エデンの園
こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。(創世記2:1)
それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。(創世記2:2)
神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。(創世記2:3)
これは天と地が創造されたときの経緯である。(2:4)
「経緯」は、創世記の他の箇所では「歴史」と訳されている、と聖書脚注にはある。「経緯・歴史」というと、時間を追っている、比較的長い時の経過がある、ということを示唆する。前回の第1章が六日(短期間)で書いた設計図だということの対比である。つまりここから先、創造の第2段階、材料を用いての「形造り」の記述であることが分かる。
神である主が天と地を造られたとき、地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。
ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。
その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。
神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。(2:5~8)
神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのによいすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。
一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。
第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。
その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。
第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。
第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。(2:9~14)
ここに記されているのはいわば世界最古の地図であると思われる(聖書脚注)。
私がここから読み解いたのは、四つの川とは、世界四大文明の発祥地、それが一つの川から出ているとは、最古の時、大陸は一つだったという「大陸移動説」を裏付ける文書ではないか。このように、聖書とは、暗号文を読み解くようなのである、解けた時にはスカッとする。
(2026年記) だけどね、遺跡の発掘も進むと、教科書で習った四代文明も古情報となる。それらは最早世界最古と言えなくなった。世界最古の品が日本で続々発掘されているとか。トルコのギョベクリ・テペ遺跡も発掘が進んでますしね。1万2000年前の遺跡、メソパタミア文明よりも7000年以上古いものが見つかってしまった。レベルが違いすぎて、最早お話にもならない、それが四代文明、そんなのを一生懸命学んで受験してたんですからね。
神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。
神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。
しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」
その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのはよくない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」(2:15~18)
そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。
こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。
すると人は言った。
「これこそ、今や、私の骨からの骨、
私の肉からの肉。
これを女と名づけよう。
これは男から取られたのだから。」
それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。
そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。(2:21~24)
二人は「一体となるのである」であるが、聖書の中では珍しく、なぜか、ここだけ、「一体となった」という完了形でなく、「なるのである」と未然形(まだそのことが起こっていない)・未完了形・未来形なのである。神は、彼らが一体とはならない事態が起こる、と予見されていたのである。次の互いに恥ずかしいとは「思わなかった」が完了形になっていることから、そのときが来れば、最終的には、そうなると確信はしていたが。
「一体」とは、一つからだのことである。男女は、一つからだを共有するのである。自分のものでありながら、自分のものではない。
妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(コリント1 7:4)
人は男女ペアで「一体」・一つの肉体である、それが人体の完成形・完全体である。片方だけでは半身・半人前である、未完成・不完全体である。
また、「一体」とは、霊の数え方である。「三つ巴」・三つの霊(人魂)が、渦を巻いているような紋であるが、ご存知だろうか。霊は三つで「一体」なのである。「父(神)、御子キリスト、御霊」の三位一体であるが、「御霊」とは、キリストの花嫁・クリスチャン・「御霊を宿した人・聖霊を注がれた人」である。つまり、「神、キリスト(花婿)、御霊の人(花嫁)」で一体の霊・一つの融合体である。それを型に「神、男、女」で「一体(一つ霊)」となるのである。「男女の間には神がいたのである、が、その神を締め出して、男女二人で結合してしまった。不完全結合である。そんな事件がエデンの園で起きたのである。
「一体」とは、からだが二つで一つ(男女のワンペア)、霊が三つで一つ(神男女のワンユニット)である。
「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(1:26)
神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。(1:27)
神は、男女を「われわれ」という神と同じかたちに創造られたんですね。「父神・キリスト・御霊」の三位一体がそのまま「神・男・女」の三位一体に置き換わる、同等のもの・ミニチュアができるはずだったんですね、男女の交わりはそのように麗しく、男女は強い絆で結ばれることになっていたんです。男女の交わりの中に神がいたんです。ところがこの三者の麗しい関係が、男女の背きにより、「三角関係」に陥ってしまう。神を締め出した男女の醜い姿と「神男女」の歪な三角関係。
さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。
「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか。」(3:1)
女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」(3:2・3)
そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。
このようにして、二人の目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(3:4~7)
男女は神の言葉に背いてしまった、自分たちの関係から神を締め出した。神は怒りますね。
「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」
(3:11)
「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(3:12)
と男は女のせいにし、暗には「私のそばにこの女を置かれたのはあなたではないか」と神に責任転嫁している。醜い姿が暴かれたのである。女もまた
「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(3:13)
とよそに責任をなすりつけている。神は女に仰せられた、
「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。
あなたは苦しんで子を産まなければならない。
しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
彼は、あなたを支配するようになる。」(3:16)
「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないと
私が命じておいた木から食べたので、
土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。
土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。
あなたは、顔に汗を流して糧を得、
ついに、あなたは土に帰る。
あなたはそこから取られたのだから。
あなたはちりだから、
ちりに帰らなければならない。」(3:17~19)
アダム(男)に、楽園追放(いばらとあざみの地の開拓・労働)と死の宣告がなされた。
「今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」 そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。(創世記3:22~24)
肉なるアダムは女の誘惑に弱かったんですね。陶芸家は作品が完成した後も、彼の目から見ればそれは完成ではなくてただの不良品なんですね、窯から出した器を気に入らないものはことごとく割って土に返してしまうでしょう。人は死ぬようになったんです。肉の器は砕かれ、土に帰る。
男女は楽園を追放された、「われわれ」という彼らの麗しい関係は崩壊した。私たちはその最初の父母の子孫なのです、彼らに似た者なのです、私たち人の身勝手さは、そこにあったんですね。神が「われわれに似るように、われわれのかたちに」と仰せられたのとは、違った姿になってしまったのです。太陽も月も、大空も、大地も海も、動植物も、神の申し送り通りに仕事に取りかかった、全てが神の言葉に従って「そのようになった」のである、人間を除いては。自由意志を持つ人間だけが、従わなかったのである。人は創造の六日目にデザインされたが、何よりも見目麗しく、神を象って造られたのが人ですね、息子アダムは完成に至らなかった、神の天地創造の未完成部はアダム(人・神の息子)だったんですね。人は未だ、神の望まれた姿・設計図通りには完成していなかったのである。アダムの子孫は泣き叫びのない世界を作ることが出来なかった、神のヴィジョンは実現されていなかった。
聖書が何かと言ったら、神が私たち人に渡した設計図なんです。エデンの園で造られた人は、紆余曲折の経緯・歴史を経て、黙示録にある「新しい天と新しい地」に辿り着く、神はそんな設計図・シナリオを書かれていた。キリストは、神の言葉・ご意思・ご計画を人に伝えるために神が遣わしたメッセンジャーだったのです。言葉を伝えるだけであれば書物で足ります、キリストは神をのご意思やご計画、神の品性、神の愛を具現した、行動・実行の人だったんです。神の実行力・行動力であるキリストを模範として、神の望まれる姿の人が完成される。その人・「われわれ」と呼ばれる存在は神が望まれる泣き叫びのない世界を実現させる。
また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。(黙示録21:1〜4)
神の天地創造の完成である。神の天地創造は、この新世界・「新しい天と新しい地」の完成に向かっていた。「もはや海もない」の海は、文字通りの海ではなくて、「隔てるもの」という意味です。人と人、民族と民族、国と国、隔てるものはなく、一つとなる。そんな地球の状態です。今、「われわれ」はそこに向かっている、そこに向かわなければならない、それが神が私たちに手渡した設計図・「聖書」だったんですね。
(2026年記) これらを書いた2008年当初と2026年の今では、私の考えは大分変わっている。当時は聖書の言葉を伝えるのを目的としていたが、キリストを宣べ伝えることをよしとしていたが、今はそれを攻撃する、キリストを告訴する。当時は聖書ベースだった私の考えが、逆転したから。私は自身のベース・土台をご先祖様に置き換えました。私のルーツ・根はそこにある。神のお裁き・最後の審判が進行中だと言うので、われわれのご先祖様たちがどんな裁きを受けたか覗いてみましょう。
(「背徳のカードゲーム」エピソード133「英霊」より)
台湾では日本人が神様として祀られているのを知ってますか? そんなこと言ったら、もと夫のKは血相変えて怒るに違いない。お前、何言うんだ。偶像礼拝だ。神様はキリストお一人、それが彼らの主張だものね。台湾でお祀りされてる日本人の一人に、大東亜戦争中、台湾に来襲した米軍機との空中戦で戦死した零戦パイロット、杉浦茂峰海軍飛行兵曹長(戦死後に少尉昇進)がいる。杉浦兵曹は被弾した際、すぐに機体から脱出することなく、眼下の集落への墜落を避けようと、機体を集落から離れた畑の方へと操縦、飛行させた。墜落した機体が村を焼くこと恐れたのである。空中爆発直前に落下傘で脱出しましたが、機銃掃射を浴び、落下傘が破れ、杉浦兵曹は亡くなりました。自分の命を優先させてすぐに脱出していれば、命を落とすことはなかったかもしれません。享年二十歳の青年でした。台湾では「飛虎将軍」としてお祀りされています。この廟では、参拝者は「君が代」と「海ゆかば」を斉唱することになっているそう。日本人の私でも「海行かば」など聞いたことがない。「君が代」「海行かば」「さくらさくら」など、私たち日本人も歌わなくなったような日本の歌が海外で今も歌われているとは、驚きですね。私たちの知らないこのような話が、外国にはわんさかあるところを見ると、日本の軍人さん一人一人が世界平和の外交官だった、とはどうやら本当のことらしい。海外に出て行った彼らは、日本人の品格、日本精神を伝えていたのである。日本人の海外侵略戦争は濡れ衣である、軍服を着たご先祖たちの行いは日本国・日本人の濡れ衣を晴らすに足るものだった。最後の審判において、逆転無罪を掲げるのは、我々日本人のご先祖様ですよ。そのご先祖様たちの徳の貯金をすっかり使い果たしたようなのが今の日本ですからね、戦争の生き証人たちは100歳越え、彼ら語り部がいなくなれば、これから日本を恨みに思う国々も多数出てくると思いますよ。戦争を知らない時代が私の親世代ですからね、そこから三代、今日本は、私の親世代がやったことのツケを払わされますよ。私の子供たちは我が物顔だったじいさんばあさんのツケを払っている。品も何もあったもんじゃない、金を握って貧しい国に女を買いに出かけた時代ですよ。ちょっくらお隣の韓国まで、なんてね。貧しい国から女を連れて来て、裸のショーをやらせていた時代ですよ。フィリピンやタイから来るおカマを見て喜んでいた時代ですよ。彼らは自分たちの望むところ・面白いと思うことやり、子供の前にもそれを隠さなかった。親たちは好き放題をしていた、私世代では、自分たちの親をそう評価している人たちが多い。戦後教育が何だったか、戦前、戦後、並べ比べて見れば、一目瞭然。日本人は品格を失った、腐敗した。けばけばしいクリスマスツリーの飾りや、キャンディやプレゼントで、我が子の目を喜ばせた親たちは、金権主義だった。私から見ても、彼らの行いにはムカムカ、今思い出せば怒りが込み上げますよ。あんな人たちが親や先生(と呼ばれる人たち)だなんてね。学校の先生だけじゃありませんよ、「先生」と呼ばれる職業の人たちはたくさんいますよ、夜の街は先生と社長でごった返していた。あんなものを創作するのが作家やクリエーター(なんて流行の職業みたいに呼ばれてた)だなんてね。映像作家なんて酷いものですよ、世の中が性と暴力で溢れ返りましたよ。夜の街は社交界、金や時計を見せびらかす貴族たちが女の子を口説きます。美食家の自称クリエーターたちは女の肉も食べたい放題。とんでもない世の中を作って来たことに未だ気づかず、レジェンドの席に着こうとする彼らだが、お国のために戦った英霊たちはそれを許さなかった。その席に着くのがふさわしいのは、お前たちではあるまい、お前たちは子供たち・若い人たちの手本にもなれない。虚栄、強欲、贅沢、無節操、裏切り、残忍、臆病・・・あらゆる悪の総本山のような者たちではないか。爽やかな零戦パイロットの隣に立つことができるのか、自分の惨めな姿に恥じ入るだろう、勝負あったな、惨めな男が腰を下ろそうとした椅子が腰の下から引かれたので、男は床に尻餅をついた。傍聴人たちが一斉に笑った、男は大御所お笑い芸人だったのである。
「所詮ピエロだ。レジェンドの席に着こうとは不届き千万」
と裁判長はおっしゃった。映像作家も辱めを受けた、レジェンドどころか、もう恥ずかしくて人前にも出られまい。目を背けずに自分の撮ったものを見なさい。平和な民、退屈な民がもて囃したのは、奇抜なものだった。芸人も作家も、クリエーターと称する者たちもそのお囃子に乗って踊ったのだが、大波に乗るサーファーのように鮮やかな腕前だと称賛されたのだが、彼らを担いだ波も引き上げ、祭りの囃子も止んだ。
「彼らはただのインチキマジシャンではないか。全く騙されていた」
観客は白い目で見て、法廷の真ん中に立ったピエロに背を向けた。
「なんだお前ら、随分冷たいんだな。奇抜なもの、刺激あるもの、と求めて止まなかったのはお前たち群衆ではないか。麻薬中毒者のように欲しがっていたではないか」
ちゃっかり傍聴人の席に陣取っている群衆・それまで散々楽しんでいた群衆に、裁判長は言った、
「席替えだ」
傍聴席・観覧席が被告席に変わった。中には報道関係者も多数いたが、まずは彼らが裁かれた、
「いい加減な報道ばかりして。国民を欺いている。煽り屋だ」。
最後に大勢の群衆・野次馬・傍観者も一人一人裁かれた、
「一番の問題は、お前たちが馬鹿なことだ。今更『騙されていた』なんて被害者ぶってもダメだ。お前たちの中には大学まで行った者たちだっている、高等教育を受けた頭のいい者たちのはずだ。欲に流され、欲に正直に生きることは容易い、皆で一緒に流れるプールに浸っていればこれまた楽しい、楽ちんだ。欲には色んな欲がある、自分の心の中をよく見てみたらいい。欲があるのが悪いわけでもない、食欲や性欲など正常な欲もある、肉体維持や子孫存続に必要な欲だ。欲は人間の活動の原動力だ。我欲、自分を中心に置いた欲はよくない。肉欲や情欲は恥ずべきだ」
傍聴席から被告席に移った彼らだったが、最後に用意されるのが審判席だ。私たちは自分が下した審判ーー何が正しく、何が正しくないと審判したかーーによって、最後の裁きを身に受ける。自分の裁きは自分が握ってるってことだ。優秀なプレーヤー、経験豊富なプレーヤーであれば、審判者になったとしても、よい審判・正しい審判をするだろう。誤審ばかりするような未熟な審判者や悪意ある審判者に試合を任せれば、良い試合も公正な試合も望めない。要するに、この世の審判者は私たち自身だと、父はおっしゃる。縁故や賄賂、個人的感情などにより審判が行われるなら、それは不正な世の中だろう、生き難い世の中だろう。誤審が積み重なればプレーヤーは皆やる気を失うだろうし、つまらない試合だ・つまらない世の中だ、と誰もが言うであろう。当時は奇抜だ、新しいともてはやされたものも、今見れば古臭く、面白味がない、ただ歪んだ悪趣味が露呈されるだけだった。同種のものはいくらでも出てきたし、見飽きた人々にとっては・今となっては、作品は不快なだけのもの・胸糞悪いものだった。奇抜なもの、刺激あるものを求めれば、それは底無しの沼のような満たせない欲だ。感覚が麻痺する・馬鹿になるので、もっと刺激の強いもの、もっと奇抜なものとエスカレートする・止まるところを知らない。麻薬中毒者と同じような末路があるだけだ、廃人となるだろう・「スクラップだ」と裁判長の声。鉄屑が溶鉱炉で溶かされるように、地獄の池に投げ入れられるのだろう。悪趣味な小説や映像、こんなもので目を腐らせて、人とは違った何か別の生き物となるだろう・「神は人を神に似せて、神の姿に創造されたのではないか」と裁判長である方は、よだれを垂らした汚物まみれの人から顔を背けた。人の悲鳴や血に酔いしれ、人肉を喰らうような者らから顔を背けた。人間の欲や想像力がどれだけ醜くおぞましいものを生むか、その証明のようなものが溢れる現代社会をつくったのはお前たち自身だろう。彼らは「私は美しい」と言うが、人造人間・フランケンシュタインのように、縫い傷だらけではないか、傷が引きつって美しいどころではない。ぼったくりの医者の仕業だろう。医者という権威を着て、彼ら・彼女らもまあ口から出まかせを言っている。若い方たちはもうそろそろ強い酒にも飽き出した、偽医者が調合した安酒だ、朝起きたら吐き気を催して、床から出られまい。日本は、日本人は、どこから落ちたのか、考えなさい。日本の最盛期はバブル時代ですか? そこから・その時から今まで落ち続けているのですか。バブル時代は落ちた日本人たちの宴・乱痴気騒ぎでした。日本の黄金期はきっと、これからですよ。私もそうなんですが、自分一人に何ができるだろう、そんな気持ちになっちゃうんですよ。だけど、名も地位もない、戦場で戦った一人の若いパイロット、二十歳の杉浦兵曹が神様になったと知れば、勇気が出るだろう、『自分一人で何が出来るだろう』なんて呟くのを愚かしく思うだろう。今から二十年前父が私に勧めた審判者の席を辞退して、自分に似つかわしいのは傍聴席だ・傍観者だ、と私は傍聴席についたのだったが。
「いつまでもその椅子に座ってはいられないぞ。お尻に火がつくまでそうしている気か。立ち上がれ」
「傍聴席には記者もいるぞ。黙って見てないで、それくらいの仕事しろ。平和な国民は、『武器よさらば』と刀のみならず、ペンまで捨てることはあるまい。『ペンは剣よりも強し』」
と父は再び、私にペンを投げてよこした。そう、父が私にペンを投げてよこしたのは二度目だ。私は今から二十年前にも同様の物語を書いた・父は私に二十年前にも同様の物語を語って聞かせた、って言ったでしょう。最後の審判はその時から続いている、この世に生を受けた全ての人間が一人一人審判されるのだから、そりゃ時間もかかりますよ。
「最後の審判が進行中だ。私はその一部を実況中継している」
なんて言っても、信じてもらえないんだろうな。今座っている席に座り続けられる人はいないだろう。大御所お笑い芸人は最後の舞台で椅子を引かれ転倒する(そうして最後までピエロの役を演じ切った)し、映画館の観客は座席に火がつきお尻が焼かれるし、首相も大臣も相応しくないと回転式にその椅子を追われるだろうし、父母もその権威を失墜させる、飛行機のファーストクラスの座席も一掃されるだろう。社長の椅子も、校長の椅子も空だった。この世界を作った重鎮たちは更迭された。通りの立ちんぼが招き入れられ、レストランの給仕係や道路工事の旗振りが呼ばれ、それまでそうして立っていた者・椅子のない者に椅子が勧められたーーこの大法廷が閉じる頃には世の中は激変してると思うんだけど。今私が身を置いているのは私の意識が生んだ世界で、私はそれを塗り替えることが可能だ、意識を変え、世界を変えることが可能だ。
「君が身を置くのが、君の望んだ世界だ。君はそこの住民だ。いつまで流れるプールに身を浸しているんだ」
私は、自分はこの世界の住民だ、この世界から離脱できない、そんな呪縛の中にいるのかもしれない。流れ・世の風潮に身を任せる楽ちんさから抜け出せない。因習に縛られた、つまらない村を出ることは簡単だ。外の世界は広い、私たちの意識に国境・地境もない、超えられない境も、果てもない、どこまでも無限に広がる広い世界ではないか。小さな村・この世界の因習の縄を切るのも新しい世界を作るのも、私たちの意識・認識や心構え、想像や独創性・創造性なのだ。自分の行きたい場所は自分で作ればいい、楽園農をしながら、私は白い大地を目指した。財も若さもない、名もない私であるが、自分の庭ほどの小さな畑を耕作、管理することくらいは出来るだろう。私の畑は聖域・この世とは別の次元の別の世界だった、神のご臨済の場・神の歩き回られる園だった、神の裸足の足が踏むに耐えられる清浄な土をつくろう。そこから植物が生え育ち、それを食べる私たちは病気をしなくなる、子供たちの健やかな心身が育まれる。病気も、老いも知らない、人が永遠に楽しめる、そんな世界が現れ出るかもしれない。大地・土はそんな潜在能力を持っているに違いない。私はそこに永遠という種を落とそう。その木の実は、人を「死」という病から回復させるものだろう。私は種を播くことで、自分の地所を広げて行こう。私は遥か彼方の楽園を見ながら、『千里の道も一歩から』と呟いた。この小さな畑が初めの一歩だった、全てはここから始まるのよ。
神様になった日本人はまだまだいます。二番目に紹介するのは、森川清治郎巡査です。日清戦争に勝利した日本に台湾が割譲され、多くの日本人警察官が治安維持のために派遣されましたが、彼らの多くは村人たちの現状に同情し、正義感を持って真摯に対応し、自己を犠牲にしてまでも村人たちの生活を守ろうとしました。その代表としてよく知られているのが、森川清治郎巡査です。福瀬村という小さな漁村の派出所勤務となった森川巡査は、当時治安が悪かった村の治安改善に尽力しました。また、自費で寺子屋を開設し地元住民の教育に取り組みました。更に、当時蔓延していた伝染病の対策として衛生観念の啓発指導のほか、農業技能の改善などを行って地元の人々から慕われていました。ある時には、海の岩場に取り残され身動きできなくなっている村人を、自らを顧みず危険な海に入り負傷しながらも助けます。こういった自己犠牲の精神は村人たちに尊敬される要因になったのです。しかし、台湾総督府が村に新たな税金・漁民税を設けたとき、千切り芋や葉が食事の「貧しい村民に払うのは無理」と、森川巡査は役所に減税を求めますが聞き入れられず、戒告処分になってしまいます。村人の力になれなかったことに責任を感じた森川巡査は、銃で自害しました。村人たちはその死を大変嘆きました。その後、村に疫病が流行した際、森口巡査が村長の夢枕に立ち、「環境衛生に心がけ、飲食に注意し、生水、生ものを口にせぬこと」と告げました。村民がそれを守ったところ、伝染病が収束したと言うことでした。今では「義愛公」と呼ばれ、土地神様として祀られています。小さな祠かと思えば、写真を見て驚きました、立派な廟にお祀りされています、参拝者も絶えないということです。日本人がアジアの国々を統治したことで、現地の人々の低かった識字率が上がり、劣悪だった衛生環境も改善され、農業や工業の技術・技能も指導され、インフラの整備も進んだ、アジアの国々が日本に感謝したのは本当のことでしょう・嘘ではないでしょう。日本人がこうしてその土地の神様として祀られているのを見れば、本当のことと言わざるを得ません。現地の人々を馬牛のような労働力とみなし、自国に奴隷を連れて来るにもぎゅうぎゅうの船室に人を詰め込み、トイレ設備も与えず人を汚物まみれにさせておく、航海中に亡くなる者も多数、教育も衛生も、何一つ与えずに人を動物の扱いにしていた、鎖に繋ぐ・足枷を着けることさえする、想像するだけでも恐ろしい光景です、それが彼らキリスト教国家の先祖の悪業ですよ。鬼畜かサタンかしれませんよ。そのような人たちに正しい裁判などできるわけがありません。私たち日本人のご先祖たちは濡れ衣を着せられていただけです。人種的差別撤廃を国際会議で初めて提案したのは日本人でした。第一次世界大戦後のパリ講和会議で新しく国際連盟をつくるための委員会において、日本は「人種的差別撤廃提案」をしています。この案は反対され、流されました。当時植民地を抱えていた主要国からすれば、人種差別撤廃などとてものめない話だったのです。侵略国家は日本ではなく、彼らです。アメリカの上院では「人種差別撤廃提案が採択されたならば、アメリカは交際連盟に参加しない」という決議が行われていました。アメリカ国内では人種差別問題は未だ解決されずに残っていて、しばしば問題になっています。人種差別にしたって、銃の所持にしたって、今の社会を見れば、過去が分かります。最後の大法廷では、私たちは正しい裁きを下しましょう。過去に先祖がしたことで、今の人たちを裁くわけではありません。今審判席にいるこの世代の人々が、私たち一人一人が、何を真実とするか、何を正しいとするか、間違いを押し通すのか、間違いを間違いとするのか、正しいことを正しいとするのか、悪いことは悪いとしてこの世界から追い出すのか、それによって・その自分たちの裁きによって、自分たちが裁かれる、それだけです。過去のことについての謝罪や賠償など、誰も求めていないでしょう。ただ悪いことは悪いと認め、これからはそれを捨てると言って欲しい・捨て去る決意をして欲しい、皆が思うことはそれでありましょう。全てに決着がつけられるのが大法廷だ、それなくして、新しいことは始まらない、「新しい天と新しい地」・楽園の到来は望めない。「国際連合」など平和の象徴のように刷り込まれてきましたが、「常任理事国」あれはなんでしょう。中、仏、ロシア(旧ソ連邦)、英、米の5カ国は特別の権利・拒否権を持っています、国連憲章が改正されない限り恒久的・永遠に持っています。皆平等でもなければ、1人1票の民主主義でもありません。偽かけの世界平和や平等です。彼らは過去の悪行を捨て去ることが出来ないのです・永遠に捨て去る気はないのです。一度手に入れたものは死んでも・永遠に手放したくない、がめつい。悪行も利権も手放したくない、それらはコインの表裏。たかがコイン一枚欲しいがために大法廷で「有罪」判決を受けるのか、と裁判長は言われる。どんな証拠がなくたって、今現在の姿・子孫にその姿が反映されている、染み付いて取れやしない、それが彼らが過去に犯したことの確たる証拠である。よその国のことを言っているのではない、日本も今まさにそんな姿になると言っているのだ。3代目は誇り高き日本人ではない、よその国を恋慕った者・偶像礼拝者がいるのだ、自分の夫・真の神ではなく、バアル(偶像の神)に香を焚いた者がいるのだ、偽りの像に手を擦り合わせた者がいるのだ。よその国に擦り寄った者・売国奴がいるのだ、裏切り者のユダがいるのだ。あなたの母はバアル・偶像を慕い、あなたの父は国を裏切った。それが現代日本の誕生秘話である。日本を常任理事国に入れようなんて話もあるが、これ以上徒党を組むなよ、仲間に入るなよ。ただでは抜けられないヤクザ組織だからな。国連憲章を改正しても日本を入れることが自らの利得になると思うようなことがあった時には、彼らはそうするだろう、そうでもなければ分け前が減るようなことをしない、日本は利用されるだけだ。日本は利用価値が高い、日本の価値を知っているのは彼らで、当の日本人はそれを知らない。日本人の金品はいつも狙われて来た。技術でもなんでも金目のものは盗まれた。奴らはギャング集団なんだよ、彼らが日本を仲間に入れようなんて思うときは、抗争・戦争が始まる時だよ。ああいった組織は一度入ると、簡単には抜けられなくなる、ある意味今の彼らだって仲がいいとか悪いとかは関係なく、運命共同体なんだよ。運命を共にしない方がいいと思うな。彼らは互いに仲が良くないが、自国の利益になると思えば、誰とだって・どことだって手を組むだろう、裏切りもへっちゃらだ、過去に起こったことは現代にも起こる・起こっている、よく見れば分かることばかりだろう。彼らの戦争の最終兵器は核兵器なんかじゃない、日本だ。日本はな、彼らにとっても、オレ(父神)にとっても最終兵器なんだよ。最後の切札だ。表を出すも、裏を出すも、日本国民次第だけどな。オレの子孫には賢くあって欲しいんだよ。
さて、日本人が台湾で神様としてお祀りされている、これは偶像礼拝か、色々なことに白黒つけられるのが大法廷だ。
ーーあなたは、わたしのほかに、他の神々があってはならない。
あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。(出エジプト記20:3〜6)
旧約聖書にそう書いてありますからね。モーセの十戒ってやつですね。これをそのまま・字面で読めば、偶像礼拝となるのでしょうね。クリスチャン・元夫Kの解釈がそれですね。一神教のキリスト教から見れば、八百万の神々がいる日本は異教ですし、偽の神を拝む偶像礼拝だ、自分たちの先祖がどれほどの者だと言うのか、仏壇など焼き払え、ってことですよね。神も仏も一緒くたのように見える日本人の信仰心は外国人には理解不能なんですね。けれどですね、クリスチャンよ、キリストは神ですか? 神ですよね。それでは、キリストは神ですか? 神の子ですか? どちらでしょう。神の子であり、神ですよね。父神とキリストは一体であるから、キリストが神でも、神の子でも、どっちにしたってそんなことは問題じゃない、ってことなんでしょうねーー実はこれ大問題ですよ。解けないものは当たらず触らず、キリスト教は誤魔化しの宗教ですよ。神に三位一体のベールを被せて、その神聖なものからベールを剥いではいけない、そう考えることは便利ではありますがね。私は一つ思うんです、キリストは神の子として生まれた、神の子として生まれたキリストが、十字架の死を遂げることでキリストは晴れて神の地位についた。父神がご自身と同等と認める存在・父神自身と同一視される存在となった。「キリストは神であり、神の子である」は、これでスッキリ解けます。神の子キリストが神となるには、父神のご意志を行わなければならなかった・父神のご意志に従って十字架の死を遂げなければならなかった。キリストは父神からの任務を負ってこの地に訪れ、その任務を完遂した。キリストはアダム同様父からの試み・試練を受けた、失敗して、アダム同様神の子というその地位を失う恐れもあった。キリストはアダムの道に進まず・試練に打ち勝ち、神となった。カエルの子は子供のうち・おたまじゃくしのうち「おたまじゃくし(カエルの子)」と呼ばれますが、めでたく大人になると「カエル」と呼ばれるようになります。そんな話だと思います。カエルとおたまじゃくしでは、姿形も存在形態も変わって、住む場所も変わってしまうから、別々の呼称が必要だったのです。十字架上で死に、天に昇って以来キリストは神です。地上とは姿形も存在形態も変わって、住む場所も天になって、神として座している。父神に対しては子という関係にいます・それは変わりませんが、私たち人から見ればキリストは父神と同一視される存在・神です。キリストが地上にいたとき人は彼を「神の子」と呼びましたが、天に昇ったキリストを人は「神」と呼んだのです。キリストでさえ地上を脱出する・肉体を脱出するまで神ではなく「神の子」だったのです。地上で自身を神と称する者があれば、地上の存在を人が神と崇めれば、それすなわち偶像礼拝である。地上でキリストは自身を「人の子」と呼びました。自身を神ではなく、父神のご意志を行う者と定義していました。
再びですが、キリストはなぜ神となったのでしょう。神の子として生まれたから、時が経ち大人になり、そのまま・エスカレーター式に神となった、わけではありません。おたまじゃくしがカエルになるのとはわけが違います。キリストが父神の御心・ご意志に従い、たくさんの人々・万人の命を救うために自分の命を捨てたからです。その姿を見た人々が、彼が自分たちを救うために犠牲の死を遂げたのだと知った人々が、彼を神と認め、彼を神として讃えたのです。台湾の人々には自分たちのために命を捨ててくれた日本人が神様に見えたんだろうな。それのどこが偶像礼拝だ。自分の命より村人の命を優先させた杉浦兵曹も、村人たちを愛し、親のように庇ってくれた森川巡査も、死んだ日本人はキリスト様そのものの姿をしているだろう。丸太や金の鋳物を拝むのとはわけが違う。韓国の人たちが地上にいる・生きている杉浦兵曹や森川巡査を神としたなら、彼らが生きているうちにその像を造って崇めたなら、それは偶像礼拝である。それが芸能人でも、スポーツ選手でも、映画俳優でも、実業家でも、地上に在るもの・生きているものを崇め称えるなら、それは偶像礼拝である。そんなものを褒め称えたり、そんなものに心酔したりするから、子供をそんなものにしたいとか、自分がそんなものになりたいとか、そんな気になる、それ即ち偶像礼拝である、あなたが崇めたものがあなたにとっての偶像になる。褒め称えられた者も自分を何か偉い者だなどと勘違いすることになる。丸太や金の鋳物を拝む方が害がないくらいだ。
キリストは元が・親が神だから、神様になれたんですよ。芋虫はカエルにはなりませんよ。論点をすり替えるな。それは生物学上の話だ。同じ神の子供でも、一方のアダムは死ぬべき者となり、一方のキリストは神・永遠に生きる存在となった。なぜ、キリストは女の腹から生まれたと思う? アダムが土でつくられたように、キリストも同じ材料・土(人の肉体は土に還元される)でつくられなかればならなかった、キリストだけが鋼や他の材料で出来ていたらフェアじゃないだろう。キリストも君らと同様に肉の脆弱性を持ってつくられた、ってことだ。生物学上アダムとキリスト、君たち人間は同じものだ。同じ土の器が人として終わったり、神になったりする。マジックでも何でもない。枝分かれする条件をプログラムしておけば、容易なことだ。元は生物学的に同じものが、人になったり、神になったりする、形態も性質も全く別のものになる。もしや父は、「進化論」を肯定していらっしゃる? 元は生物学的に同じものが、猿になったり、人になったりする、形態も性質も全く別のものになる。
「人間が猿から進化した? そんなことを学校で教えてるんだものな。それだから日本人は・・・。僕はね、会社の課長にも言うんですよ、『課長は大学も出ていて頭がいいですけど、本当に人間が猿から進化したと思ってるんですか?』って。そう思ってる時点で、日本人は・・・」
と日本人を揶揄するようなことを言うのが夫Kだった。キリストが女の腹から生まれたのは、土の器は生物皆同じ、キリストも同じってことを示すためだ。猿で留まるか、人に進化するか、それは大きな違いだな。人で留まるか、神に進化するかくらいの差、天地の差がある。
キリストは、自分についてくれば・自分にならえば、あなたがも神の子供になれると言っているぞ。神の子供が地上を離れれば神だ。杉浦兵曹が神でも、森川巡査が神でも、問題なかろう。
ーー「まことに、まことに、あなた方に告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。わたしに仕えると言うのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、神はその人に報いてくださいます。」(ヨハネの福音書12:24〜26)
人がキリストの道に進む・キリストにならうか、アダムの道に進むか、それが人を人留まりにするか、神の子にするかの、枝分かれ条件・分岐点ってことね。キリストにならうもなにも、そもそも日本人はキリストの何かを知らない、日本人はキリスト教徒ではありませんよ。そうしてまた論点をずらす。キリストを知らない日本人は野蛮人か? キリスト教徒でない日本人は、神の子供にもなれないし、天国の切符も持っていないか? クリスチャン以外は天国に行けない、教会の牧師は何を教えてるんだ。ケチな説教だ、日本人は誰もそんな稚拙なものを聞きたがらないだろう。彼らが説くことは論理破綻してるからな。
「キリストを信じれば、私が死後天国に行けることは分かりましたが、キリストを信じずに先に亡くなった私の父母、ご先祖様は、皆どこに行っているのでしょう、地獄に行ったのでしょうか?」
日本人は日本に布教に来た宣教師に尋ねたと言うが、そんな質問をされ、宣教師たちは日本人ほど布教し難い国民はいないと言ったそうだが、日本人は賢いんだよ。物事を深く考えるし、辻褄が合わない話も嫌いだ。聖書も正しく解釈しなければ、辻褄が合わないことだらけになる。適当に辻褄を合わせた話をでっち上げても、日本人には通用しなかったんだよ。西洋人は、宗教・信仰も個人のものだ。あなたがキリストを信じればあなたはめでたく天国に行けます、が、残念ながら、あなたの信仰であなたの父母、ご先祖様を助けることは出来ないのです、お前の夫のKも同様のことを言っていたな。天国には夫婦も親子もない、そんなものがあるのはこの世だけだ、と言ってたな。お前とも天国では夫婦でも何でもない、って。それが彼の信仰だよ。親子の縁も情もない、
「そんな神様は拝みたくありません」
それが日本人の心情なんだよ。ご先祖様と同じ墓に入る、それが日本人の信仰だ。七五三など神社参りするような日本の行事はやってはダメだ、神棚や仏壇は偶像礼拝だからやめろ、修学旅行に行ってもお守りなど買うな、だって? 上の二人の子供たち(はKの子ではい)がランドセルにお守りなどつけているのを見ると、Kは
「なんだ、これは。こんなものつけて」
と言ったので、Kの息子たちには、
「お守りなどは買ってはいけないよ、パパはそういうのを嫌うから。そういうのはパパには見せないで」
と言って聞かせてあった。だが、死んだ息子(Kの子)は高校で修学旅行に行った際、自分にはサッカーのお守り、私には「健康長寿」のお守りを買って来た。信仰告白もせず、バプテスマも受けずに死んだ息子、偶像を買い求めていた息子は、天国に行けていない、と言うことだろうか。なにびともキリストを通してでなければ、永遠の命には至れない、というキリスト教の教えであるから、息子は天国も、永遠の命も、復活も逃してしまったということだろうか。
ーーイエスは彼らに言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通しでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。(ヨハネの福音書14:6)
けれど、息子の死の直後、Kの弟は、あなたの息子は既に天国・神の御許に行ったから安心して下さい、と自分の兄を励ましていた。Kはその言葉を信じ、心の安らぎを得ていた。キリスト教は厳しい言葉で人に戒律など与えるが、その解釈は案外ご都合主義だったりする。Kは、自分の母親に仏壇を捨てさせキリスト教に改宗させた姉のことを非常に尊敬していた(耳にタコができるほど私に話して聞かせていた)が、姉のお陰で母親は天国に行った、信じなかった父親はどうかな? 行けてないんじゃないかな、と言っていた。キリスト教とは一家離散、夫婦別居の宗教なんじゃないか、そんな神様がいるから戦争など起こるのだ、と日本人が疑っても仕方のないことである。言行一致の日本人・約束を守る日本人からすると、西洋人の広めるキリスト教はちぐはぐなんだよ。キリスト教は死んだら天国なんてことを売りにしますがね、天国を「キリストを信じたあなただけの特権です」と言うために、天国に対する地獄を設定したり、特権主義や報酬主義、刑罰主義なんだよね。だけどさ、死んだ息子は天国に行ってます、って言われて救われるKの姿を見ても分かるように、宗教は死んだ人のため・死後に救われるもの・死んでからどうこうじゃなくて、生きている人をなぐさめるもの・救うものなんじゃないかと思った。宗教が必要なのは生きている人間だよ。本当に死んだ息子・死人の行く末を案じているんなら、私はKのような反応は出来ない。死んだ息子は天国で楽しく暮らしている、生きている人間が自分に都合よく処理したに過ぎないではないか。父親、祖母、息子、その他の人たち、愛する者たちが多く向こうに行った・愛するものたちを多数見送った後で、そこ・向こうの世界は私にとってとても近く親しみの持てる場所のように思われる、若い時にはなかった感情だ、子供の頃は死や死後の世界は怖いものだったし、若い時にも死は最悪のもの・許し難いもの・敵だったのに。今はそれを許容しているのだ、『自分もいつかそこへ・死んだ人々と同じ場所・愛する存在がいる場所に行く時が来る』とその日に対して心待ちにも似た感情を持っている、その再会の日に思いを馳せた、彼ら愛する人々と再会するその日が自分にとっての救いの日だと思った、そうして残された日々を慎ましく送ることが残された者・ここにいる者のあるべき姿・出来うるべきことのような気がした。それは夫はじめ多くの人を見送った祖母の生活の仕方だったし、仏壇の前でしみじみとした顔で何か語りかけたそうな祖母の姿でもあった。彼らのいる向こうの世界は、自分の近くに・日常にあり、親しみ温かみ甘みまろみのあるものとして感じられる、あたかも、愛する人たちのいるそこが我が家ででもあるように。日本人にとっての天国とは、愛する者と再会を果たす、永遠に離れない、実在の場所だったのではないか。終の住処・我が家だったのではないか。
「キリストを知らずに死んだ私の親はどこに行ったのですか・どこにいるのですか?」
親も家族もない場所が天国では納得が行かなかったのである。そして、どこか遠くの自分の生活と離れた・無関係な非日常が向こうの世界ではなく、この世界と向こうの世界は繋がっていたのである。自分たちの生活の中にご先祖や先に旅立った人たちは生きていたのである。天国がどんな場所で、誰がいるのかも分からないと思ったら、そんな場所に行きたいとも思わない、天国など思い描くのもバカらしい架空の場所になってしまう。自分たちの先祖も愛する人たちも皆同じ場所にいる、自分もいつかそこに行く、天国と地獄(自分は天国で、あいつは地獄)なんて分けをするのをバカらしく思うのが日本人だ。日本人というのは案外現実的、理知的なんですよ。おとぎ話に騙されたりしない、おかしな夢を見ないんです。あんな花畑や地獄の池の絵を見せられても、花畑は一人で散歩しても退屈そうだし、地獄の池も気持ち悪いけど真の恐怖が湧かない、子供騙しに思えてしまうんです。天国など、死ねば辛い世の中から解放されますからね、それまで辛抱してお生きなさい、そんな慰めや楽観主義に思えてしまう。現世について希望や救いを与えられないから、貧困で虐げられた惨めな人々が自棄を起こさないよう、死後の世界に意識を移させる・天国に希望を置かせることで、民衆をおとなしく抑えておきたいのだろう。天国を与えることによって、民衆に現実逃避の場を与える、ひどい現実から意識を背けさせる、この世に希望を置くな、希望は天国にある、と教えを施す。死後の世界・地獄の刑罰で恐怖を植え付け、この世界で悪いことをしにくくなるよう、仕向けているのだろう。キリストの教えにより人に良心の呵責を教えるのもそのためだ。それって全部いらんものじゃない? 天国地獄なんて報酬がある時点で、嫌いだーーえっ、今私とハモったのは死んだ息子? 私はね、息子がお守りを買って来てくれたってことは、今思うと、息子の信仰告白だったんじゃないかと思うんです。
「僕はパパと同じものを信じていません」
ってね。賢い子でしたから。
偶像礼拝ってのは、神棚とか、仏壇とか、像だとか、そういった形のあるものじゃないと思うの。自分の恋い慕うもの、それが偶像なんだと思う。偶像礼拝ってのはな、自分の恋い慕うものが偶像になるんだよ。オレはお前に欲しいものを何でもかんでも与える父親じゃないんだよ。夫も、息子も、家族も、お前にとっての偶像だ。お前の心が真に正しいものでない限り、どんなものも・どんな良いものですら、偶像になりうるんだよ。人の曲がった心が作るのが偶像だ。そのまやかし・偶像が人の心や人生を振り回す。オレは物事を正す神だからな、オレの愛はお前には分からなかったろう、オレの愛はお前を喜ばす(ものを与える)ことじゃない、正すことがオレの愛だ、お前に正しいことを教え、世の中を正すこと・世の中を正すような人に育てることだ、それがオレの愛だ。今やっと分かって来た、神の愛は「義と公正」、それが父神の広やかな愛。お前が自分の夫や息子に頼まれたらどうだい、自分の息子の命と隣の息子の命を天秤にかけたらどうだい、まあ命とまで言わなくても、一つしかない美味しいものをどっちに食べさせたい? 正しいことは簡単に曲がってしまうんだよ。口できれいなこと言っても、他愛だなんだ言っても、曲がってるんだよ、お前が教会で感じる居心地の悪さはそれだろう、誰も自分が曲がっていることに気づかずに、嬉しそうに笑ってるんだよ。杉浦兵曹も森川巡査も、笑ってなどいなかったろう、本当に人を助けるとはそういうことだよ。自分を犠牲にしなかったら、一つしかないものを与えられなかったら、偽善でしかない。ほんのわずかのものを与えて、それで相手が喜ばなかったからって、不愉快になる、牧師の奥さんもどうかしてるな。金が必要だと言って訪ねて来た女に、台所のおかずを持たせようとする。そりゃ、そんなものいらない、教会など役にも立たない、物乞いの女が言うことの方が、オレには正しく聞こえる。物乞いの女は、自分はこんなところに来て、辱めを受けた・恥をかいた、そう思って帰って行ったよ。牧師の奥さんが
『なんて失礼な、恥知らずな人でしょう』
という思いで物乞いの女を見送る時点で、物乞いの女の言い分の方が正しくなってしまう。彼らが喜んでする施しは、自分の徳のためだよ、『自分は神様に喜ばれることをした・している』そうして自分の心を喜ばせるためだよ。
「あなたの息子の命を下さい」
と言われて応じられるか。自分の息子も隣の家の息子も病気で薬が要るが、薬は一つしかない、その薬を隣の息子にあげて下さい、船が沈む時救命具ボートに自分たち家族が乗るか、よその家族に譲るか、それが本当の施しだ。それ以外のちんけな施しに過大な自己評価を与えている、教会の中にいるのはそんなクリスチャンばかりだ。
「だから私は教会になど行きません」
愛想笑いしてないで、はっきり言ってやっていいんだよ。正直なことをいう物乞いの女の方が、お前より偉いよ、格上だ。天上での私の地位はこうして下がっていく。私はこじき女よりも下、末席に座っていた。
「夫婦共、クリスチャンホームの鏡みたいな顔してさ。そうしたきれいに見えるものでなくては愛せない。物乞いや娼婦や前科者を愛せる器がない。すぐに眉をしかめたり、恐ろしげなあるいは困惑した表情を浮かべたり、顔色が変わったり、そうして敵意を表に出してしまう。教会から離脱して、おかしなことを言う私は、彼らにとっては物乞いの女と同様に、罪深い、理解不能な、憐むべき存在なのだ。あなたたちに私の腹が見えなくても、私にはあなたたちの腹が素通しだった」
そうだ、人は自分の思うことを言えない相手を憎く思ったり、蔑視したりするのだ。私が教会に行くことを疎んだ理由は、彼らが私にとってそのような存在であり、彼らと交わることで自分の心の中に何かしらの悪感情やが湧くことが嫌だったのだ。そういった悪感情は私を消耗させた、教会は私が猫を被らなければならない、疲れる場所だったのだ。私はいつも、牧師に値踏みされているような気がしたし、気づくと私自身も牧師を値踏みしていた。取り繕った関係だった。私は牧師を信用も、信頼もしていなかった、敬意も払っていなかった、それで教会に行くのは実はしんどい、それでも教会に通い続けていたのは、私はそこに人ではなく、神に会いに行っていたのだ。けれど神が、私の自宅まで押しかけ、私の名を呼び、始終話しかけてくるようになったので、私は教会に行く必要がなくなった。牧師夫妻は私に信仰の脱落者というレッテルを張っただろう、想像に難くない。先に教会を離れて行った人たち(彼らは別の教会に移籍したのだが)に対して、牧師夫婦が口にしたことを私は聞いている、私に対しても彼らは同様の気持ちを持ったであろう、
『散々面倒見てやったのに、恩も知らない人たちだ』
などと。潜入捜査の報告書はそんなところだ。教会に行って私の良心が傷むなら、教会など行かない方がいい。
ついでに言えば、息子が倒れたとき、Kが牧師先生に連絡を取るように言うので、十年ぶりほどに私は連絡した。電話口に出た牧師先生は、私が息子が病院の救急治療室にいることを告げていたにも関わらず、第一声、
「ハレルヤ! 主に感謝します」
と喜びに満ちた、張りのある声を発し、私を驚かした。
『牧師という人は、こんな時も、「ハレルヤ!」と言えるんだ、喜べるんだ』
私の落ち込みや苦しい気持ちにお構いなしに発せられた「ハレルヤ!」の言葉に、違和感を感じた。常人とは違うんだな、よい気持ちはしなかった。私は、神が私をつくり変えていったように、時が経ち、牧師夫婦もまた神によって変えられているだろうと思ったが、夫婦共に相変わらずだった。息子が亡くなり、葬儀の準備で忙しい思いをしていた時、教会の奥さんから、明日の3時に教会のご婦人と共に訪問するという旨のメールが入っていた。忙しかった私はそのメールへの返信を忘れてしまい、気づいた時には指定時間の3時を過ぎていた。慌てて奥さんに電話をして、
「人もたくさん来ていて、忙しかったのです。メールに今気づいたのです」
と謝罪を述べると、
「行きませんから、もういいです」
とピシャリとした返事が一言。私は落胆して電話を切った。息子を亡くして落胆しているというのに、こんな時に、私はこんなことでまた落胆しなければならないのか、私は疲れを感じた。次の日は通夜のようなものだったが、一番最初に弔問してくれた息子のサッカー部の先輩親子は、まだバタバタしていた私に、
「私たちちょっと早く来過ぎましたね。ごめんなさい」
と言った。勿論彼らは早過ぎたわけでなく、時間通りだった。牧師夫婦よりも一般人の方が気遣いも礼儀もある。こちらの忙しさも察せず、一方的な時間指定の訪問のメールを寄越し、謝罪の電話にも冷たく不機嫌な声を返した牧師夫人と比べ見てしまった。彼女の中には、
『せっかく私たちが訪問してやろうと思ったのに、無視して』
と、『してやろうと思った』のにという独善と、私たちの善意を『無視して』・『どうせ私たちに会いたくないんでしょう』という悪意の解釈があった。彼女はそうして自分を徳のある人間のように思いあがり、私を恩知らずや分からず屋のダメ人間にしてしまうのだ。葬儀に訪れた牧師夫人と教会のご婦人の応対を私の母がしていたが、私は遠めに見ていた。最後に奥さんが私のそばに寄って来て、機嫌を直したように、穏やかに笑顔で話しかけて来たが、私はいつもの取り繕った微笑を浮かべるだけだった。牧師夫婦に対しても、夫Kに対しても、私はあきらめのような感情を抱いていた。彼らは自分たちの信仰を誇示している分、それ以外のものや人には不寛容なのだ、理解を示そうとはしない。
日本人は教会にも行かず、キリストを知りもしない。日本人がキリストを知らないって? 日本人は「キリストはぶき」なんだよ。「キリスト省き」が「キリストは武器」って変換された。誤変換が多いな、外国のパソコン使ってるんじゃないか。西洋人が広めるキリスト教・聖書は、彼らが誤変換・誤解釈したものなんじゃないか? と父。父が私に洗礼まで受けさせ、教会内部に潜り込ませたのは、私を信者にするためではなく、これも潜入捜査・極秘調査・スパイ活動だったのよ。教会に行くと「愛、愛」って言葉が飛び交うけどな、日本人にとってこの「愛」って言葉はなんかしっくりこないんだよな。元々・古く日本にあった言葉なのか分からない、キリスト教の布教と共に使われるようになった言葉・loveの翻訳語だ、と聞いた気もする。「愛」の輸入で「情」が「情愛」になり、「愛情」になり、「愛」という言葉が独り立ちした、のかもしれない。ついでに「恋」なんて伴侶も連れて「恋愛」となる。愛は奔放、どんなものにでもくっつくことが出来る便利な言葉だった、「博愛」「家族愛」「友愛」「自己愛」「自愛」「金を愛する」「熱愛」「恋愛」「求愛」「愛妻家」「愛人」・・・。「情」の方は「薄情」「家族への情」「友情」「情熱」「風情」「情夫・情婦」などと使うが、「自己を愛する」「金を愛する」などの使い方はない。「情」の意味には、感情・自己の内側を離れた「実際の様子。有様。状態。情況」などもある。更には「本質、性質」などの意味もある、「さるほどに万物の情をよく究て」(史記抄・孟子)。辞書は引いてみるものですね、「私情」と自分と情をくっつけたのがありました。やっぱり人間の心の中には利己的な部分があるんですね。だけど「自己愛」という言葉に感じるインパクト・自己顕示のようなものが、「私情」には感じられず、大人しめ・控えめ、その言葉に対する日本人の負い目を感じる、と感じるのは私の個人的言語感覚かとは思うが。「私情を挟む」「私ごとですみませんが」などこの言葉の使い方を見れば、やはり日本人が「私ごと」に負い目を感じていた・すみませんという気持ちを持っているということが知れる。「愛」についての個人的言語感覚を言えば、押し付けがましい、自分から相手に発せられる感がある、「情」の方は相手によって自分(の心)が動かされる、あくまで相手主体、そんな感じです。「情が深い」「情に厚い」「情に脆い」「情に絆される」「情をかける」「温情」「情け深い」日本人は情と言う言葉を多く使っていたようですが、『俺だってそんなことをすれば自分がどうなるかくらい分かっているよ、だけどそうしたいんだ・そうせずにはいられないんだ・黙って(見て)いるわけにはいかない・助けてやりたいんだ』それが・そんな相手本意な姿が情の本質ではないかと思う。キリスト教が「愛」を持ち込む以前に日本人にあったのは「情」だったのではないか。言葉にはその民族の思想や価値観が反映されている、母国語を大事にしなければならないわけである。「情感豊か」な日本人と愛を押し売りする宣教師(愛にはそんなゴリ押し感がある)。愛するのも憚られる、そんな強烈な感情を相手にぶつけていいのか、相手は対処に困るのではないか、それが日本人である。愛にある自己中心的なもの、強烈な自我、自我の表出・発散、日本人は愛の裏側にあるものを見抜いていた。愛は「諸刃の剣」ーー一方では非常に役立ったり大きな利益をもたらしたりする一方で、使い方を謝ると自分自身にも大きな害や危険、損失を与えるものの比喩」。時に相手も自分も傷つける、日本人が愛に慎重なわけです。日本刀は基本片刃、古墳時代には両刃の剣も存在していたが、武士が使う日本刀は片刃だった。海賊が振り回したのが両刃の剣。「愛」というのは心地よい言葉であって、教会でも大手を振っていましたが、私はその愛に何か独り善がりな、押し付けがましさを感じてしまったのでした。宣教師たちの独善、詭弁、偽善に、日本人は引いてしまうのでしょう。治まりがよくない・しっくりこない、日本人に他国の宗教は人気ないのである。だけどね、日本人ほどクリスチャンらしいクリスチャンはいないのではないか、台湾で神様になった日本人たちの話を聞いても、私は思うのである。日本人こそキリストの精髄を知っている・知ることが出来る、真のクリスチャン、そう見えるのである。偶像を拝しているのは自称クリスチャンの彼らの方なのではないか、彼らはありがたいキリストまでも偶像・役に立たないものにしてしまった。キリストの何かを知らない偽クリスチャンは彼らクリスチャンの方じゃないか。杉浦兵曹も、森川巡査も、民のために自分の命を投げ出す、キリストそのものじゃないか。父神は、大法廷で、Kと私の論争にも決着をつけ、宗教戦争を終わらせてくれるというのだろうか。論理展開がスムーズな頭のいい父が私の弁護についてくれていれば、勝ちを取るのは固い。台湾は日清戦争後から50年間日本の統治を受けた、言わば養子のようなものだ、日本の魂が染みついていたんだろうな。日系三世(夫K)はもはや日本人の魂を忘れた。日本人はどちらを子と呼ぶだろうか。日系三世は生物学的に言って、日本人を親や祖父母としている。Kなど両親共に日本人なので血においては純粋な日本人である。にもかかわらず、「日本精神」という言葉を残し、日本人の偉大さに証の宮を建てた台湾人の方に、日本人は好感・親しみや感謝を抱くのではないか。アダムが子を残して死んだのと違って、キリストが子を残さなかったのは、なぜか? キリストが子と認める・子とするのは、生物学的な遺伝子ではない、自身の精神・魂を受け継ぐ者を子とするからであった。キリストの霊魂は「聖霊」と呼ばれ、それは弟子たち・クリスチャンに分け与えられるものであった。キリストが持っているのが完全な神の御霊・「聖霊」である、その聖霊・キリスト自身が人に分け与えられる、人は小キリスト・小さな神・神々(父神=キリスト)の分霊体である。神が持つのが御霊、キリストが持つのが聖霊、人が分け持つのが御魂、それらは同じものであるが、誰に属するかで呼び名が違っている。御霊と言えば父神を表し、聖霊と言えばキリストを表し、御魂と言えば人(の魂・いのち)を表す。名前が三つ・三者がいるが、実は一つの存在・同じものである。三者の実態は一つ。「父神、御子キリスト、御霊」の「御霊」部分は「御魂」・人であった、そこが完成して「われわれ」三位一体神は完成する。キリストは砕かれた神の器である・キリストの肉の器は砕かれた、肉の器・肉体を持つのは「人」である、人の器が完成し、それに御霊・神の霊が注がれれば「御魂の人」の完成である。御魂の人が完成して、神は自身の肉体を得る。一つの器・容れ物・肉体を三者が共有するのである。砕かれた器キリスト・肉体を持った神は、こうして御魂の人となって復活する。キリストの体の復活体が御魂の人・「われわれ」と呼ばれる人である。われわれは一つ御霊の一つ体の存在である。神は「霊」であられるが、「霊」は活動する力・エネルギー、全ての創造の源のスピリット(霊感)、源泉の魂・魂の元締・いのちの源。その霊なる神は多重人格である、自身の中に無数の「御魂=人」・人格・個性を存在させている。われわれ人は神の中に内在されている、われわれ皆で一つの神の体を形成している。多数・多人格でありながら唯一・統合体、「われわれ神々」として存在するのが完成された人の姿である。神の中にわれわれ人がおり・内在し、人の中に「われわれ」と呼ばれる神がおり・住まわれ、「われわれ」という神人が完成する、「神人」つまり新人類が出現する。それすなわち神の完成体である・肉体を持った神の完成である。神は自身の御霊(それすなわち永遠のいのち)を人という器に注いでくださり、人は聖化された肉体を神殿・神の宮として神に捧げる、互いの与え合いである。神と人、両者は互いを与えることで同時に新たな存在・神人一体として完成する。
ーーその日には、父がわたしにおり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。(ヨハネの福音書14:20)
とキリストは仰いました。要するに、誰が誰だか分からない。自も他もなく「われわれ」である。
(以上、「背徳のカードゲーム」エピソード133「英霊」より)
(2026年記)こんな具合に神のお裁き・最後の審判は進んでいます。今現在も続行・進行中です。これまで地球上に生きたすべての人々・全人類のお裁きがされるわけですから、そりゃ時間がかかりますよ。10年も20年も。で、神は言うんです、
「お前もいい加減傍聴席に座ってないで、審判席・陪審席に座ったらどうだ」
この世界で起こっている様々なことについて、陪審員は審判・お裁きを下さなければならない。せっかく神が裁きの座を用意している・そこに座るように勧めているのに、世の多くの人々は傍聴席にいる、世の中の出来事をただ傍観しているってこと。映画館の席に座ってスクリーンでも見ているように、彼らにとってはどんな世の中の様も娯楽でしかないのだろう、自分の尻に火がつくまでは立ち上がろうとしない、と父神は言う。
「裁きの座に座って、被告人を裁け」
父が私に言った。被告人の席にはキリスト・イエスが座っていた。裁き主キリストが被告席に座り、私(罪人である人)が裁きの座に着く、まるで逆転劇ではないか。神の国が来る時には天地がひっくり返る・逆さまになるって言いますから。天のもの・天の万象も揺れ動き、地上に落ちて来ると言いますから。今まさにその時なのではないか。しかしながら、いまだかつて神キリストを裁いた者はいるのか。世界最大の信者数を持つキリスト教の神を、誰かが公に非難している姿を見聞きしたことがない。そんなに大勢の人々が間違ったものを信じるはずがない、それだけでもキリストの正は認められているのである。聖書の言葉も耳障りよく聞こえる、悪い教え・悪い神様ではあるまい、と誰もが思うのである。世界のベストセラーにしてロングセラーの聖書は権威ある書物である、キリストはその権威のお墨付きなのである。尻込みする私に、
ーー恐れるな、わたしがあなたと共にいる。たじろぐな、私はあなたの神だから。(イザヤ41:10)
言葉を送る父だったが、それだって聖書の言葉でしょう。
神であり王であり裁き主であるキリスト様を、私がお裁きする。恐れ多いことですが、「女は度胸」ーーかつては「男は度胸、女は愛嬌」と言われましたが、男女もひっくり返った・逆転したってことでしょうかーーと私は裁きの座に上がった。
日本にはキリストが大勢いました。彼らは信念を持って戦い果てました。命を捨てても伝えたいメッセージがあったのです。世のため人のために喜んでその命を犠牲にしました。それがご先祖たちの多くがしたことでした。そうしてご先祖たちがつくり上げたのが犯罪が少なく、街が清潔で、住みやすく、世界一安全な国日本です。日本国の安全神話も崩れ始めていますが。皆己の信念に忠実に生きた・信念を貫いた、自分が大事だと思うことのために命を使ったのです。西郷さんとその民は戦いに敗れましたが、彼らは自分たちが大事だと思うもののために命を捨てたのです。キリストとその弟子たち・追随者・クリスチャンはどうでしょうか。キリストには自分の命を差し出すに、世の人を救うという大義名分がありました。そのキリストに従った・その後を追った人々はどうだったでしょう。キリストを信じれば(を「損じれば」とタイプミス。私の指も震えているのでしょうか)天国に行ける、人々はそれを信じて彼について行ったのです、それって自分のため・自分が天国に行くためじゃないですか、キリストを信じなかった自分の親兄弟が天国に行けないと聞けば、なおさら自分だけのため(の宗教・神様)って気がします。実際キリスト教はそれを売りにしています。信じたあなたは救われます、信じない愚か者に天国の扉は閉ざされています、あなたは神に選ばれたのです、神に招かれてここに来たのです、と選民的思想です。それに対して彼らは
「ハレルヤ! 救われました」
と喜び叫ぶのです。自分だけ救われて何が「ハレルヤ(神を褒め称えます)」だ、自分の親も救ってはくれないケチな神様だ、と言う日本人の方が正しいです。全世界(の民)が救われて「ハレルヤ・晴れるや!」だろう。そのために・そのような世界を作るために・そのような世界を信じて、われわれのご先祖たちは命がけの戦いをして来たのです。皆でぞろぞろとキリストについて行き、十字架の上で命を落とす。それに何の意味があったのか分からない。彼らは誰かを庇って・誰かを助けるために、自分の命を差し出した・犠牲にした、わけではなかろう。それをしたキリストを崇め、彼のようになりたいと彼をヒーロー視し、その真似をした、子供がアンパンマンやスーパーマン、仮面ライダーに憧れて真似をするレベルである。自身のどんな信念・志・燃える思い・伝えたいメッセージもない。キリスト・神のご意思を伝える、と言えば聞こえ良いが、彼ら個の生き様が見えない・伝えたいメッセージ(魂の叫び)が聞こえて来ない、キリストとの同化があるだけである、彼らはキリスト(ヒーロー)とその身を重ねたかっただけである。十字架の上で裸のキリストに身を重ねた彼らの姿はどこか卑猥でもある。西郷は民に、おれの体をお前らにあずけると言ったが、それは西郷は「先生、戦いましょう」と言う民の熱い思いに熱い思いを返したのである、「わたしにについて来なさい」と言うキリストとは逆の関係がそこにはある。西郷と民は同じ思いの運命共同体である、死ぬ時は一緒だ、そんな一体感ですが、個としては自立しています。個としての自分自身の思いがあり、その同じ思いを持つ者たちが、その思いを実現すべく西郷のもとに集結した。西洋は個人主義と言う割に、キリストと民の関係を見ても、個の志が見えて来ず、フォロワーたちはキリストに染め上げられている。キリストについて行く自体が志であり、何千万何億の人が十字架の上で命を落しても・キリスト様に命を捧げても、そこには西郷と民が命を散らしたような、華々しさも、心揺さぶられる様もないのである。キリストの弟子の一人が逆さ十字架の刑に処せられた、勇敢な一人が谷底へ飛び込んだ、それを見た次の一人が飛び込む・『俺の番だ、みんなよく見ていろ、俺のヒーロー的様を』、熱狂した人々は、我も我もと次々に飛び込んで行く、それがフォロアーたちの姿であるように見える。聖書には、キリストが人に憑いたサタンの霊を一喝で追い出し、それを豚の群れに移させる・憑依させる、すると豚の群れはもう突進で谷底に落ちて行く、そんな記述があるが、失礼ながら、そのシーンが思い浮かぶのだ。ゼロ戦の若いパイロットが煙の出る機体を民家のない安全な場所に着陸・墜落させようと操縦し、自分の命を犠牲にする、そんなヒーロー的要素が見当たらないのである。遥か上空、若いパイロットは一人で決断を下した。誰に指図されたわけでもない。責任感の強い巡査は銃で自害した。自殺は一番の大罪だ・地獄に落ちる罪だ、と夫のKは言ったけれど、私にはキリストのフォロアーたちが、キリストにラブコールを送りながら、後追い自殺したと見えるのだが。
ーーわたしについて来なさい。わたしが真理であり、道であり、わたしを通してでなければ、誰一人として神のみもとに行くことはできないのです。(ヨハネの福音書)
ハーメルンの笛吹男・ほら吹きのキリスト・イエスを有罪とします。我らのご先祖が証人です・証しました。エホバの証人が神を宣べ伝えたのではありません。キリストを知らなかった・拝まなかった我らのご先祖たちですが、彼らが証したのが神です。「キリスト省き」なご先祖たちでした。「わたしを通してでなければ、誰一人として神のみもとに行くことはできないのです」そんな教えを施したキリストを、ご先祖たちは一喝した。「一喝」の意味ですが、「禅家で、悟りを得させるために用いる叱咤。喝」。ただ大声で叱り飛ばすのが我がご先祖たちではない、悟りを得させる、そんな愛情があるのです。ご先祖たちの一喝が人々の中に入ったサタン・悪霊を追い出すといいんですけどね。キリストのフォロワーに見るのは、ヒーローに憧れる子供、親を慕い後をついて行く幼児、キリスト頼みな姿です。キリストに頼っているだけでは、いつまで経っても神の国・地上の楽園は到来しません。日本は小さな神の国・神の国の雛形だったのかもしれません、少なくとも我がご先祖たちはそれをゴール・最終到達地に国造りをしていたのでしょう。彼らが掲げた大義・スローガン「大東和共栄圏」・アジア諸国と共に作る神の国構想は、「軍国主義」という濡れ衣を着せられましたが、海外進出したご先祖たちを見てください「軍服を着たキリスト」です、それが真の姿ですーー海外から今、彼らにどんな評価が届いているか、聞いてみて下さい(YouTubeなどでもたくさん動画が上がっています)、たくさんのキリストがいたことが証言されています。植民地支配の先鋒がキリスト教の宣教師でした、海外出兵の先陣として諸国に入って来たのが宣教師でした、「侵略者の手先」それが彼らの裏の顔。サタンは巧妙、最もいそうにないところに堂々と君臨し・その堂々たる様こそが隠れ蓑、民衆・大衆を支配・コントロールします。最も紳士な顔で人を欺きます。最後の審判ではその裏の顔が暴かれて行きます。われわれ一人一人の裏の顔も明らかになります・全人類がお裁きを受けます。大法廷の舞台のカラクリは見えたでしょうか。裁きの座に着いていた者が被告席に座らされ、傍聴席にいる者らがまた被告席に座らされる。最高裁で有罪判決は覆され、罪人は逆転勝利を得る。地上の人々に割り当てられた裁きの座・陪審員席はまだうまっていなかった・むしろガラガラ状態だった。天の席はほぼうまっていた・ほぼ満席状態、VIP席が残されているだけだった。
キリストのフォロワーたちは、キリストに熱狂し・心酔し、十字架の上まで着いて行ったけど、いわゆる殉教ですね、自身の信じるもののために命を懸ける・命をも捨てる、何か立派な行いのように言われますが、そこに感じるのは、もののあわれ・人の心を揺さぶるようなものではなく、どこか陳腐、アイドルに熱狂し気絶するファンみたいだ、そう、彼らのしていることが正にそれ・偶像礼拝なのだ。側から見たら狂信者の群れ、その群の中では共鳴を呼ぶが、その他の人たちには伝わらない・理解できない。十字架の上で殺される彼らを、人々は『かわいそうに・気の毒に』と思うが、そこにヒーローに送られる喝采はない、われわれのご先祖様がヒーローになった・人々の喝采を受けたのとは違っている。高名な弟子がキリストの名の故に自身の命を捨てても、その命が誰か他人の命を救ったわけではない・自身を身代わりに他人を救ったわけではない、彼らが人に惜しまれない・人からの感謝を得られない・人の心を揺さぶらないわけである。自身の信念に忠実であったこと・信念を貫き通したことは認めるが、その行為が誰のためだったのであるかと言えば、自身の信仰の勝利を勝ち取るため・自分が天の国に行くため・そこで身分を得るためだった、彼らの信仰は他の誰をも救わなかった、自身を救うことがせいぜいだったのだ。自身の親でさえ救えない・天国に連れて行けない宗教である。電車の来るホームに飛び込み自身の命と引き換えに他人の命を救った青年を人はヒーローと呼ぶが、十字架の上で命を捧げたキリスト者・クリスチャンに人は同様の念を持てないのである。要するに彼らはキリストという偶像を拜していたが、そこにキリスト・「犠牲の愛」の実態はなかった、その彼らの信仰が本来ありがたいキリストを偶像・役に立たない代物としたのだ・腐らせたのだ。
「ハレルヤ! 救われました。われわれは世の罪人たちとは迎合しないでいきましょう」
そんな教会の牧師の言葉に興醒めした次第である。キリストを信じたわれわれにあるのが天国、信じない世の人々に惑わされないようにしましょう、そんな小さな・ちっぽけな群れが実際の・現実のクリスチャンである。彼らが十字架の上でキリストに身を重ねたというのは、欺瞞・自己満足である。キリスト被り・真にキリストに身を重ねた・キリストを具現したのは、我らのご先祖様の方である、異教の名も無い青年の方である。彼らのキリストという被り物は、自身を小キリスト・キリストに似た者とするクリスチャンには見えなかったのだろう。教会に行って信仰告白した者・洗礼を受けた者がクリスチャン、その定義は間違っていたのである、それで救われたと安心する牧師も間違っていた。そんな彼らゆえに、キリストは2000年も未だ十字架の上である。彼らはキリストを担ぎ上げた・祭り上げたまま、十字架から2000年も下げ降ろししていない。
「キリスト様、ご苦労様。お役目は私たちが引き受けました」
と言った・その役を引き受けたのは、異教の民だったのである。キリスト教に見る殉教は、信仰の勝利者の姿というよりは、後追い自殺・「愛は盲目」・盲信、その狂信(共振・強心・狭心)ぶりはカルト的である。キリスト教はカルト宗教の元祖・生みの親・トップバッターであった。世界最大のカルト集団である。大群・大軍率いてやって来た。大群衆を惑わし、諸国に大軍を送ったサタン・悪魔崇拝者たちがいたのだ。彼らのトップの化けの皮が暴かれた。
私にとって聖書の言葉も気にくわないものになっていた。聖書ではこの世界の頂点に人を置き、人に「支配せよ」と申し述べている。人間が一番偉い、その偉い人間の殺生与奪権を握る神様、そんな話だ。女は蛇に騙される低脳な存在として描かれる。日本は男尊女卑、それは間違いだ。男尊女卑が根底にあるのは、レイディーファーストを掲げる西洋の方だ。よくもまあこんな話をでっち上げ、大群衆に信じ込ませたものだ。全てが逆バージョン、物語を全て反転させている。表に出しているものと、裏の顔は別・隠れた裏がある。伝統的日本の考えでは、大事なものは隠す・見えにくい、真理は隠されていた・探求するものであった・歳月かけてたどり着くものであった。堂々と真理を公言する宗教・大事なことを軽々しく教えるようなものは信じてはいけなかった。彼らは言葉巧みに人を言いくるめる。この世界は間違った土台・教えの上に建っていたのだ。反転の世界だ。大群(集)・数の力と大軍・軍事力が治める世界だ。彼らの影響力は凄まじく、大群衆がマインドコントロール・愚民状態に陥っている。最初のエバ・女はエデンの園で騙されたが、最後のエバ・女は騙されない・サタンを成敗する。
(2026年追記) 私は大法廷の中で傍聴席にいた。
「お前は自分のお尻に火がつくまで映画館の座席・傍観者席から立ち上がれないのか? そうやっていつまで眺めてるんだ」
傍聴席には群衆がいた、彼らは傍観者や野次馬たちだった、中には法律を学ぶ者やペンを持っている者もいたが。
「そこは間もなく被告席に変わるぞ」
椅子が回転式に変わる舞台からくりらしい。大勢いる傍観者たちも一人一人裁かれる。
「自分が裁かれたくなかったら、裁きの座に上れ」
父神が再三私に座るよう勧めていた裁きの座・陪審員席に、私は座れないでいた。座ることを躊躇っていた。
「ハレルヤ! 救われました!」
と叫ぶ人たちに用意された席・彼らが座る席だと聞いていたから。罪人の私がそこに上って教会の兄弟姉妹たちを裁くなんて気が引けた・気乗りしなかった、自分たちの座だと思っていた場所に私が座っていたら彼らは卒倒してしまうだろう。それに私は、以前YouTubeで「街録チャンネル」というインタビュー番組を見ていたが、そこでは10代かと思われるような女の子たちが、自分たちは公園の辺りで立ちんぼをしていると言っていた。
「外人いいよね、お金いっぱいくれるし。キャハハハ」
と彼女たちは笑っていた。私はこの悪びれない、気の毒な女の子たちをどう裁いていいのか分からなかった。彼女たちは心底笑っているのではなく、笑う以外にないから笑っているのだ・空笑い、そうやって自分を元気づけるしかやりようがない、罪悪感すら捨てるしかなかったのだ。彼女たちをそんな場所に追いやった人間たち、彼女たちに金を払う男たち、臭いものに蓋・見て見ぬ振りをする傍観者・何事もないように通り過ぎる通行人、裁かれる人間は他にいくらでもいるではないか。風俗嬢やAV女優がYouTube上のインフルエンサーであることを咎めるべきかと思っても、彼女たちがその業界で働く女の子たちに「どんな仕事でも輝けるんだよ」と希望や励ましを与えることを目的としていて、彼女たちに罪悪感がないとしたら、それに、それ(彼女たちの活動・彼女たちを見ること)で実際に救われる・生きる勇気や励ましを得る女の子たちがいたとしたら、それを裁くのも私には難しい。私は誰をどう裁いていいのやら。が、椅子が回転し、裁きの座に座っていた者ら・この世の審判者や傍聴席にいた者ら・傍観者が被告席に座るーー今まで罪人たちに説教し、娼婦やこじき女を蔑んできた者たち、見ざる言わざる聞かざるを決め込んできた者たちがそこに座るーーとなれば、話は別だ、そうして私は裁きの座・陪審員席に着いた。
街録チャンネルもエスカレートしていき、修行だと言って他人の尿を飲む嬢が出て来たり、到頭、「スプリット・タン」と言って自分の舌を蛇の舌のように裂いてしまった若い女性が登場したところで、こんな痛々しい人たちは見るに耐えない、と私は以来その番組を見るのをやめてしまった。世の中には私の知らない恐ろしいことがいっぱいあるのだ、自分はそんなものを見ない場所に身を置き、この世界を良いものだなんて・この世界に対する幻影を抱いていたのだーーこの世界は打倒されるべき・根底から覆されるべきものだったのだ、新しい世界は今までのものを積み重ねて行った先にあるものではなかった。今はこの世界が一番の暗黒に突入した時代なのだ、女性にとっても子供たちにとっても受難の時だ。だけど、「街録」を見ている人たちのコメントを読めば、この気の毒な人たちを裁く・その行いをどうこう言う人たちは圧倒的に少数なのだ、皆応援や励ましを送っている、これが今時代の日本人のお裁きか、救われた気がした。インタビューに答える人・被告人は堂々と正直に自身についての陳述をし、そこに引き込まれた・それに心動かされた陪審員たちが、無罪評決をする、そんな大法廷の模様が重なった。がら空きだと思った裁きの座・陪審員席に人々が座っていた。
エデンの園で神の裁きを宣告されたアダム・人に、再審の場として与えられていたのが、最後の審判・大法廷だったのだ。神は罪人となったアダム・人を見切ってはおられなかった。最初から彼(とその子孫)を助けるおつもりであられた。最後の審判は罪人が神に裁かれる恐ろしい場所ではなく、人への再審判・再審査・再評価がなされる場だったのである。人への裁き・評価が覆される機会だった。神の知恵の奥深さ。
聖書の上っ面を読んでるクリスチャン、参ったか!
愛するのも憚られる、日本人は「愛」よりも、「情」。愛にも情をくっ付けて「愛情」とする辺り、日本人の「情」に対する思い入れの深さが感じられます。結局父は、最初から、略奪愛のK(二番目の夫)を私の夫にするつもりはなかった。父が娘婿と認めたのは、「オレはお前を愛せない」と言った古風な日本人、だったってことか。二十歳の若い私はその男の情を知ること・理解することが出来なかった、西郷さんを理解出来なかったと同様に。つまりエデンの園の生まれたての女・拙い私はその時未だ、彼にふさわしい存在ではなかった。またおかしな独り言を呟いてしまって、ごめんなさい。父はこうして催促してるのよ、私が決着をつけなくちゃならない物語は他にもある、埋もれた恋の物語を掘り起こして、今結末を書け・描け、と言っている。
「それで天の御蔵・大蔵が開くならね」
と私は言った。2008年当時・息子たちのこの物語もそう、それから息子の闘病記として記した「神様のブログ」・確か2017年だったかもそう、私の書くものはいつも父神に乗っ取られる・私がパソコンを開くと神ご自身が語り出す。私は自分の物語に自分で結末を描くことを許されていない、私の書く物語がどれも結末なしに長期間放って置かれるわけだ。何をどう書き始めても、私はあの失われた楽園・エデンの園に引き戻される。「エデンの園の仇はエデンの園で取れ」ってことか。大蛇となった古蛇 vs 成長した女・決して騙されないエバ、その決戦の舞台がエデンの園ということか。
人使いの荒い父、タイムカプセル(息子たちの物語)を掘り起こせ、押入れの中で眠っている物語・埃を被っている母の昔話を復活させろ、おまけに畑仕事(関連の記事)も怠るな、と。坐骨神経痛になるわけよ。接骨院に行くのも(効き目なしと)諦め、お金も時間もかかるしね、朝のラジオ体操を始めましたよ、ラジオ体操がこんなハードなものだとは知りませんでしたよ、年とったな〜。息を上げ、体をそらした折には呻き声まで出てしまう。マルチタスクは苦手と言う私に、父は三本も物語を同時進行させようとする。実際の穴掘りや畑仕事も腰に負担がかかるけど、長時間の座り仕事、それも重たい飼い猫を膝の上に乗せなからも腰に来るのよ。




