追いかけて
シィは乗用車の後部座席に座っていた。
抵抗する気はなかった。
逃げたところで行き場もない。
前の座席には礼宮という女がいる。彼女はときおり後ろを確認するだけで、何も言わない。
その女は二階の部屋に入ってくるなり、『お前は異界人か?』と尋ねた。
だからシィは肯定した。すると『連行する』というので、黙って付いていった。
それだけだ。
実際には、さほどの危険はないはずだ。
ミッション終了の期限まではあと丸一日ほど。そこまで待てば元の世界に帰れる。つまり、元の世界からの操作で引き戻される。
だから、それまで生きていれば大丈夫なのだ。
ただしこの仕事を言い渡された時、命の危険やその他困難の可能性について、詳しく伝えられている。
今の場合、問題は二つある。
一つは、相手が異界人の存在を探知する能力があれば、その技術の応用で、帰還に干渉できる可能性がある。最悪の場合、彼女は帰れない。
とはいえ、これは確率としてはごく低いそうだ。
それが可能なくらいにその分野の技術があるなら、とっくに交渉があって不思議ではないからだ。
もう一つはもっと現実的で、こんな風に逮捕されたような場合、後でこの世界の関係者の記憶操作などをする必要が生じる。
つまり、一定の余分な作業が発生する。もちろんそれは専門の担当者がするので、シィカ自身は何もしなくていい。
しかしこのような事後処理の必要が発生した場合、彼女にはペナルティが生じる。
具体的には報酬が大幅にカットされるのだ。
彼女は生活に困窮して、この仕事を請け負った。
危険だが報酬は大きい仕事だ。上手くこなせれば今後の人生設計に見通しが立つ。
だからこんな状況は避けたかった。
だがそうなってしまったのだから、仕方がない。
シィカは葉月を責める気にはならなかった。
何しろ彼はいかにも無力な一般人であって、政府組織の動きに抵抗できるわけがない。
むしろ彼はそんな中、シィカに出来るだけのことをしてくれたと思う。少なくとも政府組織の手が伸び始めてからほぼ一日、彼は守ってくれたのだ。
彼があのお人形に異常な執着を持っていたのは知っている。
それを差し出されて彼女を売ったとしても、それを恨みに思う気にもなれなかった。一番の弱点を突かれたのだから、そこを狙った組織の狡猾さを感じるばかり。
「しかしあれですなあ。如何に高級品とはいえ、模型一つで女を売るなんて、近頃の若い者は情けないですなあ」
唐突に、運転をしている中年男が女に阿るように言った。それに対して、礼宮が鼻で笑う調子で答える。
「まあね。若い者が、と言うよりは、オタクの情けなさ、と言うべきかも知れないけどね」
シィはそれを聞きながら、内心で歯がみしたかった。
違う。
確かに彼は情けないところがある。お人形好きが過ぎるし、意志決定力に乏しく、それに実行力も体力も足りない。
それでも彼は人間がいい。
素直で生真面目だ。恥じらいや人の道を知っている。
そうでなければ唐突に落ちてきた異界人を、ここまで守り、助けてくれただろうか。
それだけに、今の状態は残念ではある。
もう少し、彼とこの世界を見て回りたかった。彼の家族ともう少し生活を共にしたかった。
だがそれも全ては夢。調査はもちろんそれなりのデータになるだろうが、彼女自身はミッションを失敗し、当てにしていた報酬もフイだ。
「しかし、道が混んでますなあ。ちょっと時間がかかりそうですよ」
運転の男がぼやく。確かに自動車の運行は遅い。
葉月の家の前ではするすると走っていたのだが、広い道路に出てからはめっきり速度を落としていた。他の自動車の数が多すぎるのと、信号機にしょっちゅう止められるからだ。
「しょうがないわよ。とにかく急いでちょうだい」
「はあ、分かってますが……あ、あれは?」
運転の男が妙な声を上げた。見ると、彼は車内に設置された鏡を覗き込んでいる。礼宮も一緒に覗いているので、シィカも不思議に思って見つめた。
それは後方を確認する為のものらしく、後方の自動車や道路の様子が見えている。
そしてそこに、奇妙なものが写っていた。
それは自転車で、しかしその前には見覚えのあるお人形があった。そして、その人形に隠れるように、これまた見覚えのある姿が。
「あいつ、追ってきたんですかね?」
「まさかだけど、気を付けて!」
シィカは身体を大きくよじり、後ろを見た。今度は直接にその姿が確認できた。
間違いなかった。
それは、葉月だったのだ。彼が追いかけてきたのだ。
理由は分からない。
だが、彼女の中で、何かが変わった。まさかもう見ることがないと思っていた姿。それが自分の中でぐっと大きくなった。
「あ、こら、動くな!」
礼宮の声は聞こえたが、シィカはドアに取り付けられたボタンを闇雲に押し、窓を開ける方法を探し始めていた。
その瞬間、大きな衝撃が横から来たのだ。
「え、なに!」
礼宮の慌てた声が車内に響いた。
葉月は夢中で自転車を走らせた。
彼女がどこに連れ去られたかは分からない。でも、どこに行くにせよ、幹線道路に出るだろうし、彼の家から出発したなら進行方向は大体決まっている。
そして予想は当たった。
幹線道路に向かう道の途中、信号待ちの列が並んでいるその最後端の車。黒塗りの乗用車の後ろの窓ガラス越しに、金色の髪が見えたのだ。
「見つけた、シィカさーん!」
思わず声を上げたが、それが聞こえるわけはない。
それに、もうすぐ信号が変わる。車は走り出す。
そうなれば追いつくのはいよいよ困難だ。葉月は足を踏ん張り、ペダルに力を込めた。
そして距離が数十メートルになった時、窓越しに彼女が振り向いた。
彼女は口に手を当て、驚愕と、それにもしかしたら期待の表情か?
しかし同時に車は発進した。すぐに自転車との距離は離れてしまう。このままでは追いつけない。
だがその時だった。
不意に後方から一台の灰色の乗用車がやってきて、葉月を追い越してその車の右横に並んだ。
かと思うと、その車は一気に幅寄せし、彼女の乗った車の側面にぶつかっていったのだ。
葉月は驚いたが、すぐに事情を悟った。
後から来た車の後部座席にマクミランが見えたからだ。つまり、シィカが家から出たのを知って、奪還を狙っているのだ。
これはシィカにとって危険な状態だ。
だが同時に、千載一遇のチャンスとも思えた。彼女の身柄を狙う両者が争うなら、その間に漁夫の利的に奪い返す機会があるかも知れない。
彼はそろそろ悲鳴をあげ始めている足を励まし、さらにペダルを踏み込んだ。
二台の車は互いに側面をぶつけ合い、そのためにスピードが上がらないようだ。
周囲の車は驚いたように左右に曲がり、あるいはブレーキをかけ、それがまた両者の邪魔にもなっている。お陰で葉月はシィカの車に接近しはじめていた。
これには両者の台所事情も絡んでいる。
礼宮は政府機関から人員を貰っていたが、それは諜報員ではなく単なる事務官だった。だから運転能力もそこそこで、当然ながら荒事には慣れていない。
他方、マクミランは地元のちんぴらを雇った。
彼らは荒事は得意だが、練度が足りない。
しかも一番運転が上手かった男が、例のブリキ玩具を持ってトンずらしたのだ。
つまり、両者とも不慣れなメンツでカーチェイスをしていたのだ。
しかも平和日本の、それも混み合った一般道でのこと、ハリウッド映画のような思い切ったアクションなど出来るわけがないのだった。
とにかくも葉月は力を振り絞って車の左後方に接近した。
と、車の中で動きがあった。不意にシィカが後ろの窓から身体を乗り出してきたのだ。後ろを向いて、その目がはっきりと葉月を捕らえた。
彼女が叫んだ。
「はずーーーっ……」
「しぃーーーた……」
葉月が呼び返し、そこで気がついた。これ、あのアニメの名場面、そのものじゃないか?
いや、狙ってやったことではなかった。
シィカは、『ハヅキ』と呼ぶつもりだったろう。だが、途中で礼宮が手を伸ばし、その口を押さえたのだ。
葉月の方は、本当は『シィたん』という、彼の心の中での呼び方をするつもりだった。だが、声を張り上げたところで息切れしたのだ。
丁度その瞬間だった。
マクミランの車が体当たりしてきた。
その衝撃でシィカの身体はさらに跳び出しそうになる。二台の車は互いに押し合って減速した。
ハヅキは決めた。
ここでやるしかない。アニメのあのシーンを再現するのだ。彼はなりきることにした。
「すり抜けざまにかっさらえ!」
さすがに叫べはせず、口の中でそう言って、なけなしの力を足に込めた。心に思ったのは(このせりふ、少年の方じゃなかったんだっけ?)。
だが自転車はとうとう車に追いついていた。彼は思いきり右手を伸ばした。
「シィカ、手を!」
「ハヅキ!」
彼女はそう叫んで、彼に向けて手を伸ばした。指先が触れ、手のひらが触れ、そして手首に指がかかった。
「掴んだ!」
衝撃で自転車が揺れ、倒れそうになるが、何とか堪えた。
今転んだら元も子もない。それだけでなく、シィカを引きずり落としでもしたら怪我させてしまう。
葉月は足を踏ん張り、シィカの腕を引き寄せた。
だが、礼宮が自身も窓から身体を出し、シィカの肩に手をかけていた。
「そうはいかないわよ!」
耳をすり抜ける風に紛れて、礼宮の声が聞こえた。直後にシィカの声も。
「ハヅキ!」
悲鳴にも似たシィカの声を聞いた時、葉月は無意識にそれに手を伸ばしていた。
礼宮の手を払いのけなければならない。それには、何か掴んで叩きつけるものが欲しい。
それがそこにあるのを彼は知っていた。
使えるものはそれしかなかった。前の籠に入っていた物体を彼は掴み、振り上げた。叩き伏せる呪文はこれ!
「イタームル・タピラカース!」
そう叫びながら、それを礼宮の腕に叩きつけた。
その物体は彼女の腕に当たって跳ね、そのまま道路に落ちていった。同時に礼宮の腕の力が抜け、シィカは窓から跳び出した。
あとは何をどうしたのか分からない。
とにかくシィカは自転車の後ろの荷台に腰を下ろしており、葉月にしがみついていた。
葉月は片足を地面に叩きつけて一気に減速しつつターン。
それで自転車は二台の車から離れる。
自動車はそれほど簡単にはUターンできない。しかも二台の車が互いに側面を摺り合わせていてはなおさらだ。
だがその中で敢えてターンにかかったのは灰色の自動車の方だった。やはり事務官よりチンピラの方が不法行為には大胆だったのだ。
タイヤと路面との軋れる鋭い音に葉月が振り返った時、灰色の自動車はタイヤをスピンさせながら車線の内側で向きを変え、葉月達の方向に車体を向けていた。
もちろんそれでは逆走になるわけだが、何しろ最前からのカーチェイスのために、周囲の車はスピードを落とし、それぞれに車体を道路の両端に止めていたので、車一台が突っ切れるだけのスペースが出来ていた。
車の発進を見た葉月はなけなしの力を振り絞ってペダルを踏んだ。
背後に車の加速する音を聞いた時、彼は目の前に車一台がようやく通れるような路地があるのを見つけた。
彼は一気にブレーキをかけつつ足で地面を蹴ってその路地に飛び込んだ。
さすがに車はその曲がり角を曲がりきれなかったらしい。激しいブレーキ音が聞こえ、そこから察すると車は多少行き過ぎたようだ。
追ってくるのには少し時間がかかるだろう。
背後ではパトカーのサイレンがかすかに聞こえた。




