六十三話
即売会が終わった後の『メディチナ』の従業員は、一週間の休日を取ることになっている。
その為、休日中の者達が屋敷の中でも問題なく過ごせるように、短期雇用の使用人が屋敷の中で働いていた。
朝。
クレメンテは身支度を整えてから食堂へと向かった。使用人が銀盆の上に置いて持って来た新聞を手に取って、一通り目を通す。
今まで、国内情勢など全く興味がなかったので、新聞などまともに読んだことはなかったが、結婚をしてから考え方がまるっきり変わった。
新聞に書かれてあることは、自らの事業にも役立つことがある。営業で出かけた先での話題作りに活躍するし、船の渡航情報は仕入れの計画作りになくてはならないものとなっていた。
そんなクレメンテを観察する者が居る。
食堂の上座にどっかりと鎮座している人物、エリージュだ。
先ほどから鋭い視線を向けているのに、相手は全く気付かない。時折笑顔を浮かべるクレメンテを不審に思い、どうして朝から浮かれ気分なのかと疑問に思ったので、質問を投げかけた。
「昨晩、なにか、いいことでも?」
「え!?」
「先ほどから顔がにやけていてよ」
「!」
昨日、リンゼイから言われた「あなたが居ないと駄目みたい」と言う言葉と、懇願をするような表情が頭から離れていないのだ。
翌日になって、あれは自分が作り出した妄想の世界だったのではと疑ってすらいる。
しかしながら、あのような状況は自分では絶対に思い浮かばない場面であった。そこに、現実であってくれという、一抹の希望を残している。
そんな、リンゼイとの美しい記憶を語って聞かせた。
「それって、単に利用されているだけじゃないの?」
「!?」
「あなたがいないと駄目みたい」と言われて、それは夫として必要だと言われたものだと思い込んでいた。
しかし、それは自分の都合がいいように解釈をしているというエリージュの言葉が、冷水のようにクレメンテの頭上に降りかかって、浮かれ気分から一気に目を覚ました。
冷静になってから改めて考える。リンゼイの性格を考えれば、クレメンテは役立つ人材だと伝えたかっただけなのではと、気付いてしまった。
「なんでも言うことを聞くから、そんなことになるの」
「それでも、いいんです」
「なんですって?」
「都合がいい人間でも、必要だと思われることが、嬉しいから」
「……」
リンゼイが傍に居てくれる理由に、クレメンテは大きなものを求めていなかった。
故に、言葉の意味に気付いても、酷く落胆することはない。
一方で、エリージュはクレメンテが心底可哀想だと思ってしまう。
彼がこうなってしまった理由は育った環境にあった。
幼い頃から国の道具として扱われて、暗闇の中を生きてきた子供を、身を挺してでも守るべきであったと、後悔が押し寄せる。
エリージュはリンゼイとも休日の間にゆっくり話をしたいと思った。
彼女が日々、変わりつつあるように見えたが、クレメンテを異性として意識していないのではと、危機感を覚えていた。
最近は傍に仕えることも少なくなっていたので、現状把握が甘かったことを心の中で反省する。
そんな中に、リンゼイがやって来た。
エリージュは臨時の使用人がしたと思われる身支度を見て、「まあまあかしら?」と評しながら挨拶をする。
本日のリンゼイは青いドレスに薄化粧。髪は頭のてっぺんで纏めて結んでいた。銀細工の花飾りが挿されている。清楚な印象がある装いであった。
「奥様、おはようございます」
「おはよう。エリージュ」
クレメンテはリンゼイの姿に見惚れていたので、遅れて挨拶をした。
「おはようございます、リンゼイさん」
「おはよう」
「あの、今日も」
「なに?」
「……いい天気ですね」
「空、曇っているんだけど?」
「……あ、そ、そうでした」
クレメンテがリンゼイの装いを照れて褒めることが出来ないのも、いつもの光景である。
そんな風に普段と変わらない朝食が始まると思いきや、今日は違った。
リンゼイがクレメンテに思いがけない質問をしてくる。
「今日って何かするの?」
「え!?」
その質問がクレメンテに向かってされたものだと気付くや否や、動揺をして頭の中が真っ白になってしまう。
そこに助け船を出すのはエリージュ。
「確か、市場に出掛けるとおっしゃっていましたね」
「あ、はい」
市場には薬の材料となる薬草が売られている。森で採るものと、見た目などの違いがあるのかどうかを調べてみたいと思っていたのだ。
クレメンテは目線でエリージュに感謝の念を送った。
夫の本日の予定に、リンゼイは興味が無いような声を上げるが、後に続いた言葉はこの場に居る誰もが想像をしていないものであった。
「だったら、私もついて行く」
「!?」
目が飛び出るのではないかという位に驚くクレメンテ。
まだ、ここは夢の世界ではないかと、エリージュの顔を再び見た。
祖母の姿を見て、こういう恐ろしい人が今まで夢の中には出てきたことがないと気付き、ここが現実だと確信することが出来た。
「まあ、奥様、市場に何かご用時で?」
「いいえ、全く」
「だったら、どうしてわざわざ不快でしかない人混みに行かれるのでしょう?」
「私、気が付いたの」
「?」
リンゼイは語り出す。
今まで、クレメンテは自分のしたいこと全てに文句を言わずに付き合ってくれて、応援もしてくれた。
『メディチナ』はお遊び気分で始めた経営であったが、いつの間にか真剣に取り組んで、昨日のような成功を収めることになった。
作った薬をたくさんの人に望まれるということは、喜ばしいことでもある。
それは、魔術師として学んだことの集大成でもあり、こういうことをしたかったのだと、気付くきっかけにもなった。
「私ばかり楽しいのも、なんだか不平等でしょう?」
今度は、リンゼイがクレメンテのしたいことに付き合う番だと思ったので、今日の外出もついて行くと。
「リンゼイさん、べ、べつに、私のことは気になさらず。疲れているでしょうから、ゆっくりお休みになって」
「嫌なの?」
「へ?」
「あなたが嫌だったら、家で大人しくしているけど」
「い、嫌じゃありません!! 嬉しいです!!」
「そう。良かった」
まさかの展開に、クレメンテは訳が分からなくなっていた。とりあえず、顔を火に炙られているのではと思うほど熱くて、頬が緩み切っているので、両手で顔面を覆う。
「……餌に全力で飛びつく犬ですか」
「え?」
エリージュは早口で何かを呟いたが、リンゼイは聞き取れなかった。
「いいえ、なんでもありません」
その後、ウィオレケが食堂にやって来たので、朝食の配膳が始まった。
リンゼイがクレメンテの用事に同行することを話せば、「義兄上に失礼のないように」と注意される。
「ねえ、それってどういう意味?」
「姉上は、たまに酷いことを言うから」
「例えば!?」
「死んでくれ、とか」
「……」
それは、紛うことのない酷い言葉であった。リンゼイもそう思ったので、口を紡ぐ。
シンと静まり返った中で最初に言葉を発したのはクレメンテであった。
「あの、大丈夫です! 私、リンゼイさんに何を言われても、嬉しいので!」
「……」
「……」
何を言われても気にしないならまだしも、何を言われても嬉しいという言い分に、もう取り返しがつかないレベルまで飼い慣らされているなと思うウィオレケ。エリージュも同じようなことを考えて、深いため息を吐く。
「あ、あれは、本気で私の為に死んでくれって言った訳じゃないから!! 比喩表現っていうか」
「……」
「……」
リンゼイはそこまで酷い人間ではない。それについては皆、理解していた。
だが、何をするか分からないところがあるので、一応釘を刺しておくのだ。
「市場に行くのなら、リンゼイさんはドレスではなくて、もう少し動きやすい服装の方がいいのかもしれません」
「そうなの?」
「はい。治安はあまり良くありませんし、髪飾りも周囲の人に引っかかってしまう可能性があるので、取った方が」
「ふうん」
だが、折角綺麗な姿で居るのに、外出の為だけに着替えるのは勿体ないとクレメンテは言う。
「や、やっぱり、家でゆっくりなさっていた方が」
「ついて行くって言っているでしょう?」
「ですが……」
「あなたのそういうところ、すごく面倒臭い」
「あ、そうですね、直します。今すぐに」
クレメンテは素直にリンゼイの同行を喜び、市場に行く為に相応しい格好を助言する。
「朝食を食べたらすぐに準備をしてくるから」
「分かりました」
朝食後、リンゼイは身支度をする為に部屋に戻っていく。
クレメンテは心を落ち着かせる為に、少しだけ書類仕事をすると言って退室して行った。
そんな夫婦を見て、ウィオレケが一言。
「……ご主人様と犬」
「間違いありません」
同意するエリージュであった。
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