プロローグ
(2020年追記) 長男と三男、年齢の差は8つ、この二人の息子たちを比べると、子供(の質)が変わったな、急激に世の中が変わるのと同じくらいのスピードで、子供たちが変わったな、そんな気持ちになってしまった。たった8年でこうも変わるか、近年、時間はとても早く進んでいたんですね。物語の少年像(長男たち)は古臭く、古きよき時代を彷彿とさせるレトロ感がある、太古の生き物・絶滅種のようにも感じられます。
(2026年記)子供を上から下まで10年間(長男H.5生〜次女H. 15生)育てると、色々なものが見えてくる。驚くのは、数年とは言えず、子供たちの姿が急激に変化したってこと。長男世代と三男世代、同じ子供たちとは思えない変貌ぶり。一つ言っておかなければならないのは、親が子供に何を与えたかで子供たちは変わってくるってこと。私という同じ親の子供でも、長男世代と三男世代ではまるでその姿が違っている。
高価なスパイクは親が子供に与えたものだろう、クールなウェアも親が子供に買ったものだろう、試合の日の昼食にコンビニのお弁当を持たせるのも親だろう、食後のデザートまで添えて。皆親が子供かわいさにやることである。長男たちのサッカーコーチは夏休みの練習には、自分で握った白米のおにぎり、海苔がなくて塩だけでもいい、を持って来るように言った。試合の日には、晃太の母親がお弁当屋で働いていたので、皆そこで同じ弁当を注文して食べた。勿論自分でお弁当を持ってきてもいい、駿の母親はいつも手作り弁当を持たせていた。「今日は唐揚げ弁当ね」とか「今日は焼き肉ね」とか母親たちが決めて、それがいやだとか食べられないとか言う子供はいなかった。皆で同じものを同じ場所で円になるようにして食べるのが長男たちだった。きちんとお座り・正座して食べる子もいた。きっと彼は家庭でそうやって食べてたんだろうね。子供たちは段々に、オレはあんなもの食べたくない、コンビニで好きなもの買って、デザートも買って食べたい、そんなふうにめいめいが好きなものを食べるようになった。皆で1カ所で食べないで、数人で木の下など好きな場所に移動して食べるようになった。終いには時を選ばず、先輩たちの試合の最中でも平気で食べるようになった。みんなで一緒にとか、少し我慢して、そんな気持ちがなくなり、自分が満足するものを食べたい・自分が満足することが一番、と思うようになった。せっかく食べるなら自分で好きなものがいいだろうし、好きな者同士で食事したいし、私もそれはそれでいいだろうと思っていたが、ひとりポツンと食べる者が出てきたり(それがいじめに繋がったり)、好きな時に飲み食いするのも行儀悪く見える。そんな日頃の小さな積み重ねが、最後大きな結果につながったりもするのではないか。凡庸な長男たちが、最後大きな勝利を手にしたのは、などと考えてしまうのである。勝敗以上に、記憶に残る感動を与えてくれたのが長男たちである。私たち選手の親だけでなく(私たちが彼らの親だったからというわけではないだろう)、その場にいた誰もが感動を胸にした。表彰式の講評を述べる者の言葉にもその驚きにも似た感動が表れていた。応援席で見ていた女生徒たちも早馬のようにその試合模様を学校に持って帰った。
(2008年)「完成されたフォーメーション」が対戦相手の南中への講評だった。それを破って優勝、って聞くと、従来の型を破った「斬新さ」を連想するかもしれないけど、彼らにあったのは「レトロ・懐古的」な様だったのよね。「型破り」・そもそも型なんか持ってない・子供たちが自由にのびのびサッカーしてた、チームの指導者の下でフォーメーションがどうのこうの、そんな知識を植え付けられることもなく、自由な発想で純粋にサッカーを遊び(の延長)として楽しんでいた、要するに「自由な発想=柔軟性」がチームの勝因になった試合だと思っている。「完成されたフォーメーション」の弱点・欠けは自由な発想が生む「意外性」だったのよ。予想外のことに対処するには完成されたフォーメーションではダメだった、完成されたフォーメーションには柔軟性がなかったってことよ。我が息子たちは小さなプロ選手として育成されなかった、子供時分から英才教育を受けることがなかった。その道のプロとなるべく教育を施すことと、人としての人格を育むことは、育成者に別のスキルが求められる、目標・目的・ビジョンが違えば教えることも違ってくるってこと。指導者のビジョンが試合に勝つことであれば、技術面・技能面の強化を重視するだろう。手札集めが出来るクラブチームが台頭してきたときに、私が危惧したことだ。幸い、長男たちはランダムな手札で勝負することがどういうことかを学んだのだ。少ない手札、ランダムな手札で、どうやったら自分たちの最善を出し切ることができるか、彼らはフォーメーションの型を頭に入れることより、高度な技を磨くことより、そっちの方に頭と肉体を使わなければならなかった。そうして導き出された答えは、弱い者を庇う・助ける、ミスした者に悪態をつかない・プラスな言葉がけをする、相手を思い遣る、相手の立場に立つ、彼らのプレーの中にはそれが現れていたのである。弱肉強食(そうしてレギュラーとして勝ち残る・ポジションを勝ち取る)のクラブチームとは真逆だったのである。洗練されたクラブチームにはない、少年サッカー本来の泥臭さ、長男たちにあったのはそれ。スポーツ少年の魂・精神がわずかにも残っていたのよ。(2026挿入)三男たちは泥臭いどころか、気取り屋のピーコックみたいなの。
私たちの生活がいかに快適になろうとも、私たちの生活様式がどんなに変ろうとも、そこにあった精神をなくしてはいけない。古いものを温め直したときに、新しいものが生まれる、古いものの中にあるよい精神を受け継ぎ、時代に合った新しいかたちのものを作り出す、「温故知新」です。「型(旧式なフォーメーション)を破った」息子たちのチームの活躍に見たものは、そんな精神だったんです。私は少し心配になります、息子たちは「温故知新」の意味を知っているのか? 「曲者」の読み方が分かるか? 思わず「くせもの」とカナ振っちゃいました。「チームプレーは皆一人一人がヒーロー、一人一人の頑張り、輝き、技が、チームの頑張りであり、チームの輝き・栄光であり、チームの偉業である」私はそんな言葉を彼らに冠したけれど、そんなのを見せつけてくれた彼らだけど、「技」と「業」の掛詞に気づいたか、体力だけでなく、知力も鍛えないとね(部活終われば後は受験勉強が待ってるからね〜)。今こそ、われわれ「世界国家」は知恵を絞らなければならない。世界の一部で戦争が起こればそれはたちまち全体に飛び火する、一部で伝染病が発生すれば瞬く間に世界に広がる、世界が狭くなり、私たちはそのような危機感を抱いている。正に世界は一つのからだなのである。身体の一部に病があれば、全体を脅かすのである。
「植田、一丸! パス攻勢だ つないでつないで3年ぶり参戦」
それが新聞の大見出しだった。「ボールに先に触れ」のコーチの指示通り、相手キーパーが蹴ったボールもうちのチームが先に触った。それを「つないでつないで」ーーパス出しが上手い場合もあるし、パス出しにズレがあっても受け取りが上手い場合もある、つまり多少のミス・ズレは上手くカバーできる、ミスがミスにつながらない、連携がいいのである。彼らのパスワークのよさは、彼らはパス出し(の正確さ)以上に、パス受けの方が上手かった、どんなボールもさばく・見捨てない翔君スタイル・職人気質の生真面目さはこのチームのスタイルでもあったのだ。「受けが上手い」とは、彼らは相手に合わせることが出来る、相手のミスをカバーすることが出来る、そのために必死に走る、脚を出す、のである。それがこの「つないでつないで」なのだ。彼らに冠するなら、「フォーメーション」の完全性よりも、むしろ、「コンビネーション」の完全性なのだ。一人一人のプレーに個性が出ている、彼らのプレーには自由な自己表現があるが、自己顕示・私欲がないのである。私はそんなところにチームとしての「成熟度」を見る。これだけの自我・個性の集まりが、これだけのまとまりを見せるのも珍妙である。私はつくづく新聞に載った彼らの写真、その一人一人の顔を眺めて、本当に彼ら(とうい一つの存在)はみょうちくりん、とらえどころがない存在・ユニークな存在である、と思った。「われわれ」世界国家の生き残り(滅亡か存続か)は、一丸、連携、私欲を捨てる、私腹を肥やすことなく誰もが真面目に働く・職人気質な勤労、息子たちが見せてくれたあの姿、そんなところにかかっているのではないか。「ドリームチーム、世界を救う」そのうち新聞の大見出しに載るんじゃないか、大袈裟な話でも何でもない、君らはそんなヒーロー(戦士団)なんだ。
あれ、うちの息子の出番がないままに終わっちゃうぞ。輝、この物語のアンカーは君だよ。アンカーはどんなに差が開いても、最後まで一生懸命走る、その一生懸命な姿に皆が拍手を送る、そういうものだよ。このチームの「未完成」部が君である。皆、鶏冠のかっこいい雄鶏になったのに、うちの息子だけがまだ産毛のひよこちゃん(身体のわりに変声期は遅かったし、ほんと未だ産毛・ひげも生えずに女みたいにきれいだ)。出来ない息子を持った母の焦りも分かります。君のスコア表を開いてみよう。ここだけ(フィールド上君の立っている場所だけ)雰囲気違うんだよね。輝、「蹴鞠」って知ってるか? 平安貴族が袴はいて庭先でやる優雅なお遊びだ、みんなはサッカーやってるけど、お前がやってるのは蹴鞠なんだよ。母は息子にきついね。君は、自分を晃太と比べるな、どうせ比べるなら雅也と比べてみろ。晃太が持っているのは刀一本だ、だけど、晃太の刀は切れ味がいいぞ。君のプレーは切れが悪いんだ、中途半端なんだよ。なぜだか分かるか。君は晃太よりも多くの武器を持っている、背も晃太より高い、走るのも晃太より速い、なぜ晃太と自分を比べる。白銀の甲冑の身を包み、白馬にまたがった、麗しの君、西洋の騎士のように優雅なそのいでたち。なのになぜ、君は怯えるのだ、敵の強さに怯えるのではなく、君の敵は君の中にいる・自分自身である。己に打ち勝つことの出来ない君の哀れである。君は小学校の運動会で毎年個人走で一等賞を取る、二等賞には必ず入った、なのにリレーの選手になったことがない。運動会でリレーは花形競技である、君がヒーローになれる場である、それを毎年君は辞退しているのである。小学校1年生のとき・初めての運動会で、速く走ればリレーの選手に選ばれることを知らなかったから、君は辞退できなかった。君はリレーの選手で走ったが、抜かれたんだ。相手は今陸上部にいる雄太、雄太は小学校の卒業文集にも「将来の夢、オリンピック100メートル競技で世界最速」って書いてるぞ、雄太が速くて君は抜かれた、以来君はリレーの選手を辞退し続けていたんだ。弱い者とは戦えるが、強い者とは戦えない、君が自分を晃太と比べ、雅也と比べないわけだ。輝は身体がいいから、これからもっと(背が)伸びてくるだろうし、中学になったらいい選手になるんじゃないか、Sコーチは言っただろう。輝、Aチームに選ばれたよ、(合流組では)輝だけだよ、二年生の初め秀俊母は言ったぞ。だけどどうだ、ここに来て、結局君は晃太にも抜かれ、ドンケツということだよ。君はいつも、かっこ悪い姿は見せられない、失敗したらかっこ悪い、と思っている。失敗しそうな場面はなるべく避けて通りたいんだ。僕の「イケメン」に傷がついたら大変だ、そんなこと思っているのか。そうだよな、「正統派ジャニーズ系」とか、「イケメン」とか、みんなに言われるだろう。君は絶対に失敗できないんだよ、その顔に泥を塗ることが出来ない、君はそんな思い違いをしているんだよ。結果、君はかっこ悪いんだよ。君のプレーには迷い・邪魔・雑念がある、晃太とはまるで逆なんだよ。どんな「負」もない君は「腑抜け」・腰抜けなんだよ。君のイケメンという「プラス」は君の「負け」にはなるが、君を鍛えるものとはならない。君は自分の容姿・外見ではなくて、別のものを磨かなくちゃならないのに、その鍛錬がおろそかになるんだ。コーチは試合中よく君たちに身体の向きのことを言うだろう、「どっち向いてるんだ、身体の向きが悪いぞ」って。君は別の方向を向いている・向くようになるんだよ。毎朝、髪のセットに余念がないことで、ご苦労様。だけど、その髪型は人のパクリで、本当は君の髪質に合ったものではない。君の柔らかな髪を無理に突っ立たせている、似合わないんだよ。君は間違ったことばかりしている。つまりイケメンは+要因ではなくて、−要因なんだな。お前の妹も最近きれいになったから、よく鏡を見る、髪を切った時なんか二時間も、三時間も鏡を手にしていた。私は、この娘も、息子以上に心配である。私は手のかかる息子たちにかかりきりで、大人しく手のかからない娘はほったらかしになっていた。男兄弟ばかりの中で彼女は孤独である。家の中でも自分は余り相手にされていない、と彼女は感じているだろう。彼女は何が得意なわけでもない、ピアノも、テニスも、長続きしなかった、勉強も芳しくない。そんな彼女が年頃になり、外で「きれいだね」と言われたとしたら、私の武器はこれだ、この美貌を武器にしよう思ったら、大変である。「女が容姿のきれいさを武器にしようと思ったら、とんだ間違いおかすよ」私は言った。私は苛々のあまり、ある晩とうとう怒鳴った、「お前ら兄妹二人、気持ち悪いんだよ、鏡ばっか見て。そういうのナルシストって言うんだ」。ナルシスト、自己愛、これは最低最悪である、そんなところへ落ち込むのである。君の存在価値はそれとは全く別のところにあるはずである。イケメン男はそれを見出すことが出来ない・出来にくいのである、彼は男としてはあまり上等ではない。私は息子・娘に言う、お前らについて来る女・男はあまり良くないと思え、外見重視、それに騙されるような女や男だからな。私は彼のサッカーについてはどんなことも言わない、ただ、それ以前・彼の人間性に問題があると言うのだ。それゆえ、彼のサッカーも上手いものとはならない。
(2020年追記) 自分がイケメンだ・かわいいと思っている子供ほど、うっとりと時間をかけて鏡の中の自分を見ますよ、そこに価値を見出して欲しくないんですけどね。今思うと、子供たちが鏡を見るのも成長の過程、目くじら立てなくてもよかったとも思いますけど。目的もなく、自分にあまり自身のない若い彼らが着飾るのも成長の過程。自分に色々な服を着せてみたい、きれいな服でも着れば、若い彼らは自分でも魅入る(見入る)ほどに美しい、それは本当ですよ。だけどそのうち、飽きる、気づく、するとそういうことに時間や労力、金を使わなくなっていく。自分に似合うもの、着心地よくしっくり来るものを見つける、鏡を見るのも色変え着替えも、彼らが自分を知る、過程だったのよ。自分の美しさに人が寄って来たって、それは不実で薄っぺらい付き合いだ、煩いである。美しさや人気を売るホストなどは、自身の中に何かコンプレックスや歪みがあるんですかね。
(2026年記)世の中には「ルッキズム」なんて言葉が登場してたんですね。まもなくそれも廃れるでしょう。個性がなくて面白くないもの、誰がかっこいいの以前に、若い男性タレントが皆同じに見えて。年のせいかと思ったら、高校生の姪っ子も「そうだね、同じに見える、よく見ないと」と言った。「よく見ると全然違うよ」と、彼女は自分の推しメンを持っていた。「ルッキズム」人の外見美に対する追及も極まった、って感じですね。その反動が来ますよ。自分の美しさに自惚れるホストもアイドルタレントも、滑稽だと思わない? 『ねえ、僕って美しいでしょう?』彼らの眼差しが言っている、まつ毛をパチパチさせる女みたいに。彼らも気取り屋のピーコックね。幼稚園の遠足で動物園に行ったけれど、ピーコックが羽を広げると、その檻の回りに人だかりが出来た。ピーコックは羽を広げて見せても、その羽では空を飛べないことを憂いているようだった。その美しさが崩れた時、彼ら自身も崩壊してしまうのではないかと、心配である。若さや美しさなんて脆く儚いものに捕われることは、私には恐怖でしかない。自分の価値をそこに見れば、いつ崩れるか、いつ失うか、絶えずそんな恐怖に苛まれる、私には耐えれない恐怖。猫でもかわいがる方がマシ、飼い猫は「僕はあなたが必要、僕はあなたを慕う」そんな価値を私に与えてくれる。「必要な存在であり、慕われる存在」私にそんな自己認識を与えてくれる。『私は美しいでしょう? きれいでしょう?』と自己満足・自己陶酔するより、こんな小さな者にでも『あなたが必要、あなたを慕う』と認められることの方が私を平穏な気持ちにさせる。へ〜、ピーコックは空を飛べるんですって。オスは立派な「飾り羽」を持っていますが、それとは別に「風切羽」を持っているため、重い飾り羽を持ち上げながらも飛翔できます、だって。風切羽(自分を自由に飛翔させる別の才能・隠された才能)があるんだったら、重い飾り羽なんか脱ぎ捨てて軽やかに空を飛んだらいいのに。メスを誘うために大きく広が美しい羽・飾り羽は一年に一度生え変わり、抜け落ちた羽は工芸品などの材料に用いられる、んですって。猫の毛が抜け代わる季節、
「神様はあなたに毎年新しいお洋服をくれるのね」
と私は言うが、猫や孔雀と違って、人がその虚栄の羽をメンテナンスするには金銭も要るだろう。
(2008年)息子のサッカーを少し評価しよう。君は、腰抜け発言を連発している。合宿から帰って来て、「やばいよ、おれ、PKになったらどうすっかな」。合宿でPK外したのか? 「大丈夫だよ、輝まで回んないよ。その前にけりが着くよ。順番で行けばまずは〇〇だろう、次に〇〇で・・・・」和也が言い、「そうかな、ならいいけど」、この会話は何なのでしょう。輝はディフェンス左サイドだけど、ドリブルで随分前まで上がって行ったから、「お前、剣ちゃんにボール上げられないのか? だったら自分で入れてもいいぞ」私が言うと、「おれは外すから」。だったらちゃんと剣ちゃんに渡せ、自分で入れるつもりもない、剣ちゃんにちゃんとしたパスも通せない、だったら何のためにあそこまで上がった、君のプレーには意味がない。目的意識を持ってプレーしていないんだよ。ボールがゴールに入るイメージを描け、そのイメージをチームのみんなと共有しろーー君ははなから失敗するイメージを描いている。どうすっかな、どこにやったらいい、そんなその場しのぎの処理をしてはいけないんだよーー君のプレーのキレの悪さだ。だから君のパスは受けづらいんだ、君がどんな目的で、どこに、どんなタイミングでパスを出すか、誰も予測できない。君のアクションを予測できないのは、君はうつむき加減に走っている、剣ちゃんにパスを出すなら、もっと剣ちゃんの方を確認しろ。自分のタイミングを欲するんじゃなくて、剣ちゃんのタイミングを見計らえ、君のプレーは自分本位だ。自分が失敗しないタイミングが欲しいんだ、君が相手の立場・立ち位置を思い遣れない人間だと言うことだーー君の自己愛・自分かわいさだ。剣ちゃんが失敗した・シュートを外したんじゃなくて、お前が失敗したんだよ、剣ちゃんに彼が失敗するようなパスを出してしまった、お前のミスだよ。この判断ミスは、彼が自分しか考慮に入れにことから起こってくる。処理に困ったボールを剣ちゃんにパス、そんな無責任なプレーをしてしまった。君を責めてるわけではなく、大人の世界でもそんなことがあるってことだよ。彼の白銀の鎧は保身である。彼は身にまとわりつく邪魔なものをかなぐり捨て、必死で走らなければならない。もう間に合わない、と思いつつも(いやそんなことを思ってはいけない)、「走れメロス」は友のために走ったのである、裸で走った彼を人々は喝采を持って迎えた、彼は英雄である。「輝、すごい顔して走ってたよ」今年の運動会のリレーを見た彼の妹が言った。出だしずっこけたから、必死になったんだろう、それでも抜けたのは二人だったな。中学になってから彼はリレーの選手を引き受けている、小学校の紅白対抗ではなく、中学校はクラス対抗なのでクラスの半数近くがリレーの選手だったから、そこに選ばれないのは返ってかっこ悪いと思ったのだろう、あの身体で、サッカー部だし、出ないわけにはいかない。だけど私は、一度も彼のかっこいい姿を見たことがない。いつも安全地帯を取ったし、珍しく今年は第一走者だったが、スタートでこけた。こけなきゃ一番になるはずだったんだ、彼はいつもそんな言い訳や言い逃れをする。勉強? おれはやれば出来るから大丈夫だ。だけど、やれば出来る、って言うんだけど、いつやるの? そう言いながら、やらないで終わっちゃうんじゃないの。それが彼の人生だろう、リレーも、サッカーも、とうとう活躍せずに終わってしまった。大成しない、先が見えてる。なんか滅入ってくるわね、これ書いてて。そろそろ切り上げたほうがいいわね。最後に、神は、自分に与えられたわずかものもを有益に使った者・「よい管理者」には、更に与えられる、与えられたものを無駄に腐らせた者・悪用した者・「悪い管理者」からは、持っているものまで取り上げられる、と言われるーー神の国が到来するときにはそのようである。それまであなた方は与えられた富(才能・自分の持ち物)をしっかり管理し、保持しなければならない。それは神から与えられたもの・預かったもので、自分のためではなく、世のため人のために用いられなければならないものである、それが富の正しい使い途である。
(2026年記)聖書の引用や例えが多いのは、当時私はクリスチャンでしたから。
(2008年)息子一人を矢面に立たせたが、こうでもしなくちゃ人の前に立って誰かを庇おうなんてしないのが彼だからね。彼は、ヒーローになりたくないのである。彼がそんなふうに思うのにはわけがあった、と私は気づいたのである。彼はヒーローになりたくないのである。ヒーローは「失墜する権威」だからである。自分の父親は妻をよその男に取られ、次の(弟たちの)父親は妻に家を追い出され、自分がやっと見つけたヒーロー・小学校の時のサッカーコーチも、クラブチームの設立の約束を果たすことなく自分たちの前から姿を消した。彼にとってヒーローとは「失墜する権威」なのである、かっこ悪いものなのである。父親は家の頭、コーチはチームの頭、その統率者・リーダーたちはいずれも相揃って、その権威を失墜させているのである。彗星のごとくに現れ消えていく、桜の花が散るがごとしに散っていく、それはこの世のヒーローの本質・定めであったろう。そんなわけで、私は、息子たちと共に、ヒーロー探しの旅に出ることにしたのである。私は、彗星のごとくに、と、桜の花の散るがごとしに、と二つの例えを出した。ナポレオンやヒトラー、彼らは西洋の英雄たちであるが、彗星のごとくに現れ消えていく、そんなイメージを与えるのである。桜の散るがごとくに「あわれに」散っていく、私はこれに日本の西郷隆盛という英雄をイメージするのである。「あわれ」は古典の授業で学んだであろうが、「趣きのある・情緒に溢れた・心揺さぶられる」という意味である。
プロローグ
あるところに、泣き虫で、弱虫で、意地っ張りな男の子たちがいました。彼らはそんな弱虫な自分たちのヒーローが欲しいと思いました。彼らはそれにふさわしいと思える存在を見つけました。あの人を親分にして、僕たちは彼について行こう。「ガキ大将」が子供たち集めて何かやってる、母の目にそう見えたものが、男の子たちには「若き英雄」に映ったのでしょうね。彼は彼らの憧れの的であり、目標でした。親分と男の子たちは皆で一つの船に乗って漕ぎ出しましたが、途中で大波が来て、船は転覆してしまいました。不甲斐ない親分だな、男の子たちは失望し、彼のもとを離れました。彼らはヒーローが欲しかったのです。そんな彼らは、ある時、自分たちがヒーローになっているのに気づいたのでした。これはそんな彼らの物語(成長の記録)である。
彼らはヒーローが欲しいと思ったのです。いつしか彼らはヒーローを欲しいと思わなくなっていました。そんなうざったいもの今のおれたちには必要ない。親も、学校の先生も、サッカーの指導者も、なんかうざったい。かつては君の父親が君のヒーローであり、君のサッカー・コーチが君のヒーローでありしたのに。君たちは、彼らが完全無欠のヒーローでないことに失望したのか。「お兄ちゃん、僕たちにサッカー教えてよ。僕たちの相手してよ」君たちがそんなことを言われた日には、君たちはヒーローの心を知るであろう。ヒーローとは荷が重い役である。「役」と言うからには「架空の存在」なんですよ。ヒーローは君たちの夢(憧れの世界)に存在したんですよ。君たちはその夢(憧れだったもの)を一つ一つ自分の手につかんで行く、すると君たちの中にいたヒーローは存在しなくなるけれど、君たち自身がヒーローとなって行くんだよ、「夢をかなえる存在」、それがヒーローだよ。君たちが前進し、夢を現実に変えて行けば、幼い君たちの心の中にいたヒーローは存在しなくなるけれど、君たちが心に夢(志・目標)を抱いて進んで行く限り、その君たち自身がヒーロー(夢をかなえる存在)なんだ。君たちはかつての君たちのヒーローに追いつき、追い越す存在となって行く、ということだよ。ヒーローが君たちの前に、いつまでも立ちふさがる壁でいてはいけない、そういう意味で、君たちはその存在を捨てる・自身の手で打ち壊す、ことが必要だった。それが君たちと父親、またはコーチ・恩師との関係だ。すべてが自然なことなんだよ。
ただ、ヒーローという像を壊すことと、父親やコーチ・恩師という実のものを壊すことは別である。君たちの中で「父親=ヒーロー」・「コーチ=ヒーロー」という等式が崩れた(彼らに重なっていたヒーロー像が壊れた)だけで、君たちにとってやはり父親は父親として、威厳あるもの、恩師は恩師として、尊敬に値するもの、彼らは敬われなければならない。敬いの根拠は、君たちが今ここにある、彼らがいなければ今の自分が存在しない、父母が時にどんな理にかなわない・間違ったことを言っていると思えるときにも、僕という存在を生んでくれて・つくってくれて・育ててくれてありがとう、その気持ちを忘れないことである。君らはむやみに父親に反抗し、だって親父だって間違ってるだろう、なんで俺のことを正せるんだよなどとですね、父親の権威を傷つけないことである。私も分かってますよ、親や学校の先生だって間違っていることを言っている・やっていることはあるんですよ。それを向きになって攻撃しないこと、彼らの権威を傷つけない・おとしめないことです。ごもっとも、という顔で聞いているしか手がないってのも辛いとこですけど、だったらあなたはあなたの子らにその間違ったことを教えないことです。それにはあなた自身が本当に正しいことは何か、人生の中で探し求め・追い求めて行くことです。きっと見つかるはずです。何が正しいとこで何が間違ったことなのか、何がよいことで何が悪いことなのか、よいも悪いも分からない立場(それが今のあなた方です、ただ生意気なだけ、手がつけられない、そんな時期なんです)で、他人の間違いを攻撃することはいけない、父母、学校の先生、彼らあなた方のために良かれと力を尽くしてくれている人たちに不従順であってはいけない。聖書はそんなあなた方に、「いのちのことば」を与えます――「あなたの父と母を敬え」(十戒・神がご自分の民に授けた十の戒め)。自分が真に正しいことを知った上で、その時は父親にでも母親にでも、どんな権威に対しても、立ち向かいなさい。だけどあなた方がそれを知ったとき、あなた方はもうあなたの父母に悪口ついて歯向かいたい、そんな気持ちはなくなっているはずです。彼らの労をねぎらいたい、そんな気持ちになることでしょう。それが本当の大人、あなたたちはまだまだ半端者、そのあなたたちにああでもないこうでもない言われる父母の気持ちを考えよ。
彼らが抱いていたヒーロー像が壊れるこの時期、親がとやかく言うと、お前はおれにとやかく言える立場かよ、と彼らは反抗します、俗にいう「反抗期」がこれです。そういう時期なのよ、物分かりのいい母親たちは、そう言って大目に見てやってます――今時代の親たちはちゃんと心得ているんですね。親が「こうしなさい。あれはだめ」という子供に対する権威を振りかざさなくなった今の時代、あなたがた子らは従順なんじゃないかな、と見受けられます。親子が激しくぶつかり合い、対立し合う、それは今は昔、母たちが子だった頃のかたちのような気がします。物分かりのよい親や先生の下で、子供たちはのびのびと育っている。親や先生が物分かりがよくなってくると、子供たちはその権威を認めづらくなる、親や先生という本来権威のある存在が、その権威を失ってくる。そんな社会現象が起きているのが今の時代かと思う。ある討論番組を見た。フレンドリーな先生・生徒と友達のように接する先生、それはよいことか悪いことか。賛成派はフレンドリーなことはよいことだ、生徒と先生のよい関係が築ければ物事もスムーズに行く、生徒は先生を信頼し従うようになると言い、反対派はそれでは先生としての権威の失墜である、生徒は先生を甘く見るようになる、返って好き勝手をするようになる、と主張した。フレンドリーな先生など生徒のご機嫌取り・人気とりである、と言った。威圧的に、脅威を与え支配するより、フレンドリーな方がいいはずである。フレンドリーな先生が生徒のご機嫌取り・人気取りに終わらないためには、先生は生徒たちに本当のことを教えることである。あの先生の言うことには間違いない、そうして生徒は先生の権威を認めるわけである。それが出来ないジレンマが、親と子、先生と生徒の間で問題を生み出しているのである。正しいことを知るということが人生においていかに難しく、いかに重要であることか。
彼らはヒーローが欲しいと思ったのです。彼らはある時、自分たちがヒーローになっていることに気づきました。自校に優勝旗を持ち帰った君たちはヒーローである。市内に中学校は何校あるか、その全校生徒は何人だ、君たちはその中のベスト・イレブン(最も優秀な十一人、サッカー部門)、そう考えるとヒーローと言ってもいいだろう(ベスト・イレブンは最も優秀な十一人ではなくて、最も優秀なサッカーチームでしたね)。
(2026年記)実はこの物語はこんなプロローグで始まっていたんです。私が書き始めた2008年時点ではこれでもよかったんですが、今の子供たち向けではないですよね。今の時代、親や先生は子供たちに振りかざす権威を持っていませんし、権威に歯向かう必要のない子供たちには「反抗期」もないように見えます。親を無闇に怒らせない方が得だって、子供たちは知ってますよね。彼らはヒーローなんてものを求めませんよね。ヒーローはアンパンマンみたいに架空のものだって知ってますよね。かつて反抗期の子供たちはその反発心を親や教師に向けていた。現在の子供たちは矛先を向ける相手を失っているのである。物わかりのいい親と逃げ腰の教師に、子供たちはイチャモンつけることが出来ない、それはそれで彼らのフラストレーションなのである。それは私が学習塾で子供たちと関わって感じたことである。自分の意思を尊重してくれる物分かりのいい親や、自分に至れり尽くせりしてくれる親、そんなありがたい親を持って、彼らは自分のどんな欲求も親に言えないのである。親や教師に対するその気遣いや態度はある意味大人である。反抗期があり、ヒーローを欲した子供子供していた長男たちとは違っている。
令和の今だからってわけじゃなく、2008年当時としても、長男たちはどこかレトロ・古風だったのよね。三男たちを「現代っ子」と表現するなら、長男たちは正に「昔の子供」って感じ。子供が子供らしく、親や教師、指導者の権威に対して従順だった、上なる権威を認めていたってことです。あの頃はまだかろうじて教師や指導者、目上の人たちの権威が保たれていて、子供たちはそういった存在を認めていた、権威に対して現在の子供たちより素直で従順だったように思われる。私が悪ガキたちを叱れば、彼らはシュンとなったし、説教中はきちんと立って黙って聞いていた、そんなフリだけでもしてくれた。小学校高学年だった彼らが、兄のようなサッカーコーチをヒーロー視する、そんな純朴さがあったんだなと、今は昔の子供の姿だなと、思う。弟たち・三男たちは違う、上なる権威を認めない、そういったものを認められない時代にいる。先生が犯罪者(女生徒に性犯罪など)になっちゃう時代だものね。先生に怒られることの重さを噛みしめない、先生を甘く見てるし、親を自分の都合のいいように考えている。自分の肩を持ってくれるのが親であり、自分を痛くしないのが親である、なんて甘えてる。本来権威のある者が、権威を持たなくなった時代なのだなと思う。三男の友達に私は説教などしない、どうしろこうしろ言わない、しらっとした様子や薄ら笑いで向こうに行ってしまうか、仲間同士で喋りながらチラ見で行ってしまうかだから。子供だけの無秩序な世界で生活しているみたいで、大人たちとの間には壁を作っている、そんな気がした。言うこと聞いても得がない(なのにどうして聞く必要があるのか)、手ぬるい大人なんてどうにでもかわせる、かっこいい大人なんて見たことない、彼らの言い分は色々あるだろう、結局は大人の質が落ちたということだろうか。だけど、三男たちは最早「現代っ子」でもないんだよね、三男たちの姿も私の目にはもう古びて見えている。時代の流れは凄まじく速い。三男たちもまだガキンチョだった、親や教師に対する甘えが見えた。真の・最新の現代っ子は親を気遣う大人子供なんだよね、親を信頼する反面、教師に対しては信頼感が薄い、特に学校の教師は信頼されていないようだ。学校で消化されない勉強だけでなく感情なども、消化の場を探して塾に持ち込まれたりする。塾の講師に対する生徒の言動にそれが表出していたり、塾生の親の塾への相談事という形だったり。真っ先に相談されるべき学校の先生が、親にも子にも無視されている。学校の先生に対しても子供たちは大人対応しているのだ。大人が対人関係を当たり障りなく、そつなくこなすように、それが我が身を守る術であるかのように、それが生徒の教師に対する態度で、彼らは学校でどんなトラブルも起こさない。三男たちがガキンチョ、トラブルメーカーだったのとは違う。
「私の親は私に何も言いません。何でも私に決めさせてくれます」
という女生徒は、心の底ではアドバイスが欲しかった、自分の判断に自信を持てるほど大人ではなかった。物分かりのいい親で反抗も出来ない、子供っぽく反抗して親を困らせてみたかった、その感情は出口・はけ口を探していた。その時私は『この子どうしてこんなに私を困らせるんだろう』と思ったけれど、今なら分かる。至れり尽くせりの親を持った男子生徒は、一人っ子ということもあり親の愛情も期待も一身に受けていた、それを自覚していた彼は、
「自分は勉強なんてしたくない」
とは言えなかった。『この子このまま親の言いなりか』と思ったけれど、とうとう
「もう嫌だ」、
塾もやめた。母親はどうすることも出来なかった。『遅ればせながら、高三でやっと反抗期か』私は思った。彼らは二人とも健全だったってこと。自分の感情・内面・我を思いっきり表出させるのが反抗期、それがなければ困ったことになる・健全な人格は育たない。
子供たちは色々と親に心配や迷惑をかけるけど、例えば、真面目だった優等生が担任の先生とそりが合わず学校に行きたくないと言い出したり、いじめで部活動をやめたいって言ったり、やんちゃで親が学校に呼び出しくらったり(うちはそのパターンだったかな)、親の意にそぐわないことをやり出したり、人に迷惑をかけたり、時には警察のお世話になるようなことも、そんな時親は一大事と思うけれど、それが子供たちの反抗期で、親子が互いの関係を見直す時期・よい契機なんだよね。子供も一人前に人格・我を持った、その人格を尊重しないとな、と親は気づく。子供たちは親が心配したり、取り乱したり、必死になる様を見て、親のありがたみや自分が愛されている安心感を持つ、自身を省みるようになる・自分の言動に注意を払うようになる。大人への第一歩を踏み出すわけです。
中一の男子塾生が、自分は反抗期だ、周りもみんなそうだ、なんか面白くなくて、何にでも、誰にでも、文句をつけている、と言った。そうか、それが三男たちだったんだ。中一の初めの頃は、そばを通り過ぎながら、何か言いたいのか、何か話しかけてもらいたいのか、私にも親しげな顔を向けてきたのが彼らではないか。中二になると、仲のいい彼らは伝染病にでも罹ったかのように、みんな揃って中二病・反抗期に罹った・差し掛かった。それが憎らしく思えた彼らの真実の姿だった。昔も今も子供たちはどんな環境でも、したたかに、健やかに育っていた・育っている、と言えよう。




