最後の日を
二人はそのまま倉庫の中で一晩を過ごした。
キスをしたのは最初の一回だけ。
それから二人は並んで腰掛けたまま、それ以上は何もしなかった。
彼女はぽつぽつと話をしてくれた。
向こうの世界のことは言えないのだそうだが、それでも少しだけは聞かせてくれた。
たとえば彼女が調査機関の人間などではなく、単なる一般人だということ。
時々このような調査員の募集が行われ、そこには専門職や特殊技能の持ち主も来るが、一般人も応募する。
専門職などに対しては専門職としてのミッションが与えられ、一般人にもそれなりのものが用意される。
今回彼女が担当したのも、そのような一般人向けのミッションだった。
「それにしてはハードになっちゃいましたけど」
彼女は可笑しそうに笑った。
それに彼女は天涯孤独なのだそうだ。
彼女はさらりとそう言った。そこに不幸の陰は見られなかったが、本当のところはよくわからない。
そのうちに彼女は寝入ってしまった。
今日一日がハードだったからだろう。彼の肩に頭を乗せ、小さな寝息を立てていた。
彼もそれを聞いているうちに眠くなり、そのまま寝入った。
翌日、朝早くに目覚めた二人は、今日一日の計画を立てた。
まずは生徒の登校が終わるのを待ち、それから学校を出る。もちろんあの連中が見張っていればまた学校に戻る。
とにかく夕方にはあの場所に出なければならない。
これは、必ずしも必要なことではない。回収されるためだけなら、本当はどこにいてもいい。
極端に離れたところでなければ簡単に回収されるし、たとえアメリカに拉致されていても回収は可能だったはずだ。
ただし出た場所から離れていると、それはミッションを無事に完了させたと判断するのが難しくなり、極端になればペナルティがある。
途中に波乱があった彼女としては、是非あの場所から帰還したいのだ。
学校は休むしかない。
家には夕べ、メールだけは送った。『無事だ』ということと、『今日一日、そっとしておいて』とだけ伝えた。あとは睦希に任せるしかない。
二人は一時間目が始まる頃に、そろそろと校門まで出た。
それまでは遅刻生徒も来るし、何より教師が門番に立っている。
校門から辺りを窺い、どうやら大丈夫と見て自転車で走り出た。しばらくは回りに気を配り、連中が現れてもすぐに逃げ込めるよう、学校から離れないように移動した。
だがどちらの陣営も姿を見せなかった。
理由は分からないが、彼女を拉致する動きは止まったようだ。それで二人は自転車を降り、歩きながら時間を過ごすことにした。
これは葉月がわずかな希望としていた展開だった。
何しろ昨日は一般道路で他の車も巻き込んでの騒動を起こしたのだ。あの後すぐにパトカーも来たようだ。
だったら、そのまま警察に拘束されるはずだし、もしどうにか抜け出しても、今日も同じような騒ぎを起こすのは避けるだろう。そんなことを期待したのだ。
実は、事態はそれ以上だった。
礼宮もマクミランも、上司に呼びつけられて絞られていたのだ。
何しろ警察が出動する騒動を起こしたのだ。それぞれの機関は極秘裏に二人の身柄を確保し、事件への関与を揉み消したが、その影響は少なくない。
その上に成果無しでは話にならない。
二人ともそれぞれの上司に向かって『今度こそ本物だ。今すぐ協力してくれれば』と言いつのった。
だが当然のように相手にされず、それどころかいよいよ厳しく叱責され、さらにはあからさまにインチキ呼ばわりされる始末。二人とも素早くシィカの追求にかかるわけにはいかなかったのだ。
葉月とシィカは目立たないように町を歩き回った。
こじんまりした商店街を見て歩き、図書館を覗き、花屋を眺め、ゲームセンターなどを見て回った。昼食は小さなファミレスで取った。
そして時間は夕方になった。
二人はあの公園に戻っていた。携帯で時間を確認して、公園を出て、あの地点に向かった。
いつの間にか、二人は手を握り合っていた。
二人とも、俯き加減で言葉少なだった。
もうすぐ別れが来る。
ただ、彼女はずっと一緒とも言った。それはどうなるんだろう。
すると、シィカが俯いたままで言った。
「ハヅキ。私、必ず戻ってきますから」
「そんなことが出来るんだ?」
彼女はぽつぽつと説明してくれた。
異世界に出かけたものがそこに住み着きたくなるのは、あり得ないことではない。だからこちらの人間を向こうに連れて行くのは駄目だが、異世界人の方がもう一度その世界に行って住み着くことは許されているという。
もちろん異界人がいることがばれてはまずいのだが、そこは整合性を作り出す方法があり、若干の記憶調整などをするのだそうだ。
もちろんそれなりの金額は必要だ。
シィカには手持ちの資金はない。だが、今回の報酬がそれを補って十分なだけはある。
彼女はそれを将来の生活設計に使うつもりであったし、具体的な用途も考えていた。
でも今はもっと大事なものを見つけたので、それを捨てることにした。
もちろんそんなことを葉月に言う必要はない。
言うべきことは一つだけ。
「だから、待っていてくれますか?」
ハヅキはしっかり頷いた。
でも、涙が出るのは止められなかった。
「うん。待ってる。シィカ、好きだよ」
シィカが手を伸ばしてきたので、彼はその手を取り、少し引き寄せた。
彼女の身体がすぐ側に来て、目を閉じて唇の感触を心にしっかり教え込む。
やっぱり少し塩辛いのは、葉月の涙と、それに多分シィカの涙。
眼を開けると、彼女の身体が光に包まれていた。
頬の涙が、その光を反射して宝石のように輝いていた。
「それじゃ、ハヅキ……さん」
思わず手を伸ばした彼の前で、彼女の身体は少し宙に浮き上がり、火花を飛ばしながら消えた。
葉月は道路に膝をついた。
足に力が入らない。全身に虚脱感が渦巻いている。涙が頬から顎まで伝ってこぼれ落ちる。
それでもしばらくして、ようやく立ち上がった。
袖で涙を拭き、自転車を押して歩き始めた。乗って走ると、転びそうな気がした。
頭に浮かぶのは、たった今別れた彼女のこと。
生まれて初めての恋人。今後も二度と現れないかも知れない愛しい人。
彼女は戻ってくると言った。
それは信じたい。だが、それがどれくらい先なのか、それは全然分からない。
やはりそれなりの手続きはあるのだろうし、後片付けだってあるだろう。少なくとも一日や二日の話ではあるまい。
いや、手続きがすんなり進むとは限らない。
それどころかそもそも許可が下りない可能性だってある。
だがしかし、とも考える。
何しろ異世界間の移動だ。時間の調節は可能かも知れない。もしかすると今すぐ、と言うことだって……
いやいや、そんな馬鹿なことはあり得ない。
葉月はそんなとりとめのないことをぐるぐる考えながら歩き続けた。
薄暗くなり始めた道路を進んで、ようやく我が家が見えた。
その時。
不意に世界がかすかに振動したように思った。
「何だ、今の?」
それは感じた瞬間に消え去った。
だが、葉月にはそれが何かは分からないながら、違和感が残ったように感じられた。
世界が微妙に変化したような、何かが書き換えられたような……
書き換えられた?
まさか。
彼は自転車を押す手に力をかけた。
小走りになり、とうとう自転車に跨った。たちまち家に着き、すぐに玄関に自転車を置き、ドアを開ける。
そこにはちょうど母がいた。
母は葉月の表情や涙の跡に気付く様子がなかった。それより大きなことがあったようだ。
「あ、葉月、お帰り。あんたに紹介しなくちゃ」
「紹介? 誰を?」
跳び出しそうになる心臓を押さえながら彼は尋ねた。
「覚えてる? 小学校の頃、近所にいた、しいかちゃん。事情があって、うちに住むことになったのよ」
そんな母の後ろから跳び出してきたのは、母と同じくらいに大柄の身体、きらきら光る金色の髪。
「ハヅキ! 会いたかった!」
ぶつかってきた暖かくて柔らかな身体。
葉月はその身体に腕を回した。
「シィカ、お帰り……」
彼女の手が背中に回り、ぎゅっと締め付けてくる。
負けずに抱きしめると、彼女は彼の胸に顔を埋めたまま、わんわんと泣き出していた。
「兄ちゃん、兄メのくせに、すごい……」
後ろで睦月の呆れ声が聞こえた。




