壱
[1]
アナタの頭は、何の上にあるのか。
首の上、胴の上、あるいは、地面の上…なるほど、どれも正しい。アナタが生きてこの世界に立っている限り、頭は首に、首は胴に、そして、胴から続く足腰で地面と繋がっている。だから、その繋がりの中、アナタの頭がこれらの上にあるのは間違いない。
そう肝心なのは、繋がりだ。アナタの頭は繋がりの上に存在している。言い換えるならば、アナタの頭は、その下に存在する全てと繋がっているのだ。
アナタの頭を取り巻くこの物語は、そう言うお話である。
[2]
木枯らしが隙間に入り込み、内から、外から、カタカタと窓を揺らす。それから数瞬おいて、風になびいた芒が一斉に穂を起こす、清々しい秋の音色。
羽毛のたっぷりと詰まった枕に沈みながら、アナタは固く目を閉ざし、得も言われぬ解放感を満喫していた。
(どうせ目を覚ましたら、また、仕事、仕事、仕事…。考えただけでいびきを掻く喉も詰まりそうな、現実が待っているんだ。ここが駅の休憩室か、病院かは知らないが、もう少し…もう少し、このままで…せめて病欠の申し開きに困らないくらいは…。)
例え柔らかい布団に埋まって居ても、アナタの頭は『社会の柵』という繋がりを断ち切れない様だな。
そうしてベッドに寝転がっている間も、芒の穂が…倒れては起き上がり、起き上がってはまた倒され…手荒な木枯らしに揉まれている。それなのにアナタときたら、社会の荒波から寝返り打っては顔を背け、ベッドの頑丈なスプリングを軋ませるばかり…。
これはもう、仮に人の気配を感じたとして、肩でも揺さ振られるまで起きない構え。決然と、それに断固として、欠勤する腹積もりなのであろう。…腹積り…腹…と言えば、さっきから、錆びたスプリングの表面が剥がれる音以外にも、耳障りな音がしていたな。
(なんか、腹減ったな…。朝飯はしっかり胃袋に突っ込んできたんだから、今は、腹具合からみて正午過ぎってところか。電車が定時に来ていれば、『あれ』は7時前の出来事になる訳で…。そうすると俺は、5時間ばかりこのベッドに寝っ転がって居たと…。我ながら優雅なもんだ。とても、あんな事があった後の心境とは…。)
そろそろと足音を忍ばせ近付いてきた眠気。加えて、風が止んだのもまずかった。…窓の立てる物音が、芒野原の棚引く音色が収まり…しんと辺りは静まり返る。
寂たる無音の中、耳鳴りが人並みの立てる喧騒へと変わり、アナタを誘い出す。眠りのまどろみに、『あれ』が起きた瞬間の記憶に…あの時の恐怖感に…。
『あれ』はアナタの記憶の通り、『その日』の、午前7時前の事であった。
勤務先の始業時刻を一時間後に控えた駅のホーム。欠伸の噛み殺し過ぎで筋肉痛気味の頬を、ただでさえ重い瞼の下にぶら下げ…。アナタはぼんやりと、通勤に使う電車の到着を待っている。
人波に身体を押し込みホームに辿り着いた時刻も、定められた乗車位置の前で行列の一部になる光景も、行列を作る人々の色褪せた顔触れも…何もかもが普段通り。寝起きの口の中の酸っぱさまで、一つ残らずいつもと同じ。…ただし…。
どういう塩梅でこうなったのか。『その日』に限って、アナタは行列の先頭に突っ立っている。そして…曇り空はどんよりと、いつまでも暗い。
『あれ』は通勤電車がホームへ近付く音に紛れて、アナタの背後に忍び寄ってきた。
電車の接近する気配で人波が慌しさを増し始める。そんな人と人との間に挟まれたその他大勢と比べれば、アナタは気楽なもの。目の前で電車の入口が開くのを見計らい、先頭切って三歩踏み出す。それだけで良いのだ。アナタもその積りで、身構えるともなく、立ち尽くしているのだ。
足元でホームの内と外を仕切る黄色の点字ブロック。無論、視覚障害者を誘導する為のこれを、電車が停止する前に踏み越えようなどとは…考えてもいない。まさか、踏み越える羽目に成るとは…思っても寄らなかった…。
始めの一押しは誰だったのか。それは、押した当人にであっても与り知らない事だろう。しかしながら、一度伝わりだした力は、『ニュートンのゆりかご』の動きさながら、目には見えない衝突を繰り返しアナタの後ろに居た誰かへ移動する。そうして、意図も、標的もなかったはずの力が…ポンッと…アナタの背中を押す。
アナタが後ろから押された事に気付くまでに、丸々一歩分の時間を要した。…そして、自分の足が前へ進んでいるのに気付いた頃には…とうに二歩目を踏み出している。
後はもう、前のめりに倒れる肩、突然重さを増した様な鞄に引かれ、三歩目を踏み出すのみ。ところで、言うまでもない事だが…アナタが踏み出したそこには、まだ、電車は門戸を開いていない。
あれよあれよと言う間に訪れた浮遊感。ここまで思い返して、アナタは唇を噛み締める。それは、ホームから落っこちた直後の痛みを思い出したから…確かに、『それ』もあるのが…。アナタが唇を噛んだ一番の理由は、やはり、悔しかったからなのであろう。
実を言うとアナタ、自分がどんな格好でホームの下に落ちたのかを、知らないのだ。そう、『覚えていない』のではなく、『知らない』のだ。
それと言うのも足を踏み外した瞬間、アナタは何をするよりもまず、瞼をガッチリッと閉ざしていた。
(咄嗟の事だったし…緊急時に目を庇おうとするのは、当然。だから、『大の男が恥ずかしい』とは思わないけど…。)
そう思うのであれば力一杯瞼を閉じて、無用に目を酷使するのは止めるべきだろう。どうやらこの種の感情も、アナタがベッドから起き上がるのを阻む、要因の一つのらしいな。
ギシリッ、スプリングを横に捻りながら、寝返りを打つ。自らを痛めつけるかの如く、態と下にした左肩、左肘。最初にホーム下へ激突したのが、この二か所だった。
目を閉じていても思い出す感触は、その瞬間にも…ホーム下へ落ちた時にも、閉ざした目の裏にはっきりと焼き付いている。
左肩に覚えた鉄のレールの固さ。左肘に覚えた枕木の思いがけない反発力のなさ。そこへ一気に圧し掛かる自分の体重。衝撃とも、痛みとも付かない感触が身体を貫き…アナタはわずかな間にしろ、気絶していたかも知れない。少なくとも、次にアナタの瞳が映していたものは、へたり込んだ自分の目前に近付く電車の正面であった。
それだからこそ、ベッドの上で横向きに成った身体を丸め、アナタは臍を噛む。左半身の痛みと、悔しい気持ちを噛み締める。
(せめて、目だけ開けていたなら…。受け身は取れなかったろうけど、いつ線路にぶつかるか、そのタイミングだけでも解かっていたなら…。意識を飛ばす様な醜態…いや、へまはやらかさなかったはずなんだ。そうしたらなら…。)
アナタはそこまで回想を進めると、身体を仰向けにして、大息を天井へ吹き上げた。
「まっ、衆人環視の中で、恥をかいたとか、華麗に危機をかわせていたとか…。そんな詰まらない事を考えていられるのも、こうして生きているからなんだよな。折角、仕事をサボっているんだし…考えるならもっと、有意義な事を…。例えば、助けてくれた奴に礼の言葉なんかを…いや…。」
と、いつの間にか開いていた瞳で、薄汚れた天井を見つめ、
「正直、どう礼を言って良いものか…頭が働かない。感謝の言葉もないっていうのは、こんな状態を表しているんだろうな。」
天井の壁紙に浮き上がる雨漏りの跡。薄らと浮き上がる植物の蔓の模様を、黒ずみが一層際立たせている。
「皮肉だよな…。」
そう呟くとアナタは、再び、瞳を閉じた。…目に焼き付いた蔓の模様を掻き分け、雨漏り跡の向こうに浮かぶのは…直面した電車のヘッドライトの眩しさ、そして、
(あの白い腕…やっぱり、あれは女の腕だった様に思う。あの白い腕が俺を、待避スペースへ引っ張り込んだ。今生きていられるのは、徹頭徹尾、あの腕の主のお陰だ。それに引き換え俺ときたら…。)
ぼさっと線路の敷石の上に座り込み、迫り来る電車のニヒルな顔を見守る。そんな、電車に轢かれる前から魂の抜け出した様なアナタの肩を…ぬぅっと…ホーム下に設けられた避難場所より伸び出た腕が、掴んだ。
グイッと、アナタの身体を引きながら、突っ張る背広の生地。細腕の為せる業とは思えぬその力に、筋を違えた様な衝撃を首に覚えた。…しかしながら、そんな感触など次の瞬間には、消えてしまう。
ズボンの裾を激しくはためかせながら、突風が、電車の威力が、アナタの靴底数センチメートルのところを通過していく。その際の空気の振動の大きさに、足首から先が消し飛ばされたかの如き錯覚に、また、だがどうしようもなく、アナタの意識は朦朧とする。
(それでも、俺は見ていたはずなんだ。助けてくれた奴…いや、女性の顔を…。チラッと、一瞬だったけど…。)
今まさに避難場所へ引き込まれんとする、その瞬間。グラリッと大きく傾いたアナタの目線は、確かに、白い腕の先を見ていた。…避難場所の影の…いいや、闇の奥に潜む、救出者の容貌(ようぼうを…。
瞼の裏の薄らとした暗がりに、見ているはずの『彼女』の面影を探し求める。そうして居る内、自然、ベッドに寝転んだアナタの身体にも力が籠っていく。
消し飛ばずに繋がっている足の指を握り締め、息を止め、そして…空きっ腹の虫が、ぐぅっと、一鳴き。それで、思い出しかけていた顔貌も、彼女の幻影を掴み返そうとした力も、全部すり抜けてしまった。
「止めった。頭に浮かんだ顔へ礼を言ったって、意味ないからな。まぁ、そこらでサンドイッチでも買って腹に収めれば、良い知恵も…。」
と、言い掛けた唇をアナタは、慌てて噤んだ。無論、食べ物の事を考え、唾が溢れそうになったから…それもあるだろう。
しかし、アナタが口を閉じた…寝た振りし始めた…最大の理由は他にある。その理由はずばり、音だ。
足元で聞こえた物音。ガチャリッと、レバーハンドル型のドアノブを下ろす音が…人の気配を示す音が、アナタの口を塞いだのであった。
…そうお察しの通り、独り言を聞かれたかも知れないのが、小っ恥ずかしかったのだ。
口の中の唾を呑み込み、頬と眉間から力を抜く。それから、態とらしくない程度の息遣いで、部屋に入ってくるものを待ち構える。
下ろされたドアノブが元の位置へ戻る音以外、人の入って来た様な足音もない。だが、この部屋のドアが開かれた事は間違いない。なぜなら一度は止んだ風が、新しい出口を得て再び、窓を揺らし始めたのだから…。
(寝ている間に、小雨が降ったのか。そう言えば、天気予報でも、『午前中、パラつく』と言っていたっけな。)
風に混じるむせ返る様な芒の香は、雨上がりの草花が乾く際のそれだと教える。加えて、今度の香気にはもう一つ…濡れた生き物の乾く時の匂いも…。これは何の匂いだったか…。
(この匂いどこかで…。嫌な印象はないが、決して好い匂いでもない。独特の匂い…。あぁ、そうか、思い出した。これは、あれだ。洗い立ての…。)
妙な緊張感と、そこから来るまどろみの中に居た、アナタ。救出者を思い出せなかった事の反動だろうか。余程、匂いの正体を付きとめたのが嬉しかったと見える。胸中での呟きの続きを、思わず、口に出してしまう。
アナタ曰く、芒の香に混じるこの匂いは、
「子猫の匂いだ。」
仕舞ったと思っても、もう遅い。やや低めのバリトンの音域で、アナタの声が部屋の空気を伝わっていく。…まっ、空きっ腹を放っておいた恩恵か、なかなか悪くない声が出たのがせめてもの救いだろう。
あとは、ドアを開けた人物がこの声に聞き惚れて、可笑しな発言を忘れてくれるよう祈るのみ。
(あるいは、『ドアは風で開いただけでした』というのでも、なお結構なんだが…そうは…。)
そうは…アナタの望み通りには…風も運んでくれないらしい。
窓の震えが止み、瞼と鼻先に風が触れなくなった頃、ようやく、アナタの耳に届き始めたようだ。小さく潜めた様な、それでいて、少し驚いた様な息遣いが…。それも、アナタの枕もとのすぐ傍で…。
顔に上る血の気を何とか堪えつつ、一方では、首から下の血の気の失せる感覚に肩を震わす。こうなれば、とにかく、息遣いの主次第だ。
いよいよ鼻息荒く成ってきたアナタの『寝息』。息遣いの主が、その力だけは抜けた寝顔を見下ろして、
「あれっ、やっぱり、寝ている…のかな。でも、さっき喋ったのは…寝言…。」
遠慮がちに囁かれる声を聞くや、首を境にして血の気と寒気が逆転する。『子猫の匂いだ』と口走ったのを、しっかりと聞かれていたのだ…。そして、ここまでアナタの内側を輾転反側させた理由は、もう一つ。
耳に届いた息遣いの主の声が、女性のものだった。少女のそれの如く、幼さを感じさせる声だった。…まっ、この場合、相手が少女だったのは救いかも知れない。少なくとも、言い訳のしがいはある。
(…って、何を考えているんだ、俺は…。別に、言い訳する必要なんて…。第一、この人…この子は、『寝言かも知れない』と思っている様だし…まずはそこを突いてだな。実家で猫を飼っていた話をすれば、少なくとも、変な奴だとは思われずに済むだろう。)
と、早速、仕事に使うはずだった勤勉さを動員。無理のない言い訳作りの為、胸算用を始める、アナタ。
ぎこちない『寝顔』の裏側で、案外に、実務的な一面が垣間見えているなど露知らず…。息遣いの主はアナタの枕元へ更に顔を寄せ、ポツリッ、呟く。
「それにしても…よく解かりましたね…私が猫だって…。」
「…んっ。」
息遣い主の言葉から一拍置いて…。閉じたアナタの口から、チューバを一吹きしたかの様な音が漏れた。
見開いた目を薄汚れた蔓の模様から、ゆっくりと、右へ。そこにはアナタの耳が感じ取った通り、少女の顔がある。まるで猫が匂いを確かめるかの如く、鼻をヒクつかせて…。
この時…もしも少女が猫の様に可愛らしくなければ…アナタは反射的に、その顔を払いのけていた事だろう。…えっ、『アナタは紳士的な男性だから、そんな真似をするはずがない』って…。まぁ、実際に腕を振り上げはしなかった訳だし、否定の限りではない。
それに肝心なのは、アナタが身動き出来ない事ではなく…身動きできなくなる程、まじまじと少女を見つめている…その理由であろう。
なるほど、自分で『猫だ』と言うだけあって、ころんと、子猫の様に愛らしい顔立ちをしている。高くデザインされた詰襟はセミロングの髪に映え…猫であれば短毛種であろうか…やや大人し目の外見。しかし、それがまた幼い容貌と相まって、少女の愛くるしさを強調しているのだ。…彼女にこの服を宛がった者は、余程、この容姿の魅力を熟知しているのであろうな。
つばのないハンチング帽の下、髪の間に覗く尖った耳も…。スカートから伸びた二本の脚…ではなく、伸び出た二本の尻尾も…。まさしく、猫そのもの。コーディネートの賜物と言って過言では…あれっ、今更ながら、何かおかしい様な…。
著者とは違いアナタは、逸早く、目の前の少女の異様さに気付いていたのだろう。じっと凝視する眼差しは、彼女の瞳を…実家で飼っていた猫の胴色の瞳より、やや明るい…橙色の瞳を覗き込む。
もう数分はこうして見つめ合っているだろうか。流石に息が詰まりそうになった少女が、瞳を細くして…いいや、細長い瞳孔を更に細くして、はにかんだ笑みを浮かべる。
「やっぱり、起きていたんじゃないですか。私をからかっていたんでしょ。」
「えっ、いや、そう言う訳じゃ…。」
何から話せば良いのか、何を聞いて良いのやら…。十分前のアナタであれば、『自分はどうなったのか』や、『ここは駅の休憩室か、それとも病院か』、でなければ『君は誰』など、より多くの情報に繋がる一言を選んでいたはずだ。しかしながら、今、アナタの頭に過っているのは、ただ一点。
「あの…。」
「どうしました。」
まったり、人懐こそうに問い返す声。それに勇気を得たアナタが、思い切って尋ねる。
「その目…その目は、カラコンなの。」
「えっ、から…何ですか。私の目…何か付いています。」
そう言うと少女は、手の甲で目元を擦り始めた。
瞼を閉じゴシゴシする、これまた可愛らしい仕草。その様子を見ながら、アナタは…今しがた自分の見たものに、微かな戦慄を覚えている。
少女は不思議そうに、面白そうに、アナタの質問を笑顔で迎えた。…その瞬間の瞳を、瞳の真ん中にある瞳孔の動きを、アナタは見逃さない。そして、よく知ってもいたのだ。猫の細長い瞳孔が開くのは、興味のある証拠だと…。
小さな身体が手を動かす度、スカートを揺らす度、微かに香る子猫の匂い。アナタにはもう、その事を追及する勇気もなかろう。
「えっと、これで取れました…よね。」
「あっ、あぁ、取れた。ごめんな、いっきなり変なこと言って…。」
と、小さく相槌を打つ姿にも、覇気はない。まぁ、元々、大変な目に合ったばかりという事もある。あるにはあるのだからな。
それからまた数分、訳も解からず笑顔を交わす時間が過ぎて行く。
満面の笑みを浮かべ、尻尾まで振っている少女の様子にも…アナタはどうにか、平静を取り戻し始めていた。…そうなると、忘れかけていた焦燥感がぶり返してくる。
アナタは…自分が何を不安に思っているかも解からぬまま…勇気を振り絞ってもう一度、口を開く。
「あっ、あの、聞きたい事が…。」
「あぁっ、そうだった。」
絞り出した勇気は即刻、猫の置物そっくりの手招きに叩き落とされた。
口を半開きにして呆然とするアナタへ、悪意なく、愛想良く、少女は笑顔を向ける。
「アナタが目を覚ましたら案内するようにって、紫さまから言われていたんでした。…それで、早速、お連れしようと思うんですが…身体、大丈夫ですか。起きられます。」
少女の態度には、決定的に、距離を取るという観念が欠けている様だ。しかも、単なる『気安さ』とは片づけられない、心理的、あるいは本能的な距離感の違いが垣間見える。
拭い切れぬ違和感と、頬っぺたにぶつかりそうな少女の鼻先。これにはアナタも、両手を前へ出し彼女を押し留めて、
「ま、待った。起きられる。一人で起きられるから…なっ。少し離れてくれ。」
そんな拒絶の態度を、少女は…やっぱり、上手く距離感を測れないらしい。
「はい、解かりました。」
ひたすら素直に、そして元気よく答えると、二歩、三歩、四歩と、また随分大袈裟に後退った。
どうにかこれで、一息吐ける。しかしながら、あまりうかうかと、雨漏りの跡を眺めてもいられない。いつ何時、些細な勘違いから、あの『子猫ちゃん』が突進して来ないとも限れないからな。
両手をベッドに突くと、やおら上体を起こしに掛かる、アナタ。
まず枕から頭を持ち上げ、お次に肩が浮き上がらせ…。しかしそこで突然、ストンッと…持ち上げていたはずの頭が枕の上に戻る。
「あ…れ…。俺の首、何か変じゃないか…。」
それはまるで、自分の首がブリッジ型に湾曲したかの様な、奇妙な感覚。アナタは恐る恐る自分の首を触ってみると…別に何ともない。変な形にひん曲がった手触りも、特には感じられない。
だた…首に触れているはずの自分の右手…その実感のなさが、若干、気にはなる。だがそれも、おそらくは思い過ごしの類。だから感触の弱い原因は、首に巻かれている包帯なのであろう。
指で包帯の一か所を捲ってみれば、なるほど、納得がいく。これだけ厳重に、幾重にも、念を入れてぐるぐる巻きにされていたら、それは、皮膚感触だって怪しく成る訳だ。
アナタが首の包帯を玩具に、ごそごそとし始めたのに気付いた子猫ちゃんは、
「もう駄目ですよ。さっき着けたばかりなんですからね。…って、そんな乱暴にしたら…私がやりますから、手を止めて…。」
尻尾を振り乱し、大慌てでアナタの元へ突進。…やっぱりね。
包帯に折り目を作るガサツな手を振り解き、少女は案外にも器用に乱れを直し始める。
こうなると…つまり、明らかに年下の少女から世話を焼かれると…優しい手にも関わらず、アナタとしては息苦しいものがある様だな。ついつい、顔をニヤつかせ、真剣そのものの彼女へ口を挟む。
「そうか、この包帯は君がしてくれたんだ。」
そうしてアナタが顎を動かすものだから、指を窮屈そうにさせている、子猫ちゃん。それでも、努めて甲斐甲斐しく、
「はい、私が…あっ、苦しくはありませんか。」
「う、うん、快適だよ。」
と、疑いの余地なく言葉選びを間違えている、アナタの薄ら笑いにも…ニッコリ、優しい笑顔を返して、
「良かった。それから…私のことは、橙と呼んで下さい。」
この反応を受け、アナタの疑問がまた一歩、確信へと近付いて行く。もしかしたら目の前の少女が、普通の人間ではないかも知れない。そんな疑問へ…。まっ、こんなにも気立ての良い『普通の小娘』など、居るはずがないわな。
「橙…ね。了解。いろいろとありがとうな、橙。」
「…あの、どういたしまして…。」
不意にキョトンッとして、次の瞬間には照れた様に頬を染め、頷いて見せる。…まったくもって、愛らしい。
アナタはそんな橙に…呆けた様に見とれて…だがしかし、訊かねばいけない事があった。
「なぁ、橙。俺、実は、自分がどうしてここに居るのか、ここがどこなのかも解かっていないんだ。辛うじて、駅のホームへ落ちて、電車に撥ねられかけたのは覚えているけど…そこから後が、どうにも不確かで…。だからもし何か知っている事があれば、何でも良い、教えてくれないかな。」
子供に語り聞かせる様でもあり、未知の存在と意思を通わせるべく苦慮している様でもあり…。まぁ、要するには、少女に面と向かった時の標準的な野郎の反応である。
そうしてアナタの示す不器用な気安さへ、橙は嬉しそうに尻尾を振り振り…けれど、
「ごめんなさい。私、紫さまに口止めされていて…。紫さまはご自分でお話に成るから、『アナタが目覚めたら、連れて来なさい』って…。ごめんなさい。」
橙はしゅんとした顔で、花弁の閉じる様にゆるゆると、アナタの首から手を離し、伸び上がった尻尾を萎ませた。
気落ちした彼女を何とか取り成そうと、アナタは両手を差し出し…が、少々、勇気が不足していたらしい。繊細そのものの小さな手を掴む事が出来ず、代わりに…まぁまぁと…ゾンビの真似をするが如く、腕を揺す振る。
「いいんだ。大丈夫だから…。口止めされているんじゃ、しょうがないよな。それに、その『紫さま』が説明してくれるんだろ。」
そう言って、勢いよく上体を起こす、アナタ。今度は、首に違和感を覚える事もなく、スムーズに起き上がれた様だ。首から下は…肩、背、腰、どれも問題なく、固いベッドで寝た痛みと強張りを伝えている。これで…アナタが夢を見ている可能性も、消去してよかろう。
胸元から腹部へ、するすると、波打ち下っていくシーツ。その高価そうなシルクの光沢に瞬きしつつ、アナタは自分の身の…もとい、自分の身を覆う異変に気付いた。
「あの、橙、俺の着ていたスーツは…。」
「『すーつ』…って、何ですか。」
「…だから、背広の…いや、何でもない、忘れてくれ。ところで、良さそうな着物だな、これ。」
襟元を撫でて、アナタはそそくさと質問を引っ込める。本当のところは、『スーツの所在』よりも、『誰がスーツを脱がせたのか』を気にしていた様だが…考えるまでもなく、それは知らない方が良い。…疑う事をしらなそうな橙の瞳も、そう言っている…と、アナタの目には映った。
木枯らしがつむじを巻く音。シーツの温もりを落としたばかりの身体に、この冷え込みは堪える。
前触れなく大きく身震いしたアナタに、ぴんっと猫耳を立て、橙は踵を返す。続いて彼女の突進の被害者に成るのは、どうやら、和箪笥らしいな。ぶつからんばかりの勢いで箪笥に手を突き、引き出しを引っ繰り返して探し物を始めた。
アナタはそんな橙の様子に見惚れながら、草色の着物をもう一撫で。尻でスプリングを軋ませ、ベッドから脚を放り出す。
床に付けた足裏から膝まで這い上がる、鮮烈な痺れ。ストーン柄のフロアタイルの冷たさで、両脚に異常がない事も確認できた。…と、膝を掴み気怠さ楽しむアナタに、
「あっ、ごめんなさい。い、今、履物の用意も…。」
キョロキョロと、首を動かし辺りを見回す。だが引き出しの中を引っ掻き回す手も止められないらしく…。橙はもうすっかり参ってしまっている。…にしても、猫耳も『狼狽える』のだな。
そんな様子を眺めつつ、脚の指を握っては開いたり、肩で腕を回したり、首は…そこそこ慎重に動かし、ストレッチを始めた、アナタ。すっかりリラックスした顔付きからすると、見渡す限りの『不自然』に開き直った様だな。
「慌てなくても、履物は後回しで良いよ。嘘じゃないって…。だから、ほら、そんな顔していなで、まずは目先の事を…いや、こっちじゃなくて…箪笥に何か用事があるんだろ。先にそっちから片付けないとな。…いやいや、後片付けしろって意味じゃなくてさ。探し物を見つけなさいって…そう、それで良いからな。」
言い回しに命じる様なニュアンスが加わって、やっと、橙は安堵の表情を浮かべ頷く。まったく猫耳とは思えない子犬体質だな。
箪笥を漁りながらまだ頷いている彼女に、アナタは『やれやれ』と溜息を漏らし、俯く。
胴回りにしっかりと結ばれた帯は、白橡色。着物の草色と相まって、落ち着いた印象を感じさせる。…そうは言っても、
(病人に着せる服じゃないよな。今更だけど…。第一、この手触りの良さからして、安物とは思えない。この帯だけでも…詳しくはないけど…俺のスーツくらいなら、七、八着は買えるだろ。一体、どうなっているんだか。)
ポンッと帯を叩けば、打てば響く腹の虫の鳴き声。頭を垂れたまま苦笑を漏らすその肩に、ふわりっ、橙が渋柿色の羽織を掛ける。白く紅葉の模様が描かれ、これまた高価そうだ。
「とてもお似合いですよ。肩幅があるから、颯爽として…そうだ、腕を通して見て下さい。もっと見栄えがするはず…。」
「あっ、あぁ、解かった。解かったから、橙はあれを…。履物を用意してくれ。この着物は、自分で羽織るからな。」
「そうでした。履物、今、用意しますね。」
どうも彼女は、複数の作業を並行して行う事が苦手…いや、出来ないらしい。抱き竦めるかの如く引っ手繰ったアナタの腕を、パッと離し、そそくさと和箪笥の方へ。
空きっ腹に応えると知っているのに…。アナタはそれでも、『やれやれ』と溜息を一つ。苦笑を浮かべつつ、やおら羽織に腕を通し始めた。
橙は小さな頭を、右に傾げ、左に傾げ、それから、
「そうそう、履物はこっち。」
と、今度は頭を横に向ける。
和箪笥から1メートル隣の『そっち』には、背の高いクローゼット置かれている。洋の東西の違いはあれ、箪笥も、クローゼットも、高級感のあるシックな色艶。
しかし…と言うか、予想通りに…橙は至極あっさり和箪笥に見切りを付け、躊躇いなく、かつ力一杯、クローゼットの扉を開いた。
観音開きの扉から届く、悲鳴にも似た音、そして風圧。羽織を着付けたアナタも、何だ何だと覗き込む。中のハンガーラックには、ジャケット、ドレスが、何着も掛けられている。
モーニング、イブニング、礼装から、略礼装まで…。ファッションに関心の薄いアナタも、目移りする様な品々が並ぶ。だが、そこには、着殺される寸前のアナタのスーツは見当たらなかった。…まぁ、『一番カジュアルなものでダークスーツ』という顔触れに、混じっているはずもないか。
そんな垂涎ものの洋装の中へ、橙は…乱暴に首を突っ込み…コートへぐりぐりと頭を擦り付け、帽子を落としながら、クローゼットの底で何やら発掘した様子。
「ありました、ありました。」
そう嬉しそうにこちらを向く頭は、落っこちた帽子の代わりに、ドレスの裾を被っている。これだけでも、アナタの弱った笑顔を誘うのには充分だったが…。獲物の鼠を披露する様に掴み上げたそれを見て、ますます、苦笑の気を大きくした。…橙がクローゼットから引っ張りだしたのは、意外にも登山靴であった。
羽織り込みとは言え、ほとんど着流しという格好。アナタにしてみれば、雪駄か、下駄でも出てくると思っていたのだろう。まぁ、それだから文句を言おうなどという気は、アナタにはさらさらない。しかし…。
(逆に履き慣れている種類の靴が出てきて、ありがたいけど…。あまり手入れのされていない洋間。目が覚めたら着物を着せられていて、その上、猫耳の美少女に世話を焼いてもらう。で、クローゼットから出してもらった履物が、登山靴とは…。ここまで何もかもちぐはぐだと、余計、不安に成ってきた。もうこうなったら、いっそ、この子に訊いてみようか。これが現実か、それとも夢か。)
アナタは、登山靴を差し出し足元で屈む橙を見つめる。彼女は…相変わらず柔らかく微笑んで、首を傾げた。
「あの、どうかしましたか。」
「…いいや、別に、何でもないよ。」
半ば以上は夢の出来事だと思いながら、不意に口にした言葉の冷たさが、やや後ろめたい。
俯き、目線を逸らす、アナタ。橙はそんな何とも言えない顔を見上げて…。何を思ったか、両手でアナタの足首を捕まる。
「うわっ、えっ、何だ。」
薄らと体温を残す女性的な手の感触に、アナタの口から悲鳴が飛び出した。…反射的に軽く脚をバタつかせるが、彼女はめげていない様だ。その証拠に…、
「大丈夫です。私がちゃんと履かせますから。」
と、鼻息も荒く、意気込みを語っている。まったく恐ろしい。この猫耳が人間である可能性は、最早、皆無と言って良かろう。
これにはアナタも…別に取って食われると思った訳ではないが…冷や汗を垂らし、真っ赤に成った顔で声を上げる。
「いっ、いいって、自分で履けるから…。ところで靴下はないかな。靴下があると嬉しいんだけどな。」
その言葉を聞くや橙は、さっきの腕の場合と同様、パッとアナタの足首を離して、
「はい、今、用意しますね。」
猫そのものの俊敏さでクローゼットへ取って返した。…人間でないにしろ、悪い子ではない…それどころか素直な好い子なのだが…。詳しい説明を受けようと考えるのはもう、諦めた方が良さそうだ。
(この子を困らせても、多分、何も解決しないだろう。それに…いじめちゃ、可哀想だもんな。まぁ、世間話としてなら…色々と、うっかりで口を滑らせてくれるだろ。)
そんな訳でアナタは、正面切った質問を避け、絡め手で情報を拾いに掛かる。得体の知れない相手とは言え、なかなかイイ性格をしているな、アナタも…。
「この着物、かなり値が張りそうだけど、何の生地を使っているのかな。」
まずは他愛無い質問。子供相手には謎かけという手もあるが…橙の場合、考え込む可能性を考慮せねばならない。
熟慮の甲斐あって、橙は手を止めることなく、振り向きもせず、返事をする。
「私にも値段は解かりません。すいません。でも、生地は縮緬ですよ。羽織もそうです。」
そう落ち着いて切り返す態度を見ると…失礼ながら…アナタも、著者も、『思い掛けない』の一言が脳裏に浮かぶ。無論、答えを期待して喋り掛けたは間違いないが…。『スーツ』と尋ねてもピンとこない…着流しの足元に用意したのは登山靴…そんな彼女が、事もなげに『縮緬』と、アナタでもうろ覚えな言葉を使うのは…やっぱり、可笑しさを噛み殺し切れない。
アナタの足に誂え向きな靴下を見つけ出した、橙。喜び勇んで振り返えれば、立て続けに、ニヤニヤと笑うアナタの顔を見つけた。
「靴下です。靴下ありましたよ。」
と、靴下を掲る表情は、相手に釣られてご機嫌な様子。向かい合った者の上機嫌に理由を求めない。これこそは、何にも勝る美徳であろう。
それに引き換えアナタと来たら…橙の親切の裏側ばかりを覗こうとしているではないか。
チクリッ、胸を刺す罪悪感に、アナタは微笑みを崩さぬよう奥歯を噛む。そうして、アナタが『自分で着替えたい人』だと学習した橙から、靴下を受け取って、
「ありがとう。藤色とはまた好い色の靴下だな、少し派手だけど…。」
「そんな事はないです。お似合いですよ。」
その自信ありげな声を聞くと、なるほど、何事も率直に言ってみるものだな。タイルの冷たさ残る足裏を靴下に通しながら、アナタは満足そうにほくそ笑む。
「ところで、藤色で思い出したけど…『紫さま』だっけ、どんな人なんだ。」
「優しいお方ですよ。意地悪な事もありますけど、すごく優しいお方です。」
まぁ、こんな可愛らしい子猫になら、誰だって優しくするし、時には意地悪もしたくなるだろう。つまり、アナタにとっては何ら参考にならない。
靴下を履き終え今度は、びっくりするくらいにふかふかな登山靴に、足を突っ込む。そこでまたもや、『自分は柔らかい布団の中で夢を見ている』希望的観測に逃避したくなるも、アナタは、キュッと靴紐を締め上げ、自らを鼓舞した。
「優しくて、意地悪ね。そう言う人が俺を待っていると…。」
「あっ、そうでした。『アナタが目を覚ましたら、連れてきなさい』って、そう言い付けられていたのに…私、すっかり忘れていて…。」
やっぱり、その事を忘れていたか。アナタの一言が引き金と成り、橙は大慌て。ちょっと涙ぐんで、深々と頭を下げる。
「ごめんなさい。でも…どうかお願いします。私と一緒に紫さまの所へ行って下さい。その、出来るだけ、急いで…。お願いします。」
そうして必死に成って頭を下げる橙を見るにつけ、『紫さまは優しい方』というのが、やや疑わしく思えてくる。しかしながら、どうにもこうにも、その『紫さま』とやらに会わない事には始まらなさそうだ。
アナタはベッドから立ち上がると、登山靴の底へ全体重を下ろす。すると、身体がグラリッと一揺らぎ。まぁ、首に残る違和感以外は問題ないだろう。
後頭部に手を当て見下ろした先には、不安そうな猫目で見上げる顔。こうして立って並んで見ると、身長の差はまさしく、大人と子供。彼女の幼さと異様さ、そのアンバランスに…アナタは改めて、自分の背筋を走る冷たいものの存在を自覚した。…それでも、
「どうか、お願いします。」
夢だろうと、現実だろうと、あと五秒も焦らせば橙の涙腺は決壊する。だったらもう、アナタのするべき事は一つ。
「なぁ、『紫さま』って女…女性だよな。美人なのか。」
「えっ。」
橙はしばし目を丸くしてから、勢い余って流れ出した涙を手の甲で拭い、そして、満面の笑みで頷く。
「はい、それはもう。私、紫さまより綺麗な方を、見た事がありません。」
誇らしげに、嬉しそうに、目を輝かせ、声は弾む。彼女にここまで言わせるのだ。『美人』なのは間違いない様だ。ただし、
(この子の中で一番『美人』だからな…。さて、鬼が出るか蛇が出るか。行ってみる価値はあるだろ。)
ふら付いた時に乱れた羽織を直し、アナタはにこやかに橙に頷き返す。
理由はともあれ、否、橙にとって理由など関係ないのであったな…アナタの意思を受け、駆け足でドアの方へ。
食らい付くかの如くレバーハンドルを握る後ろ姿。なるほど、足音を立てないはずだ。スカートから覗く脚も尻尾と同じ毛むくじゃら、足の裏にはピンク色の肉球まで見てとれる。
「これはもう…押っ死んで、猫耳の天国にでも迷い込んだかね。…たく。」
思わず苦笑を浮かべて、擦れた声で呟く、アナタ。蚊でも潰すかの如く包帯の上から首を叩いた掌に、グニャリッ、嫌な感触が残る。これで目の前が真っ暗に成ってくれていれば、どれだけ楽な事か…。
ドアが内開きな事にやっと気付いた橙が、真鍮のレバーハンドルを握り直す。その音が今度こそ、アナタの意識を外へと向ける。
不安、躊躇い、あるいは、恐怖。いろいろな感情がアナタの脚を竦ませ…。だからこそアナタは、自分を迎えに来たのが橙で良かったと、強く思う。仮にアナタがここで座り込み、行きたくないと駄々をこねたとしても、彼女は絶対に諦めない。
橙ならどんなにごねられようと必ず、毛むくじゃらの脚で、アナタの尻を蹴ってくれるに違いない。この部屋を出るしかないと、懸命に諭してくれるに違いないのだ。それが解かりきっているお陰で、彼女の前ではまだ、アナタも物分かりの良い大人振って居られるのだから…それに…。
(化け猫の親玉に取って食われるのはお断りだが、この子に食い殺されるのなら悪くないさ。これまで出会った女の中で誰よりも上手く、俺を欺いたご褒美にな。)
開け放たれた扉の向こうから、温かな日の光が差し込む。その隣では、長く伸びる光の先へ誘う愛らしい微笑み。アナタは頷くともなく前屈みに成ると、わだかまった着物の足元を手で一払い。彼女の隣へ颯爽と歩み寄る。
光の向こうに待つものを思い、高鳴る鼓動。その一つ一つを、踏み出し力に変えて、歩んで行く。…と、部屋を出たアナタの後ろから、ドアを閉じる音。それから…、
「一つ、聞いても良いですか。その、ずっと気に成っていて…。」
「何なりとどうぞ。あっ、でも…『寝ている俺を着替えさせている途中』に思い付いた質問なら、お答えしかねるかも知れないけど…それでも良ければ。」
「はい、それでしたら大丈夫だと思います。えぇっと、では、お尋ねしちゃいますね。…オホンッ…さっき仰っていた『えきのほーむ』ってどこにあるんですか。確か、そこに居たとも仰っていましたよね。私、こんな不思議な地名を聞いたの初めてだから、もう、気に成って、気に成って…。」
「うーんっ、そう言われると、何をどう話すべきか…。第一、俺だって、ここがどこからすら解かってないからなぁ。…あぁ、解かっている。橙は口止めされているから、『紫さま』がそれを教えてくれるんだよな。別に、橙を責めた訳じゃないんだ。だから、そんな顔しないで…さ、さぁ、紫さまの所へ案内してくれ。駅のホームについては、道すがら、歩きながら説明してやるから…。えぇっと、まず、電車が何かは解かるのかな。」
何とも閉まらない…もとい、締まらないやり取り。しかし、これが幕開けにしろ、幕切れにしろ、笑い声は弾み、まっすぐな小道を歩んでいく。
昔の誰かが『好奇心は猫を殺す』と言った。…はてさて、好奇心旺盛な子猫に連れられ、アナタはどこへと辿り着くのやら…。答えは、風に吹かれて手を振る芒の穂だけが知っている。




