全員集合
十月三十日、有田は二週間ぶりの休暇を昼前までの睡眠で鋭気を補充した。以前は、捜査本部が立ち上がると、一か月単位で自宅に帰れないのは当たり前だったが、最近は『働き方改革』の恩恵なのかあおりなのか、二週間に一度は強制的に休暇が与えられる。
休暇とはいえ、じっとしていられない有田が、ホームズを訪ねると留守だった。
有田が預かっている合鍵を使って事務所に入ると、中は綺麗に片づけられていた。乱雑に貼り付けられていた壁の写真や資料も戸棚に整理されていることから、いつもの『巣ごもり完了』を意味するものに違いなかったが、暖房の入っていない事務所は冷え冷えとしていた。
休日らしくチノパンとポロシャツの上からスイングトップを羽織っただけの有田は、ベイカー街でホームズの帰りを待つことにした。
「「いらっしゃい」」
カウベルに反応したマスターと美里が、声をそろえて迎え入れてくれる。
「あれ? 今日は未明君ひとりなの?」
有田の後ろに、てっきりホームズがいると思っていたのであろう美里は、あからさまにガッカリした声だ。
「ホームズが帰ってくるのを待たせてもらうよ」
いつものカウンター席に腰を下ろした。
日曜日の午後なのに他に客もおらず、時間が止まったかのようにノンビリしているベイカー街は、疲れ切っている有田でなくても癒される。
マスターが注文も聞かずに、コーヒーの準備を始める。有田お気に入りのスペシャルブレンド豆を二杯、グラインド式ミルに投入する。ホッパーの蓋は完全に閉めずに右手で持ったまま、隙間に神経を向けてスイッチを入れる。マスターの熟練の技で、豆の挽き加減を音と香りで確認しているらしい。
慣れた手つきで布製ろかフィルターをセットし、ろうとの先から出てきたチェーンを引っ張ってフィルターを固定する。既に一杯分の水で満たされているフラスコにろうとをしっかり刺すと、ミルの受缶から直接粗く挽いた粉末コーヒーを入れる。ここまでわずか三十秒足らずの作業は流れるようにスムーズだ。
サイフォンバーナーに点火すると、ほどなくフラスコの水がポコポコと煮立ち始める。ろうとが吸い上げるようにお湯が移動し、粉末コーヒーを蒸しながら上へ上へと押し上げ、やがてろうとの中で踊り出す。フラスコの中のお湯がすべて吸い上げられる直前で、炎とフラスコの距離を調整しながら、コーヒーが踊るのを鎮めるかのようにバースプーンで手際よく撹拌する。
有田の好みが濃く苦めのコーヒーだと知っているマスターは、普段よりも長くろうと内に留めてくれる。サイフォンならではの微妙な調整が可能で、慎重に濃さを見ながら撹拌するマスターの慣れた手つきは何度見ても芸術的で美しい。
バーナーの火を落とすと、やがて緩やかにフラスコ内へとコーヒーが降りていく……。最も心が躍る瞬間だ。
コーヒーを淹れ終えたマスターは、静かに有田の前にコーヒーカップを置くと、美里にクリームパフェの作り方を伝授している。ひとりで訪れている客に、あれやこれやと話しかけないのも、この抜群に美味いコーヒーを味わうための欠かせないアイテムなのかもしれないと有田は考えた。
マスターは、少しゆったり目のシャツと綿パンの上から、焦げ茶色の長いエプロン姿といういつもと同じ服装で、いつ見てもダンディだ。有田は「こんな風に歳を重ねたいものだ」と常々思っている。
美里も白いシャツにジーンズ姿で、焦げ茶色のエプロンはマスターとお揃いのものだろう。さらにその上から得意げに肩に巻いているのは、ホームズから誕生日プレゼントとしてもらったピンク色のケープだ。ホームズとお揃いなだけで幸せそうな顔をしている美里を見ていると、こちらまで幸せな気分になれる。
ベイカー街の店内は、入口のドアを入った並びにカウンター席が六つ、その後ろに四人掛けのテーブルが六台あるだけの、決して大きな喫茶店ではないが、昭和レトロ調な雰囲気に惹かれて訪れる常連で賑わうこともある。有田は、こんなときにしかゆっくりと店内の観察ができないとばかりに、木の温もり漂う店内を見渡した。
マスター自慢のカウンターテーブルは、アメリカンブラックチェリーの一枚板で、関東一円の銘木店を回って、やっと見つけたお気に入りの一枚だと聞いたことがある。なんでも、このカウンターテーブルに合わせて店内の配置や内装を決めたというから、思い入れの強さがよくわかる。
カウンタースツールからもこだわりが感じられる。北欧調の木製だが、座面や膝後ろのアールが絶妙で、長い間座っていても疲れない優れものだ。
カウンター席の正面の壁には、いろんな種類のコーヒー豆を保管している棚がある。昔の薬問屋のような木製の引き出しに、その日使う分だけのコーヒー豆を入れている。モカやキリマンジャロなどの他に全部で八種類あるが、有田はここのスペシャルブレンドが一番のお気に入りだ。マスターオリジナルの配合により酸味と苦みがぶつかりあって生まれる美味しさは、淹れたての熱々なときはもちろん、飲み干す直前の少し冷えたくらいでも最後まで薫り高く飲むことができる。
カウンター席の一番奥がホームズのお気に入りの席で、その隣がいつも有田の座る席だ。他に先客がいない限り指定席のようになっている。カウンター内部からの続きに厨房があり、長い暖簾のカーテンで仕切られている。
テーブル席は、よく見るとひとつひとつ違う形や造りをしているが、統制がとれていてバランスが良い。椅子もテーブル毎に違っているのに、違和感がないように計算して配置されているためか、ひと目見ただけでは違っていることに気づかないほどだ。
ホームズが『捜査会議』と称して利用する一番奥のテーブル席は、一本足に頑丈な天板がどっしりと鎮座している感じで、ホームズお気に入りのテーブルだ。木目が美しく、ツヤもあって、有田もこのテーブルには愛着がある。難点といえば、奥の座席に座った人が席を立とうとするには、手前の人も席を立たないと出ていけないところだが、狭い店内に効率的に配置されている喫茶店としては仕方のないところだ。
カウンター席と各テーブルには、紙ナプキンとシュガーポットが置かれている。窓辺に並んだ三つのテーブル席の脇は出窓になっていて、木目のテーブルに良く合う茶系のレースカーテンが斜めにかかっている。これだけ茶系統の色合いでありながら店内が暗く感じないのは、大きな窓の配置によるものだろうが、夜になっても絶妙なライティングが計算されているせいでもある。
有田が店内観察と一杯目のコーヒーを飲み終える頃、誰かがカウベルを鳴らして入ってきた。
振り向くと、そこに彩花が立っていた。白い高級そうな薄手のコートを羽織っていて、この店に似つかわしくない程、お洒落な貴婦人といった雰囲気を醸し出している。
絶句している有田に向かって、彩花は静かに口を開いた。
「素敵な喫茶店ですね」
まるで有田がここにいることを知っていた口ぶりだ。
「いらっしゃいませ……」
カウベルの音を聞きつけて厨房から出てきたマスターが、彩花を見て立ち止まった。
「……彩花さん……」
有田が声を絞り出して名前を呼ぶと、マスターも顔をほころばせた。
「あっ! 倉見代議士の奥様ですね」
マスターが声をかけると、彩花は軽く眉をひそめた。
「あの……お会いしたことがありましたかしら」
元代議士夫人としては、どこで誰と顔を合わせているかわからないため、失礼のない対応が板についているのだろう。
「二十年以上前にお屋敷でのパーティでコックを務めたことのある九品寺です。覚えてらっしゃいますか」
彩花は少し迷った顔をしたが、すぐに思い出したようだ。
「ああ、長い料理帽を被ってらした腕のいいコックさんですね。その節は大変お世話になりました」
「とんでもない。フリーになったばかりの駆け出しコックを大切なパーティに使ってくださっただけでなく、他の代議士先生の方々に紹介してくださったおかげで、今のぼくがあるようなものです。本当に感謝しています」
彩花のことを気にかけていた理由が、有田にも少しだけわかった気がした。
マスターが厨房に戻るのを待って、有田が口を開いた。
「彩花さんは、偶然ここにいらしたんですか」
「いいえ、あのかわいい探偵さんから今日、ここに来るようにと言われましたの」
彩花は、手にベイカー街の地図を持っている。
「え? ホームズが……」
そのとき、厨房から出てきた美里が彩花を見て、「あっ!」と声を上げた。
彩花の方は「え?」と首を傾げたことから、美里が尾行していたとは気づいていないようだ。美里はそのまま逃げるように厨房へ消えた。
「今の方……どこかでお会いしたことがあるかしら……」
彩花は何かを思い出そうとしているようだ。
そのとき、再びドアが開いてホームズが顔をのぞかせた。
「やっぱり未明君も来てたわね。呼び出さなくても来ると思ってた」
ホームズは、見知らぬ若い女性を連れている。
「彩花さん、早かったですね。わざわざお呼びたてしてすみません」
ホームズは屈託のない笑顔で彩花に挨拶すると、マスターに声をかけた。
「あとひとり来ると思うし、マスターやミサトさんにも聞いてほしいから、奥のテーブルを使わせていただくわね。未明君も彩花さんもテーブル席にどうぞ」
皆を誘導して、奥のテーブルへと向かった
。
ホームズが連れてきた女性は、三十代前後くらいに見えた。長い髪は綺麗なウェーブがかかっていて、薄化粧な肌白の顔と相まって洋風人形のような装いだ。地味だがしっかりとしたスーツを着ていて、凛とした歩き方から『お堅い職業』だと推測できた。
ホームズがいつものようにテーブルの一番奥の席に座り、その向かい側に彩花を座らせた。彩花の隣にホームズが連れてきた女性を座らせたので、必然的に有田は見知らぬ女性と向かい合わせに座ることになった。その女性は下を向いていて、有田とは目を合わせないようにしているようでもあった。
大好きなホームズの声を聞きつけて、美里が水を四つ運んできた。
「いらっしゃいませ」
彩花の方からなるべく顔を背けようとしていた美里だったが、隣に座っている女性を見て、またも大きな声を上げた。
「麻紀さん! 御厨麻紀さんじゃないですか!」
大声に反応して顔を上げた女性は、美里以上に驚いた顔をしてホームズを見た。
「結城さん、どういうことですか! 大事な話があるからと言うのでついてきたのに……。ここはいったいどこなんですか」
麻紀は血相を変えたが、ホームズは落ち着き払っている。
「麻紀さんにミサトさんがいることを告げないままお連れしたことはお詫びします。ちゃんと説明しますから落ち着いてください」
ホームズの話術で、麻紀の興奮はすぐに収まったようだ。
それから、マスターを呼ぶと、
「コーヒーを四つお願いします。ミサトさんもそこに座って聞いてちょうだい」
と、隣のテーブルに座るよう指さした。
「あ、私はコーヒーが飲めないのでジュースをお願いします……」
麻紀が手を上げて遠慮がちに言った。
「それなら、果肉たっぷりのオレンジジュースがお勧めですよ」
ホームズがベイカー街名物のオレンジジュースを勧めた。
「じゃそれで……」
それを聞いてマスターだけがカウンターに入っていった。
「まずは皆さんに紹介しますね。未明君の前に座ってらっしゃるのが、御厨麻紀さんです。ミサトさんは知ってるわよね」
ホームズが美里を見ると、
「はい……三鷹で一度……」
いつもの美里らしくない消え入りそうな声で彩花を盗み見している。
「そうなの。今日は三鷹の件を皆さんにきちんと話すために集まってもらったんです」
マスターはコーヒーを淹れながら聞いている。
「一週間前の日曜日、彩花さんは三鷹の霊園に行かれましたよね」
「ええ……知り合いの方の命日だったもので……」
彩花が答えると、麻紀が大きく目を見開いて彩花を見ていた。
「彩花さんは三鷹に行った際、『つけられている気配がした』と、おっしゃっていましたよね」
「はい。でも気のせいだとわかって安心しましたけど……」
彩花は、以前にも話したではないかというように眉根を寄せた。
ホームズは自分を落ち着かせるようにひと息つくと、
「それは気のせいではなかったんですよ。そこにいるかわいいウェイトレスさんが私の依頼で、彩花さんを尾行していたんです」
ホームズは尾行の件も隠さずに告白するようだ。
「えっ……」
彩花が美里を見ると、美里は下を向いたままだった。
「どうして探偵さんが私を尾行だなんて……」
「それは守秘義務がありますので申し上げられないのです。お許しください」
ホームズが深々と頭を下げた。
「そのときに、ミサトさんは麻紀さんと会ったんですよね」
ホームズは、美里と麻紀を交互に見て話しかけた。
「はい。美里さんがこの女性を尾行しているとは知らなかったのですが、美里さんの後ろを歩いている男の人に危険を感じたもので、脇へ連れ出したのです」
終始俯きかげんな麻紀が、言い訳のように説明した。
「その後、三鷹駅前のコーヒーショップで、ミサトさんにいろいろと身の上話をお尋ねになったんですよね」
ホームズが確認するように問いただした。
「……はい……身の上話といっても、そんな私……」
麻紀の口調は、澱みなく答えるときと歯切れの悪いときがある。
それまで黙っていた美里が、麻紀を庇うように口を開いた。
「麻紀さんは、親身に話を聞いてくださいましたよ。まるでホームズさんと同じように優しく尋ねられるから、ついいろいろとおしゃべりしましたけど、そんな……麻紀さんが責められるようなことはありませんでした」
「では……」
ホームズは美里の言葉に頷くと、彩花の方を向いた。
「彩花さんは知り合いの方に電話をかけて、尾行されていないか確認してほしいと依頼したとおっしゃっていましたが……」
話の流れが掴みきれていない彩花は少し困惑していて、
「はい……」
と、小さく返事するしかないようだった。
「車で自宅まで送っていただいたのもその方ですよね」
ホームズがそこまで言ったとき、マスターがコーヒーを運んできた。
「皆さんもどうぞ。コーヒーを飲みながら聞いてくださいな」
ホームズは、ブラウンシュガーを二個、自分のカップに入れた。
……カラン、カラン……
そのとき、ドアを開けて入ってきたのは山科だった。




