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タイムカプセル(2026リニューアル版)  作者: 御霊のみーちゃん


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8/11

われわれ

 神の目は無数の星々の中で、唯一地球に注がれていた、創造の初めから。

地球を造るに、まずは大空(大気圏・地球の保護膜)を造られた(第2日)、この星に対する神の配慮・愛が感じられるでしょう。海と陸とを造り、陸地には緑の装いをさせた、花や果実のような彩を添え香りをふりかけた(第3日)、まるで花嫁を整えるように。これほど美しい星が外にあろうか(月はあばたである)。こうして花嫁の身支度を整えると、彼女のためのもの(役に立つもの・照らすもの)として、太陽と月、星々を「天の大空」(地球の天窓)に「置いた」(第4日)。スポットライトを浴びた彼女は美しい、スポットライトは彼女へのわたしの熱い眼差しだ、神は地球を惚れ惚れと眺めた。太陽も月も星々も、いわば地の付属品である・地に従うものである、そのように運命づけられていた。最終的には、地が天(大宇宙)を従えるのである。星々に照らされている・神の熱い眼差しが注がれている・スポットライトを浴びているのは最初から地球であった。大宇宙を舞台にしたこの物語の主役・大宇宙の主(しゅ・あるじ)は「われわれ」である。


そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。(1:26)


 「われわれに似るように、われわれのかたちに」とは、神の存在形態は「われわれ」・複数で単一なのである。キリスト教ではこれを「父(なる神)・御子(キリスト)・御霊(聖霊)の三位一体」と呼んでいる。これが何かと言えばいろいろに解釈されていますが、教会が解釈するような固いものじゃないんです。教会の教えは方程式や法律書みたいなんです。方程式の解が間違っていたらお話になりませんから、正しい解はこれだ、とそれぞれの宗派が重箱の隅をつつくような論争をするわけです。聖書を何か法律書のように読むから、色々な法解釈が出てくるわけです。神の言葉を自分たちで定義したいんですね。「三位一体とは」なんて定義や解釈がされるわけですが、その姿はこれである、と明確にするために定義するんですが、それが返ってものを見えなくする、その曖昧な定義・言葉の抽象性に「三位一体って一体なに?」と、余計に小難しく、曖昧模糊になってしまう。人は、われわれという神と同じかたち、つまり「われわれ」という複数で単一に創造られた。われわれ神々に似た性質・特性を持つように、それが神の願いです。そんなシンプルな読み方で十分。人が個・孤の状態ではなく、われわれであるところに神は宿る。個(「個」人主義・「人(本意)主義(地球は人間様のものだと他のものを駆逐する)」と読めるではないか、自分本意)や孤(独・立、人の散り散りな姿や神からの断絶の姿が連想される)は神の姿ではないんです。「われわれ」という絶なる・妙なる交わりの中に神は存在する。キリストは神のご意思(を行う存在)である、神のご意思・ご意志の実行者・実現者がキリストである、キリストという肉体に神が宿っている、神の具現体・具現の姿・神に肉体を与える存在がキリストである、キリストによって神は自身の意思の実行力・実現力を持つ、ご自身の肉体を持つ。父神とキリストは一つ思い、一つ肉体を共有する、共有物は彼ら自身である、互いの存在を共有している、これほど強固な関係があろうか。そんな神々の交わり・結びつきに、人をまぜよう・加えよう、人と神とで「われわれ」となろう、それが神のご計画です。「わたし(たち)のものは君 (たち)のもの、君 (たち)のものはわたし(たち)のもの」、「われわれ」は複数でありながら一人の人のようなのである。「三位一体」とはこの「われわれ」の存在形態を言うのである。「三位一体」という言葉自体がキリスト教派が作り出したものだろう、「父なる神」と「子なるキリスト」「御霊」の関係を説明するために。けれど、実はそこには父神と子キリストの二人・二体しかいないのである。「御霊」には父神やキリストのような人格・キャラクターはない、御霊は彼らが持つ属性である・彼らの本質である、彼らは「御霊」というその同じもの・同じご性質を持つのである、「御霊=愛」それが彼らの本質なのである、「御霊=愛」によって彼らは一つに結ばれているのである。「人=魂」がそこに繋がって・加わって、「われわれ」という神(の完全体)が完成するのである、「われわれ」という神が完全な姿を持って現れるのである。「御霊=創造主・父なる神」である。「われわれ」という人は「御霊=神=愛」を共有する、われわれ一人一人は創造主であられる父神の分け御霊・分霊体である。「われわれ」という人が完成するとき、神の神殿・神の宮・神の御住まい・神の肉体が完成する、神は「われわれ」の中に住む、「われわれ」人によってご自身の実行力・実現力を得る、ご自身の身体を得られる。われわれの肉体・身体は神に捧げらえる・神のご用に用いられるのである。神とわれわれは一つ御霊、一つ身体の関係・結び付きである。「御霊=愛=神ご自身」が「われわれ」の融合剤なのである。あえて「三位一体」を解釈するなら、私はそのように解釈するが。が、神もキリストも私もいない(三位という概念はない)、神も人も区別ない、あなたも私も区別ない、それらは渾然「一体」・唯一なのである。それが「神々」が完全になる時、「御霊=愛」が満ちる・充ちる時、地が潤い、天蓋(天地の仕切り窓)が開く時・天(大宇宙・神)が神秘のベールを脱ぐ時である、天地が結ばれる・繋がる時である。


 父神はキリストに与えたのと同じもの・「御霊」・彼自身の存在を人に分け与えたいと思われている、ご自身を人という器の中に注ぎ入れたいと思っておられるのである。神はご自身を私たち人に分け与えて「われわれ」としたいのである、神と人とで「われわれ」と呼ぶような関係を築きたい・そのような親密な交わりをしたいのである。「われわれ」という人は神のご性格や特性を分け与えられた存在である、神に似たものであり、見えない神を具現する存在である。

 「われわれ」は個々別の体を持ち、性格もそれぞれに違う、個々特徴・個性のある存在であるが、思いは同じ、目指すものは同じ・同じ目的地に向かっている。御霊は神そのものであり、神の本質である愛である(御霊=神=愛)、「われわれ」とは唯一神・創造神がご自身を分け与えられた存在である。「われわれ」は「御霊(愛)」という神ご自身を持つことによって一つに結ばれる、神ご自身が結びの帯・粘着剤・融合剤なのである。また、われわれはキリストという一つの体である。息子たちサッカーチームのメンバーがそれぞれ特技を持ち、ポジションを与えられ、チームが一人の人の体のように滑らかに・スムーズに連動する、一人一人が自身の才能を持ち・それを発揮し、ふさわしい役割を与えられ、全体に貢献する、そんな姿である。霊においても一つ、肉においても一つに結ばれた関係が「われわれ」である。

 神はそんな自分たち(のリレーションシップ)を「われわれ」と呼ぶ、「われわれ」とはリレーションシップ・互いの堅く結ばれた関係性なのである。神の存在形態は「われわれ」なのである。だから「われわれ」に分裂があるということは、神ご自身が引き裂かれている、神の体が引き裂かれている・分裂しているということなのである。頭である神が右へ行こうとするが、片足は右へ、もう片足は左へと、両足は別の道へ行こうとする、手足は別の行動をしようとする、自分の手が自分の鼻を打ったりする、これでは「われわれ」ではない。「われわれ」は皆で一つの体なのである、同じ行動原理で動く、一体の神の身体・キリストの身体なのである。

 

 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ12:4・5)


 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。それどころか、からだの中で比較的弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。(コリント1 12:14〜27)


 多重人格者は一人の人でありながら、ある時はまるで別人のような振る舞いをする、ジギルとハイド・善人と悪人・裏と表の顔を持つ。一つの肉体に多数の霊が住み着く、悪霊に自身の体を乗っ取られたようなのが、多重人格者である。肉体が一つでも、互いに喧嘩する悪霊が住みついて、出入りしている。「われわれ」という神の中には多重な人格が内包されている、個であるわれわれは神の中に内在している、われわれ人が神の中に内在する・留まることでわれわれは神格を持つ一つの存在なのである。われわれは多数でありながら、われわれの行動原理は神によって一つなのである。神は霊体、人は肉体、器・肉体は多数であるが、中に注がれているのは同じもの・神霊・御霊である。それが「われわれ神々」。われわれ神々による統治、それが神のご計画であられた。私たちは日ごろよく「われわれ・私たち」という言葉を耳にしたり、自身が使ったりする。どんな場合に? 私たち夫婦とか、私たち家族とか、われわれ○○サッカー部とか、我ら○○国民とか、われわれ○○政党とか、本来それは志を一つにした集団であるはずである。泣くも笑うも一緒、勝つも負けるも一緒の運命共同体。「われわれ」は同じヴィジョン・実現すべき未来像を持っている。この地を一人も泣いている人がいない天国のような場所にすることである。われわれ(神々・神の子供たち)はこの地における天の御国の建設事業に携わる者である、こうして御国(神の国・キリストの王国)は地上に降りて来るのである。パラダイス(地上の楽園)の完成。

(2026年挿入) もう「キリストの王国」なんて言葉を使うのはやめましょう。こうしてわれわれ神々は地上に「神々の国」を建設するのです、この地を楽園とするのです。キリストはもう、雲に乗ってやって来たりしませんよ。これから神々が地上に満ちるって時に。われわれが「神々の国・地の楽園」という大プロジェクトを完成させた時、この地に神のご意思を実現させた時が、われわれが真の「神々」となる時だ。こうして、今まで2000年以上も十字架の上に祭り上げられていたキリストを十字架から下げ降したのは、キリストの追随者・クリスチャンではなく、異教の女・反キリスト教徒であった。

「キリスト様、長い間のおつとめご苦労様でした」

夫を次々とお払い箱にした私であるが(夫のない私の夫はキリスト様であったのに)、キリスト様までお払い箱にするとは。


 あなたが傷めば・痛めば私が痛い、私が泣けばあなたが泣く、あなたが笑えば私も笑う、もうあなたと私を区別する・切り離して考えることは出来ない、一体化・同一化した存在、愛の結合体である。私はあなたのために命を捨てる、なぜなら私とあなたは一つ存在・運命共同体だからである。私は自分のものを何も持たない、私のものはあなたのものだからである、つまりは「われわれ」(のもの)以外に存在しないのである。唯一の存在 (するもの)が「われわれ」である。それ以外には何も存在しない、つまり「われわれ」は単一体、それが「われわれ地球生命体」の本来の姿であり、完全体・完成形である。神は人を「われわれ」というかたちに創造された、人は決して一人では存在しえない、人が一人のとき人は人として完結しない・完成しない、未完成・不完全である。完全なのは「われわれ」である。

 「父(創造主である神)・御子(キリスト)・御霊」の「御霊」の正体であるが、御霊は神の霊・スピリット・神ご自身である。父神とキリストはその同じ御霊を共有することにより一つ存在である。父神がキリストに自身の存在である御霊を与え、そのキリスト(=父神ご自身)が肉の体を得ることで、父神は自身の肉体を得る、両者の間には区別がない・混然一体・どちらがどちらか分からない、互いの与え合いがあるだけである。キリストは神の器・肉体を持った神、その身に神を宿した人・神人である。また、われわれ人は「御霊=神」の分霊体・分け御霊、即ち「御魂」(の存在)である。「御魂=人」は小さな神であり、われわれ人は神の身体・神の実行力・実現力・行動力である、神のご意思は「われわれ」人によって実現される・遂行される・遂げられる。「われわれ」という人の完成が神の完成体・完全体なのである、神はわれわれと共に「われわれ」神々となりたいのである、めでたく人は神の仲間入りである。神の創造はこうして完結する。「われわれ」は神の自己完結である。


 「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示21:3・4)


 神の天地創造は、聖書の最終話・予言(預言)の書とも言われる「黙示録」でこうして完成・完結するんです。ってことは、創世記の神の天地創造はヴィジョン・神のご計画であって、未だ完成・完結していない、ってことになるんです。その未完成部はやはり「息子」だったんですよ。

 神は「われわれ」という麗しい交わり・関係を求めて、人(アダム)を形造るわけですが、土地のちりから造られたアダムは、言わば天地の混合物だったんです、天にも属し(その霊は天のものであり)、地にも属す(その肉体は地のもの)存在です。体は脆い粘土で造られていた、その器に神ご自身の存在「御霊」が注がれたわけですが、アダムはつまづいて器を割ってしまう、尊い中身が流失してしまう。中身は永遠の神ご自身、つまり「永遠のいのち」が入っていたのでした、それを失ってしまう。エデンの園でそんな事件が起きてしまうのでした。物語はクライマックスに突入します。


(2026年記) 神の望む姿の人はその時アダムによっては完成されなかった、人・神の息子は未完成だった、が、「未完成=可能性を秘めた存在」、神は息子・人を見切ってはおられなかった。神は罪人となった人・アダムの子孫をお見捨てにはならず、キリスト・救い主を地上に遣わした、というのが聖書のお話だけれども、私は今、その物語に見切りをつけよう、つまり、恐ろしいことに、キリストに見切りをつけようとしている。人を十字架の上に引っ張っていこうとするキリストより、息子たちの方が頼りになる、どこの馬の骨か知らないキリストより、私が産み落とし育てた息子たち(うちの愚息もついに骨を頂いたことですし)の方が信頼できる、のではないか。2026年現在、とうとう私は、ここまで来てしまった。エバ(騙されやすい女・全人類の母)は蛇を退治するためにエデンの園に戻って来た。決して騙されない女・新人類の母として。

 ちょっと待ってよ。天下の「聖書」(焦りのためか「聖書」の変換が何度打っても「性書」となるのは)vs 母親(この私)の産み落とした「息子たちの物語」、いくら息子たちが大活躍したって・・・勝負になるのか。

分からんぞ、「化ける」「反転・逆転」の物語だからな、とすました父。

 そうか、物語は反転するんだ。神がアダムに子孫を残すことを許したってことは、そこに可能性があったからだ。アダムの子孫・人が神に化ける可能性を神は最初から信じていた、ってことか。我が息子たちにあるのが秘められた可能性・・・こうしちゃいられない。

 訳の分からない独り言ばかり呟いちゃって、ごめんなさい。後で全部分かるから。私の頭の中では今、色んなことがめぐってるのよ。


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