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2話 世界観察

赤ん坊の生活というのは、想像以上に退屈なものだった。

一日の大半を寝て過ごし、起きたと思ったら食事(母乳だ。これには精神的な抵抗が凄まじかったが、背に腹は変えられなかった)を与えられ、排泄の世話をされる。

羞恥心とか尊厳とか、そういった人間らしい感情は、この脆弱な肉体を維持するためのシステムの前では無力だった。

泣きたくなくても、生理現象として涙が出る。手足をバタつかせたくなくても、神経の反射で勝手に動く。自分の身体なのに自分のものではないような、もどかしい感覚。


ただ、その「退屈」と「不自由」は、観察には適していた。

視界が少しずつ鮮明になるにつれ、僕の置かれた環境が具体像を結び始めたからだ。


まず、天井が高い。

前世で住んでいたアパートの三倍はある石造りの天井には、宗教画のような装飾が施されている。極彩色の顔料で描かれているのは、剣を持った天使と、それにひれ伏す人々の姿だ。見上げているだけで首が痛くなりそうな威圧感がある。


家具はどれもこれも重厚で、猫足のついた椅子や、黒檀のような艶のあるタンスが並んでいる。その一つ一つに、細密な彫刻が施されており、職人の執念のようなものを感じさせる。

窓枠は木製ではなく、磨き上げられた石か何かだ。ガラスの透明度は低いが、そこから差し込む光は柔らかい。


間違いなく、金持ちだ。

それも、成金ではない。何代も続いてきた家の、歴史という重りを含んだ富の匂いがする。金貨の輝きというよりは、古びた銀食器の鈍い光沢のような家だ。


世話をしてくれるのは、母親ではない。

三人の女性たちが交代で僕の面倒を見ている。

彼女たちは全員、黒いワンピースに白いエプロンという、いわゆるメイド服を着ている。

コスプレ喫茶のそれではけしてない。動きやすさと実用性を重視した、本職の「奉仕する服」だ。生地は丈夫な綿で、スカートの丈は足首まである。

彼女たちは僕を「ウィルフレッド様」と呼ぶ。

赤子に向かって敬語を使うその姿勢には、徹底した階級意識が染み付いている。

どうやら僕は、支配する側の人間として生まれたらしい。


そして、ここが「ただの過去の時代」ではないと確信した瞬間がある。


ある日の夕暮れ時、部屋が暗くなってきた頃だった。

年配のメイドが、壁のランプに近づいた。

マッチもライターも持っていない。そもそも、この部屋には火種になりそうなものが一切置かれていない。

彼女が何かつぶやきながら指先をランプにかざすと、そこにはポウッという音と共に、小さな炎が灯ったのだ。

それは手品ではなかった。

トリックも仕掛けもない。ごく当たり前の日常動作として、物理法則を無視した現象が起きている。


(なるほど)

ベビーベッドの柵に掴まり立ちしながら、僕はその光を見つめた。

(魔法、あるんだ)


驚きはあったけれど、不思議と納得もしていた。

生まれ変わるなんていう非科学的なことが起きたのだ。その世界に、超科学的な力が満ちていてもちっともおかしくない。


しかし、魔法の存在以上に僕の観察意欲を刺激したのは、この屋敷における「母親」の存在だった。


彼女は、一日に一度、決まった時間にこの部屋を訪れる。

午後の日差しが窓際から部屋の中央まで伸びた頃、軽いノックの音と共に扉が開く。

衣擦れの音と、上品な香水の匂いが、彼女の接近を告げる。

メイドたちが一斉に頭を下げ、部屋の空気がサッと張り詰める瞬間だ。


美しい人だった。

プラチナブロンドの髪を複雑な形に結い上げ、淡いブルーのドレスを身に纏っている。

肌は陶器のように白く、人形のように整った顔立ちは、父によく似ている。いとこ夫婦だから似ているのではなく、この階級の人特有の「個を消す訓練」の結果として似ているのかもしれない。


彼女はベビーベッドの前に立つと、白い手袋をしたままの手で、僕の頬に触れた。

「具合はどうかしら」

問いかける声は美しいソプラノだが、それは赤ん坊に向けられる甘い撫で声ではない。部下の業務進捗を確認するような、管理者の声だ。


僕は彼女を見上げ、小さく手を伸ばした。

前世の記憶が、母親という存在に「温かさ」や「抱擁」を求めているからだ。母さんは、僕が手を伸ばすといつも嬉しそうに抱きしめてくれた。

しかし、彼女の反応は違った。

伸びてきた僕の指先を、冷静な目で見つめるだけだ。


「爪が少し伸びているわね。切りなさい」

彼女は背後に控えるメイドに短く命じた。

「申し訳ございません、奥様。すぐに」

「肌に傷がついたら大変よ。この子は、これから多くの人に見られることになるのだから」


彼女にとって、僕は単なる赤子ではなく、次代を担う重要な「後継者」なのだ。

傷一つあってはならない。不潔であってはならない。

完璧であることが求められている。それは、この家で生きるための最低条件なのだ。


ある時、僕がうっかりミルクを吐き戻してしまったことがあった。

白濁した液体が、上質なシルクのスタイに広がり、彼女のドレスの袖口にも数滴飛んでしまった。

メイドたちが青ざめ、「あっ」と息を呑む音が聞こえた。

やってしまった、と思った。

赤ん坊なのだから仕方ないとはいえ、この完璧主義者の母親がどう反応するか。


だが、彼女は眉一つ動かさず、汚れた袖口に視線を落とした。

そして、人差し指を軽く振った。


――シュッ。


風を切るような微かな音と共に、汚れが消失した。

拭き取ったのではない。まるで最初から存在しなかったかのように、染みが消え失せたのだ。

続けて、僕の口元のスタイにも指を振る。

一瞬で、不快な濡れた感触と酸っぱい臭いが消え去り、清潔な状態に戻った。


「失礼いたしました、奥様」

恐縮して頭を下げるメイドに、彼女は淡々と言った。

「構わない。生理現象だもの」

怒ってはいない。だが、「汚れたまま」であることは一秒たりとも許容しなかった。

優しさで綺麗にしてくれたというよりは、在るべき姿に戻した、という手際だった。


彼女は再度僕の方を向き、綺麗になったスタイを指先で整えた。

「ウィル。あなたは侯爵家の長男なのよ」

まだ言葉など理解できない赤子に向かって、彼女は静かに、言い聞かせるように語った。

「清潔で、高貴であらねばなりません。誰よりも正しく、誰よりも強く。それが、あなたに与えられた義務なのですから」


その瞳には、堅実な光が宿っている。

それは単なる虚栄心ではないだろう。

この厳しい階級社会で、家を守り、地位を守るために戦ってきた女性の、覚悟のようなものが見えた気がした。


彼女は最後に一度だけ、僕の頭を撫でた。

手袋越しの感触は滑らかで、でもやっぱり少しだけ冷たくて、温度が伝わりにくい。

「期待しているわ、ウィルフレッド」

それは呪いのようにも、祈りのようにも聞こえた。

前世の母さんの「お前なら大丈夫」という全肯定の言葉とは違う。

貴族として生きるための、重く、鋭い期待。


彼女が去った後、部屋には再度静寂が戻った。

残された高級な香水の残り香だけが、今の訪問が現実だったことを告げている。


観察を続けるうちに、この屋敷では魔法が頻繁に使われているように見えた。

照明も、洗浄も、あらゆる場面で。

母上の洗浄魔法がそうだったように、ここでは魔法という力が、生活の一部として組み込まれているのかもしれない。

どれほどの魔力的価値がある行為なのかは、今の僕には計り知れない。


父親――この屋敷の主――が様子を見に来る頻度は、母親よりもさらに少ない。

数週間に一度、気まぐれのように現れる。

彼はベッドの側に立ち、無言で僕を見下ろした。

その手には、羊皮紙の束が握られている。

仕事の合間に立ち寄っただけなのだろう。


「……問題はないか」

「はい、旦那様。お熱もありませんし、夜泣きもなさいません」

「そうか」


会話はそれだけだった。

彼は指先を軽く動かし、空中に小さな光の球を作り出した。

それは僕の顔の周りをふわふわと漂い、健康状態を確認するように明滅すると、パチンと弾けて消えた。

簡易的な診察魔法のようなものだろうか。

実に合理的で、無駄がなかった。


彼の表情からは、満足も不満も読み取れなかった。用件は済んだとばかりに、踵を返して部屋を出て行った。

重厚な扉が閉まる音が、ズンと腹に響く。


残された僕は、小さなため息をついた。

魔法がある。貴族制度がある。

そして何より、ここには「効率」や「役割」を重んじる、冷たく乾いた空気が流れている。


前世の、あの騒がしくて温かい工場の油の匂いとは、決定的に違う世界だ。

母さんの、醤油と出汁の染みたエプロンの匂いが懐かしい。


僕は窓の外に目を向けた。

そこには、幾何学模様に刈り込まれた広大な庭園が広がっている。

自然のままに伸びることを許されず、定規で測ったように整えられた木々、一分の隙もなく配置された花壇。

美しいけれど、息が詰まるほど人工的。

まるで、この家の在り方を象徴しているようだった。


僕は自分の小さな手のひらを握ったり開いたりしながら、ぼんやりと考えた。

この家で生きていくのは、相当な覚悟が必要になりそうだな、と。


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