【2】温室のランタン、神童の決意
僕は、温室の電気は点けずに、アウトドア用のランタンの灯りの下で勉強をしていた。
宿題は済ませて母に確認ももらっている。
それでも僕は、毎日必死で勉強をしていた。
僕は自慢でも何でもなく、「神童」と呼ばれるくらい頭が良い。
隣町の私立小学校に通い、成績は常にトップ。
スポーツだって万能だ。
でも、足りない。
この地獄から抜け出すには。
近所の人たちや弟妹には、僕は自分の意思で――
完璧な自分だけの子供部屋が用意されているというのに――
温室が大好きで、そこで趣味にふけって眠ってしまうこともある、ということになっていた。
「神童」にありがちな気まぐれだと。
だが、事実は違う。
僕が夜、自分の部屋で過ごしていいか、眠ってもいいか決めるのは父母だ。
そして最低でも週に五日は温室に行かされる。
父母は僕を嫌っている。
いや、嫌っているどころか忌み嫌っていたのだ。
その理由を知ったのは成人して、父母が残した遺産を相続した時。
その頃の僕は、ただ「嫌われている」ということしか理解できていなかった。
嫌われている僕は、父母の言いつけを守らなければ「罰」を受ける。
だから恐怖の中で命令に従っていただけだ。
だが狡猾な父母は、世間体を守るために、僕に十分すぎる「生活」をさせた。
けれど一日の終わりに、僕とひとつ屋根の下で過ごすことが我慢ならなかったのだろう。
僕が小学校に上がるタイミングで温室は完成し、母は蘭を育て始めた。
そして僕に新たな命令が下った。
「指示された夜は温室で過ごすこと」
「戻るなと言われたら、温室のベッドで朝まで眠ること」
父母はそれでせいせいしたかもしれないし、僕を痛めつける材料をひとつ追加できて嬉しかったのかもしれない。
けれど僕の方が、はるかにせいせいしたし、嬉しかった。
一挙手一投足を監視される家での生活なんかより、よっぽどリラックスできて、温室にいる時だけは楽に息ができた。
さらに、父母の「他人を欺くために子供に十分すぎる生活をさせる」という信条は温室にも反映されていて、清潔な簡易ベッド、サイドテーブルと椅子、小型冷蔵庫まで揃っていた。
父母の命令は「温室に行け」というだけ。
父母からすれば、自分たちが管理している過酷なノルマの勉強を、それ以上するとは思っていなかったのだろう。
だが僕は勉強していた。
それには明確な理由があった。
せめて大学は、父母にも止められないであろう海外の一流大学に行こうと決心していたからだ。
見栄っ張りの父母が、留学を納得せざるを得ないような大学に。
そしてこの家と縁を切る。
そのために僕は、電気を点けることを禁じられた温室で、ランタンの下、勉強を続けていた。
アリスからのメッセージに、僕は温室にいると言うのが恥ずかしくて、「自分の部屋」と答えた。
アリスは「そうなんだ。僕も」と返してきただけで、深く追及はしてこなかった。
その夜は他愛のない話で終わった。
アリスは、自分は春休みを利用して僕の近所に静養に来ていると言った。
静養といっても、春休み直前にインフルエンザに感染して症状が重かったため、東京のど真ん中にある自宅よりも、少し郊外で自然があるところでのんびりさせたいという両親の意向でやって来ただけだから、心配はいらないよ、とも。
次の夜も、温室で勉強している僕の携帯が振動した。
アリスからのメッセージで、僕は嬉しかった。
僕からもメッセージを送ろうかなと思っていたからだ。
アリスのメッセージは昨夜と同じ、「レン、今何してる?」から始まった。
僕も昨夜と同じように「勉強」と答えた。
アリスは「レンは勉強が好きだね!」というメッセージと、パンダが笑っているスタンプを押してきた。
僕も「そうだよ」と答えて、メッセージアプリに初めから付いているウサギが笑っているスタンプを押した。
その時、僕はふと思った。
なぜ、今まで疑問に思わなかったのだろう。
なぜアリスは「アリス」という名前なのかと。
確かに、アリスは非現実的な美貌を持っている。
けれど、生まれたばかりの男の子に「アリス」と名付けるだろうか?
アリスの親は、いわゆるキラキラネームをつけるような人たちだとは思えない。
アリスは美しいだけではなく、少年ながらに気品があった。
同じ少年の僕でさえ、それが分かるほどに。
だから、堪えきれずに訊いてしまった。
胸の奥をざわめかせながら――。
「アリスって、なんでアリスっていう名前なの?」と。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この作品は 毎日17時更新です。
最後まで完結させるつもりですので、どうぞお付き合いいただければ嬉しいです。
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