メッセンジャー
(2008年記) 神は、キリストが裁きの座に着かれた、最後の審判は始まっている、って言ったんだけどーー神のお裁きの前座が息子たちの物語だった、のか。息子たちを客引きに、日曜日はグランドにサッカーの試合を見に行こう、と言う人々を「教会」に招く、それが神の算段だった、と今頃気づかされた。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ(聖書・十戒)。日曜日は教会に行く日だゾ、なんて言ったて、働く父母には日曜日は家族の日なのよ。父は庭の草むしりや子供の守りをしなくちゃならないし、母は掃除して布団も干さないと、忙しいのよ、のんびり教会の椅子に座っている時間が惜しい、そんなあなたのために我が教会はあるのです。あなたの家のパソコンが直接神様とつながっちゃう、便利な時代になったわね。これなら曜日も時間も関係ない、あなたの好きな時間に彼を訪ねることが出来る、個室でゆっくりお交わり出来るわ。
ーーあなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。
また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
また、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことばが多ければ聞かれると思っているのです。
だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
だから、こう祈りなさい。
「天にいます私たちの父よ。
御名があがめられますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。
私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』
[国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。](聖書・マタイ6:5〜13)
我が教会にようこそ。神様は場所も時間も選ばない、あなたが呼べば即座に来てくれるのが神様よ、予約も順番待ちもないの(ヤブ医者だなんて言うなよ、ですって)、万人が一度に呼んでも応えてくれるのが神様だから。「24時間宅配サービス、即座に伺います」教会のキャッチフレーズはこれだな、チラシを出してくれって。地上じゃ神様の知名度はまだまだ低いから、せっせと宣伝しないと。
ーーよいことの知らせをを伝える人々の足は、なんと立派でしょう(聖書・ローマ10・15)
現代人の私は、足を使わずに指を使ってます、パソコンのキーをしきりに叩いてます。
(2020年追記) 12年前、こうして「教会」を立てるはずが、頓挫してしまったんですね。我が家には宗教戦争の嵐が吹き荒れていましたし、いえ、宗教戦争なんてちっぽけなものじゃない、神対サタンの大バトルが繰り広げられていたんです。サタンは私の弱点である夫の皮を被って「君は愛する夫を追い出すことは出来まい、俺は彼を自分の住処にすることの決めた、君に追い出されずに住む安全な住処だ」と言い、神は私をご自分の住処とすると宣言し、私と夫とを仲違いさせ、「夫=サタン」を家から追い出せ、神とサタンが同居することなど出来ない、と言った。どんな修羅場が繰り広げられたか・・・神は妥協のないお方、力ある方、到頭サタンを追い出した。夫をお払い箱にした私は外へ稼ぎに出なければならなくなった。呑気に小説など書いているところではなくなったんです。
そして歳月が流れ、お蔵入りになった我が息子たちの成長期「2008年の夏の物語」は2020年「タイムカプセル」ってタイトルがつけられ、日の目を見るかと思いきや、またも鳴かず飛ばずに埋もれました。
(2026年記) 鳥が落としたタイムカプセルは埋もれていました。最後の審判も大団円。そろそろ「タイムカプセル」・埋もれた物語を掘り起こせ、またしても神の声。
「君はかわいい小鳩ちゃん、神の言葉のメッセンジャー」
私もうこの神様に疑い持ってるんだけど、掘り起こしの時間も労も馬鹿にならないのよ。坐骨神経痛でお尻は痛い、腰も痛い、足も痺れてるのに、そんな思い荷を負わせないでよ。たかが紙じゃないでしょう、その巻物どれだけの大ボリュームか。延々とただ働きさせる神様に仕えるより・売れない神の言葉を宣べ伝えるより、パート仕事でもしてた方が利口だったわよ。利息つけて返せ、私から取ったもの全部返せ、時間も労も、夫も息子も、利息つけて返せ。「神の言葉」を豪語する聖書なんか、世界のロングセラーにしてベストセラーよ。あなたの巻き物はそれに対抗できるのか? あなたは私の貧乏神、今度しくじったらあなたを追い出すわよ。あなたが本当の神様かどうか、最後の審判ではあなた自身がそれを証明しなさいよ。あなたが老いた小鳩ちゃんに愛想尽かされるどうか、最後のチャンスよ。私にとってもこの神様と縁切りする最後のチャンス。
負けると知っている戦いに、西郷は、まだ年若い、自分の長男を連れて行くのだ。おれが行くから、おれの息子は見逃してくれ、とは言わないのである。それにより民は、西郷が自分たちの味方である、最後まで自分たちと共に戦った、と認識するのである。西郷が最愛の息子を差し出すことで、傷を負った民たちは、その心を癒される・なだめられるのである。西郷さん、話が違うじゃないか、おれたちはあんたを信じてついて来たのに、小舟を捨て大船に乗ろうとした民の呟きであるーー新体制の下、彼らは締め出されたのである。中央(政府)のやつらにおれたちを討たせるとは、西郷に従った彼らの結果は不本意なものだったのである。西郷自身、自分は負ける戦いにお前たちを連れて行くリーダーだ、お前たちを犠牲にすることを許してくれ、これ(息子を差し出すこと)でおれのしたことを全て許してくれ、と言っているのである。言わば、息子は「なだめの犠牲」である。西郷はこうすること(自分の民・忠誠の民と共に戦い果てること、自分の体は勿論、最愛の息子を差し出すこと)で、封建制度・武家制度という旧いシステムを打ち壊したが、その精神・忠義・「武士道」を守ったのである、それが何より・どんな説明よりも民を納得させることだったのである。藩が廃止され、自分たちが仕える君主・殿様を失った彼らは、その自身の忠義・忠誠を失った、忠義・忠誠を失って、彼らは自身の存在意義を失った、生きていても仕方ない、最早生きて行くことができないのである。彼らが本当に守り伝えたかったのは、制度ではなくて、その気高い精神だったのである、西郷はそういった民の心の奥底を読んだのである。西郷の仕掛けた見事な心理劇である。すべては彼の策略だったのである、彼はクールな男である。彼は、民を討つなら自分も共に討ってくれ、自分は彼らを見殺しには出来ない、と言い、君たちが討たれる時はおれも一緒だ、君たちと運命を共にしたいのだ、と言ったのである。彼は熱い心とクールな頭、情と理性を併せ持った人であった、決して物事を見失うことがなかったのである。システムが倒れるとき、そのシステムと共に倒れる人たちがいる、西郷はその彼らと共に倒れることを潔しとしたのである。西郷は、忠誠を尽くした(命がけの戦いをした)民に、忠誠を報いた(同じように自身を捧げた・身を差し出した)」のである。ヒーローは一瞬の光を放ち消えて行く、夜空の彗星のごとくに、桜の花の散るがごとくに儚く散る、それが定めであれば、ヒーローは去り際・引き際が大事なのである。自害したヒトラー、孤島に潜んだナポレオン、西郷の去り際は、桜の花びらが舞い散るがごとくに鮮やか・天晴れであった。いとあわれなり。彼は負けたが、勝ったのである。古い国家体制を自ら壊す、その西郷さんの地ならしの上に、新しい国が建ったのである。ブルドーザー・大きな重機のような働きをしたのが西郷さんである。たくさんの人夫がツルハシやスコップで何ヶ月、何年もかかる大仕事を、短期でやって退けた、すっきり国を平にした・平定したと思うと、そのパワーがどれほどだったか、想像がつくでしょう。それが西郷さんです。国賊・国に反旗を翻した賊軍の大将が、新しい国造りの功労者でもあるわけである。大砲も花火も盛大に上がり、地鳴りがし、そんなパワフルなものが、最後地響きをたてて倒れる。大きな建造物を一夜にして壊し、広大な国土を地ならし・平定する、それが出来るのは彼しかいなかった。上野公園に銅像がありますね。西郷さんの頭上に桜の花びらが永遠に降り止まない、そんなイメージが現れ、それが日本国民の喝采のようにも思えます。彼は正に、自ら泥を被ったヒーローである。「英雄・豪傑」と冠しましょう。負けた者を称える・評価する・そのあわれをいとおしむ、日本人の眼力の確かさである。「負けるが勝ち」私たち日本人はそんなことわざを持ってますものね、また忠誠心の強い民族と言われます、西郷隆盛は私たち日本人の心にしっくりくるのである、桜の花びらの舞う舞台にぴったりな英雄なのである。彗星がサッと夜空に消えて行くのと比べて、桜の花びらがハラハラと散る様は、ヒーローの幕引きを惜しむようでもある。幕が閉じるその最後の瞬間まで、名残惜しい、愛おしい、いと惜しまれる。去り際でいえば、一番鮮やかですよね。ヒトラーをドイツ国民は誇りとするのか。連戦連勝の凱旋将軍は、永遠不滅の何を残したのか。ナポレオンは本当に民に愛されたのか、彼のように祖国に勝ちをもたらした者でも、使い捨てにされた感である、最後誰に慕われることもなく孤島での幽閉生活である、彼らの最期はなんともお粗末なのである。
なんだ西郷さん、あんた馬鹿なことするな、もっとドライに割り切れよ、クールじゃない(かっこよくない)な、私はあなたを理解できない。若いとき私はそう思った、理解し難かったのだが、今は彼が分かるのである。あっちを立てればこっちが立たず、そんな世の中で、彼は誠心誠意を行ったのである。お見事、お見事、今は彼に対してそう思うのである。西郷はこの戦いで汚名を着せられたのである、彼は反逆軍のリーダー・反逆罪であるが、彼と共に戦った者たちにとって、彼は永遠のヒーローなのである。私はこの負けた英雄、忠誠の民のヒーローが、罪着せられ、十字架の上で討たれたイエス・キリストに重なり、キリスト(神のひとり子)を世人に差し出された父なる神に重なるのである。
ーー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(聖書・ヨハネの福音書3:16)
西郷さんの人に対する愛の広さ、深さが重なります。時を超えて、私たちは彼に愛されたのだと感じます。私たちが、私たちの国が、今この姿であることが身に染みて感じられます。我が身よりも日本の未来を案じた、そこに彼の私たちに対する愛がある。西郷さんだけでなく、国を守るために戦争に行った無数の人たちも同様です。私たちは生まれる前から彼らに愛されていた、私たちが日本人であるとはそういうことです。「勝てば官軍」・勝った者が正義、と戦争で負けた私たちのご先祖たちも濡れ衣を着せられていたのでしょう。連戦連勝、自国に勝ちをもたらす、それがヒーロではない、と思うのです。彼の肉が射抜かれるとき、彼の柔らかな肉が弾丸を受けるとき、その赤い血がし吹くのを見て、人々は彼を英雄と呼ぶ。彼には、自分の命を投げ出しても・命と引き換えにしても、守りたいものがあったのである・伝えたいメッセージがあったのである。
「私はあなた方を愛する、我々は祖国と祖国の民を愛する、祖国の未来を愛する」
今やっと、そのメッセージが届いた。先人からその子孫へ。この国にはこんなにたくさんのキリスト様(我が身を犠牲に私たちを救った存在)がいるのに、イエス(キリスト)様にはもう退いてもらってもいいのじゃないか、私がクリスチャンをやめようと思ったわけです。イエス・キリストは神々の国日本ではなくて、神を知らない異国の民・異星人のもとに遣わされた救い主だったのでしょう。
キリストは神のご意思を伝えるメッセンジャーであったが、伝えたいメッセージ・伝達情報、つまりご自身が「神の遺伝子」であった。神が御子キリストをこの地・地球に降したのは、神にはそこを神々(神の子孫)の住う国・地上の楽園にしようというご計画・ご意志があったのである。キリストと女(母マリア)の間には血縁関係・血の繋がりがある。女によって肉体を持った神(の遺伝子・の子)がキリストである、神にそっくり・神のに姿・神の具現体、肉体の器に神を入れていた・宿していた。女によって与えられた神の子の肉体は人と同様の脆弱なものでした、肉においては人、霊においては神、それが魂・人という存在です、神の子キリストは肉に打ち勝ち、その魂・自身の存在を霊・神と固く結びつけた、結果彼は神となった。肉と結ばれれば、魂・人は地に落ちる、堕ちた人・落ちた神の子でいっぱいになったのが楽園とは程遠い・地獄の様を呈する地球でしょうか。神の御心・ご計画が、この地を神の子孫・神々で満たすこと、この地球を神の子孫のものとする・神々の星とすることであれば、いずれ人の子はいなくなる。が、人は神の子供になれるのだ。自身の存在を肉に結ぶことも、神に結ぶことも自由なのだ。神と結ばれたいと思うならば、キリストを見習いなさい。人のために我が身・我が命を差し出す・犠牲にする。その行為によって、キリストが神の御位・御座に着いたように、私たちもまた神の子という身分を得ることが出来る。神がキリストに私たちと同じ脆弱な肉体を与えられたのは、キリストと私たち人が同じ条件で競う・試されるためである。神の子キリストは試験にパスし神となった、人も同じように試されているのである。キリストを知らない我々のご先祖様であったが、その姿はキリストであった・キリストに重なります。キリスト省き・要らずなご先祖たちであった。神から人への法外・桁外れな贈り物がキリストなのだが、
「いえ、いえ、私たちには必要ありません。私たちは既に持っていますから、私たちのうちにそれはあります」
そう言ってキリストを返した・帰したのが我々のご先祖様だったのでしょう。国土を掘り起こせば、そこら中にキリストがゴロゴロしている。日本は小さな神の国だったのではないか。大きな神の国・世界が神の国となる時、その中心・都となるのは日本なのではないか。キリスト・純金というよいものを頂いても、それに混ぜ物をして市場で売る、そうして人々を欺いて来たのがキリスト教だ。日本にキリスト教が浸透しなかったのは、日本人が持って(の変換が「守って」に)いたのが本物・純金だったからではないか。本物の教えは大事に守って子孫に手渡さなければならなかった、私たちの先祖はそうしてきたのだ。親は子に・共同体は子供たちに、学問や書物ではなくて、生活の仕方・日常を通して、身をもって、実践的に教えてきた、親が何を見てどう感じるか、子は分からないままにもどんなことも感じとるのである・吸収するのである、その中に守られるべき大事なものはあったのだ。そうして育った子供たちは決して紛いものに騙されない、違和感を抱く。私が「ハレルヤ!」と神を称える教会に通っているクリスチャンに感じた違和感もそうだ。そんなわけで今(2026年)60を迎えようとする私は、キリスト・聖書の言葉を伝えるはずだった物語を、書き換えている。
以前から尖ったクリスチャンだったんでしょうね、私自身反抗期ででもあったように教会も牧師も面白くないと紙面に心の思いを吐露していた。
(2020年追記) クリスチャンであると言うならば、キリストと同じ姿になるべきだ。罪とは縁遠いような上品さで、お腹の空いた家族を抱える者に、パンを盗むななどと諭す教会の牧師を、日本人が無視するわけである、日本でキリスト教が流行らないわけである。教会は上品すぎて、敷居が高い、自分のような罪人には居たたまれない場所だ(そう思う人もいるだろうが、それはそれはその人の罪に対する意識が研ぎ澄まされている証しである。私など太々しくも教会の椅子に座った)。口でいいこと・きれいなこと言うけど、実行力・実践力がない、助けにはならない・頼りにならない(と見切りをつける人もいるだろう)、クリスチャンとはそうやって周りから分離している・浮いている、社会の隅に追いやられている、大人しい人たちだ。自分の身を捨ててまで、あるいは自分が罪を着てまで、庇ってはくれないだろう。残り物の施しをしてくれるだけだ。誰にだって優先順位があるだろう、まずは自分の家族を満たしたい・守りたい、余力があれば他を助けよう。自分の全財産を投げ出して、自分の家族を露頭に迷わせてはいけない、そんな残り物の施しなのだ。まずは自分の家族の身の安全を確保して、誰もが真っ先に考えることだろう、一つしかない救命具を自分の子に渡すか、他人の子に与えるか、そんな究極の場面で牧師はどうするのだろう、天の父・神様が見たいのはそんな究極の選択・愛なのだ。聖職者が配偶者を持たなかったのは、そんな究極の道の妨げになるからだった、自身が無用な苦しみを負うようになるからだった。牧師は妻子を持って、目にも慕わしいクリスチャンホームを持つようになったし、迫害だってない、クリスチャン自体が生ぬるくなった、血も涙も流さなくなった。クリスチャンホーム・麗しい我が家などという幻影を吹き込んだのだーーそれがプロテスタントだ。聖職者と一般人の区別がなくなったし・牧師が禁欲的である必要もない、「我が家」という個の幸せを追求するようになった。神様を信仰すれば、幸せな家族生活の知恵を得ることができますよ、エホバの証人においても誘い文句だった。けれども天の父は私にこう言ったのだ、「お前が幸せになるときは、みんなが幸せになるときだ」、社会全体の幸福が実現されなくて、個の幸せなど実現されるものでない、と。「お前の幸せなど、不幸な人々から見れば、嫌味でしかない」、そう言って私の家を荒れ廃らせてしまった。教会の人たちから見れば、私が教会の教えも守らず、教会から離脱したから、俗な言葉で言えば、バチが当たったと思うかもしれないが、私が教会から足を遠のけたにはきちんとした理由があるし、私が教会に入るも出るも、天の父のお導きだった、私は潜入捜査官・特殊スパイですからね。天の父の娘はそうしてお忍びでこの地を偵察していた。キリスト教は、プロテスタントだ、カトリックだ、エボバの証人だ、モルモンだ、アーミッシュだ、言っている場合ではないのだ。それは人間が作った党派・派閥だ。キリストの正しい教えを伝えてはいない。キリストの教えを知りたければ、キリスト自身を見れば十分である、全ては聖書に記しされている、どの党派も同じ聖書を用いている、私が教会を離れたわけである。自分たちの考えを主張する党派に属する、その交わりに加わることは、返って害なのである。
きれいな言葉や、正しい諭し、中途半端に残り物を差し出す行為、その場しのぎにパンを与えて「神は慈悲深いよいお方です。ですからあなたも改心しなさい・悔い改めなさい」などと偽善・欺瞞でしかない。何の解決にも至らない、子供騙しだ、「ああ無情(レ・ミゼラブル / ジャン・バルジャン物語)」だって作為的な物語だ。銀の燭台が盗まれたって、牧師の身は痛まないのである、暑くも寒くもないのである。仮にその銀の燭台が偉い人からの預かり物で、それを失くした牧師がひどい罰を受ける、それでも牧師は盗人を庇う、それだったらそんな牧師の姿を見て盗人も改心するかもしれないが。自分の身を身代わりに差し出せない・自分が罪を着るわけでもない、そんな程度の牧師の徳が盗人を改心に導くなんて、子供騙しもいいところだ、物事の表面をきれいになぞって見せただけだ。まあ、「ああ無情」の醍醐味は、冒頭の牧師の徳と盗人ジャン・バルジャンの改心ではなくて、その後のジャン・バルジャンの生涯なのだが。子供の頃読んだので曖昧な記憶だが、名前を変え身元を隠した罪人を刑事は追い続ける、立派な市長になったジャンバルジャンの正体を暴いた刑事は、最後罪人を見逃すんだったかな、それがあってこの物語も何となく体裁を整える・救いのあるものとなる。私は物語の牧師を格別立派だとは思わなかったし、蛇のような執念深い刑事の追撃にはハラハラさせられ、読後感はそれほどよくなかった。何となく、チグハグな、パッチワーク的な物語、キリスト教的要素を継ぎはぎしたような、ハッピーエンドだったと思うが、晴れない感じを抱いたことを覚えている。小学生の子供にはハードな内容だったのかもしれない。キリスト教のきれいな部分を見せようとした物語なのだろうけど、くすんだキリストを見ているように晴れないのだ。この辺り、泥臭い人間が描かれているのに、ハッピーエンドでもないのに、晴れる・胸が空く・心洗われるのが日本のお話なんだよね。多分日本人は人間を愛情を持って描いているんですよ、キリスト教社会が神の愛を描こうとするのに対して。物語の中にも神が見え見えなんです。日本の物語はもっと慎ましいです。神という自己主張がない。神と人との境目が曖昧なんです。神と罪人を対比させて見せる西洋とは違う。西洋人は徳を表に出して見せますけどね、何でもきれいにコーティングして見せますけどね。キリストは言っているんですよ、
ーーあなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(聖書・マタイ6:3・4)
自分で、いいことをやっている・施しをしている、なんて思う自体が、いいことでも施しでもないんですよ、自己欺瞞や傲慢ってやつです。あなたに対して施しをしようなんて、どうか私の行為を傲慢に思わないでくださいね、私は人に施すときそういう少しこわい気持ちになりますけどね。本当にいいことをしている人は、いいことをしているという意識すらない。キリストが言ってることは、そういうことでしょう。聖書を曲解して読んでるのは、クリスチャンを自負する彼らの方ですよ。
「日本人は神様知らないからな」
夫は何かにつけて言ったけれど、本当のキリスト・キリストの真意を知っているのは、そんなこと言うあなたたちじゃないから。私は教会こそ行っていないが、自分を半端なクリスチャンとも、勉強不足で間違った考えのクリスチャンとも、思っていないから、正真正銘のクリスチャンだと思っているから。西郷さんや、ねずみ小僧、自ら罪を被った汚れ役がヒーローの本質だって知っていた日本人は、キリストを知っていたのよ。「汚れ役を引き受ける」の意味は「他人のために、敢えて困難な状況に陥ること」となっている、正しくそれがヒーローでしょう。
「先生はどうお考えですか?」
への西郷の答えは、
「おれはどんな時も君たちと一緒だ。死ぬも生きるも一緒、運命共同体だ。君たちと運命を共にしたいのだ」。
それが答えだったのである。西郷にとっても民にとっても、勝ち負けはことの外なのである。彼らの間には、死ぬ時は一緒だ、と暗黙の了解があったのである。西郷が民に身をあずけ、民がまた西郷に身を委ねる、両者の愛・絆の確認行為なのである。互いの身・命のあずけ合い・委ね合いである。自分の身・命という最も大事なものを相手にあずける・委ねるのである。民は自分たちが西郷に愛されていることを知るのである、それは西郷が何をどう語るよりも、民を納得させたのである。側から見て、どんなに「(合)理」に反するように見えても、互いに結ばれた彼らにとっては「(道)理」なのである。「理性」とは何か、理性的であるとはどういうことか。西郷は非常に理性的・理知的な人である、このようなことを引き受ければどうなるか、全て知っているのである。全て知っていて、尚・その上で・敢えて、そうするのである。そんなことをしたら我が身が危うくなる・我が身を滅ぼすことになる、何の得にもならないことをすべきではない、だったらその人は「利己的」なのである。「理性」があるとは言えないのである。理性とは、自分の欲望・欲求・利得とは反対の場所にあるのである。理性を働かせれば人は自分の利得を捨てるのである、つまり「愛」である、理性の働くところに愛があるのである。愛は盲目、愛は略奪、だったら、それは真実の愛ではないのである。人が利己的であるうち、広やかな神の愛は見えないのである。
薩摩の民の中には政府と戦争しよう、言う者たちがいたのである。「西郷先生はどうお考えですか(戦争をすべきか、しないべきか)?」と聞かれ、西南戦争は西郷にとって不本意・出来るならしたくない戦いだったのであるが、「自分は一同にこの体を差し上げよう。あとはいいようにしてくれ」と、それが彼の決断であった。事実上民が反乱を起こすことを認めたのである。天皇とその国に逆らうことはよくないこと・大罪である、西郷はそんな誰もが百も承知のことを言って聞かせなかったのである(教会の牧師とは違うんだよ)。おれは君たちの事情・実情を分かっているーー善悪がどうこう、法律がどうこう言わないのである、シンパシーがあるだけであるーーただ、「自分は一同にこの体を差し上げよう」と言い、自分の命・運命を相手に委ねたのである。どんな時にもおれは君たちと一緒だし、死ぬときも一緒だ、運命を共にしたいのだ。それがわれわれのリレーションシップ・結びつきである。主従関係・上下関係を超えた「われわれ」という一体感・親密感があるのである。誰が・何が間に入り、壊そう・引き裂こうとしてもできないのである、そんな一体感・一つ体の結びつきであるーー神はご自分の体・御住まい・宮としてそのようなものを望んでおられる、大きな神殿・立派な建物など望んでおられない(何故わたしの神殿のことで喧嘩する、争う、戦争する?と悲しんでおられる)。われわれ(のリレーションシップ)は永遠不滅だ。彼らの姿・結びつきは「われわれ(神々)に似るように、『われわれ』のかたちに、人を造ろう」と神がおしゃった「われわれ」の形を具現している。神は「われわれ」という形態・複数で単一なのである。西郷は民に慕われる・愛されるリーダーだったのであるが、民は西郷に愛されていたのである。西郷は自身の身を滅ぼすほどに民を愛したのである。反乱軍のリーダー・罪人の頭、お上に逆らう不届き者・国賊、その不名誉を引き受けることを潔しとした。民を見捨てて、自分だけ、大きな船に用意された特等席に座ることは出来なかったのである。
民と西郷とのリレーションシップ、契りを交わすとでもいうような絆を見ると、外旋将軍ナポレオンが哀れに思える。凱旋将軍ナポレオンも一度戦に敗れれば捨てられる・島流し。ジャンヌダルクもその祖国民にとっては英雄・救いの女神であったはずだが、民衆はそうして彼女を祭り上げたが、熱が冷めれば・逆風が吹けば、女神一人を火炙りの柱の上に取り残し、散っていく。キリストもジャンヌダルクも、彼れらにとってはそんなものである。将軍も英雄も使い捨て、ありがたいもへったくれもない、ナッシング。対して、下々の民・民衆にまで高い道徳観が染み渡っていた、そのような教育を誰もが受けていた・日常を生活する中で教えられていたのが日本である。何を気高いとし、何を褒め称え、何を大事にすればよいか、我々のご先祖たちは非常に賢い人たち・審美眼を持つ人たちであった。洞察に富んだ、ものを見る目のある人たちであった。物事の見えない部分を見る、裏の裏まで見る、そこにある真意(の変換が「神意」)を読む・見極めることのできる人たちであった。西洋の未熟さと東洋(日本)の成熟の精神。西洋思想に育てられた未熟な私は、かつて西郷さんに呟いたのだったーー私が期待していたようなヒーローではなかった、それとはあまりにかけ離れたヒーローの姿だった、惨めに負けたヒーロ、とーーが、正にキリストとはそんな悲劇のヒーローなのである。彼は、人々の嘲となったが、忠誠の民にとっては、燦然と輝くヒーロー・王なのである。西郷さんと民とのリレーションシップ・絆は、キリストと追随者のそれですね。キリスト教というと西洋の宗教と認識されるのであるが、キリストは東洋思想の根源にある、キリストの根っこは東洋にある。鶏が先でも卵が先でも、キリストはこの国に根づいていた。この国にはキリストを生む・育む土壌があった。キリストと西郷さんは丸被りではないか、日本の武士道とキリストは非常に相性がいい。「武士道」は日本の精神、日本の肝。日本人はそこに美徳を見たのである。誰もが憧れるヒーロー像がそこにあった。西郷さんもキリストも悲劇のヒーローである、あわれを誘うのが日本人にとってのヒーローである。並べ見た時、映画のスーパーマンはおちゃらけでしかない。フィクションの存在である。日本には「武士」という実在の英雄がいたのである、その姿・実在がヒーロー像となった。スーパーマンというヒーロー像・虚像があって、子供たちがそれに憧れるのとは違う。
「あの人みたいに偉くなるには、それ相応の・たくさん努力をしなくちゃいけないよ」
「英雄ってのはああいう人を言うんだ」
親教師は実物教材・実のお手本を用いて子供にそう教えることが出来たのである。生きた・生の手本がいっぱいあった、そのような人材で溢れていたのが日本であった。
日本では泥棒だってヒーローになった、ねずみ小僧次郎吉はヒーローである。金持ちの家に盗みに入り、盗んだ金を貧乏人に与える、あれは創作だとも言うが、日本人のヒーロー感が出ている、ヒーローは弱い者の味方なのである。私は、貧しい者に向かってパンを盗むなかれなんて言うクリスチャンを胡散臭い、どうしてあなたがもう盗まなくてもいいように私が盗んであげましょう、そしてあなたの代わりに私が牢屋にでも地獄にでも行ってあげましょう、と言わないのだろうと思っていた。キリストは罪人(である私たちの身代わり)となり、十字架にかかり、黄泉に下った、正にそれをしてくれたのがキリストではないか。自分のためにパンを盗んでくれ・罪人になり、罰を引き受けてくれる・鞭打たれ十字架の苦難を負ってくれる。敵をやっつけて爽快に笑う正義の味方スーパーマンとは対照的な姿である。正義もない、ねずみ小僧もキリストも同じ・罪人なのである、泥棒の姿をしてやって来たキリストに、庶民は喝采を浴びせた。泥棒だってヒーローに憧れ、武士道精神を持っていた。お上から庶民に至るまで、その精神は世に浸透していた。精神(「武士道」という日本の美学)がそのまま価値観や規律になっていた。日本が美しい国だったわけです。
「本当に強い人・ヒーローは弱い者の味方だ。ガキ大将って言って、昔は子供たち皆から信望される者がいたもんだ」
私が子供の頃までは、そんなことを聞きましたけどね。「ガキ大将」なんて今は死語ですよね。子供たちが憧れるヒーロー像もまた「大将」・武士道にあったんですね。今・現代は子供たちの間でいじめが問題視されてますし、社会全体が弱い者いじめの精神に支配されているようです。力があればかっこいい、金があればかっこいい、人々は力と金に憧れますものね。実は力と金が欲しいんじゃなくて、力と金があれば惨めな思いをしなくて済む、尊厳を踏みにじられることがない、カッコよく振る舞える、だから力や金が欲しいんだよね、そんな社会が作られた・現れたってことだよね。それは西洋の価値観、西洋が作って来た・西洋にあった世界だよね。以前にはここ日本に真逆の世界があった、日本人の価値観は短期間に逆転したんですよ。「武士は食わねど高楊枝」なんて言葉があるように武士は金を持っているわけではなかった、金を持っているのは商人で、商人はどことなく人々に侮蔑されている感があった、「抜け目なく(ずる賢く)、算盤勘定(損得を考える)、金のために人にヘコつく・頭を下げる」商人に対する人々のイメージはあまりよくなかったんですね。金を掴むまではそれも仕方ない、けれど一度金を掴んでしまえば、今度は自分が人を卑下する側に回れる、金をばら撒き世間の感心を買うかっこいい振る舞いも出来るというものだ、それを「成り上がり」って言うんですよ。日本人はそれも卑下した。だけど金が欲しいって言う現代日本人の若者の多くは、金があればカッコよく振る舞える、人助けだって出来るし、社会貢献だって出来る、自分の心の中にある正義や愛や平和を少しでも実現できる、だから金が欲しいって思ってるんじゃないかなーー変わったように見えて、やっぱ、根が日本人なんだよな、って思う。結局、金がなければ何も出来ない世界が作れて来たってことだよね。だけど今、日本社会の根底では、その世界を壊そう、金がなくても大丈夫・心配ない世界を作ろうって動きが出ている。金があっても何も出来な世界、金持ちがハブられる世界を作る・作れるのは日本人だろう。「武士は食わねど高楊枝」武士が貧しくて食事の取れない時でも、満腹を装って爪楊枝を使う様から転じて、たとえ苦しくてもそれを表に出さず、むしろ他者を気遣えるほどの気品を持って振る舞い生きるべきだという諺。転じて見栄を張ること・やせ我慢することのたとえに使われることもある。つまり
「オレはお腹いっぱいだから、お前食べろ」
そんな親分の心遣いですかね。それを日本人は「親分肌」・リーダーの資質と言ったのですね。西洋思想は日本人を洗脳しようとしたが、出来なかった、そんな日本人の底力を見せてくれるのが息子たち・この国の若者たちだと信じています。
正義もない、見惚れるような姿もない罪人、ねずみ小僧もキリストも、西郷さんも赤穂浪士も、東條英機ら戦犯者も、皆罪人だ。日本人にあるのは正義じゃなくて、大義なんだよね。「大義」を辞書で引くと、人間として踏み行うべき最も大切な道。「正義」の方は、正しい道義。人が従うべき正しい道理。似ているような気もするけど、正義は何となく固いね、「正しい」とか「従うべき」とか。何か外側から与えられた価値観って感じがする、が、「大義」となると人として何が一番大事か、って問われているような気がする。自分の内側の問題というか、そこには正しいも間違っているもない、自分が何を大事と信じるか、自分が主(体)、自分が自分の主、自主的、自分の中に価値が定まっている・一本筋が通っている、そんな感じがする。正義は、何か外側から与えられたもの、その価値基準・判断に頼っている・縛られているって気がする。正義を自分の味方につけているというか・振りかざしているというか・傘に着ているというか。昔の日本人は「正義」なんて言葉を使っていなかったんじゃないかって気もする。正義は自分とは別の援軍、身に着ける武具や装備、そうだ、それが正義の正体だ。日本人にあったのは正義じゃなくて「大義」だったんだ。自らの信じるものを大事にする、そこには命すら掛けて惜しまない。自分が何者であるかを証する行為、自分の生き様、自身の存在意義、大義とは日本人にとってそのように大事なものだった。赤穂浪士の仇討ち・討ち入りもまた、日本人が喝采を送ったものである。私が子供の頃には、討ち入りのあった12月になると毎年そのドラマがテレビ放映され、父母はそれを見るのを楽しみしていた、それを見て感じ入っていた。仇討ち・復讐劇のどこがそんなに感心を買うものなのか、子供だった私はやはり分からなかった。キリストは言っているではないか
ーー右の頬を打たれたら、左の頬も出しなさい(聖書)
と。叩いても叩き返すな、復讐などもってのほか、死に至るまで従順であれ、黙って殺されるキリスト様を見なさいと、それがキリスト教である。民の戦意を削ぎ、怒りを沈静させ、それが神の望む君たちの姿だと信じ込ませる。どんな不条理も耐え忍べ、それがキリスト様の元へ行く道ですよ、キリスト教は、横暴な支配者が民を支配する・民を大人しく従順にさせておくためのツールのようにも思える。民の反抗心・反逆心・暴動・反乱を恐れる支配者はキリスト教という宗教によって民のパワーを封じ込めたのだ。私は、十字架にかかったキリスト・イエスを告訴します。大勢のフォロワーを十字架の上に引いていったからです、悪者たちの手に引き渡したからです・陥れたからです。街中の子供たちが、ハーメルンの笛吹男・嘘つきの後について行ったように、世界中の多くの人々がイエスについて行った。ハーメルンの笛吹男が子供たちを連れて行ったのは暗い洞窟の中、イエス・キリスト、その名を信じた人たちもまた暗闇に閉ざされた。神よ、これでよいのですか。私は、キリスト教を断罪しても、キリスト・イエスまでをも裁くつもりはありませんでしたが。私は頭がクラクラした。何がどうなっているのか分からなかった。
けど、とうとう、キリスト教という悪の総本山・サタンの尻尾をつかんだ。「正義」なんて言葉を日本人は使いやしなかったのだ。そんなものを称えていれば、そんなものに従っていれば・縛られていれば、法、道徳、契約、それらが枷となり、悪い事も善い事も何も出来ない。足枷を着けられた奴隷がサッカーボールを蹴っているようなものだ、パフォーマンスが上がらない。呪縛のように選手を縛り付ける、完成されたフォーメーションみたいだ。狭められた枠の中で自由に動けない、思う存分自己の力を発揮できない、自分の機転や判断を利かせられない。彼ら支配者側は、崩されない鉄壁として「完成されたフォーメーション」を民衆に与えたかった。「大義」なんて己の信念に従って欲しくなかった。日本人は国に反旗を翻した西郷さんの行動が正しいとか正しくないとか言わない、赤穂浪士の仇討ち・復讐劇が間違っているとか間違っていないとか言わない、ただ人間らしい情を持って、彼らに共感するのである、あなたの気持ちは分かる、あなたの立場は分かる、と自分とその者とが一体化出来れば、それでよいのである・それをよしと見るのである。法律を守る意地の悪い人間を良しとはしない、法を破る泥棒でも、その心が分かれば・共感が持てれば良しとするのである。
キリスト教は世界中に広まった教え・宗教で、世界中の多くの人たちがその教えに騙されていた。日本人の多くが偽の教え・キリスト教に惑わされない・騙されないというのは、自分の目で生のキリストを見ていた・自分の身近に大勢のキリストがいた、自分たちはそうしてキリスト様に庇われてきた、そんな記憶があったからである、それが私たちのご先祖が培ってきたものである。その土壌に、私たち日本人は育ったのである。先人が培ってきた良質の土壌、多くのキリストを生んだ土地である。土を耕したよい匂いがする、それはご先祖たちの残り香・芳しいキリストの匂いである。生まれた赤ん坊にキリスト被りな(キリストに重なる姿の)ご先祖たちの記憶がないとしても、その残り香がこの国には漂っていたのである。この国土の上でこの国の空気を吸って子供たちは育ったのである。だけどね、ご先祖たちが積んだ功徳・徳の貯金を食い潰して来たのが戦後の日本人なんじゃないか。底をつく前に・残り香が消えないうちに何とかしないと。この国の土を踏みしめ空気を吸って育った私たちは、ご先祖たちの残り香に懐かしさを感じるはずである。
2020年時点で、私はまだ教会に行かないクリスチャンを自称してましたからね。キリスト教には見切りをつけたけれど、キリストを見切る・見限るのには抵抗がある、と感じてましたからね。2026年の今、私の中でその思いは消化されました。キリストも、西郷さんも、戦没者の方々も、ご先祖様も、皆同じ姿をしているじゃないか、ありがたいものは皆神様、日本人の私に染みついた感覚で、それが一番しっくりくるのでしょう。我々日本人のご先祖様は神々であった、それでいいじゃないか。日本神話にもそうあるじゃないか。神話と言っても日本の神話は、フィクションではなく、正式な歴史書(「古事記」「日本書紀」)に記されているものですからね。史跡も多数存在していますし、更なる発掘調査も進んでいます。神々の国・神秘の国・ミステリアスジャパンがベールを脱ぐ時です。
(2008年記)「世界平和国家」という一つの国を建てるに、世界の人民皆で「宇宙船地球号」という大船に乗るために(そうして皆で宇宙の大海原に出て行くのでしょう)、旧い制度は解体されなければならない。そんなとき・旧い制度が解体されるとき、持つ者たちは、持っているものを捨てなければならないのである、歴史はそう物語っている。彼らがそれを持っていては大船・新型船には乗れないのである。今の世界の体制を見れば、富国はその富を離したくないのである、それを持ったままで、どうにか新しい船に乗ろうとしている、各国首脳たちは出来ない話を話し合っているのである。彼らは新しい国を立てるのに、旧い体質やシステムを持ち込みたがっている。そのために埒の開かない話し合いが延々と続いてきたのである。近代日本の始まりの時・明治新政府が樹立する時と同じような様相である。誰かが、一番のリーダー格が、おれ、それもうやーめた、一抜けた、と言えば、一番なのである。リーダー格と仲のよい者が、彼を別の向きに引っ張っていくことも出来る、その打診くらいはしてもいいだろう。彼がいなくては何も出来ない、彼のご機嫌とりでは、その者はいつまで経ってもヒーローにはなれないのである。ただの意気地なしである。民衆は豪を煮やすであろう。
(2020年追記) 2008年当時父神は、日本がアジアのリーダーになることを勧めていましたよ。でも今の国際情勢を見ると、日本はその時を逸したようですね。アジアの国々も必死に頑張り、自力で這い上がってきましたからね、日本のようなリーダーはいらないでしょう。リーダーに媚び売らずに、下々に恩を売っておけばよかったのにね。日本の外交はさておき、世界の国々は、それぞれに自国に得になることばかりを考えている、まるで反対方向に進んでいるようだが、ますます拍車がかかる一方という気がします。「世界平和国家・神の国」の実現は見えない。似たようなことは進められているようですが、似ていて非なるものもありますからね。新世界秩序やグローバリズムは、一つになる世界を吹聴しているが、陰謀論者のみならず、今それに危機感を抱く人たちがいるようですね。明治新政府が中央集権を推し進め、藩を廃して、県とした、地方の独立性・自律性が失われ、地方自治が衰退、地方の独自性・特色なども失われた。同じようなことが世界規模で起きる、国が廃され、国や民族の独立性・自立性がなくなる、文化や生活習慣、言語も失われていく、ある民族の一つの思想が世界を覆ってしまう、彼らの思想が世界を支配するようになるーー世界のどこに行っても同じ、つまんない世界になりそうですがねーー日本国や日本人は既にそのような思想に染まっている・犯されている(陰謀論者はそれを奴らの陰謀と捉えているんですね)、日本人であることを取り戻そう、そんな声を耳にします(「私は陰謀論者ではありませんが」と言う人たちも脅威を感じて声を上げているようです)。父神が、西郷さんをリバイバルさせようと思ったのにもそんなわけがあるのでしょう。昨今の日本では西郷さんは埋もれてますからね・脚光を浴びる存在とは言えませんからね。この国のキリスト様が続々と復活・リバイバルしてくるといいですが。だけど、埋もれた英雄たちの発掘作業が間に合わない。
(2026年記)埋もれた英雄たちの発掘作業が間に合わない、と言った私でしたが、人員は私一人ではなかった。近年YouTubeチャンネルなんかを見ても、様々な人たちがあちこちで発掘作業に携わっているよう。日本や日本人が見直されている・再評価されている。
『え? 既にリバイバル・復活は始まっているって?』
私の耳に思わぬ朗報が。それを囁いたのは父神。私は前世の記憶を持って生まれてくる子供たちの話を思い浮かべた。
『まさか。そんなこと信じられないけど。復活は本当に始まってる?』
父神はこうして、また私の物語を撹乱するつもりでいるのか? そんなことにでもなれば、物語は今回もお蔵入りになりかねない。2008年には神のお裁き(聖書で言うところの「最後の審判」)が既に始まっていると言い、2026年には復活が既に始まっていると言う。まあ、それがキリスト教的なものでないにしても、例えば、A級戦犯として罪着せられた者たちへの再審・再評価を我々は始めたようですけどね、そうして闇に葬られていた真実・埋もれていた英雄たちをリバイバルさせる・彼らに日の目を見せる、日本の英雄たちが今再びわれわれの前に姿を現す、そんな動きは確かにあります。考古学の分野でも縄文の遺跡の発掘が進み、縄文人がただ者ではなかった、と評価され、縄文リバイバル・縄文ブーム・縄文回帰なる気風が高まってますものね。この国の国土にはそんなお宝がわんさか埋まっているってことですよ。
「そこ掘れワンワン」
犬の手も借りたい、状態なんですって。我が家の猫は呑気に昼寝をしてますが。
あ〜あ、到頭、私のキリストを宣べ伝えるための物語も、キリストを告発する物語に化けた・反転した。悪の組織が崩壊するのは、内部告発からですからね。世界を股にかけた・世界を傘下に置く巨大組織vs1羽の老いた小鳩ちゃん、彼らの思想は宗教を超えて、世界中の人々の生活に影響を与えていますからね、世界の人々の大半は洗脳を受けてますからね、「ボーボー」なんて冴えない声で鳴く小鳩の声が届くとしたら、そのバックに余程の存在がいないとね。本当にあなたが力ある神様なのか、腕の見せどころ、証明の機会よ。あなたの業があなたの存在・あなたが何者かを証明する。私は単なるメッセンジャーの小鳩。
あ〜あ、到頭、私のキリストを宣べ伝えるための物語も、キリストを告発する物語に化けた・反転した。私自身、この物語の行き先を知らないのだ。行き先は「パラダイス」だと告げられていたが、行けども行けども見えない、私は詐欺師に騙されてしまったのか、そうして人生を棒に振ってしまったのか。
あ〜あ、自分でも聖書みたいなくどくどした退屈な読み物と思うわよ。聖書読むのは根気要るけど、これ読むのも根気がいるでしょう、こんなもん誰読むの? これで勝負しようって、父神よ、あなたの気がしれない。自分は神様だっていうんだから、神様なら自分で何とかしなさいよ。それと、今までの分も、私にちゃんとお支払いしてね。10年単位で滞ってますからね。くどくどは私の方だって? 馬鹿なことおっしゃい。歳をとれば小鳩の性格だって変わりますよ、私をこんな性格にしたのはあなたよ、私はあなたと共に歳をとった。そう、何十年も連れ添った。私に夫がいないのはそのせい、全部妬みやのあなたの仕業。ずいぶん恨みに思って、キリストの次は父神のわたしを被告人席に送るのか。ええ、回転式の舞台装置になってますので。誰もが座る席です、あなたの番が来ました、例外はないんです。裁判長の席に座っていると思ったが・・・。「化ける・反転する」ことになってますから。自分の座っている王の椅子も、乞食の座るむしろに変わっていてびっくりするかもしれません。




