3話 レーベンシュタイン家
季節が五回巡り、僕は五歳になった。
この屋敷での生活は、静かな湖面のように平穏で、そして息が詰まるほど規律正しいものだった。
朝、僕は誰に起こされることもなく目を覚ます。
重厚なカーテンの隙間から差し込む光が、一日の始まりを告げる合図だ。
「おはようございます、ウィルフレッド様」
専属のメイド――エマが入室してくるのと同時に、僕はベッドから降りて寝間着の乱れを整える。
本来なら、着替えから顔を洗うことまで、すべて彼女たちが手伝ってくれるのが貴族の習わしだ。だが、精神年齢が二十代後半の男にとって、年端も行かない少女にすべてを委ねるのは抵抗があった。
彼女は無言で着替え一式を整え、僕は流れるように袖を通す。
会話はない。
エマの手際は見事だ。無駄な動き一つなく、僕の身支度を整えていく。
最後にネクタイをキュッと締め、一歩下がって深く頭を下げる。
「朝食の用意が整っております」
「ありがとう」
それだけだ。
この屋敷の使用人たちは教育が行き届いている。私語一つなく、ただ淡々と職務を全うする。
それがレーベンシュタイン家の日常だ。
鏡の中の自分を見つめ、意識を明確に切り替える。
今日もまた、「侯爵家の長男」として生きる一日が始まるのだ。
午前中は座学だ。
図書室を兼ねた勉強部屋に入ると、独特の古書の匂いが鼻をくすぐる。
家庭教師のロバート先生は、もうすでに定位置についている。銀縁眼鏡をかけた、神経質そうな老人だ。
「おはようございます、ロバート先生」
「おはようございます、ウィルフレッド様」
挨拶を交わし、席に着く。定刻の十分前だ。
彼は無言で懐中時計を確認し、かすかに頷くだけだ。
「では、始めましょう」
すぐに授業が始まる。無駄話はない。
彼は分厚い歴史書を机に置いた。
授業は淡々と進む。
この国の成り立ち、王家の系譜、そして貴族たちの勢力図。
「……よって、我が侯爵家は王家に対し、剣ではなく魔法によって忠誠を誓ったのです。これこそが、我々『王国の守護者』と呼ばれる所以であり――」
単調な声が続く。
抑揚のないその語り口は、子守唄のように眠気を誘う類のものかもしれない。
普通の五歳児なら、窓の外を飛ぶ鳥を眺めたり、足をブラブラさせて退屈を紛らわせたりするところだろう。
けれど、僕は瞬きもせずに先生の話を聞き、ペンを走らせている。
その内容が、あまりにも重い事実を突きつけてくるからだ。
「……『王国の守護者』という呼び名は、単なる名誉称号ではありません」
ロバート先生が地図上の国境を指でなぞる。
このグランヴェル王国の西端に位置する、我がレーベンシュタイン侯爵領。そのさらに西に広がる、黒く塗りつぶされた領域。
「人類の生存圏を脅かす広大な『魔の森』。そこから溢れ出る魔獣を食い止めることこそが、建国以来四百年にわたる我が家の使命。『王国の守護者』としての責務です」
そこは単なる線ではない。歴代当主たちが血と魔力で維持してきた、命の防波堤だ。
「現当主であられるヴィクトル様もまた、歴代屈指の魔法使いとして、その鉄壁の守りを維持されております。そして、それを支えるエレオノーラ様もまた、社交界の手本と称される完璧な貴族。……ウィルフレッド様、あなたはそのお二人の血を引く唯一の男子なのです」
重い言葉だった。
単に偉い人の子供、というだけではない。
領民の命を、国の安寧を、その双肩に背負うことが義務付けられた家系。
失敗の許されない弱い当主など、この過酷な辺境には存在意義すらないのだ。
怖い。
自分が背負うものの大きさを知れば知るほど、無知であることが恐ろしくなる。
前世の工場勤務では、決められたマニュアルを繰り返す毎日だった。「余計なことは考えなくていい」と言われ続け、思考停止させることが「正しさ」だった。
だが、今は違う。
知らなければ死ぬ。学ばなければ守れない。
だから、僕は必死になってペンを走らせる。
この圧倒的な重圧に押し潰されないために。
知識という武器を、一つでも多く身につけるために。
ロバート先生の板書を、僕は一文字ずつ丁寧にノートに書き写す。
インクを吸った羽ペンの感触はまだ慣れないが、一画一画に意識を込める。
前世の親が教えてくれたことだ。「字には心が表れる。上手くなくてもいい、丁寧に書きなさい」と。
その教えは、異世界に来ても僕の指先に染み付いている。
ふと、ペンの音が止まったことに気づいたロバート先生が、眼鏡の位置を直しながら言った。
「ウィルフレッド様は、本当に根気強いですな」
「そうですか?」
「ええ。この年代のお子様は、たいてい五分もすれば椅子の上でもじもじし始めるものです。あるいは『つまらない』と声をあげるか。……ですが、あなたは一度として視線を逸らさない」
老教師の厳格な口元が、わずかにほころんだ。
「教え甲斐があります」
それは、この屋敷に来て初めて向けられた、嘘偽りのない「賞賛」だったのかもしれない。
簡単な昼食を挟んで、午後は作法の時間だ。
場所はダンスホールへと移る。
磨き上げられた床は鏡のように僕の姿を映し出し、高い天井からはシャンデリアが見下ろしている。
「背筋が曲がっています」
「笑顔が硬いです」
「足音がうるさいです」
指導役のメイド長の声が飛ぶ。
ダンスのステップ、正しい歩き方、カトラリーの扱い。
これらは座学とは違い、理屈ではなく身体で覚えるしかない。
何度も同じ動きを繰り返す。
足がもつれそうになっても、決して顔には出さない。呼吸を乱すことすら許されない。
「失敗してもいいですが、失敗したことに気づかせてはいけない」
それが、社交界に出る貴族の掟だということだ。
そして、夜。
一日の中で最も緊張感が高まる時間がやってくる。
夕食の時間だ。家族三人が顔を合わせる、唯一の機会。
長いテーブルの端と端に父上と母上が座り、僕はその中間に座る。
会話はない。食器が触れ合う微かな音だけが響く静寂。
前世の食卓――テレビのバラエティ番組の音が流れ、父さんの晩酌の匂いが漂うあの空間――とは、何もかもが違う。
メインの肉料理が運ばれてきた時、不意に父上が口を開いた。
「ロバートが報告を寄越した」
ナイフを動かす手は止めず、視線も皿に向けたまま。
唐突なその言葉に、僕は反射的に背筋を正した。
「はい」
「歴史の理解が早い、と。……過去の失敗を知らぬ者は、同じ過ちで死ぬ。知識もまた、身を守る鎧だ。続けなさい」
「ありがとうございます。精進いたします」
父上の言葉はそれだけだった。
「よくやった」とか「すごいな」とは言わない。
ただ事実を伝え、継続を促す。
その声のトーンに、感情の色は一切ない。
満足しているのか、それともまだ足りないのか。
鉄仮面のような表情からは、その真意を読み取ることはできなかった。
ただ、「続けなさい」という言葉があった。
方向性は間違っていない。少なくとも、失望はされていないはずだ。
それだけが、今の僕に与えられた唯一の指針だった。
続けて、母上もまた、グラスを傾けながら小さく言った。
「カトラリーの音も、しなくなりましたね。……所作に無駄がなくなりました」
感情の乗らない言葉だが、母上にしては珍しい反応だ。
何食わぬ顔で食事を続けていたが、わざわざ口に出したということは、その指摘にはわずかながらも『賞賛』が含まれているのだろう。
母上なりの、不器用な褒め言葉なのかもしれない。
僕は小さく会釈をして、また黙々とカット肉を口に運ぶ。口の中で、安堵の息を吐きながら。
食後の紅茶を飲みながら、僕は安堵とともに、温かい液体を喉に流し込んだ。
この先僕にどんな未来が待っているのか、まだわからない。まだ見えていない。
そもそもこの世界のことも、まだまだわからないことだらけだ。
けれど、「やるべきことを真面目にやり続けること」は、確かな武器になる気がした。
与えられた課題を、一つずつ着実にこなしていく。
それが凡庸な僕が、前世から持ち越した唯一の「才能」だ。
派手な力がなくても、この前世からの長所があれば、信頼を積み重ねていける。
それが、僕の生きる道だ。
部屋に戻り、エマに「おやすみなさい」と告げて布団に潜り込む。
明日はダンスのステップが難しくなるらしい。歴史の授業では、帝国との戦争史に入る。
座学と礼儀作法。
貴族として生きるための基礎は、着実に固まりつつある。
だが、レーベンシュタイン家の長男として求められるのは、それだけではない。
明日は早朝から、剣の訓練がある。
僕は静かに目を閉じ、明日に備えて眠りに落ちた。




