黒い炎に燃えよ青春
物力学的な原理の一つに、慣性の法則というものがある。
一年生の頃に習った基本的な法則だったが、基本は絶対に侮ってはいけないということを、今しがたユイは再認識していた。
勢いのついたエアボードはどんどん空を突き進むものの、きぐるみ姿のユイは風圧に負け、まともに立っていられなかった。不格好を恥じてはいられない。落ちたら、普通に大怪我をしそうな高さで、エアボードにしがみつき、ぎりぎりレストランに到達しようとした時である。
ルキノに、銃が向けられていた。
驚いているルキノの顔を見て、ユイの背筋に悪寒が走る。
――ルキノが、撃たれる……?
「嫌っ!」
そう思った瞬間、ユイはエアボードを蹴っていた。
それは、無意識の魔法。弾丸のように飛び出したユイがガラスにぶつかると、あっさりとそれらは砕ける。キラキラとガラスが舞い散る中、ユイはルキノの前に身体を滑らせていた。
パンッ。
それは、とても軽い音だった。
腹部に僅かな衝撃を受けて、ユイは首を下げようとする。
――み、見えない……。
きぐるみの中から見える視界が狭い上に、首が全然下を向かずに自分の姿が確認することが出来なかった。それでも、銃に撃たれたような痛みは一切感じず、ユイはいつもの癖で首を横に傾げるが、頭がカタッとずれそうになり、慌てて両手で押さえる。
――昔は、もっと痛かったはずだけどな……。
「あの……大丈夫ですか?」
後ろからオズオズと訊かれて、ユイは踵を返した。首だけ動かそうとしても、動かないのだ。
両手で頭を押さえながら真後ろを向くと、ルキノが唖然としている。状況把握が追いつかないながらも、とりあえず心配をしてみたようである。
「だいじょ……」
ユイは答えようとして、すぐに口を閉じた。
――さすがに今バレたら、シャレにならないわよね。
こんな場所まで文字通りすっ飛んできたのだ。どうやってと聞かれたら、タカバ程度の相手ならいざ知らず、ルキノを誤魔化すのは至難の業だろう。
それに、嫌だった。
――こっぴどくフラれた相手を庇うだなんて、まだ未練があるみたいじゃない。
ルキノに調子乗られるのも癪に障るし、また言い広められでもしたら面倒な話だ。
なにより、そんな女々しい自分が情けない。
――なにしてんだろ、私。
きぐるみの中でため息を吐いてから前を見ると、ルキノの姿が見えなかった。そのかわりにお腹をさすられている感じがすると思いきや、彼の声が下から聴こえてくる。
「ちょうどお腹に銃弾がはまったようですね……いや、本当に助かりました」
しゃがんで確認していた彼が、スッと立ち上がり微笑んだ。
その笑顔は、やっぱり眩しい。頬に傷を受けているようだが、その傷も霞んで見えるほど、彼の笑顔に余裕が見えた。むしろ、いつになく楽しそうで。吹き出すのを堪えているようだった。
「あ、いや……リュリュちゃん? 助けていただいたのに、申し訳ない……けど――」
「せ……拙者を蔑ろにするなでござるっ!」
ルキノの言葉を遮った悲痛の叫びが、背後から聴こえた。
おそらく、ケナンダという直毛の中二病の一人。だけど、ユイには何が起きたか、まるで見えない。
ユイが見えたものは、ルキノがいつになく不敵に笑った横顔のみ。
「調子が出てきたよ」
ルキノが一瞬で、ユイを後ろに下げた。転びそうになったユイを支えたのは、嬉しそうに微笑むメグ。
「わぁ、リュリュちゃんだぁ! あたしたちを助けに来てくれたの?」
無邪気な彼女の後ろには、噴水広場で遭遇したのと同じようなチンピラ数人。しかし、彼らはユイたちを襲うわけではなく、ルキノたちを見届けているようだった。
ユイもそれに釣られて、ヨタヨタと後ろを向く。
ユイの代わりに前に出たルキノは、体ごとナイフを突きつけてくるケナンダと向き合っていた。床に落ちたフォークを蹴り上げて、すぐにそれを掴むと、相手のナイフにフォークを噛ませる。
キンッと甲高い音が響くと、ケナンダが目を見開いた。
「三流風情が……僕の邪魔をしようなんて、百年早いよ」
ルキノが手首を返すと、あらぬ方向へ手を曲げられたケナンダがナイフを落とす。絨毯の上に落ちるナイフに音はない。ルキノは即座にフォークを手放し、ケナンダの鳩尾にこぶしを強く打ち付けた。
白目を向いて膝を崩すケナンダから、ルキノは後退さる。
「まぁ、君が百年分成長したら、僕はさらに千年分、上へ行くだけだけどね」
ルキノは倒れたケナンダに対して、悠然とそう言い捨てた。
そのやりとりを、ユイは狭い視界で見届ける。ルキノの背が、いつになく高く見えた。
「リュリュちゃん」
すると、ユイは誰かに手を握られている感触を鈍く感じる。メグがモコッとしたユイの手を引いていた。
「正義のヒーローごっこか何かのつもり? お遊戯の一環なら何も見なかったことにして、早くいなくなってほしいなぁ」
彼女はニコニコと笑いながら、ユイの顔に銃口を突き付ける。
狭い視界を、銃口が支配する。その奥はとても暗く、とても黒い。どこまでも闇が続いているかのように、先が見えない。
「もうすぐ政府警察が来る予定なの。その時に被害者や犯人がいるならともかく、協力者がいたら、ルキノ君が引き立たないでしょ? リュリュちゃんはどっちになりたいかなぁ?」
その声音は、楽しそうに弾んでいた。
それが、ユイは怖かった。恐くて、悲しかった。
「あなた……友達、いる?」
ユイはなるべく低く声を出す。バレるかもしれない――だけど、訊かずにはいられなかった。
彼女は首を傾げる。
「そんなこと、今関係あるかなぁ?」
「返答によっては、大人しく撃たれてあげてもいいけど」
「……お昼を一緒に食べようって、誘ってくれた程度のコなら」
少し逡巡して出された答えに、思わずユイは鼻で笑う。
「程度って……毎日くだらないことで笑いあって、くだらないことで怒って、くだらないことで泣き合うような……そんなコじゃないの?」
「くだらない間柄のことを、友達なんていうの?」
彼女は躊躇わず、言ってくる。
毎日のくだらない日常を過ごす相手は、友達ではないと言ってくる。
――なら、仕方ないか。
仕方ない。彼女に銃を向けられるのは仕方ない。
今の彼女からしてみれば、自分はきぐるみを着た他人なのだ。
しかも、ユイという同級生であったとしても、くだらない、友達ですらない間柄なのだ。
だから、躊躇いもなく銃口を向けられもするし、好きな相手を取られたりする。
「それで? トリガー引いてもいいかなぁ?」
――ならば、仕方ないね。
メグの可愛いお願いに、ユイはきぐるみの中で指を鳴らした。
――自業自得よ。
メグの足元で、銃砲を受けたような小さな爆撃が起こるが、彼女はとっさに飛び退いた。
「どこから銃を――」
ユイはきぐるみの手を掲げる。そして、鳴らして。鳴らして。鳴らして。
それと同時に、同じような衝撃がメグを襲うも、テーブルを蹴って、壁を蹴って、彼女は華麗に避けていく。
彼女の赤い目に、小さな闘志が灯る。その瞬間、メグは一足跳びに距離を詰めた。気づけばユイの腹部に強い衝撃が走り、吹き飛ばされるように転がるしかない。
「メグ! いい加減に――」
ルキノの声が聴こえた。だけどすでにその時には、メグがユイの上で馬乗りになっている。
彼女の手刀が、振り下ろされようとしていた。その小さな拳が、やけに鋭く見える。着ぐるみの分厚い生地を突き抜けて、腹部に刺さるのがユイには容易に想像することが出来た。彼女の瞳が、鈍く燃える。
――あ、死ぬ。
ユイの直感がそう叫んでいた。
――助けて!
悲鳴をあげる。
――ルキノ、助けて!
実は、このきぐるみは私なの――と、動かない笑みを浮かべ続けるきぐるみの頭を外せば、ルキノが守ってくれるかもしれない。そんな淡い期待が、どうしても胸によぎる。
でも。
――あの夜、彼はこの女とキスをしたんだ。
頭によぎるのは、あの夜の美しい光景。
噴水にそびえる女神様の前で、そしてユイの前で、口づけする二人の光景。
ユイは唇を噛みしめる。滲む鉄の味が生々しい。
それが現実なのだと。この苦く、気持ち悪いのが現実なのだと。
二人が付き合い、自分は友達でもなかったのだと。
こうして、あっけなく殺してしまえるような、くだらない存在なのだと。
それが、この世界の真実なのだと。
魔法がなければ、死ぬしかなかった。こんな獰猛な獣に、勝てるわけがなかった。
タカバの言葉を思い出す。
『テメェの場合、変身しても魔法少女ってより、魔女だな。おどろおどろしいのを、そう呼ぶんだろ?』
可愛らしい魔法少女ではない。好きな人を助ける魔法少女ではない。
自分は、おどろおどろしい魔女なのだ。世界を破滅させる魔女なのだ。
ユイは嗤う。
彼女の向こうには、今にも落ちそうなシャンデリアがユラユラ揺れている。その場所には、ユイが仕掛けた小さな機械が偏光していた。指を弾いてそれを起動させる。
突如流れたおどろおどろしい音に、メグの手がピクっと止まった。甲高い笛の音と太鼓の音は、今にも何かが出て来そうだ。これも古代の歌の一つで、特別にユイが音源を仕入れたもの。昔はお化け屋敷というアトラクションや怪談話を盛り上げるための音楽として使われていたものらしい。
そして、シャンデリアが盛大な音を立てて、メグのちょうど背後に砕け落ちる。ガラス片の舞う姿は、キラキラ輝き、この世界のようにまばゆく美しい。
――お化けには不釣り合いだけどね!
その瞬間に、ユイはメグを突き飛ばした。そして即座に指を弾くと、メグの身体が突風に押され、壁に衝突する。彼女が口から血を吐いた。
「メグっ⁉」
ルキノが彼女の名を呼び、駆け寄ろうとする。だからその前に、
――あんたたちなんて……!
ユイは、指を弾いた。
フロアの奥から、鼓膜を揺るがす破裂音。鼻腔を刺激するガス臭とともに、ジワジワと熱気が広がる。灰色の煙が広がり、赤い炎が、少しずつ朽ちかけたフロアに広がっていく。
「火事だ!」
叫んだのが誰だか、ユイにはわからなかった。
一目散にチンピラが爆破した入口から逃げ出そうとするが、すでに炎がまわっていて。
タワー内に、警報が鳴り響く。遠くの方から、悲鳴が聴こえていた。
逃げ場はない。
ふとユイの視界に、ルキノの苦悶を浮かべる顔が映る。そんな彼が炎を掻き分け、メグに駆け寄った。屈んで彼女を確認してから、ルキノはユイに手を差し出してくる。
「逃げましょう! 早く、こっちに!」
メグを抱えるルキノが、ユイをまっすぐ見ていた。
どうやら、彼はこの炎から脱出するつもりらしい。
そして、きぐるみを着ている正体不明のユイのことも、助けようとしてくれているらしい。
「馬鹿……」
彼が、燃える。
それを想像した瞬間、ユイは思わず指を弾いていた。
「落ちて――死んじゃえ!」
強烈な突風が彼と、彼のそばにいたメグを浮かび上がらせ、ユイが割って入って来た窓ガラスから吹き飛ばされていった。
その光景を見届けて、
「あはは……はははははははは」
チンピラ達の阿鼻叫喚とする声が響く中、ユイは高らかに嗤う。
すでに煤けたレストランだったが、炎に包まれるのは早かった。この調子では、タワー中にはすでに炎の海が広がっていてもおかしくはない。
きぐるみを着ていても、熱気を肌で感じる。
現実とは思えないほどに、揺らぐ炎が赤々しい。
放っておいたら、彼らはここで死んだのだ。ここから落としたら、運がよければ助かるかもしれない。
だけど、ユイは反射的に、後者を選んだ。
軋む音がして、足が凹む。
「助かるかな、あいつら」
その呟きは、意ともせず口から出ていた。
そして、自覚する。
――私はさっき、メグを殺そうとしたのにね……。
目の前には、彼女と同じ色の炎が、ユラユラ揺らめく。
誘われるように、ユイはレストランの奥へと足を踏み出そうとした時、
「貴様ぁ……貴様はいったい……」
ちょうど運悪く今目覚めたのか。腰を抜かして後退さるチンピラ達の代表のケナンダが、恐怖の色を隠さずにユイを見ていた。
風に煽られ、ますます大きくなった炎の中。ユイはきぐるみの頭を外す。
肌がチリチリする。
目の奥がカラカラだ。
喉の奥が焼けそうだ。
浅い息遣いをしながら、ユイは今一度指を弾く。
ファスナーが弾け飛んだきぐるみから腕を抜き、ユイは髪を大きく掻き上げた。
「魔女――エクアージュ。これから、このくだらない世界を破滅させるの!」
赤い炎に包まれてもその黒髪は燃えることなく、大きくたなびく。
そして、ユイは破滅の音を鳴らした。




