叩き壊したものは
葉月はそのまま自転車を走らせ続けた。
足はもうがたがただったが、何とか走れはした。
彼は懸命に考えた。
家には戻れない。場所を知られているから。
だから、彼は学校に向かった。学校なら昼間は他の人間の目があり、夜には戸締まりと機械警備が入る。
時間は午後遅く、次第に夕暮れの色が見え始めていた。
生徒の姿はほとんど無く、葉月達は誰にも見とがめられることなく、無事に校門をくぐった。
彼は校舎の裏づたいに進んで、古い体育倉庫に潜り込んだ。
そこは長く使っていないところで、不良がたむろするとも、アベックがしけ込むとも言われていた。
多分、休日なら誰もいないだろう。
確かに誰もいなかった。
古くさい跳び箱やらハードルやらマットやらが所狭しと積んである小屋だ。
彼はシィカの手を引いて進み、跳び箱の裏側にマットを置いて、その上に座った。
すぐ隣にシィカが腰を下ろした。
二人とも、跳び箱に背中を預け、荒い息をついた。
二人はしばらく黙ったままだった。葉月の方は、息が上がってしまっていて、声が出せなかった。
しばらくして、シィカが身体を起こした。
葉月は背中を跳び箱に預けたまま、顔だけを彼女の方に向けた。シィカの表情は真剣だった。
「ありがとうございました。本当に、本当に……」
彼女はそこまで言って、言葉を濁した。泣きそうになっているようにも見えた。
だが、葉月としては、自分が謝らなくてはならない、という思いしかない。
何しろ彼女を『売った』のだから。
でもまだ息が収まらない。
「そんなこと、ないよ。僕が、いけなかったんだ、から」
切れ切れにそう言うのがやっとだった。
それでもシィカの表情は変わらなかった。
「そんなこと、ありません! 普通は厄介ごとからは逃げたいものです。私を匿っても、ハヅキさんには何の得もなかった。なのに、ずっと守ってくれましたもの」
それを言われると、彼はなおさらに辛い。
だって、最後は守らなかったのだから。
「いや、でも、僕、ほら、最後は、ほら」
そんな自分が情けなくて、彼はお詫びの言葉さえ言い出せない。
そしてそれは彼女にも分かっていることだった。
「はい。私、捕まりそうでした。でも、それまで守ってくれた。それだけで感謝してたんですよ。なのに、ハヅキさんは追いかけて助け出してくれた! それも、あのフィギュアを犠牲にしてまで!」
葉月はその言葉に、はっと顔を上げた。
今まで忘れていたのだ。あのすばらしいフィギュアのことを、それを自分の手で壊してしまったことも。
「あ、ああ。そうだった。僕、あれ、壊しちゃったんだ」
今更ながら喪失感が襲ってきた。
欲しくて堪らなくて、でも無理だから諦めていたもの。それが思わぬ形で転がり込んできて、どれだけ嬉しかったことか。
なのに、自分で叩き壊した。
「ああ、そうなんだよなあ……」
気が付くと、頬を涙が伝っていた。泣き出す気にはなれなかったが、涙だけは勝手に流れるのだ。
その時、不意にシィカが座り直した。
そして深々と頭を下げたのだ。
「ええ、何、何?」
慌てる葉月に向かって、彼女は頭を下げたまま言い出した。
「ごめんなさい。あんな大事なもの、私の為に壊させてしまいました!」
「いや、ちが、ちがうん、そうじゃなくて」
葉月はしどろもどろに言うしかない。
そうじゃない。確かに壊してしまったのは悲しい。でも、後悔はしていない。
それはなぜかというと、なぜかというと……?
何故なんだろう?
目の前ではシィカが頭を下げたまま、言葉を続けている。
「それで、厚かましくはあるのですが、お願いします。あのフィギュアには足りないかも知れませんが、私を納めて下さいませんか?」
「ええ?」
今度こそ、葉月は心臓が止まりそうだった。
今、なんて言った?
戸惑う葉月に、彼女は何だか不思議な笑みを見せた。とても可笑しそうな、だが懐かしそうでもあり、楽しそうでもあり。
そしてもう一度、葉月の隣に腰を下ろした。
膝を抱え、その上に拳を乗せ、そしてそこに顎を乗せた。
「あの、私の世界では、ずっと昔ですけど、妻を求める時に自分の宝物を壊す、という風習があったんですよ」
あんまり話しちゃいけないんですけど、彼女はそう言って舌を出した。
「そ、そうなの?」
話が妙な方向に向かいそうで、彼は舌が強ばる。
「ええ。古代の王族の話なんですけど。ただ、それが盛り上がりすぎて、貴重な芸術品を壊し合うようなことになって、時の王様が禁止したんです。だから今ではそんなこと、する人はいないんです」
「まあ、そうだよね。あは、あは」
自分のしたことが愚かしいと言われたようで、彼は卑屈な笑い声を出す。
彼女はそれに気を止める風も無しに続ける。
「だから、今は言い回しだけ、それが残ってるんです」
彼女はそれから顔を持ち上げ、はっきりと葉月に目を向けた。
「少し古式な言い方を補うと、こうです。ハヅキさん、『私はあなたが打ち捨てた宝物ほどの値打ちはないかも知れません。それでもよければ、私をあなたの所蔵物として、腕の中に抱く宝物として、お納め下さいませ』」
そう言って彼女は顔を伏せた。
彼はまだ彼女を見つめていた。
彼女の言葉が信じられない。もしかすると冗談か。『なんちゃって』とか言って笑い出すかと思った。
でも、彼女は顔を伏せたまま。
かすかに肩が震えている気もする。
それを見ている内に、ようやく葉月は分かった。
自分の中にあったものが何なのか、それを知った。
「うん、こっちの世界では、そんな難しいことは言わないと思う。ねえ、その代わりというと変だけど、名前を呼び捨てにしてもいい?」
「え?」
彼女が顔を上げた。
涙の溢れた目が、まん丸になっていた。それを見て、彼はいよいよ心を決めた。
彼女の両肩に手をかけ、引き寄せた。
「シィカ、僕、君が好きだよ」
彼女が目を閉じたところまでは見た。あとは彼も目を閉じたので、唇の感触だけを覚えている。
ちょっとしょっぱかった。




