第四十九話 本当のこと
卵が孵ったのだ!
まるで墨で殴り書きしたような黒い靄のようなものが辺り一面を覆っていた。その靄はだんだん何か巨人のような影を形作っていく。よくよく見ると、それは鬼のようにも見えた。
あれが鬼?
――長い間、因習に縛られて多くの憎悪に塗れて造り上げられた存在なのか?
まるで実感がわかない。
そんなものが自分のうちから産まれたものなんて。
呆然としていた俺をキアラが無理矢理立たせて、その化け物と距離をとる。
彼女は倒れている冬彦も気にしているようで、なるべく彼から化け物を離そうともしているようだった。
「先輩」
走りながらキアラは俺に言った。
「難しいことを考えたけど、私は先輩が大事。その想いだけで十分だった。迷うことが多くてごめん。もう大丈夫だから」
「大丈夫なんかじゃないだろ」
息を荒げながら言うとキアラは柔らかく笑った。
「大丈夫。先輩が無事なら大丈夫」
すぐに表情を引き締めると彼女は言った。
「御子神先輩が解呪のために結界を張ってくれているの。それまで時間稼ぎしないとね。卵は孵ってしまったけど御子神先輩さえいれば――」
不安になっている俺を察してキアラは力強く笑った。
「大丈夫。私がいる限り、先輩を護るよ」
「どうして……そこまで……」
「言葉にしなくても、そのくらいわかるでしょ。……でもあえて言うなら私がこうして精神的にタフでないと周囲の人の信頼を得られない。私が周りの人をかき回して負の感情を育て上げる役割だというなら、周りの人との接点を多くできるような性格でないと意味がない。そういう風に私は呪いで造られた」
キアラは俺の背中を叩くと俺を神社の入り口へと走らせようとした。
まさか一人であの鬼の化け物と立ち向かう気なのか。
俺が口にしなくともキアラは力強く満面の笑みを浮かべて答える。
「じゃあ私は感謝しないと。そうやって呪いが私を造ってくれたから私はこうして迎え撃てるのだから。……御子神みこがみ先輩のために時間稼ぎしてくるね」
キアラは真っ直ぐ鬼の化け物を見据えて走って行く。
そんな、駄目だ。
キアラ一人でなんて無茶だ。
誰でもいいから、誰か、キアラを護ってくれ。
「仕方ないわね」
キアラを追いかけようとする俺に声が聞こえてきた。
神社の屋根から降り立つ一人の少女がいる。
彼女は優雅に髪をかき上げて俺の前に立った。
「先輩……」
――御子神祥子。
状況を打開する救世主がそこにいたのだった。
長い髪をなびかせながら俺の前に存在していた。
「御子神先輩」
キアラも足を止めて鬼の化け物を気にしながら御子神先輩を見つめている。
「間に合ったんですか」
そう俺が問いかけると彼女は首を横に振った。
「そんなわけないでしょ。私一人でも解呪に時間がかかったのに、そんなに簡単に片付く問題ではないわ」
「希久本さん、あなたが巫女だとしても呪いの一部だとしても見捨てることができない私の甘さはどうしようもないわね」
御子神先輩は鬼の化け物に向き直ると手のひらをかざした。
風の流れが変わった。
ビリビリとした緊張感と肌を焼き尽くすようなひりつきに寒気を覚える。
キアラに迫っていた鬼の動きが止まった。
御子神先輩が力を使って何かをしているようだが俺には見えない。
だが凄まじいまでの風圧と吐き気を伴うほどの不快な違和感を感じ取る。
俺自身、体を動かすことができずに、ただ御子神先輩の様子を見守った。
御子神先輩はキアラへと言葉を続ける。
「だからこそ最後にきちんと確認するわ、希久本さん。私が解呪のために結界を張り、それが成功したとしても、あなたは消えてしまうでしょう。……あなたはそれでいいの? 覚悟はきちんとできているの? 状況に流されているだけではなくて」
「……」
「言い方を悪くすると、ここで猪生くんを見捨てればあなたは生きることができれば。一年前に死んだ本人と入れ替わるような形で……」
「たとえでもそんなことは言わないで、御子神先輩」
驚くように目を見開いた御子神先輩にキアラは言った。
「そして私を舐めないで。もし私が巫女で呪いの一部なら、私は生きていい存在ではない。それに猪生先輩が死んでしまうなんて耐えられない。みんなが解呪に頑張っているのに私一人だけ足を引っ張ることはできないよ」
「……」
御子神先輩は躊躇うように言う。
「どうしてそこまで……いいえ、それを言うのは野暮ね。――わかったわ。私が悪かったわ」
御子神先輩は苦笑した。
彼女は人間離れした跳躍力で境内入り口の鳥居まで移動すると俺たちのほうに顔を向けた。
「希久本さんの覚悟なんて聞くまでもなかった。私は私で頑張るのみね」
遠くからそう叫びながら言葉を続ける。
「あと五分でいいの。神社に留まったまま時間を稼いでくれる? それで片をつけてくるわ!」
そうして御子神先輩は走り去っていった。
御子神先輩にそう言われたのであれば、俺は俺たちで頑張るしかない。
墨色の靄を纏った鬼の化け物は御子神先輩が去った途端、動けるようになったらしく、粘るような殺意を俺に向けていた。
鬼と対峙していたキアラは慌てた様子で俺のほうに駆け寄る。
「私だと囮にならない。だから――」
「違うんだ。勘違いするな。キアラを犠牲にすることなんて……」
「でも私は消えるから。だったら最期まで先輩のために、ありたいよ」
キアラはきっとした眼差しで鬼を睨みつけた。
「ここで大事なのは時間稼ぎだから……」
「ならちょうどいい道具がある」
そう言って俺は、とある方向に顔を向けた。キアラもそこに視線を向けて納得がいったという様子で頷く、
そこにいたのは秋久だ。
キアラは秋久に駆け寄った。俺も同様だ。
静観していた秋久は急に向かってきたキアラに驚いたようで身を引く。
その隙を狙って俺たちは秋久に体当たりした。
倒れ込んだ秋久の身体を俺とキアラで掴んで、二人で彼を鬼の前に放り投げる。
「……あ……」
秋久は呆然としたまま迫り来る鬼を見つめている。その双眸には感嘆の感情が込められており、どこか上の空だ。
鬼の視線は俺に向けられていた。
当然だ。あれが卵から孵った化け物なら鬼だとしても俺を殺しにくるだろう。
「先輩、とにかく遠くへ!」
俺はキアラの言葉に頷くと急いで鬼から離れる。
だが神社内に留まらなければいけない。
なんて難しい注文をつけてくるんだ、先輩は。
鬼は邪魔な秋久を影のように濃い闇を纏った腕で殴り弾いた。
地面に埋もれるようにして秋久は倒れ込む。
時間稼ぎにもなっていない。
俺たちは必死に神社の周りを回るように走って逃げ回ったが五分は意外と長い。
体力が限界になり、走る足がもつれてしまい、俺は無様に転んでしまった。
鬼はそんな俺目がけて襲いかかろうと勢いを増して――
「鬼ともあろうものが人の作った呪いに従順なのか。つまらんな」
侮蔑混じりの声が響きわたった。
巨大な影のような鬼はその声のしたほうを睨みつけるように顔を向けた。
冬彦だ。
撃たれた箇所を手で押さえながら青い顔をして立っている。
「冬彦」
そう俺が名を呼ぶと彼は必死の形相で怒鳴ってきた。
「馬鹿が、この程度でお前が諦めてどうする!」
「……す、すまない……怪我は大丈夫なのか」
「大丈夫なわけないだろう。見てわからないのか」
そう言って冬彦は足を引きずりながら鬼に向かって行く。
「呪いに引きずられ卵の糧であった人間を殺しに行く。せっかく産まれたんだ。もっと他のことに目を向ける気はないのか。余裕のない奴だ」
そう言う冬彦の言葉にキアラも何か思いついたようで彼女も言葉を続けた。
「私は呪いの一部だった。きっと冬彦くんが真実を言ってくれなかったら最後まで呪いの思い通りに状況をかき回していたと思う。……あなたは呪いの道具でいたいの? このままでいいの? 何のために産まれたの!」
キアラの言葉に鬼に纏わり付く影が大きく震えた。
まるで感情を持って動揺しているようだ。
「……自分の意志はないの……? 何もかも呪いに操られたままなの? 今こうして生きている自分が本当に自分自身なのかわからないまま存在し続けて苦しくないの? もっと自分というものが何なのか知りたくないの? 知ろうとは思わないの? 自分の気持ちは本物なのか……知りたくないの……?」
それは。
俺は胸が苦しくなって思わず目を伏せた。
まるでキアラが自分自身について嘆いているような叫びだったからだ。
――ウォォォォーン
キアラの悲鳴のような声に呼応するかのように、鬼がはじめて鳴き声のようなものを発した。どこか悲哀に満ちた、胸の震えるような響きだった。
やがて神社の入り口の鳥居の下に御子神先輩の姿が見えた。
「……先輩」
そう俺が呼ぶと彼女は弱々しく笑んだ。
「ありがとう、もう十分よ」
口だけの動きで彼女はそう言うと、像のようなものを空に掲げた。
眩いオレンジ色の光が辺りに満ちる。
まるでこの世とは思えない幻想的な光景に俺は呆然と眺めるしかない。
やがて光が晴れると、そこには鬼の姿はなかった。
先輩の力で解呪できたのか?
いまいち実感がわかない中、俺はキアラの姿を探し求めると、
「あ、ああ……」
思わず呻き声が漏れ出た。
「先輩」
ああ、やっぱり彼女の姿が消えかけていて――
キアラの姿は消えかかっていた。
足先から既に透明になりかけている。向こうの景色がうっすら見えた。
キアラは俺を見て力強く笑ってくれた。
今にも消えようとしている存在なのに弱々しさを一切感じさせずに。
泣き出しそうな俺をどこか安心させるような、あやすような。
母親のように慈愛に満ちた表情だった。
キアラは俺に近づいてきた。足が消えかけているためか、どこかぎこちない動きだった。
「……キアラ」
俺はもう一度名を呼んだ。
名前を呼ぶしかできなかった。
「先輩、私の我が儘なんだけど、お願いを聞いて欲しい」
そこまで言って彼女は首を横に振った。
「やっぱりいい」
「なんだ。何でもいい。言ってほしい」
「言ってもいいけど、先輩はその言葉を聞くと後悔しそうだから。思わせぶりな言葉を言った挙げ句に、こんなことを続ける私は嫌な人間だね」
俺は奥歯を噛みしめる。
彼女に何を言えばいいか。
何を口にしたら彼女を喜ばせることができるのだろうか。
――……自分の意志はないの……?
ふと、先程キアラが洩らした言葉を思い出した。
あんなに苦痛に満ちた顔で見ていて痛々しくなるような感情を眼に宿していて。
あんな顔なんて見たくない。
そう思った瞬間、言葉は自然に出ていた。
「キアラはキアラだ」
何もかも呪いに操られたままなの?
「何にも操られてなんていない。ずっとキアラらしかった」
今こうして生きている自分が本当に自分自身なのかわからないまま存在し続けて苦しくないの?
「苦しむ必要なんてない。誰が見てもキアラはキアラだ」
もっと自分というものが何なのか知りたくないの? 知ろうとは思わないの?
「そんなに自分を疑わないでくれ。俺にとってはキアラはキアラ以外の何者でもないのだから」
自分の気持ちは本物なのか……知りたくないの……?
「キアラの気持ちは本物だ。だって俺がそう感じているんだから」
そう続けざまに言うとキアラは一瞬だけ辛そうに眉根を寄せたが、すぐに柔らかく笑った。
そのままキアラは空を眺めると目を細めて言う。
「……先輩は私のこと、どう思っている? 最後にきちんと聞かせてほしい。たとえどれだけ答えはわかりきっていようとも」
そう、どこか疲れたような感情を双眸に過ぎらせた。
答えはもうわかりきっている。
「好きじゃないと助けに来ないよ」
「その好きはどっちの好き?」
俺は沈黙した。
多分、今のキアラには何を言っても伝わらないと思ったからだ。
だからこそ、そう。
俺は息を大きく吸い込むと、ぎこちない手つきでキアラの手を取った。
「こうして触りたいと思うのはどっちだと思う?」
「……」
キアラの頬が徐々に赤く染まっていく。
「……それは……期待していいの?」
どこか信じられないといった様子で彼女は瞬きした。
俺はゆっくりと頷く。
キアラはふんわりと笑った。
「どうしよう。すごく嬉しくて苦しい。……先輩は私のことが嫌いじゃなかったの」
「ああ、嫌いだった」
俺は間髪を容れず言った。
一瞬だけキアラの表情が曇ったので、慌てて俺は言葉を続ける。
「でも、そのキアラはキアラじゃない。どんだけ姿形が似ていようとも。今のキアラとは違うんだ」
キアラは目を伏せて弱々しく口元を弛めた。
どこか諦観したような双眸で俺を見上げる。
彼女の姿はほとんど消えかかっていた。
腕も足も、ほとんど見えない。
そんなキアラを見ていられない。
消えてほしくない。
ずっと俺の傍にいてほしい。
そんなことを口にしてキアラを困らせたくない。
だけど困らせたい。
ぐちゃぐちゃになった気持ちを持て余しながら俺は言う。
「キアラは俺のことをどう思っているんだ」
「好きだよ。だけど……」
キアラは強く笑いながら涙を零した。
「この気持ちが本当のものなのか、今でもわからないの」
キアラは俺の手を自分の頬へと触れさせた。
どくどくとマグマのような熱が伝わっていくようで困惑してしまう。
「……さっきも言ったけど、こうして触れあえて嬉しいんだが、俺は」
ようやく、それだけ口にした。
「……」
キアラは両目から大粒の涙を零した。
「先輩は私に触ってドキドキしているんだね」
その涙すら消えていってしまう。
「私の、この気持ちが偽物だとしても、先輩の、その気持ちは本物だね」
儚いのに力強さを感じさせる笑みで、泣きながらも嬉しそうに彼女は目を輝かせた。
「だったら、もういい」
そう、心残りなど、どこにもないと言うように。
「本当に……」
ゆっくりと深く感情を込めるように。
「たとえ偽物でも、もう一度先輩に好きだといえて、先輩の本当の気持ちを知ることができるなんて」
キアラは俺の手を愛おしそうに頬ずりすると、
「私、本当に――」
綺麗な涙をはらはらと零しながら――
キアラの姿は空気に溶け込むようにして消えていった。
あとには、どこにも何も存在しない。
今まで目の前にキアラがいたなんて信じられないくらいだ。
偽物や本物なんて関係ない。
ただずっと傍にいてほしかっただけなのに。
俺は既に失われた熱を想って虚しく泣いた。




