黒いリボンを身に着ける女
その後、寮の部屋に戻ったユイは奇妙な夢を見た。
夕陽が差し込む学園の廊下で、チラチラと教室を覗き込んでいる少年がいる。金髪が眩しい美少年は、両手で黒くて大きなリボンを握りしめて、ソワソワしていた。
『今かな? もうちょっと待った方がいいかな? このリボンで大丈夫だったかなぁ?』
――ルキノ?
ユイがその少年をすぐそばで見下ろしても、彼はまるでユイに気が付かない。
『ごめんね、もっと早く来れたら良かったのに……』
ユイも後ろから教室の中を覗いてみると、その中では一人の黒髪の少女が数人のクラスメイトにいじめられていた。彼女の目の前で、鮮やかなピンクのリボンが粉々に切り刻まれている。
見間違えるわけもなかった。クラスメイトに押さえつけられながらも懸命に手を伸ばす黒髪の少女は、間違いなく昔の自分だし、床にハラハラと舞い落ちるピンクのリボンは、入学する前に、母と選んだ大切なリボンだ。
――入学して、半月経ったくらいの頃だっけ?
まだ幼いクラスメイトが、嘲笑ってくる。その声が、今でもとても耳障りだった。
『やめて!』
幼いユイがどんなに訴えても、そのピンクのリボンは細かくなって、床に散らばる。
クラスメイトは言っている。
『黒髪のくせに、似合わないよねー』
『今日授業で習ったじゃん? エクアの外の異端者って、みんな黒いんでしょう。黒髪のくせに、黒い服も着てるんだってー』
『だったらさぁ、あんたもこんな可愛いリボンしてちゃダメでしょー』
――知るか、そんなこと。
昔も思った。今も思う。自分がどんな髪だろうが、どんな格好しようが、勝手ではないか。誰にも迷惑はかけていない。
だけど、それを嘲笑うクラスメイトは、とても楽しそうだった。自分を笑うことで、楽しい学生生活を満喫していた。
それが、悔しくてたまらなかった。今も、この光景を見ているだけで腹が立つ。
その時、廊下で決意を固めていた少年が、意を決して扉を開いた。
『その必要はないよ』
そう言う彼は、子供らしからぬ微笑を浮かべていた。さっきまでのオロオロとした態度はどこへ行ったのか。とても十歳とは思えない色気を放ちながら、大事そうに持っていたリボンを弄んでいる。
そのリボンは黒い。ユイの髪のように、真っ黒だ。
『ル、ルキノくん⁉』
ユイを取り囲むクラスメイトが、狼狽える。何事もなかったかのように、ユイから離れる。
だけど、床に落ちたリボンの切れ端は散らばったまま。
少年ルキノはそれを見て、感心するように褒めだした。
『ユイにはずいぶん優しい友達が出来たんだね。似合わないものを正直に教えてくれる人なんて、なかなかいないんじゃないかな?』
入学した頃は、ユイと同じくらいの身長だった。少し垂れ目気味の碧眼も、今より大きく見える。そんな余計に可愛らしい彼が、ユイに向かってハッキリと言った。
『カラフルなリボンなんて、君には似合わないよ。君は堂々と、黒くしていればいいんだ』
ルキノが、幼いユイの首元に手を伸ばす。抱きかかえるように近づく彼に、幼いユイは顔を真っ赤にして肩を竦めていた。
――見てるこっちが恥ずかしいわ!
そんなユイを嘲笑うように、少年ルキノが小さく笑う。
『なに照れてんの?』
カチッと、リボンがはめられた。今では馴染みのある黒いリボンが、小さい頃の自分には一際大きく見える。
そして、ルキノはクラスメイトに話し出す。
『ほら――これでみんなも、ユイのリボンを切る必要はなくなったよね? こんなにも似合っているんだもの。制服だって染めなくても、充分かわいいよね?』
すると、クラスメイトは気まずそうな顔をして、教室から走り去っていく。その背中を見届けて、彼も「やれやれ」と首に手を当て、苦笑していた。
――お礼を言わなきゃ。
そう思ったことを、ユイは覚えている。彼は、助けてくれたのだ。助けてもらったら、お礼を言う。礼儀と常識は、両親からきっちり教えられた自負がある。
だけど、胸元につけてもらった、光沢感のある大きな黒いリボンを見ると、どうにも素直に言葉にならなかったことも覚えていた。
『よ……余計なことするんじゃないわよっ!』
そう叫ぶ幼いユイに、彼は振り返り、笑った。
『やっぱり、君は可愛くないね』
その笑顔が、とても眩しい。
『それ、ちゃんと付けてよね。女の子にあげた初めてのプレゼントなんだから!』
そしてルキノもまた、教室を出ていく。
その後を追ってみると、彼はすぐさま廊下の隅で縮こまり、大きなため息を吐いていた。
『ああー! これで大丈夫だったかなぁ? リボン、喜んでくれたかなぁ? あれなら、これからイジメられないかなぁ? これからあのリボン、付けてくれるかなぁ?』
――やかましいわよ。
耳まで真っ赤にして震えている少年に苦笑して、見えないユイが手を伸ばそうとした時だった。
ユイは目を開く。そして見慣れた天井に、盛大なため息を吐いた。
「なんで、私はフラれた翌日にこんな夢を見ているのよ……」
そんな夢を見たユイの目覚めは、最悪だった。
空を描く高い天井が、時間の経過につれて青白く色を変える。眩しい光が太陽の如く降り注ぎ、所々に設置された小さな穴からは、心地よい風がそよぐ。
そんな、いつも通りの造られた朝。
昨晩どんな目に遭おうとも、どんなに陽の光を睨みつけようと、太陽は空のスクリーンに映し出される。人工的に造り出された空は、機械的にその色を変える。
今日も、当然の如く授業がある。そこに、ユイの気分は一寸も考慮されることはない。
「ここで勉強するために、母さんがいくら払ったと思ってんのよ」
学力と実力が勝つ世の中である。
科学が世界を動かしているのだ。そんな世の中が必要とするのは、やはり頭脳と実力。
そんな世の中で金を稼ぐために必要なのは、やはり頭脳と実力。
貧しくもなく、惨めでもない生活をするために、今しなくてはならないこと――それは、勉強と成績の確保。実力社会だからこそ、学力は大事なのだ。
「よし、忘れよう!」
ユイは飛び上がるように、ベッドから出る。パジャマを脱いで、掛けてある白い制服に手を伸ばした。すると、その上にかけてあった黒いリボンが、ハラリと落ちる。
「それにしても、あのルキノは可愛かったわね」
自分を助けようと、モジモジしていた幼いころの彼。あの夢が本当のわけはないが、そうだとしても、フラれた翌日にあんな幻想を見てしまう想像力豊かな自分は如何なものか。
「いじらしすぎるのよ、バカ」
ユイはリボンを拾う。たとえ夢に見るほど思い入れの深い物だとしても、急に他のリボンを付けて、落ち込んでいるとか思われたらたまったものではない。
狭い部屋。だけど普通は二、三人でシェアするこの部屋は、彼女一人にあてがわれた。これも、親がその分、お金を積んだからにすぎない。親からの愛情に包まれた中で、メソメソとしているわけにもいかないのだ。
もうすぐ、ユイは二十歳。十年生のエクアディア学年の最高学年になり、あと一年足らずで卒業である。社会人になって、失恋ごときで休むなんて許されるわけがない。そんな弱い者は、あっという間に淘汰されるだけだ。
整然とされた部屋で、ユイは両頬をパチンと叩く。
制服を着て、綺麗に積んであったカラフルな小さなボールを、いくつかポケットにしまった。ユイが趣味で作っている小型爆弾だ。安全装置を外して投げつければ発動するという一見単純な代物。それでも、長年の研究の髄が詰まった、ユイの自慢の一品だ。
自信と自己防衛はこの世知辛い世の中を生きていく上で必要なモノ。
そんな心構えは、あの『初めてのおつかい』の時に身をもって学んだことだし、それがあってこそ、今のユイがいるのだ。
――そうよ。あの屈辱に比べたら、失恋くらいなんだってのよ!
心に確固な鎧を装備して、ユイは次に鏡の前へ向かった。
腰まで伸びた黒髪と切れ長の黒い瞳が白い制服と肌にとても映える。人より少し高い背も相まって、余計に目を引き付けるだろう。
ユイはブラシで髪を梳きながら、ふと思い出す。
――昨日の変な奴、本当に現れたりするのかしら?
噴水から這い出てきた謎の男の言う事を信じるならば、今日は校舎の一つが吹き飛ぶことになる。
それを思い出し、ユイは鼻で笑った。
「まさかね」
そして最後に、ユイは首に手を回して、彼からもらったリボンを胸に付ける。
昔より色が薄れたものの、それでもなお、そのリボンは黒い。