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 吹き抜ける風が帯で引き締められた脇腹を滑り、羽織の(すそ)をはためかせる。

 パタパタと着物の背を叩く音がする度、(チェン)の耳は上へ、下へ。先を行くそんな愛らしい後ろ姿を眺めながら、アナタは存分に肩で風切って歩く感覚を楽しんでいた。

 ポカポカと温かい日差しの中、暗い湿り気を残した寒風は、乱暴な腕で(すすき)野原を掻き分け…。芒が音もなく倒れては起き上がる光景は、まるで足元の時間だけゆっくりと流れて行く…そんな錯覚を抱かせる。

 ここにはアナタを縛り付ける何ものもないのだ。

 分刻みのスケジュールもなければ、順路を決めるアスファルトの道もない。古時計の振り子の様に、リズムよく動く橙の尻尾。これだって、止まってみたり、二本がこんがらがってみたりと、好き放題にしているではないか。

 空の高い所に浮かぶ小さな雲を見上げ、腹一杯に空気を吸い込む。そこへまた、喉を撫でる様な一陣の風。

 (猫をあやしている訳じゃなし…なんてな。)

と、自分の連想した言葉に、イメージに、苦笑を漏らす、アナタ。久しくこんな気持ちにはならなかった…。それだけに、どれだけ腹一杯空気を溜め込もうと、どれだけ青空を見ていても、この切なさだけはどうする事も出来なさそうだ。

 顔を上に向けたままなので極力、歩幅は小さく。ザッ、ザッ、乾いた土を安全靴で踏み鳴らし歩む。視野の下、辛うじて見える猫耳を頼りに歩んでいく。…と、心地の良い太陽の光に照らされ、脱力気味だったその耳が…ピンッと、緊張感を取り戻した。

 自然、足は止まり、目線は正面に向けられる。そんなアナタを残し、二、三歩更に歩み出てから、くるりっ、橙が後ろを振り向く。

 「ここです。(ゆかり)さまはこの奥でお待ちに成っています。さぁ、どうぞ。」

 アナタは促されるに従い、彼女の手が示す方へ歩を進める。

 そこは、小道の行き止まりに作られた開けた場所。だいたい50メートル四方の土地が、小道と同じ様に、剥き出しの地面に成っているらしい。そして…その何もない空間には、ポツンッと、真っ白な建物が一つ。

 「あれは、庭園なんかにある…確か、ガゼボとか言う建物だよな。…とすると、野っ原を切り取ったこの場所は、自然の隙間に作った憩いの庭って(おもき)か。風流な事だ。」

 そう感心して見せつつも、あまりの途方もなさ、あまりの手の込み様に、アナタの口からは溜息にも似た笑気が零れ出る。ところで、役目を終えた橙はと言うと…、

「がぜぼ。『がぜぼ』って何ですか。」

 あくまで、マイペース。『紫さま』から新たなご下命あるまでは、多分、尻尾みたいにアナタの後ろへ付いて回るのであろうな。

 「何って、休憩所と言うか、東屋(あずまや)と言うか…まっ、とにかく、あそこに『紫さま』が居るんだよな。それじゃあ、ご尊顔を拝見しに窺おうじゃないか。」

 大分、アナタも橙の遇し方を心得てきた様だ。話し半分で歩き出したそのお尻を追って、楽しそうに、連なって橙が付いて来る。

 『庭園』の入口から見たときは円形に見えていたガゼボの屋根。しかし近付いてよくよく見上げれば、八角形をしており、その縁から伸びる八本の柱に支えられていた。

 このガゼボは他にも、腰の辺りまでくる背の低い側壁に覆われ、見晴らしを損なわない程度の風防が成されている。そうして更に近付くと、中央にガーデンテーブルと、二脚の椅子。だが…。

 「なぁ、橙。」

「はい、何でしょうか。」

 「『紫さま』とやらが…見当たらないんだけどな。」

「えっ。…ぐっ。」

と、熱心に後を追う歩むあまり、羽織の背中へ鼻先をぶつけた、橙。アナタの腰に腕を回して、恐る恐るガゼボの中を覗き込む。

 そこには、アンティーク調の椅子を引いた『人の気配』はあるものの…確かに、当のご相手は不在なようだ。

 アナタが少々拍子抜けして小さな溜息を漏らす。美人と聞き及べば…もとい、事情を説明してもらえると聞いて、足を運んだものを…。一方、頭上のそんな弛緩した心境に対して、橙は…、

「あっ、あわわわ…私が、あんまり遅いから…私がもたもたして、ちゃんと、アナタをお連れしなかったから…。それで怒って、紫さま、どこかへ行っちゃったんじゃ。ど、どうしよう。」

 ブルブルとアナタの腰に巻き付けた腕を震わせ、まるで『可愛らしい(ども)り方』を披露する。いやいや、そこまでからかっては気の毒だな…。

 「心配ないって。」

 言うやアナタは、ガシッと、腰を抱く二本の腕を捕まえる。

 「『紫さま』は、『俺が目を覚ましたら、自分の所へ連れて来い』って言ったんだろ。なら、橙は何も間違った事はしていないよ。一度だって、道草食ったりしなかったもんな。もしも『紫さま』に橙の仕事振りを()かれたら、俺は自信を持って、『完璧なエスコートだった』と答えられるよ。」

 そう言われ、引っ張り起こしてもらった、橙。まだ少しだけ泣きべそをかいてはいるが、おずおずと、問い返す。

 「本当…。本当ですか。本当にそうだって、紫さまに言ってくれますか。」

「あぁ、必ず。訊かれなくても言っておく。だから…もう、泣くなって。『紫さま』は多分、お花摘み…あ、いや、散策にでも出かけているんだろ。こんなに気持ちの良い陽気だからな。」

と、アナタは羽織の袖で涙を拭ってやりながら、必死に彼女を(なだ)めた。…無論、この時、自分の着衣が『借り物』などという些細な事は、スコンッと、アナタの頭から抜けている訳だが…。

 兎にも角にも、懸命な説得は功を奏したらしい。アナタに優しく肩を掴み上げられ、背筋を伸ばし、橙は小さく頷いて見せる。

 「そう…ですよね。紫さま、散歩しているだけなのかも…。あの、お掛けになって、少し待っていて下さい。私、紫さまを探してきますね。」

 アナタはそれに頷き返すと一人、ガゼボの屋根の下、椅子へ手を掛ける。椅子は細い金属の棒を捩じって作られており、背もたれと、座面に、木の板がはめ込まれている。この意匠はテーブルも同じで、円い木の天板の上には円い銀のトレー。更にその上には、シンプルなガラスのコップが二つと、陶器の水差しが一つ、どこかしんみりと置かれていた。

 (腹の足しにはならないが、美女との謁見(えっけん)の前に舌だけでも洗って置くか。)

 逆さにされたコップの一つを引っ繰り返し、水差しを取り上げる。白い陶器の水差しには、銀器や、アンティークの家具に引けを取らない、洒落たブルーパルメッテの装飾。

 トクトクッと、コップへ注がれるのは、透明な、ただの水に違いない。しかしながら、風が運ぶ芳しい芒の香。手に伝わる陶器の感触と、吸い付く様な白と青のコントラスト。これだけ色々な状況が溶け込めば、さぞや美味しい『ただの水』であろう。

 水差しをトレーに返し、アナタはコップ片手で側壁の傍へ。小道から見た芒野原は、小麦色と青草の色が入り混じる雑草の群れでしかなかった。…それが、このガゼボから見渡す景色はどうだ…。

 真っ白な芒の穂が敷き詰められた、一面の銀世界。

 アナタは、ほぅっと、感嘆の声を漏らして、その唇にコップの縁を押し当てる。口の中は意外と粘り気が少なく、スルスルと、水を喉の奥へ運んで行く。

 そうして、水を味わう様に、アナタがもうの一口を含んだ…その時、

「居ました。紫さまがいらっしゃいました。」

 張り上げられたのは嬉しそうな猫撫で声。口に水を含んだままアナタがそちらを眺めれば、大きく腕を、猫耳を振る橙の姿。それに…その後ろを歩む人影…それが『紫さま』なのだ。

 腰まで伸びる柔らかな長髪は、純白の芒野原の中、やや紫がかっても見える妖しい金色。小作りな頭に被っている白のクラッシャーハットも、その前面に結わえられた濃紅(こきべに)の紐も…彼女の纏う雰囲気の所為か…何やら、酷く胡散臭い。

 しかしそれでも、橙の言ったのは間違いでなかった。…アナタも今なら、半信半疑だった彼女の意見に、大賛成する事が出来る。

 なるほど、『紫さま』は…彼女は実に美しい。芒野原を背景に、白紙にして仕舞える程、何とも絵に成る美貌の持ち主だ。

 もし口に水が含まれていなければ…。アナタはまた感嘆の声を漏らしていただろう。…庭園の内へ歩み入る二人に聞こえてしまう。勿論、そんな事は構いもしないで…。

 橙は妖艶なる佳人を先導しながら、その都度、アナタへ手と尻尾を振るのも忘れない。そこで、はたと魂の抜けた様に成っているアナタに気付くや…きっと気を利かせた積りなのだろう…再び、大きな声を張り上げる。

 「アナタの言った通り。紫さま『お花を摘んで』いらっしゃいました。」

 次の瞬間、アナタが口に含んだ水を噴き出したのは、言うまでもない。

 顎から水滴を垂れ落とし二人を見れば、『紫さま』の片手に数本の芒が携えられている。つまり、橙の言ったのはそう言う話し、そう言う勘違いらしいな。…えっ、紫さまのもう一方の手はどうしているのかって…。それは無論の事、堪え切れずに笑う口元を隠しているのだ。

 口の中にはもう一滴の水も残っていないというのに、アナタは喉を鳴らした。

 そんな血の気の引く様な醜態を目撃して、黙っていられる橙ではない。

 「あぁっ、ちょっと待って下さい。今、私が…。」

と、猛然と駆け寄るなり、アナタの手から取り上げたコップをテーブルへ。それから、びしょ濡れの口周りにハンカチを押し当てようと…だか、それはなぁ…。

 「ちょっと、ストップして…いいから、ハンカチさえ貸してもらえれば良いんだから…なっ。そこまで世話に成らなくても、自分で拭くよ。」

 今回は単に『少女に世話を焼かれる』では済まない。かてて加えて、『妙齢のご婦人に見守られながら』のおまけが付くのだ。ここは男として、断固たる態度が要求される場面であろう。…それなのに、どう言う訳か、橙が引き下がろうとしない。

 「駄目です。ここは絶対に、私が…。だってさっきは、半べそかいている私の顔を、アナタが(ぬぐ)ってくれたじゃないですか。お客様にあそこまでして頂いて、何のお返しもしない訳にはいきません。」

 この子猫ちゃんときたら、『紫さま』の前で何と言う意味深な発言を…。

 アナタは両手を前に出し、少しでも、にじり寄る橙との距離を稼ぎつつ、

「お返ししてもらうまでもないさ。橙には世話に成りっぱなしだからな。むしろ、顔を拭いてやった事が、俺からのお返しくらいに考えて…。」

 ここまで喋っておいて、唐突に、口を(つぐ)んだ。この状況で、時間稼ぎへ走る愚に思い至った…。いいや、アナタは、そんなゆとりのある表情をしていない。もっと切迫したものを目の当たりにしたと、顔に書いてある…そう、アナタは見たのだ。

 例の奴を…獲物に狙いを定めた猫の目で、瞳孔が開いていく様子を…。これはもう、恥を忍んで、橙に口を吹かれる姿を晒すしかないな。

 降参の意を示す様にアナタが手を下ろしかけた、その時。思わぬところから助け船が入る。

 「橙、そこまでになさい。彼が困っているでしょう。」

 『紫さま』の鶴の一声で、ピタリッ、橙の前進が止まった。…同時に、コツンッと、側壁がアナタの後退を阻む。まさしく、『計ったかの如き』絶妙のタイミングであった訳だ。

 橙と更なる距離をとるなら、ここしかない。ここしかないはずだが…。アナタは魂を奪い取られた様に、両腕を下ろすと、側壁にもたれ掛かる。どうにも、上手く身体に力が入らない。

 それは、寝起きで聞いた女性の声が…もとい、成熟した女性の声が鮮烈過ぎたからだろうか。実際、彼女のその声は、絹を一撫でする様に滑らかで、湖面に咲く杜若(かきつばた)の様な(あで)やかさ。(うつつ)を抜かすのに、十二分な魅力を有している。しかし…この感覚は…首から下が遠退いていくこの感覚まで、彼女の美貌によるものとは…。

 朧気(おぼろげ)なアナタの思考の外側では、橙が『紫さま』への抗議を試みている。

 「でも、紫さまはいつも、『親切にして頂いたら、感謝と、誠意へ(むく)いる気持ちを忘れてはいけない』って、私に仰るじゃないですか。」

 恩返しへ横槍を入れられた不満は強く、ちょっと、食って掛かっている風にも映った。…さっき、『紫さまをお待たせしたかも』と、橙が見せた怯え。それを見て、『どんな恐ろしい化け物だろう』と密かに肝を冷やしていたアナタも…。二人のやり取りを眺める内、多少は、緊張も解れた様だ。

 アナタはいつの間にか、気安く、かつ感心しながら、橙へ向けられた『紫さま』からの薫陶(くんとう)へ耳を傾けていた。

 「感謝の気持ちを示す為なら、相手を困らせても構わない。それではいけない事を、橙、貴女にだって解かっているわね。」

「そ、それは…。」

 しばしの沈黙の後、ペコリッと項垂(うなだ)れて、橙が続ける。

 「はい、解かります。…いいえ、解かっていました。でも…。」

と、チラリッ、アナタの方へ(だいだい)色の瞳を向けて、

「良くして頂いたお礼をしたくても…この方が、いらっしゃる間でないとって…。そう思ったら、私…。」

 そんな自分まで不安に成る様な視線を浴びて、思わず口を開いた、アナタ。しかし、慰めの言葉が声になるその前に、そっと、『紫さま』の手が橙の頭を撫でた。

 「大丈夫。彼は、すぐに居なくなる訳じゃないのよ。」

「本当ですかっ。」

 大きな声、大きな目で、橙が尋ねる。だが、どうして…その言葉は、アナタでなく、『紫さま』へ向けられたのだろうか。

 奇妙な違和感を覚え、微かに潜められた眉。わずかに細められたアナタの視界の真ん中で、『紫さま』が橙へ頷き、そして、右手に携えた数本の芒を手渡した。

 「えぇ、本当よ。解かったら今は、この尾花を床の間の花入に活けておいてちょうだい。私は、彼と二人で話す事があるから…。男性への気配りの仕方は、またの機会に教えてあげましょうね。…そうそう。」

 『紫さま』は、如何にも『今思い出した』と言わんばかりの声を零して、アナタへ撫子(なでしこ)色の瞳を向ける。

 「『花摘み』の意味も教えて上げなくてはね。…ううん、やっぱり、こっちは彼に教わりなさい。彼も私に負けず劣らずで、『花摘み』には詳しいみたいだから…。」

 言うや、ニヤリッ、底意地悪そうに笑う顔を見るにつけ…。間違いなく彼女は魔性の者であると、深く実感する、アナタ。

 それも、橙など及びもつかない程、世間擦れした…もとい、大年増の…いや、とにかく、『紫さま』の恐ろしさが身に染みて解かった。…で、そんな心持ちが、多分、顔に表れていたのだろう。

 受け取った芒が折れてしまわぬよう、慎重に両手で携える、橙。『紫さま』へ向けたこれ以上ない笑顔を、今度は、アナタの方へ。だが、その笑顔も、猫耳も、予期せぬ迷惑顔にぶつかり調子を落とす。

 「あの、私はまた何か、アナタを困らせる様な事を…。」

「えっ、いや、そんな事はないって。橙は本当によくやってくれているよ。」

 『橙は』と、ちょっとした(とげ)を言葉に含ませつつ…。しかしながら、『紫さま』とは違ってとは言えるはずもない。窮地に追いやられたアナタは、突如、何を思ったか飲み()しだったコップを取り上げ、

「そうだ。その芒、これに入れて持っていくと良い。少しでも早く、水に浸けた方が長持ちするだろ。」

と、橙の手から抜き出した芒を、コップに移す。

 この行動は完全に、明確な意図あっての事ではなかった。…しかし…考えなしの思い付きにしては、案外と、悪くはない。

 『紫さま』が手折(たお)った芒は、丁度、コップの大きさに折り合っている。その為か、即席の花入の割に、縁から伸びる茎の緑、頭を垂れる穂の白が、すっきりと際立つ。

 意外な花と食器の活用に、『紫さま』も短い吐息を漏らした。

 これで、パニックを起こした橙が泣き出しさえしなければ、及第点であったのだがなぁ…。

 大慌てで、頭をガクガクと揺す振り、何を間違えたのかも解からぬまま、アナタが謝ろうとする。その後ろから、再び、匂い立つ様な美声が助け船を出す。

 「良いわね。そう言う簡素な(たたず)まい、私は好きよ。ただ風流なだけじゃなく、風格がある。折角、彼の計らいでもあることだし…橙、今日はそのまま、その『花入』を床の間に飾ってちょうだい。」

 彼女にとっては余程、『紫さま』の一言一言が大きな意味をもつのだろうな。

 次から次に溢れ、着物の袖でも拭い切れなさそうだった、橙の涙。それが、蛇口の栓を締め直したかの如く、立ち所に止まった。

 アナタは、ちょっと呆れた様に鼻を鳴らして…芒の活けられたコップを差し出す。

 「ほら、落とさないよう、しっかりな。それと…ハンカチ、借りるぞ。」

 当人すら忘れていた様だが、芒を受け取った時も、無論のこと今この瞬間にも、橙の手にあるハンカチ。誰かさんの口元を拭えず宙ぶらりんに成っていたそれを、コップと入れ違いで受け取って、アナタは泣き濡れた橙の目元へ寄せる。

 「あっ、そんな事は、私が自分で…。」

「ちゃんと両手で持たないと、落とすぞ、コップ。」

 すかさず返された台詞で、アナタの腕を押しのけようとした手が、コップに戻る。

 透明な花入から伸びた芒の穂が、小さく揺れ動く。橙は、まるでその穂先へ(じゃ)れ付く子猫の様に、小さく鼻先を振って…けれど、大人しく…腫れぼったい下瞼を撫でられていた。

 「これで良しと…。さぁ、仕事に行って来い。このハンカチは、また、俺が粗相しないとも限らないから、借りとくよ。」

「は、はい。…でも…。」

 「『でも』じゃないの。」

と、アナタは橙の顔の高さにしゃがんで、彼女の肩へ手を置く。

 「なぁ、橙。確かに、『紫さま』の言う事はもっともだと思う。(いたずら)に人を困らせるべきじゃない…それには俺も、大賛成するよ。だけどな、それがいつだって正解とは限らないんだ。」

 感謝されようなどという気はなくとも、誠意を持って語り掛ける、アナタ。だがしかし、

「えぇっ、本当ですか。」

 やはり、彼女にとって『紫さまの仰った事』は絶対か。アナタの発言へ、珍しく、疑わしそうな眼を向けた。…もし『紫さま』の意見を肯定する一言がなければ、確実に、この子猫ちゃんの不興を買っていたであろう。

 顔の高さが同じに成った分、噛み付かれるリスクは増している。それでもアナタは、優しく、温かく、生乾きの口元で微笑む。

 「嘘じゃないさ。徒に人を困らせるべきじゃないと言ったのも…でもな…。時には『悪戯で』男を困らせるのも、女の器量だって俺は思うよ。なっ、『紫さま』、あんたもそう思うだろ。」

 『紫さま』は引き合いに出されるのを呼んでいたらしく、アナタの目線を曖昧な笑顔で迎えた。

 「どうかしら…。私の様に世慣れていない女には、途方もない話だわ。けれど、アナタの様な男性がそう言うのなら、きっと、そうなのでしょう。」

「…と言う事は、俺の意見を支持してくれる…で、構わない訳だ。」

 それに頷く『紫さま』を確認。アナタは目線を、グリッと、橙へ戻して、

「なっ、お前の『紫さま』だって、そうなんだと仰っているだろ。要するに、男の側が…俺が『悪戯みたいなもんだ』と思ったなら、それで良いんだよ。時には『悪戯で』済ませるのが、男の器量だからさ。」

 アナタの人差し指に弾かれ、橙の手の中でコップが音を立てる。まぁ、しっかりと抱えられていた為、あまり良い音はしなかったが…。

 しかし、伝えるべき事は…アナタの声は、ちゃんと彼女の心に届いた様だ。

 橙は、ピンッと耳を伸ばして、自信に満ちた笑顔で頷く。例え、芒の穂が額に当たろうと、彼女はもう慌てない。慌てず、騒がず、丁寧に、愛嬌を振り撒き、アナタへ応える。

 「そう言うことだったら私、喜んで、ご厚意に甘えます。このコップみたいに大きなアナタの器を、私が偏屈な所為で小さくする訳にはいきませんからね。」

 スカートを右へ左へ揺らしながら、大きく振れる二本の尻尾。どうやら上機嫌な様子で、結構なこと…だが、彼女のお返事には少々、聞き捨てならない台詞が混じっているではないか。

 「おいおい…。『大きな器』というのは良いとしてだ。『このコップみたい』って形容の仕方は、あんまりじゃないか。」

 恰も『皮肉とはこんな顔で言うもの』と教える様に、口の端を吊り上げ笑う、アナタ。それに、クスクスッと返す含み笑いも愛らしく、橙は首を横に振って答えた。

 「でも私にとっては、このコップほど重大な器はありません。だって…。」

と、耳元へ口を寄せてくる彼女に、アナタは『紫さま』に唇の動きを読ませないよう…それに、内緒話を聞く時の作法として…左耳に手を当てる。

 また、クスクスッと芒の穂でくすぐる様に笑う、橙。それから、少し頬を赤らめ、アナタの手の中へ囁く。

 「私、実は、花入を選ぶのが苦手で…。だから、紫さまのお墨付きをもらったこのコップほど、『大きな器』はないんです。」

 もう一度だけアナタの耳に笑気を吹きかけて、橙は背筋を伸ばした。

 「それでは紫さま、これで失礼しますね。アナタも、どうぞ、ごゆっくり。それから…ありがとうございました、本当に…。」

「こちらこそ、色々とありがとうな。」

 立ち去る彼女を見送る視線は、まだ、しゃがんだその高さにある。

 橙と入れ違いに、ガゼボの階段へ足を掛けた『紫さま』が、

「あの子ったらまた、『足元』への意識をお留守にして…。いつまで経っても、半化けの、半人前なんだから…。普段なら説教をするところだけれど、アナタが甘やかすものだから、叱りそびれてしまったわ。」

 アナタは、血の気が上り切る前に身体を起こして、見目麗しい『紫さま』を見下ろす。

 「我ながら、それは不味い事をしたな。橙に構う折角のチャンスを、あんたから奪っていたとは…。あぁ、ところで、水をご馳走さま。事後報告だけど、一応。」

 『紫さま』は可笑しそうに、そして、やや気抜けした様、短い吐息を吐き出して、

「はぁーあっ、まさか、こんな女ったらしを拾ってきたとはねぇ。…まぁ、あの生真面目な橙から、軽口を引き出した事には素直に感心するけれど…。あの子の鹿爪らしさって、文字通りの筋金入りなんだもの。」

 階段を上がり終えた『紫さま』が、まず、同意を求める様に微笑む。その堂に入った首の傾げ振りを見れば誰だって、『世慣れていない』などと言う台詞が、ちゃんちゃらおかしくなる事だろう。

 そうして、奥歯を噛み締め思い出し笑いに勤しむアナタは、目の前50センチメートルの近さまで彼女の接近を許したという訳だ。

 何と言っても特質すべきなのは匂いであろう。こればかりは、如何な可愛い子猫でも、愛らしい少女でも真似できない。瞬時に、女性が傍に現れた事を知らせる…そんな芳しい匂い。

 ハッとして、下に落とした目線を持ち上げる、アナタ。ヒラヒラと揺れる黒紅色のドレスの裾から、正面にあるはずの顔目がけ、一直線に…だがしかし…。順調に『紫さま』の美貌を捉えようとしていたアナタの目が、ある一点で、釘付けにされた。

 それは、尻尾…いや、違う。物腰を見て解かる通り、彼女が橙の様に半化けのはずはない。

 …だとすれば、果物を満載したバスケットでも、彼女が携えているのか。いやいや、残念ながら、そうでもない様だ。そうすると、穴の開きそうな程、喉を鳴らして、アナタが見つめているのは一体…。

 (で、でかい…。)

 そう、それは間違いなく、橙が成しえない境地。そして確かに、果物…と例える場合もある。そうだ…アナタがまじまじと見ているそれは、『紫さま』が携えたバスケット…ではなく、『紫さま』のバストだった。…大胆に胸元の開いたドレス。そこから覗く『それ』は、間違いなく、確かに、でかい。

 圧巻のボリュームに思考停止している姿を見かねて、やおら、『紫さま』が口を開く。

 「どうやら、ちゃんと血の気は通っているみたいね。」

「えっ、あっ、いや。そうじゃなくて…ほら、あれだ。どこかで見た様な、立派な胸だなって…。気の所為かな。」

 自分で、自分が阿呆らしい事を言ったのは割っている。つまり、そこが、舞い上がった心境の恐ろしいところなのだ。

 これには『紫さま』、小さく苦笑い。元から引き出されていた方の椅子に手を掛けて、

「気の所為ではないわ。この胸に抱かれて、アナタはこちらの世界へ…幻想郷(げんそうきょう)へ来たのだから…。」

 彼女が椅子に腰かける様を…否、嘘偽りなく申し上げよう…覗き込みやすくなった彼女の胸元を、これ幸いと見下ろし、堪能してから、

「えっ、今なんて、『幻想郷』…。」

 ようやく耳に入った言葉が脳みそまで辿り着いたか、彼女の胸を凝視していた目線を上向けた。 

 『紫さま』はそんな物問いたげな目付きを前に、スカートの中で長い脚を組み、不敵に笑う。

 「それで、どう。」

「どうって言われても…はい、大きいと言いましょうか。やっぱり、すごくご立派だなと…。」

 「そうじゃなくて、アナタ…。一端、私の胸の事から、頭を切り替えて下さらないかしら。」

と、胸元を隠す様に腕を伸ばし、テーブルの上のコップを取り上げる、『紫さま』。アナタの目の前で、白磁の如く艶やかな胸…いや、そっちでなく、水差しからコップへ水を注ぎつつ、

「私の顔に見覚えがあるのじゃない、アナタには…。」

 思考を混ぜっ返す様な水音。そこへ、冷たさ、滑らかさを加える彼女の声。

 アナタは…正直を言うと、彼女の豊満な胸ばかりを見ていたのではない…脳裏に引っ掛かるものから、吸い込んだ覚えのある匂いから、目を逸らそうとしていたのだ。

 「こんな美人を見かけたら、頭の鈍い俺でも、忘れっこないだろうな。」

 肯定でないにしろ、はっきりと否定するには至らない。アナタのこの反応を『紫さま』は…目を、口の端を尖らせ…さも愉快そうに笑う。

 「『美人』なんて、また、随分と他人行儀ねぇ。私とアナタはもう、そんな言葉で遠ざけられる間柄ではないのよ。」

「はぁっ。」

 無遠慮な言い草が、少し、アナタの(かん)に触ったか。彼女と距離を置こうとしているのが、見当はずれではないだけに…。

 そんな敵意も芒の穂を揺らす風に同じと、涼しげな表情で、『紫さま』がコップを差し出してきた。

 「どうぞ。」

「あ、あぁ、どうも。」

 そう言えば、橙の爆弾発言で、アナタはもう一口を飲み損ねたままなのだ。首に留まる違和感を、喉の渇きの曖昧さで忘れていた様だが、身体は水分を欲していたのであろう。アナタの手はほとんど無意識に、コップを口元へ運ぶ。

 喉を鳴らす事なく水を飲むアナタを見つめ、笑う彼女の唇が開いた。

 「私は八雲紫(やくもゆかり)と言います。お気兼ねなく、紫と呼んで下さい。」

「んっ…俺は…。」

と、口の中の水を飲み切って、再び、

「俺の名前は…。」

 「いいえ、アナタの名前は教えて頂かなくて、結構です。アナタが私の名前を知っていれば、大丈夫ですからね。」

 そういう言い方をされたら、怪訝な顔に成る、変だなとは思う。しかしながら、アナタとしても別に、ここで長居しょうという気はない。

 「そうか、まぁ、あんた…紫さんがそう仰るなら、そうしよう。」

 アナタは残った水を全て飲み干して、そっと、コップをテーブルの上へ。緊張感を隠す様な薄ら笑いで、紫に問いかける。

 「ところで…。俺は目の前の『美人』に見覚えはないが、その美人と自分との間柄には心当たりがある。あんたはもしかして…駅のホーム下で、俺を助けてくれた奴じゃないのか。朧気だけど、女の腕に引っ張られた覚えがあるんだよな。」

 蝋燭の炎を吹き消す様な風。空の真上に昇った太陽が、ガゼボの内側へ濃い陰を落とす。

 紫は撫子色の瞳を閉じると、息を吸い込み、ご立派な胸を波打たせて、

「そこまで解かっているのであればこちらも、随分と、説明の手間を省けそうね。ちなみに、ここ…『幻想郷』がどんな場所なのかは、見当が付いているのかしら。」

 日の陰りと共にコップから消えた二人の姿。アナタはそれでもコップを見つめたまま、応える。

 「さぁね。天国か、さもなければ夢か…。どっちにしろ、長く居座り過ぎたみたいだ。」

 言い置くと、テーブルから離れて行く、アナタ。目覚める成りの目まぐるしさに追いたてられ、何とかここまでたどり着いた…。しかし、ヨロヨロとガゼボの側壁に助けを求める姿は、まだまだ本調子とはいかない様子。

 そんな空元気を眺めていた紫が、また、水差しを取り上げる。

 「(おおむ)ね、ご想像の通りよ。ここは、アナタの住んでいた現世(うつしよ)と異なる世界…本来なら人の(おもむ)くべきでない場所。それにしても、アナタ、やけに事態の飲み込みが良いわよね。他の人間たちはもっと、うろたえたり、泣き(わめ)いたり、粗暴な振る舞いをしたり…。さぁ、さぁ、そんな所に立って居ないで、アナタも掛けてちょうだい。」

 水差しの中の最後の一滴まで注ぎ込み、コップを正面の空席に差し出す。そうして、彼女に手ずから給仕の真似事をさせたアナタは…自分は頼んでいないと…そっぽを向く。

 「『飲み込みが良い』か、それはあんたの人選の賜物(たまもの)だろうな。目覚ましに寄越されたのが橙じゃなかったら、多分、俺だってこんなにも暢気にしていられない。もっとうろたえて、ここまで協力的には振る舞えなかったよ。」

と、柿色に染め抜かれた羽織の腕を、アナタが奴凧(やっこだこ)の様に広げて見せる。

 反対に、紫は腕を膝へと下ろして、そっぽを向いた凧…いや、タコ助の顔を見つめた。

 「よく、お似合いですよ。色も、それに見栄えも…アナタに合うものがあって、良かった。」

 『お似合いですよ』の一言にしろ、橙と、彼女では、こんなにも違うものか…そして…。

 快い風を受け悩ましげな吐息を漏らす、紫。そのくつろいだ表情は、反抗的なアナタの態度など、どこ吹く風。微塵も問題にしていないと解かる。…本物の凧の如く、彼女らの一挙一動に振り回される…アナタとは大違いで…。

 ゆっくりと羽織の腕を下ろす姿に、アナタの無力感を見透かしたのだろう。テーブルの下から、脚を組みかえる衣擦れの音。

 「アナタの考えている事、確かに、大筋では正しい。けれど、一つ訂正して置かなくてはね。…でないと、アナタも…大切な『最後の時間』を有効活用できないでしょうし…。」

 それは、畳み掛けると言うより、手札を投げ渡す様な言葉。伏せられた切り札を、晒すも、晒さぬも、お前次第だと…。そしてアナタには、勝負を受けるか否か、意思の伝え方が解かっている。

 アナタは黙って椅子に腰掛けると、コップの向こう側を睨む。紫はその眼差しを、白い歯を見せた笑顔で吸い込んだ。

 「私は、アナタの命を助けた訳じゃないわ。だから、恩義を感じる何ものもアナタにはないのよ。」

 そう言って彼女の口の端が…少しだけ、ぎこちなく固まる。単に、威嚇する様に笑っている内、口の中が渇いたのか。それとも…。

 紫の微かな強張りに、気付いたのやら、気付いてないのやら。アナタはテーブルの上の『最後の一杯』を手元に引き寄せ、溜息を吐き出す。

 「まぁ、あんたは…そう言うんだろうなと思ったよ。」

 コップを唇の隙間に押し付け、一気に水をあおる。その姿を目の前にして、紫は…瞳をじりじりと横へ逸らし…そっぽを向いた。

[4]

 「あの子のハンカチが、早速、役に立つわね。」

 テーブルに戻したコップを、アナタはまだ離せずにいる。…口元を濡らす水滴を拭えずにいる。

 いつの間にか、組んだ脚を解き、嫣然(えんぜん)と語りかける(ゆかり)の声。それも、聞こえているのだか、聞こえていないのだか…。

 「あの子が飛んで来ないとも限らないし、私が拭いてあげましょうか。」

「いいや、結構。」

 どうやら、聞こえてはいたらしい。彼女が手を伸ばした先から、ハンカチを引っ手繰る、アナタ。そして、彼女は彼女で…どうやら、強張りはとれたらしい…ニコニコと愉快そうだ。

 テーブルの上、小さな音を立て倒れたコップ。風に向かって転げる透明な縁が、木製の天板に水の尾を引く。

 やや危なっかしい手付きでコップを起こすアナタの横顔へ、紫が語り掛ける。

 「橙から話はきいているかしら…アナタをここに招いた理由の…。」

 アナタはハンカチでテーブルを拭こうか迷いながら、

「この凝った庭へ招待されたのは、ここが…幻想郷(げんそうきょう)とやらがどんな場所なのかを、説明してくれる為だろ。あんたが俺を…。」

 「紫と呼んで下さい。さもなければ、お前とでも…。『あんた、あんた』では、物の角で殴られているみたいで、好い気分がしないわ。」

「…じゃあ、紫さん。紫さんが俺をここに連れて来た理由は…(チェン)を褒めてやってくれ…口止めされているからって聞き出せなかったよ。」

と、思考錯誤の末、羽織の袖で水滴を拭き取った。

 それを…当然の事…冷やかな目で見ていた紫は、椅子の肘掛けで頬杖ついて、短い鼻息を一つ。

 「あの子ったら、『目を覚ましたら、何も話さず連れてきなさい』と、『説明は私がするから』と、二度も、三度も、言ったのに…。アナタは褒めて上げろと言うけれど、さっき半化けを見逃した分を含めて、うんと厳しく叱らなくっちゃ。」

 自分に言い聞かせる様に、鼻先を動かして小さく頷く、紫。アナタの目から見ても…まぁ、愛らしさでは橙に、一枚、二枚、劣るものの…持ち前の品も手伝ってか、悪くない。おっと、見惚れている場合ではなかったな。

 「勘弁してやってくれよ、今日のところは…。橙だって、俺が根掘り葉掘り()かなけりゃ、口を滑らせたりしなかったさ。差し当たって、『褒めてやれ』と頼んだ事は取り消す。だから、どうにか、叱らずに済ませる訳にはいかないかなぁ。」

 こそばゆそうに、包帯の隙間から覗く肌を指で掻きむしる、アナタ。紫はその様子をしばし見守ってから、冷やかなままの瞳を閉じる。

 「『言って聞かせなければ、あの子の為にもならない』。そう仰って下さったのは、誰だったかしらねぇ。」

「それは…俺なんだけど…しかしなぁ。」

 切り返しあぐねている姿を、閉じきった『はず』の瞼の隙間から見つめて…。紫は自分でも思いがけない程、穏やかで、軽快な溜息を漏らしていた。

 「アナタって、不思議な人ね。…気付いてはいるのでしょう。私も、あの子も、アナタとは…アナタ方人間とは違うと…。それなのに何故、こんなにも橙の事を思って下さるのかしら。」

 彼女の言葉の端々に感じられる、微かな(あざ)りの色。最後の一言まで染み込んだその色合いが、アナタに教えていた。…ここで彼女の話を遮るのは簡単だ。しかし、彼女はまだ、全てを吐き出し切っていない。

 口を(つぐ)んだままのアナタに、どこか自嘲的な笑い声を吐き出して、紫は続ける。

 「現実を直視できず、人当たりの好いあの子の方へ目を逸らしているのか。それとも、相手が化け物なら、一個の人格としてではなく、愛玩動物の様に扱っても構わないと…そんな風に思っているのじゃない。」

 アナタの目に映る紫の印象は、『物腰の柔らかいご婦人』、そして、『本性の知れない何者か』。その印象の殻の内側から、今、ある種の反感が…おそらくは、アナタを含めた人間への敵意が顔を覗かせた。

 (あの子も…橙もそうなのかな。そうじゃないとは思うけど、信じたいけど…。だとしたら何か、寂しいな。ここが一体、どこなのか。得体の知れない場所に居ると気付いた時より、ずっと、心細いものがある。)

 ずるずると羽織の袖を引き、テーブルから膝の上へ腕を落とす。アナタの表情は、たった一つの拠り所を失った様な、遣る瀬なさを物語っていた。

 紫は『物腰の柔らかいご婦人』の顔を崩す事なく、長いまつ毛の陰から見えるものを、笑う。

 「同情ならお呼びでないわよ。むしろ、同情されるべき境遇に置かれているのは、アナタの方なんだから…。何てったって、アナタは、この私に…。」

「誰も、あんたに同情なんかしてないさ。橙の事にしろそうだ。同情なんて言葉で、安上がりに片付けられるのは心外だ…って、何言ってんだか、俺は…。悪い、言い過ぎた。」

 首に右手を当て、グリグリと、掌で包帯を(なす)り付ける。

 折角、橙が整えてくれたと言うのに…。アナタはそんな気持ちを態と追いやるかの様に、乱暴に首を擦り続けた。

 「昔、猫を飼っていたんだ。」

 その一言だけやっとの事で吐き出し、アナタは首から手を離す。紫は…気の所為か…乱れた包帯の間を鋭く一瞥(いちべつ)。今度こそ、わずかな光も入り込まない様に、瞼を閉じ切る。

 彼女の見た、そして見せた、微かな心の隙間。アナタはそれに気付かぬまま、静かに、振り上げた右手を膝へ戻した。

 「橙の事は、どこかであいつと…昔の飼い猫と重ねているところがあると思う。紫さんにはそれが、『愛玩動物扱い』していると映ったのかもな。本音を言うと、俺にも自覚的な部分があったもんだから…紫さんに対してムキに成ったんだろう。現実を直視できていないのも、間違いじゃないしな。」

 やっと心の(おり)を吐き出す事が出来たかの如く、空っぽの肺に、そして、空っぽの腹一杯に、アナタは芒の匂いを吸い込む。すると、冷え切っていた手先と心へ、温かい血が通い始める。

 「あいつに…橙に、(おく)さず、優しくしてやれるのも、昔の飼い猫への愛着が理由の一つ。…けど、それが全てじゃない。俺はまだ橙と会ったばかりだが、あいつの親切なところ、可愛いって事も充分に知っている。それだけじゃ駄目だろうか。…俺には駄目なんて事ないと思える。」

 返事を待たず、目を閉じて澄まし顔を崩さない紫へ語り掛けた、アナタ。そこで何故か、ブレーキを掛ける様に苦笑を漏らして、

「橙にしても、今の気持ちがどんなものであれ、始めは『紫さまの命令』だと思えば俺に親切にした。それに、あんただって…。俺が橙を邪険に扱っていたら、憎まれ口を叩きたくなる程、俺の事を歯痒く思ったりはしなかっただろ。そんな場合、あんたみたいなタイプは、まず、クズ野郎の命を拾った自分を(いや)しむ。んで、人知れず、俺という存在を意識から切り落とす。もしもそうなっていたとしたら、俺は…どうなっていた事か。考えるだに恐ろしい。」

 おどけた様に喋って、アナタは着物の帯を(さす)る。腹に力を込めれば(たちま)ち息が詰まりそうな…。固く締め上げられたこれも、今となっては、大切な命の実感。それにつけても腹が減ったな。

 紫は小さく吹き出す様に笑い声を漏らして、上体を肘掛けに預けた。

 「もし、あの子の頬を伝ったものが、悲しみの涙であったなら…。その時はアナタ、今頃、あの駅のホーム下…レールのあちらと、こちらで、アナタの身体は真っ二つに成っていたでしょうね。」

「そいつは、おっかねぇな。あんたの気持ち次第で、危うく、『九死に一生』って瞬間を二度も体験する羽目に成るところだったか。しかも今度は、助かりっこない。」

 「馬鹿ねぇ。アナタを引き裂く大役を、この私が鉄の塊になんて譲るはずがないでしょう。」

「こっちで膨らませた話ではあるけど…。あんまり、脅さないでくれよな。俺はまだ、どこからをあんたの冗談と取れば良いかも、解かっていないんだからさ。」

と、小さなアナタの呻きが、目を閉じた紫の耳の奥で、震えと成り、苦みと成り、広がっていく。

 「アナタって、本当に不思議だわ。命乞いをするには言葉が足りないし、私の機嫌を取ろうと言うには余計な言葉が多すぎる。でも、何故だか…アナタと話していると…。」

 そこまで喋って、胸の奥の言葉を苦笑いでかき消した、紫。揺らめく芒の様に、腕を肘掛けから離し…態と大きな声を張り上げる。

 「アナタと話していると、調子が狂うわ。まるで、私の事を見透かしているかの様で…。本来なら、それだけで十二分に命を奪う理由には足るのだけれど…橙の覚えが良いのに免じて、この場で手にかけるのは許して上げるわ。」

「やれやれ、また橙に助けられたか。…にしても、『この場で手にかけるのは』か…覚束ない話だ。」

 アナタが溜息と一緒に吐き出したその台詞を、聞き(とが)め、瞳を開け見咎める、紫。

 ガゼボの外、遥か向こうまで照らし出す太陽の光。その眩しさに少し瞼を落としながら、彼女が見つめるのは…大人しく、自分と会話をしているかと思えば…未練たらしく空っぽの水差しを振るアナタの仕草。

 根気よくコップへ水滴を落とす涙ぐましい姿に、思わず、

「ちょっと、アナタ…。」

 「えっ、何だ。」

 さっきまで、飄々(ひょうひょう)と、あるいは凛々しくも聞こえた声が、何やら…間の抜けて聞こえる。紫は目線を伏せると、こめかみに手を当て吐息を漏らす。

 「いいえ、その…見透かされていると言ったのは、訂正させて頂くわ。どうやら、アナタが『見えていた』訳でなく、私に『見えていなかった』だけだから…。」

 もう一度呆れた様な溜息を吐き出し、するりと、手を頬へと撫で下ろす。彼女のそんな態度に、アナタは…ニヤリッ…得意げな笑みを浮かべ、水差しをテーブルの真ん中へ。

 「なっ、俺の言った通りだったろ。」

「それは…どういう意味かしら。」

 少なからず怒気の混じった紫の声。アナタはやっぱり、まだ、これが夢だと言う可能性を捨て切ってはいないのかも知れないな。彼女が『得体の知れない何か』だと承知の上で、得意満面、口を開く。

 「だから、橙があんたの言い付けを守って、俺に何の説明もしなかったってことだよ。お陰さまで、物の見事に『見えていない』。皆目な。」

 そのアナタの一言を聞くや、沸々と煮立っていた紫の憤懣が…ふつふつと…くっくっと…愉快そうな笑いへと変わった。

 「本当に不思議な人ねぇ。どこまで本気なんだか。ううん、そうだったわね。アナタはまだ、現実を直視できる程には、心の整理が出来ていなのよね。私が、故意に、事実を伏せたままでお話ししていたから…。」

 …それは、アナタも勘付いている。そして彼女も、別段、揶揄(やゆ)するかの様な態度を隠していない。無論、そこにどんな意図があるのかまでは、見当が付かないのだが…。

 清涼に、冷やかに、澄み渡る青空。目の(くら)む様な日差しの明るさが、不安の陰りと成って心に立ち込める。

 幾ら表面を(つくろ)っても拭いきれない、腹のしこり、噛み締めた奥歯。アナタのそんな閉塞感を、少女の如き張りのある声が吹き飛ばす。

 「あーあっ、手間暇を掛けて、アナタに嫌われようと手配りをしたのが…全部、パアだわ。きっと、これが最後の機会だろうから、気合い入れていたんだけどなぁ。やっぱり、魅力的すぎたのかしらね。」

 アナタは、(やぶ)から棒な紫の声に、文字通り強風を『面食らった』顔に成っている。意味深な言葉もさる事ながら…まったく、女性(にょしょう)というのは声色の奥が深い。今も変わらず(しな)を作っている彼女から、あんな可愛らしい声音が飛び出すとはな。

 驚き呆れて固まったアナタに、ニッコリッと笑い掛ける、紫。それに対してアナタは、思わず、

「橙のことを言っているのか。確かに、あいつの可愛さは反則だ。嫌える訳がないだろ。」

と、口元を綻ばせ、ニヤリッ、笑い返した。

 紫は、うん、うんと頷いて、大きな瞳を細める。それは丁度、橙がやった様に…。

 「愛のある言葉をありがとう。けれど、こう気心が知れてしまうと…本格的に、嫌われるのは無理みたい。惜しい事をしたわ。」

 舌舐めずりするかの如き、どろりとした声。その瞳…。それらを垣間見てアナタは悟る。

 獲物を狙う橙の眼差し。あれは、満ち足りた子猫が玩具に戯れ付いていたに過ぎなかった。…本物の…獲物に狙いを定めた眼光とは、あんなものではない。貪欲さを鮮やかな瞳の底に宿す、絡みつく様な目線…。目の前のこの眼差しこそが、人を食らう獣の瞳なのだと…。そして、更にその置く深く…アナタは思い出す。そう、あのホーム下で見た…無数の瞳を…。

 (電車が迫って来る…耳をつんざくブレーキ音と、喧騒に掻きされて…ホーム下から伸びた手の主が何を言っていたのか…思い出せない。…いいや、違う。こいつは何も言っていなかった。こいつは笑っていた…。そうだ。確かに、そうだ。確かに、こいつが居た。俺をホーム下に引き込んだ手と、それを見つめるたくさんの目。あの中に、紫が居た。)

 急に引っ繰り返される砂時計の心境とは、こんなものなのかも知れない。

 頭に、首に、肩に、時間の経過が重く()し掛かる。蓄積された疲労は細い逃げ場へ詰めかけ、サラサラと崩れ落ちていく。結局は落っこちた先で、また、アナタの形に戻るしかないと言うのに…。

 「あ、あんた…紫さんは…あれは…。」

 己に、彼女に問いかける。手は震えを伴い、テーブルの上を這う。答えを求め、水差しの方へ、紫の方へ。

 「ほら、言った通りでしょう。」

 紫の声を聞くや、ビクリッ、大きく震えて、アナタの手が止まった。

 彼女に掴み掛らんとしていたはずの手…とうにテーブルの真ん中を越えていたはずの手は、未だ、膝の真上。いや、あるいは、太ももの上の辺りかも…それすらも、アナタには確認できないのだ。何故って、テーブルの下を見たらまた、陰の中にあの『無数の瞳』を見るかも知れない。それが…、

「怖いのに…それでも見てしまう。」

 無意識にテーブルの陰を覗こうとしていたアナタを、可笑しげな、紫の声が止める。

 「人間と言う生き物は…いいえ、好奇心を持つ生き物は皆、恐怖から目を逸らす事が出来ない。例え瞼を閉じていても、顔を手で覆っても…その後ろの瞳は、恐怖の底を覗き込もうとする。アナタの場合は、あれだけ凝視していたのだし、まぁ、肝は座っている方じゃないかしら。」

 仰け反り、固い背もたれに身体を預け、テーブルの陰から、紫から、少しでも距離をおく。恐怖心の代弁者の様に思われていた手が今は、理性の門番となってテーブルで踏ん張り、アナタの目線の良からぬ動きを見張っている。

 その様子を見つめていた紫が…アナタとは反対に…スッと、背もたれから身体を離して、

「それでもアナタが、私に嫌悪感を覚える事はないでしょうね。そんな目で私を見る様に成っては、金輪際…恐怖が嫌悪にすり替わる事はない。逆はあってもね。」

と、真似をするかの如く、紫がテーブルの端に右手を伸ばす。

 アナタは不意に、肩を持ち上げ…しかしながら、小さく波打った勢いをぶつけて、無理やり手の震えを鎮める。

 「あんたの…紫さんの物言いは、実際、痛い所を突いているよ。しかし…的外れだな。」

と、一気に息を吸い込み、口の端が持ち上がるくらいに胸を張って、

「多分、紫さんが(あて)がってくれたんだろ。あの部屋…。あの部屋のベッドで目覚めても、俺…しばらく、目を開ける事が出来なかった。本当は、橙の姿を見るずっと前から、自分がこんがらがった状況に居るって、何とはなしに気付いていたんだ。それでも…怖かったんだと思う…恐怖感を手放すのが…。」

 「怖い…恐怖感を手放すのが…。何を…どう言う意味なの…。」

 水差しを前に、紫の人差し指が動きを止めた。

 真っ白な陶器から伸びる彼女の腕は、負けず劣らずの艶やかな白。アナタは水差しの向こうを少しだけ近くに感じながら、微かな苦笑を漏らす。

 「自分の見ているもの、聞いている声、腹の帯の締まり具合も、否定は出来ないけどさ。だけど、薄らおっかないこの気分を感じている間は、これが夢でないと…自分は今、駅の休憩所に居て…いいや、そんなケチくさいこと言わない…。実は全部、家のベッドの上で見ている夢でした。それも、得体の知れない美女二名に良い様に(もてあそ)ばれる、飛び切りの悪夢でしたって…希望的観測を捨てずに済む。この胸苦しさにも…。」

 指の腹でテーブルを擦りながら、アナタは右手を左胸へ、

「多分、布団を頭まで被っていて、息が詰まっているんだろうとか。何なりと、言い訳してやれるからな。あぁ、そうそう、胸で思い出したけど、嫌悪感。あんた、俺に嫌悪感を抱かせたかったんだっけ。悪いけどそれは、無理な相談だよ。」

 紫はアナタの手を見つめながら、人差し指で、コンコンッと水差しを小突く。空っぽの水差しは、高い音を内部で反響させ、彼女の指先に返事をする。

 「どうも、私は初めからしくじっていたみたいね。アナタを引っ張り込んだあの瞬間…アナタが私を見たあの瞬間。知らぬ間に私は、アナタの胸の奥、恐怖の種を植え付けていた。それをアナタが抱いている限り、嫌悪感の割り込む余地なんてなかったと…そう言う事でしょう。あーあっ、我ながら大失策だった。ここぞって時に、笑い顔を(こら)えられなかったなんてなぁ。」

 語尾を濁らせるあどけない口調が、彼女の感じている悔しさを匂わす。

 そうした紫の反応を、どんな風に受け取ったのだろうか。アナタは表情を引き締め、口を開く。

 「それは違う。」

 アナタのその声は、思いがけず凛々しく、どこか厳しさすら感じさせた。

 水差しの向こうから、指先を打ち返されたかの様に…。電流にも似た衝撃が、感情が身体を駆け巡り、ビクリッ、紫を震わせる。

 しかし、彼女の人差し指は…全神経は…まるで磁力に引き付けられたかの如く、水差しから、アナタの眼差しから逸らす事が出来ない。

 紫自身にも言い知れぬ緊張感のただ中。行き場の定まらない思いに答えを与える様な、アナタの言葉が継がれる。

 「違う…と言うか、そうじゃなくてさ。確かに、『胸』の話には違いないんだけど…俺の胸じゃなくて、あんたの胸の事をね…。」

「…はぁっ。」

 訳が解からないとばかり、不審の目付きで肩を(すく)める、紫。すると、伸ばした人差し指が、トンッと、一際強く水差しを小突く。

 「お、おい、何してんだ。…危ないなぁ。こんな高そうな焼き物を…。」

 テーブルに飛び付き、倒れ掛けた水差しをキャッチ。まぁ、そこまでは良い。だが…アナタもとうに気付いている通り、じっとりとした彼女の睨み目は、『まだ話は終わっていない』と言っている。

 「何と言うか、改めて説明するとなると…ちょっと、気が引けるんだけどな…。」

 帯に食い込む天板から身体を引いて、アナタは両手で水差しを包んだまま…愉快そうに笑った。

 「だからさ、あんたの顔を見て、でっかい胸を見たら、その後まで…恐怖感だろうと、嫌悪感だろうと、覚えていられるはずがないだろ。」

 そんな情感の籠った言葉は、まさに力説であった。…聞き手の紫など、二、三度瞬きしてもまだ曇りが取れないのか、キョトンッとしている。

 「あの、出来れば何とか言ってやってもらえると…あれだったら、笑ってもらえるだけでも…。そうでないと、むず痒くてしょうがない。」

 心底から弱った様子で笑い掛けるアナタに、紫は…アナタの為にも…聞えよがしの溜息を漏らした。

 「呆れた。呆れたスケベ野郎だわ。」

「まぁ、まったくもってその通り…だろうな。あんたには、鼻の下を伸ばしている俺の顔が、『恐怖と嫌悪に歯を食い縛っている』とでも見えたのか。」

 (うそぶ)く憎たらし薄ら笑いがまた、彼女の溜息を誘う。確かに呆れるしかないわな。未だ現状を認識するに至らないのか、あるいは、本当にスケベ心が嫌悪を払拭してしまったのか…この期に及んでもアナタの目には、気後れも、卑屈ささえも、不思議と感じられない。まっ、拗ねた素振りのなさは、可愛げがないからなのだろうが…。

 紫は、どこか満更でもなさそうに、指の腹で水差しの側面を擦って、

「私ったら、どうして、こんな…女ったらしの、スケベ野郎を拾ってきてしまったのだろう。ううん、百歩譲って、スケベなのは『私の魅力がそうさせてしまった』と納得がいくけれど…。嫌悪感も抱かない、大して怖がりもしない。ここまで思い通りに行かない相手とは、我ながら、少し、人間を侮っていたかも知れないわね。」

と、正面に向けていた視線を、首を横に向けて、芒野原の遥か遠方を見据える、紫。そんな物憂げな言葉に、吐息に、アナタは、

「『思い通りに行かない』って、あんた…。俺のこの状況をよく見て、ものを言えよな。それにだ…拾ったのを後悔しているんなら、今からでも遅くないぞ。スケベ野郎は元の場所へ帰してしまうのはどうだ。…と言っても、ホーム下は勘弁願いたい。」

 冗談めかしてはいても、それこそはアナタの本心であろう。首を動かさず、撫子色の瞳だけ戻した紫の眼差しも、その微かな動揺の気配を見抜いていた。

 「ふーんっ。アナタの言う事もまんざら…『薄らおっかない』思いをしているのは、嘘でもなさそうね。その分、嫌悪感を味わう希望は(つい)えたも同然だけれど…やり方次第で、それに近いものはどうにかなるかも…。はぁっ、やっぱり、一番に恐怖心を味わうんじゃなかったわ。」

 何度となく舌を打つかの様に、口の中で囁き、呟く。そうして彼女が、何の話をしているのか、それ以前に何を言っているのかも、定かではない。

 しかしながら…アナタの両手に支えられた水差しを、小突き、擦る感触の強弱。そこに表れた感情の端っこが、逐一、解説してくれるのだ。諦めの清々しさが、変わっていくのを…仄暗い一縷の望みが、彼女の指に絡み付いたのを…。

 胸中に巣くう恐怖感の底、身の毛がよだつ様な気配が巻き上がる。唐突な、指先で不意打ちされた様な感触に、アナタは思わず水差しから手を離そうとする。だがしかし、

 「ごめんなさい。私も出来る事なら、橙に良くして下さったアナタを、元の世界に帰して上げたい。…けれど、駄目なのよ。残念ながら、私にはその権限がないの。何故って…。」

と、意味ありげに口を(つぐ)んだ、紫。彼女の能面の如き無表情には、『言い辛さ』より、『焦らそう』とするあざとさが、塗り過ぎた白粉(おしろい)の様に(けぶ)っている。

 そんな粉舞い、粉振りかける沈黙に耐えかね、アナタは()き込むかの如く腕を震わせ…。そして気付いた時には、紫の指先へ水差しを押し付けていた。

 「『何故って』…何なんだ…。」

 水差しを通して、今度は、紫がアナタの心の機微を読み取る番。

 爪の先に当たる固い感触に、ゾクリッ、満足そうな笑みを浮かべる。そうしてから彼女の指は、柔らかい腹の部分で、すぅっと、滑らかな陶器の側面を撫で上げ、

「アナタは本来、あの瞬間に…あの場所で死ぬはずだった人なのよ。」

 「へっ…。」

 漏れ出た声に引っ張られ、水差しがアナタの手の中でずり落ちる。それでも、水差しの底がテーブルにつかなかったのは、おそらく…まだ、アナタの気持ちに引っ掛かりがあるから…。それともう一つ…いいや、もう一本。彼女の指が触れていたからであろう。

 紫は摩擦で熱くなった指を引き戻し、ふぅっと、吐息を吹きかけた。

 「人は皆、予め定められた天命を生きるもの。アナタにとってのそれが、あの瞬間だった。私は、先のない人だと知った上で…こっちの世界に連れて来ても、どこからも文句がでない人を…アナタを、()(さら)ったのよ。けれど、元の世界に帰すとなれば話が違うわ。繰り返しになるけれど、向こうでのアナタの天命は尽きている。そんな人を生かしたまま送り返す事は出来ない。…『規則』でね。だから…可哀想だけど…元の世界に帰して上げるのは、アナタが死んだ時…と言う事になるわ。」

 彼女の言葉を聞き終えても、水差しは微動だにしなかった。…しかしながら、閉ざされていたアナタの口は、下顎は、力なく、落ちる様に開く。

 「へっ…じゃあ、俺は…あんたに礼を言えば良いのか、それとも、文句を言えば良いのか。」

「お礼を言ってもらう必要はありません。私、そう言いましたよね。文句は…それを言うのには、まだ、早いんじゃないかしら。」

 その涼やかな声音を聞く度、思考の渦が、アナタの中で混迷を深めていく。そう、まさにそれは渦なのである。グルグルと平衡感覚は麻痺し、胸苦しい。それなのに何故か、配管を間違えたかの如く、気持ちの悪さが喉までせり上がる事はなかった。

 結局のところ、アナタに許されるのは唯一つ。胸の(つか)えを抱えたまま、渦の先に…紫の話の終わりに耳を傾けることだけ…。

 「そうそう、自己紹介がまだだったわね。えっ、『名前は聞いた』って…。うふふっ、そんなもの、ここでは…いいえ、私とアナタの間では意味を成さないわ。アナタだって、そうなんでしょう。本当に知りたいのは、私が何者かと言うこと。そして、私にとってアナタが…アナタにとって私がどう言う存在なのか。もうそろそろ、思い出しているんじゃなぁい。あの時、アナタは確かに、私たちを見ていた。忘れたとは言わせないわよ。」

 アナタが飲み込んだはずの生唾は、喉を鳴らす事もなく、落ちていった。

 「やっぱり、見間違いじゃなかったのか…あの、幾つもの目は…。」

 まるで命綱を手繰るが如く何度も、滑り落ちそうになる水差しを、汗ばんだ手が掴み直す。その様子へ目線を移し、ニヤリッ、紫は口の端を吊り上げる。

 「そこまではっきりと覚えているのなら、話が早い。…水差しを、しっかり持っていてちょうだい。」

 白い歯を覗かせたまま、右腕を、人差し指を伸ばす、紫。その手が水差しの下を潜り抜け…アナタの目の前に…テーブルに触れた。

 喉の奥がざわめく様な緊張感の中。アナタの視線を引き込みながら、すぅっと、紫の指先がテーブルの表面をなぞる。

 初めは『それ』を、目の錯覚だと思った。

 ガゼボの縁を掠めた光が、よく磨かれた天板に反射し、目に焼き付く。その真っ黒い残像が、彼女の指の後を追って、尾を引いているのだと…しかし…。

 天板を真っ二つにする黒い線は、もそりっ、水差しの下、アナタの腕の間で身動(みじろ)ぎする。

 「うわっ。」

 驚きの声と共に水差しを放り出し、後ずさる、アナタ。ギギッと、椅子の脚が床を引っ掻く音。それすらもアナタの耳に届かない。

 今、アナタに聞こえているのは、たった一つの音だけ…固い敷石へ掌を押し付けながら、身体中を耳にして利いたあの音。喧騒を掻き消す、あの警笛の音だけなのだから…。

 音のない世界の真ん中で、水差しは…パクリッ…テーブルの上に開いた『真っ黒い口』に飲み込まれていった。

 「あら、まぁ…。落としてしまったものはしょうがないわね。あれは、私が後で拾っておきます。大した手間でもなし、お気になさらず。」

と、紫はテーブルの上に開いた楕円形の『口』へ、手を伸ばして、

「元はと言えば、私の説明不足が悪いんですから…ねっ。」

 暗闇の中へ彼女の白い手が差し込まれた刹那…ギョロッ…無数の目が『口』の奥に現れる。その目の一つ一つが、『口』の中を探る紫の手の動きを、そして、アナタの顔を見つめていた。

 (あの時、俺はこの中に入って…。『これ』を通ってこちらの世界に…。)

 アナタは無数の目と視線を交わしながら、やっと、夢見心地の理由に気付く。…やけにあっさり、腑に落ちるものだと…『別の世界に来た』などと、よくよく、簡単に納得が行くものだと…アナタ自身、不思議に思っていたのだ。だが、裏を返せば…いいや、『口』開き、裏側のその奥を覗き込んでみれば…、

(これだけの『同情の眼差し』に『見送られ』たらな…。夢見心地だろう、何だろうと…そりゃあ、受け入れるしかない。)

 両肩からじわじわと、血の気が失せていく。胸苦しそうに笑うアナタの瞳に、再び、『口』から引き抜かれた紫の右手が映る。彼女の白手は、水差し…ではなく、黒い扇子を握っていた。

 扇子の先端に引き寄せられるかの如く、テーブルを裂いていた『口』が黒い線に変わり、遂には、消えてしまう。アナタはその光景を見るや、まるで自分の首を締め上げられたかの様に…口から細い呟きを零す。

 「あっ、あんた…一体、俺をどうする積りだ。」

 声に、表情に、ありありと浮かぶ警戒の色。紫は、唐草模様の透かしを入れた扇子を使いつつ、蒼白になったアナタの顔面へ微笑みを返した。

 「『どうする積り』…違うわね。アナタが私に尋ねるべきなのは…『自分をどうしたのか』よ。」

「どうしたのか…。」

 「それと…。」

 パンッと扇子を閉じて、アナタの言葉を断ち切る。それから、ゆっくりと、扇子の先をアナタの顔へ、額へ近付け、紫は言葉を継ぐ。

 「私の事は紫と呼びなさい。『あんた』でなく、『紫』。何度も言わせないでちょうだい。」

 アナタの目の焦点が、彼女の顔へ戻った瞬間。額に、コツンッと扇子が当たり…そして…視界が逆さまに成った。

 「うわぁっ。」

 絶叫が、くるくる回る。いや、身体全体が回っているのか、とにかく世界全体を一回り。それから、ドサッと地面に落ちる。

 耳朶に、頬に感じる痛み、血の気。しかし今は、そんな事になど構っていられない。アナタは瞬きもしないで、身体を…紫の凄絶な笑顔と向かい合う、首から下のない自分の身体を見上げた。

 「嘘だろ…。」

「嘘でも、夢でもないわ。残念ながら…。」

と、耳元で響いた笑い声に、アナタは首を動かそうと…。だがしかし、首、首…そんなもの、どこにあるのか。顎から先の感覚がないというのに…。

 放心状態のアナタの視野を、それどころか、『アナタ』自体を、紫の両手が軽々と持ち上げる。

 されるがまま、持ち上がっていくまま、見開いたアナタの目は見てしまう。首を…いいや…、

「どうなっているんだ。夢でないなら…これは…あれは、何だって言うんだよ。」

 椅子に腰かけたアナタの身体。着物の襟元から、首のあるべき部分から、黒い(もや)が上がっている。それだけではない。それだけではなかった。

 橙が巻いてくれた包帯が、するすると解けていく。その下から露わに成ったのは、黒い靄の中に見えたのは…あの目だ。『口』の中で見たあの無数の目であった。

 「あれは、隙間。」

 声はアナタの頭の上から響く。アナタはそれに、力なく、おうむ返しで応える。

 「隙間…。」

「そう『隙間』。物体の隙間。物事の隙間。事象の隙間。そう言った隙間であり、隙間を埋める存在でもあり…。まぁ、詳しい事は定まっていないの。だって、理屈には隙間がないでしょう。」

 紫は大きな胸に『アナタ』を抱いて、少し恥ずかしそうに続けた。…だからと言って、今のアナタの胸には、どんな言葉も距離があり過ぎるのだが…。

 「私は隙間を操る『隙間妖怪』。だから、線路の上に落ちたアナタを、ホーム下の隙間へ引っ張り込む事も出来たし…。アナタが失ったものを…頭と胴体の間を…こうして隙間で補って、不都合がない様にもして上げられた。ただ、元通りと言えるほどには、『通り』が良くないかも知れないけれど。」

 自分の口にした洒落が、随分とお気に召した様子で…。紫は、クスクスッと笑い声を漏らしては、優しくアナタの頭を…いや、頭だけのアナタを撫でる。

 アナタはそれに…身体は向こうで椅子に腰掛けて居るのだ…抵抗のしようもない。むしろ、ことここに至っては、その手から伝わる彼女の優しさに(すが)るしかなかった。

 「な、なぁ、どうしてだ…。どうして、俺の身体に隙間があるんだ。」

 頭の上の紫に尋ねつつ、彷徨うアナタの視線は振り返っている。少し前の、橙の口にした言葉。

 橙は包帯を直しながら『着けたばかり』と言った。…アナタはてっきり、包帯の事を指して言ったのだと思っていたが…。きっと、彼女も知っていたのだろう。アナタに出来た隙間の事を…。

 訳もなく、そして、胴体から離れていると言うのに、込み上がる悔しさ。人知れず奥歯を噛み締めたアナタへ、微かな苦笑を零して、紫が答えを返す。

 「アナタの身体に隙間がある理由。それは、あるべきものがなくなってしまったから…。」

 曖昧な言い回しだが、真実を目の当たりにしているアナタには充分だった。

 隙間に現れた目から逃げる様に、瞳を瞼の端へ食い込ませ、紫を睨み付ける。そして、血の気を失った唇を開く。

 「向こうの、身体の上にあるのが隙間で…それが、俺の頭と胴を繋げているんだとしたら…。俺の頭の下にあるべきものは…俺の首はどこへ行ったんだ。」

 紫は首を(かし)げて、薄らと涙の滲んだアナタの顔を覗き込む。その表情に、その瞳に、何を見つけたのだろうか。呆れた様な溜息を吐き出すと、やおら、頭のアナタの頭を撫で始めた。

 「ここまでお膳立(ぜんだ)てをしたのに…。これでもまだ、私に敵意すら持とうとしないのね。私がそんなに、アナタの好みだったのか。それとも、隙間の繋ぎ方を誤って、血の廻りが悪いのか。鈍いという事はないはずだけど…あの鮮烈な、恐怖の味からすると…。」

「何を言って…。俺の聞いたのは、そんな事じゃなく…。」

 「まさか、アナタ…首がなくなったのは、電車に()かれたから…とでも、思っているの。」

 髪を、思考を、掻き乱していた紫の手が止まる。

 喉はないはずなのに、その声はどこから絞り出されるのか。擦れ、消えてしまいそうな息から、アナタは懸命に言葉を吐き出す。

 「あっ…あ、あんた…紫さん、言ったじゃないか。俺は、あの時、あそこで死ぬはずだった。だから…。」

「ごめんなさいね。」

 アナタの言葉の終わりを待たず、たった一言。彼女のたった一言が全てを遮った。…そして…不意に強くなる…頭のアナタを抱き締める腕の力。

 彼女の腕と腕の間で…隙間で…瞼も、口も閉じる事が出来ないまま、アナタは悲鳴にも似た声を漏らす。

 「あぁ…なら、あれも…ただの冗談じゃなく…。俺はそうと知った上で、あんな…『取って食われる』なんて連想を…。」

 後頭部に押し付けられた柔らかい感触。そのやや上に、湿り気を帯びた紫の笑気が吹き付けた。

 「何だ、ちゃんと覚えているんじゃないの。えぇ、そう…。アナタの喉笛を食い千切ったのは、私。それから…ここまで言えば、勘違いのしようもないけれど…私がアナタを拾って来たのは、当然、食べるためよ。閻魔(えんま)様のお墨付きでね。」

「閻魔ぁ…。」

 そう口に出した声は、問い掛けたと言うより、投げ槍に呟かれたもの。紫もそんなアナタの心情を知ってか、何も言わず、頭のアナタを抱き抱え身体の方へ。まぁ、この格好では、どんなに気落ちしていても肩の一つも(すく)められないからな。

 一端テーブルの上に置いてから、顔を見合す形で持ち上げ直される、アナタの頭。頬に掌を、下顎の付け根の辺りに細い指先を感じながら…。アナタは溜息を吐き出す。

 「どうしてだよ…。」

 それにもやはり答えず、紫は頭のアナタを自分の目の高さへ持ち上げた。…項垂れる事も出来ないまま、アナタが続ける。

 「どうして、首なんか…。どうして、最初に…俺の頭から、食っちまってくれなかったんだよ…。」

 一瞬、紫は驚いた様に目を見開いて…。だが、そんな反応もそこそこで、すぅっと瞼を引き、苦笑を漏らし…そうしてアナタの頭を、アナタの身体へ戻した。

 さて、ここで今一度、問い返すとしよう。アナタの頭は、何の上にあるのか。

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