂しげだ。代わりに、教室の中からこちらを見る視線が多い。ヒソヒソと話している雰囲気が、ユイの足を止めていた。扉が少し開いているおかげで、その音が漏れ出ているから余計である。
その隙間の原因は、少し視線を上げれば明白だった。扉の隙間に、手のひらより少し大きな、白にまみれた長方形状のものが挟まっているのだ。本来ならば、上半分は茶色で、下半分は紺色の形状であるはずの物が、今は白く汚れている。掃除されていない『黒板消し』というものだ。
チョークの粉まみれのそれが、扉の上に挟まっている。
ユイがそれに気付かず扉を開けたら――彼らがそれを狙っているのは、明白である。
――はてさて、どうしたらいいかしら?
あまりの滑稽さに、ユイは苦笑を隠せない。
もちろん、気付いてない振りをして、頭がチョークまみれになるのは論外。
手だけ伸ばして扉を開き、黒板消しを空振りさせる――それが無難だが、どうにも面白味にかける。
魔法で強風を吹かせて、黒板消しを主犯であろうタカバにぶつけるという案もあるが――なぜ風が吹いたのかと騒がれると面倒だ。
そんなことを思案していると、ユイの肩がトントンと叩かれた。
「朝から何を無駄に考え込んでいるんだい?」
ルキノである。外からの光が少ないにも関わらず、彼の髪は今日もキラキラ輝いていた。先日の傷が消えた完璧美形の彼の顔が、呆れた様子ででユイを覗き込む。
「ほんと、君は可愛くないね。どうして、いつも僕を頼らないんだ?」
小さな声で嘆息すると、ユイが顔を赤らめているのを意ともせず、彼は扉を開いた。
彼の頭に、黒板消しがスポッと直撃する。白い粉がキラキラを舞い散る光景が、無駄に綺麗だった。
「おはよう、みんな。これで、少しは楽しい朝になったかな?」
床に落ちるよりも早く、ルキノは黒板消しを掴み、片手で弄ぶ。チョークの微細な粉がわずかな光を反射させ、ルキノの髪がより一層煌いていた。
黄色い歓声は、ルキノの不幸を批難する声か。はたまた、ルキノの美しさが増したことに対する賛辞か。
どちらにしろ、ルキノが女子に囲まれるのは一瞬だった。ルキノの髪を払ってあげたり、ハンカチを手渡したり、少しでも彼に近づこうとする彼女たちの必死さに、ユイは尊敬の念すら抱いてしまう。
――そういえば……私は彼に好かれようと、何かしたことあったかしら?
そんなことを考えながら、ユイは彼の後ろを何も言わずに通りすぎ、自分の席に座る。すると、隣の机に腰かけているタカバが、つまらなそうな顔で見下ろしてきた。未だに貼られている鼻の絆創膏が、彼の内面の幼さを物語っているようである。
「なぁ、つまんねェーんだけど?」
「わざわざ言わなくても、ちゃんと顔に書いてあるから大丈夫よ?」
「なんでテメェが、引っかからねーんだよ? ナナシ先生に伝授してもらった、秘伝の技だったんだぜ?」
――ろくでもないわね、あの教師……。
さらにろくでもないことに、どうにもあの偏屈教師のナナシは、タカバのことがお気に入りらしい。
そしてタカバも、デートを尾行した時に助けてくれたナナシがあまりに強かったと、感銘を受けたとのこと。
この数日、両者からそんな話を聞いているユイは、どうにも首を捻ることしか出来なかった。
――ナナシって、強いってより変人のイメージが先行してしまう気がするんだけど。
それでも、休日にも関わらず、エクティアタワーでの事件からクラスメイトを助け、さらに授業も面白い先生として、着々とナナシの株は上がっているようである。
そんな先生は、今日も予鈴と共に教室に現れる。長い白髪を一つに結わき、ゆるっと白衣を身にまとった長身の便所サンダル男は、今日もペタペタと教壇の前に立った。喋りだす前に、小脇に抱えてた重そうな本をドンッと教壇に置く。
生徒たちは各自ワラワラと慌てて席に着いた。
「起立、礼! 着席!」
そしてルキノの洗練された掛け声に従い、いつも通り挨拶をする。
ただしいつもと違うことは、ナナシに付添人がいることだった。
緩やかになびく青い髪を腰まで伸ばした女が、号令に合わせて軽く会釈をする。しかしながら、本を抱えている姿はオドオドとしていた。薄灰色のスーツがどうにも冴えないその女は、数年前までユイたちの授業をしていた先生だった。担当教科は歴史。授業がつまらないことで有名な、モナ先生である。
ナナシが改めて、両手で教壇をバンッと叩く。
「では、今日は三日後の実地訓練の説明を行う!」
それに、ユイは嘆息した。
面倒なことに、軍事クラス最終学年では、定期的に実地訓練という名の実習が行われるのだ。
現場での適性を図るための実体験。また、このクラスの多くの生徒がお世話になるだろう、軍人たちへの挨拶代わりみたいなも兼ねている。優秀な生徒はここで目を付けられ、一足早く就職先が決まったりもするらしい。
就職活動は死活問題。軍よりも多少穏やかな政府警察や全く関係ない企業へ就職するという選択肢もあるものの、危険が多いとされる軍に志願する学生はそれなりに多い。その分、金銭面や福利厚生が優遇されているのだ。
ユイとしても本当は、軍の科学班が第一希望の就職先だった。高待遇の割に、その勤務内容は武器の研究開発などの室内業務。前線に出ることが少ないのだ。
だとしても、ユイにとってはこの訓練は面倒でしかなかった。
――本当に世界を破滅させちゃったら、将来も何もないものね。
かといって、今のユイとしてもこの目的のために、この実習で為すべきことはある。昨日もナナシとそのための会議をしていたのだ。ただ、生徒としての責務はないので、ナナシの熱弁を聞き流していた時だった。
「今回の実地のリーダーを、エクアージュに任命する!」
ナナシの差し棒が、ビシッとユイに向けられていた。
「……えっ⁉」
ユイはとっさに机を叩いて立ち上がる。クラスメイトの視線が集まるが、それどころではない。
――ちょっと、予定と違うじゃない!
昨晩ナナシと立てた予定では、この実習でユイは地味な仕事に回り、ふと姿をくらませ、巨大施設を破壊する作戦を実行する手筈てはずとなっていたのだ。
「なんだ、エクアージュよ。聞いてなかったのか?」
このユイをエクアージュと呼ぶ言動は、もう自然なことになっていた。先生に名前すらまともに呼んでもらえない哀れな黒髪――どうやら、そういうことになっているらしい。事実その通りであるがゆえ、ユイもそれを否定する気もなかった。どういう理由で笑われようとも、黒髪が他の色になるわけではないのだ。
だけど、さすがに今はその笑いも起きなかった。誰もが静まり返る中、ユイだけ声を荒立てる。
「聞いていないと言えば、聞いてないけど、私は――」
「ずいぶん余裕ではないか。それなら、リーダーも余裕だろう?」
口角を上げるナナシに、ユイは顔をしかめた。
「いや、それとこれとは話が違うでしょ⁉」
そうだ、話が違う。だけど、それはここで話せる話ではない。
――ナナシに遮られなければ、余計に怪しまれるところだったわね……。
と感謝しかけて、ユイは首を振った。そもそも、ナナシがこんなことを言い出さなければ、こんな事態になっていないのだ。
ともあれ、今この場でナナシを問い詰めようとも、話は慎重に進めなくてはならない。
「聞いていなくても……西部のランティス地方で起きた、暴動事件のことですよね? マナ施設付近の地域だから、軍が鎮圧しようとも、派手な行為が取れずに時間がかかっているという……」
「そうだ。ちゃんとわかっているではないか。ならば、リーダーであっても問題はあるまい」
「問題あるでしょう⁉」
問題はある。色々とある。
ユイの事情をさておいて、クラス全体が感じている違和感。その違和感の元である本人が、手を挙げて、立ち上がった。
――そうよ、あいつがいるじゃない!
ルキノの凛とした声が響く。
「どうして彼女なのでしょう? 確かに、ユイは優秀です。ですが、一番ではないはずです」
総合成績トップで特待生。人望もある生徒会長。
そんな人物がクラスにいるのに関わらず、ちょっと学問の成績がいい程度のユイがリーダーなど、誰が見ても違和感しか残らない。
しいてあげるならば、飛び級で進級したメグがいるが、総合成績ではルキノに一歩劣る。そして、学業以外の活動は何もしていない。
実地訓練のリーダーとなれば、現役軍人と直接やり取りする機会もある。顔を売るには絶好の機会なのだ。ルキノだって、そのチャンスを逃したくはないだろう。
だからこその抗議を、ナナシは一蹴する。
「だが、貴様はエクアージュではないだろう?」
「……そうですね。僕の苗字は、たしかにエクアージュではないですが」
色々と言いたいのを堪えて、ルキノが言葉を返す。
「男ならば、潔く諦めるんだな!」
「そんな理由で、どうやって諦めればいいのですか⁉」
「……小僧は将来、婚約者の父親に結婚を反対されたら、どうする?」
突如、ナナシは真剣な顔で、ルキノにそう尋ねた。ルキノは一瞬怪訝な顔をするものの、即答する。
「何回だって、お願いしに参る所存です!」
「たとえ、殴られてもか?」
「無論、顔の形が変わることになっても、諦めません!」
潔い返答に、教室に感嘆の声が響く。特に、女生徒からの悲鳴にも似た黄色い声が、際立っていた。
その中で、ユイは静かに席に着く。
――なんか、話が変わってない……?
「いい返答だ! だが、今回は諦めろ!」
ルキノに親指を上に立てて褒めるものの、考えは変わらないようで。
「嫌です! リーダーの座だろうが、結婚だろうが、僕は絶対に諦めません!」
そんな下らない押し問答を止めたのは、頼りのない女教師の一言だった。
「あの……リーダーを支える影役者というのも、しっかりと評価されるポジションだと思いますけど……」
ルキノの耳が、ピクッと動いた。そして、深々とため息を吐いた後、
「ユイ!」
ただでさえ通る声を響かせて、名が呼ばれる。
ユイがビクっと肩をすくめると、振り返ったルキノの表情が歪に微笑んだ。
「僕が……全力でサポートしてやるから、安心してくれていいからな!」
その顔が、全力で悔しそうで。
譲れるものなら譲りたいと、ナナシの顔を窺ってみるものの、
「無論、私の決定事項に反しようという者がいるのなら、命や成績がないものと思うことだな!」
教師の命令は絶対、ということらしい。高々と哄笑するナナシに、
「わかりました……謹んで、引き受けさせていただきます……」
ユイはため息交じりに、そう答えた。




