一ノ瀬梨沙
壊れる前に、選んだ人
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あの日からずっと、息が少しだけ苦しい。
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理由は分かっている。
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分かっているのに、整理できない。
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神代湊が“逃げた日”。
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あの瞬間を、私は何度も思い返してしまう。
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封鎖フィールドの中で、彼は私の手を握った。
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あの手は震えていた。
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でも、離さなかった。
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あのとき私は思った。
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「あ、この人はまだ終わってない」
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それが嬉しかった。
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同時に、怖かった。
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“終わっていない人間”は、この世界では壊される。
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壊されるまで、管理される。
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私はそれを知っている。
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ずっと見てきたから。
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神代は特別だった。
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遺伝子がどうとか、適合がどうとか、そんなものじゃない。
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“空になりかけていたのに、空になりきれなかった”。
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それだけ。
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でもそれは、この世界では一番危ない。
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だから私は言った。
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「逃げて」
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あれは賭けだった。
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成功する保証なんてなかった。
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むしろ失敗する前提だった。
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でも、それでもよかった。
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“選ばないまま終わる顔”を見たくなかった。
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走る神代の後ろで、私はずっと思っていた。
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(お願いだから、壊れる前に決めて)
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回収ユニットが降りてきたとき、正直に言うと怖かった。
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足が止まりそうになった。
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でも止めなかった。
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私が止まったら、全部終わるから。
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神代が“人間に戻れない形”で保存されるだけになるから。
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あの瞬間、神代は言った。
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「ここにいる」
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たったそれだけ。
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でも、それで十分だった。
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十分すぎるくらいだった。
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私は知ってしまった。
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この世界では、“存在する”こと自体が選択だということを。
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神代は今も危うい。
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管理側はまだ彼を諦めていない。
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“例外として保存する”か、“修正する”かを迷っている。
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でも私は分かっている。
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もう彼は、どちらにも完全には戻れない。
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あの瞬間、壊れたのは世界のほうだ。
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神代の横で歩きながら、私は思う。
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(私も同じだ)
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選ばれたくて生きてきた。
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必要とされることで価値を感じていた。
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それが正しいと思っていた。
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でも違った。
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それは“生きる”じゃない。
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ただの維持だった。
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神代は今、それを壊し始めている。
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無意識に。
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静かに。
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だから怖い。
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だから離れられない。
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彼が壊れきる前に、私も変わってしまったから。
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私は初めて思った。
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(この人と一緒に壊れてもいい)
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でも同時に、もう一つ思った。
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(この人には、壊れてほしくない)
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矛盾している。
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ずっと。
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神代を見る。
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彼はまだ“分からない”顔をしている。
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それでいい。
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今はまだ。
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でもいつか、選ばなきゃいけない。
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この世界に残るのか。
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それとも。
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“人として生きる側に行くのか”。
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私はそれを見届ける役になってしまった。
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嬉しいのか、苦しいのか分からない。
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ただ一つだけ分かる。
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私はもう、元には戻れない。
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神代湊を見てしまったから。
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そして彼が初めて“自分で選んだ瞬間”を見てしまったから。
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あの瞬間からずっと、私は壊れ始めている。
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ゆっくりと。
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静かに。
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でも悪くない。
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少なくとも今は。
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(この人がまだ人間でいてくれるなら)
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それだけでいいと思ってしまっている自分がいる。
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それが一番怖い。
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(裏章・終)




