#39「橘希織花と桜キリカ」
「そう、箸でゆっくりかき混ぜて……そうそう! 渋谷顔負けのスクランブルじゃないですかぁ」
「渋……? それで、これをして何になるのですか?」
小屋のキッチンで、初めて作った料理──スクランブルエッグを見つめながら、キリカは橘に尋ねた。
「楽しかったでしょう?」
「楽しい……その気持ちは分かりかねますが。心拍は落ち着いています。不快感もありませんでした」
「それを楽しいって言うのですよー」
困惑しながらも、完成した料理から目を離さずにいるキリカを見て、橘は満足げに微笑んだ。
あれから3日。キリカは橘と共に、この隠れ家で、色々と人間らしいことをしてきた。
身体の洗浄だけが目的ではないリラックス行動、入浴。単なる研究プロセスに必要な情報のインプットでない、読書。失敗しても危険はないが、成功しても特に報酬もメリットも生まれない、ゲーム。
相変わらず仏頂面な同居人だったが、それでも橘には1つ、分かったことがあった。
「じゃ、頑張ったので……それっ!」
「…………っ」
キリカはどうやら、ハグが気に入ったらしいということだ。
キリカは不思議だった。
今までのように命令を受けることも、説明された研究計画に従って訓練を行うことも無い、今の生活に何の意味があるのか、分からなかった。
橘に世話されながら、この小屋の中で生活することが、本当に適切なのか分からなかった。否──適切とは、正しい生活とは何か、そもそも自分がなんのために生きているのかすら、彼女は知らなかった。
それでも彼女自身、明確に気付いていることもあった。
「あ! 洗濯物、取り込んでくれたんですね。ありがとうございます」
「……はい」
自分がいつしか、何の命令もなくても、自発的に行動を起こすようになっていた、ということだ。生活・イコール・研究者に与えられたタスクの処理であったキリカにとって、初めてのことだった。
「もうすぐこっちの縫合も終わりますから、そしたら一緒に畳みましょうか」
リビングでズボンの破けた部分を縫い合わせながら、橘はキリカにそう呼びかけ。
「了解。待機します」
「よろし──痛った!?」
「?」
そして、驚き半分、痛み半分といった調子で声を上げた。
「緊急事態ですか?」
「あははー……針、指に刺しちゃいました。よそ見しちゃダメですよね」
咄嗟に駆けつけたキリカに対し、苦笑いしながら、橘は指を舐めて。
「やばっ、結構血出てる……ティッシュどこだっけ? もー、救急箱のひとつも無いもんなーここ……私の怠慢だけど」
ずいぶん深く刺してしまったらしい。人差し指からたらりと流れる鮮血に焦らされながら、橘はリビングに置いていたはずのティッシュを探し回った。
「やばっ、床垂れちゃった……あー、やっと見つけた」
目当てのものは、いつの間にかテーブルから落ちて床に転がっていた。橘は急いでティッシュを2枚だし、1枚で床を拭い、もう一枚で傷口を押さえつけた。
これで一件落着だと、橘はそう思っていた。
どさっと、何かが崩れるような音が聞こえなければ。
「? キリカ?」
橘が振り返った先で。
「…………血、が」
キリカは、糸の切れた人形のように、力なく床に膝をついていた。
幼いその身は、痛ましいほど震えていた。
「キリカ? 大丈夫ですか? すみません、血が怖いとは知らなくて……」
橘は座り込み、キリカの顔を覗き込んだ。息が荒くなり、冷や汗までかいているその様は、尋常ではなかった。
「……怖くなんて、ない」
「え?」
「怖くなんてなかった! なかった、のに……だって、実験で、人が血を出して死ぬ所を、たくさん──」
記憶を思い出しながら呟いていたキリカは、ふと言葉を止めた。
気付いてしまったから。
「……私、殺した……命を、だいじにって……橘先生、言ってたのに……ころした……?」
恐る恐る呟きながら、キリカは震えていた。恐怖など、知らないはずだったのに。
(まさか……クソッ! 馬鹿だ、私は……!)
橘は、己の至らなさを胸中で嘆いた。喜怒哀楽も知らない少女が不憫で、感情を理解させてやりたかった。だけど、そうして感情を知り、人の痛みに同情出来るようになったことで、彼女が自分の過去に対して何を思うのか、まるで予測できていなかった。
「わ、たし……わたし……」
少女は、震え続けていた。"いたずらをして、母親に叱られる"──普通の子供は、そんな些細なことで"罪悪感"と"反省"を学んでいく。そのプロセスが彼女には無かった。
「ッ……!」
取り返しのつく小さな失敗と、その反省。そんな"慣れ"を経験してこなかった少女が、人殺しという取り返しのつかない巨大な罪を、その罪悪感を突然背負わされたらどうなるか。それを考えなかった自分自身を、橘は恨んだ。
「キリカ!!」
だけど。だからこそ。橘は壊れそうな少女を、繋ぎ止めるように抱きしめた。1番してはいけないことをしてしまった償いに、彼女が1番喜ぶことをした。
「希織花さん……どうして?」
「……?」
「どうして……どうして私を助けたんですか……!? あなたがここへ連れて来てから、私はどんどんおかしくなる……こんな痛み、今まで感じてなかったのに……こんな怖いものを、どうして私に与えるんですか……!!」
少女は、何もかもを知らなかった。"真意を汲む"ということもまだ出来ず、今ある恐怖を他人のせいにすることしか出来なかった。皮肉にもそれは、とても幼子らしい責任転嫁だった。
「1人でいると、辛くなってしまうのも……何かを怖いと感じるのも……ずっと実験体のままでいれば、こんな無駄で辛い思い……しなかったのに……!!」
「……キリカ。私の目を見てください」
涙でにじむその瞳を、橘はまっすぐに見つめた。
「ごめんなさい。きみを怖がらせるつもりは無かったけれど、私の愚かさがこの事態を招いてしまいました。でも信じて。その感情は、君のために絶対に必要なものなのです」
「でも……でも、これは、痛くて辛いだけなのに……」
「それでも必要なのです。その痛みをこらえて、恐怖を乗り越えて頑張って……その先で何かを成した時、人は初めて人間らしい幸せに出会えるんです。生きてて良かったって、本当の意味で思えるのですよ」
だから──橘は、まっすぐな言葉を紡ぎ続けた。
「無駄だなんて言わないで。約束します。いつかその痛みは、最高の幸せに変わっていくと」
「変わらない……変われない! 私は実験体で、おかしくて、人間じゃない……兵器、だから……!」
「違います。いつだって、何度だって、人は変われます。きみだって、いつか心の底から笑えるようになります。だから私は、魔法官の立場をぶん投げてまで、きみを助けたんじゃないですか」
「でも……だって、私はあなたとは違います! あなた達のような、普通の人間とは──」
「普通ではないのですよ」
そう言うと、橘はシャツのボタンに手をかけた。一つ一つ外して、それをそっと脱いで。
「何を……」
「じゃーん。お揃いなのです」
「…………ッ!?」
キリカは涙ぐんだまま、息を呑んだ。
橘の素肌には、いくつもの注射の痕と、常人が経験するはずもない量の手術の縫い痕が刻まれていた。
「私の頃は、今の研究よりアナログでしたからねー。ほら、こことか麻酔無しで切り開かれまして、死ぬかと思いました」
そんなことを、彼女は飄々とした様子で語ってみせた。無理やり笑い飛ばすような語り草だった。
彼女は、キリカと"お揃い"だったのだ。親の顔を知らないことも、カプセル暮らしも、その身に血を浴びて生きてきたことも。
「……あなたが、私を助けに来たのは」
「まあ、魔法官としての正義感とか、大人としての責務とかもありますが……それ以上に、助けたかったのです。私と同じ子供達を。私と同じように、いつか変われるって知って欲しくて」
それは、キリカにとって最大の衝撃だった。
「だから、どうか信じてください。私の言葉を」
夢ができたのは、初めてだった。
「…………はい」
この人のようになりたいと、心の底から思えた。
「震えは止まりましたね。外がなんだか騒がしいので、ちょっと見てきます。きみはしばらく休んでください」
「はい……その、すみませんでした」
布団に寝かされながら、キリカは出かけ支度をする橘に言った。
「気にしないで。どうでしょう? まだ、感情って邪魔だと思いますか?」
問いかけながら、橘はキリカの小さな手をそっと握った。
「分かりません……だけど、この温かさは、しばらく忘れないでいたい……かも、しれません」
なんだか言うのが恥ずかしい。これも感情というやつの一つなのだろうか──橘から目を逸らしながら、キリカは思った。
「それならよかった。それじゃあ、しばらくおやすみなさい」
そう言って、笑顔で手を振ると、橘は小屋の外へと出て行った。
キリカは、しばらく眠りについた。
目覚めると、快晴だった空には灰色が差していた。時刻は夕暮れに近くなっていた。
「希織花さん……?」
カプセルと違って、布団というのはリラックス効果が高すぎる──などと思いながら、キリカは小屋の中を探し回った。しかし、彼女の姿はない。
「外……? あっ」
ドアを開けて歩いてみると、数十メートル離れた所で、人影が見えた。気にもたれかかる女性。間違いない、彼女だ。
「こんなところで眠って……希織花さん?」
確かに、森の中にも関わらず、彼女は眠りかけていた。
「……………………き、りか」
「ッ!? 希織花さん!!!」
二度と覚めない眠りへと、落ちようとしていた。
指の血など比較にもならない、腹からどくどくと止まらない鮮血が、それを物語っていた。
ああ、ダメだ。私は出血などしていないのに、貧血状態のようにクラクラして仕方ない──頭の理解が追いつかないまま、半ば倒れ込むように、キリカは橘の隣に座り込んだ。
「何が……何があったんですか……!?」
「どうやら……中東からの、刺客です。無理矢理にでも、きみが欲しい、ようで……大丈夫、殲滅しました。奴らは、時間も資金も、無限じゃない……これ以上の、増援は……当分は、無いでしょう」
そんなことは、キリカにとってどうでも良かった。
それよりも、彼女を救う方が──どうやって? 応急処置? ここに道具はない。布で止血を試みてはいるが、そもそも既に流れてしまった血があまりに多すぎる。
救急車を? 連絡手段は橘が破棄した。病院へ連れて行く? 山中の森林から、死にかけのこの女性を背負ってなど、無理だ。
魔法で? 無理だ。桜キリカの魔法は、人を殺傷する能力に特化して調整されている。回復の魔法など一つも無い。
「あ……あぁ…………」
何の役にも立てない。彼女は、自分を救ってくれたのに。
彼女を死なせてしまう。自分を追ってきた刺客のせいで。自分のせいで。
「大、丈夫、ですから……きみの、せいじゃ、ない」
ああ──敵わない。
自分の末路を分かっているはずなのに、その原因となった少女に対して、かける言葉がそれか。
「でも……私が、いなければ……」
「いいえ……ぜんっぜん、後悔なんて、してません。私自身の、願いでも、あるから……それに、君に会えて……この、数日、とても、楽しかった」
これから死ぬという時に、あなたは笑うのか。
「それでも、悔やむのなら……私の、たのみを、聞いて」
「聞きます……何だって聞きます!! だからッ──」
「……私の、分まで、人を、助け続けて……君の、魔法なら、できる。そうだ……先生に、なりませんか。たのしい、ですよ……先生」
「嫌……希織花さん!!」
「……そうだ。これを」
震える指で、橘は胸ポケットから青い小さな紙を取り出した。魔法陣が描かれたそれは、雲間から差し込む陽の光を受けて、みるみる焼き消える。
「30分、後に……ある、大学、教授が、ここへ来ます……大丈夫。きみを、守って、くれる人です……わたしの、時も、そう、だったから」
事実だった。後にキリカは、私立大の善良な魔法学博士の下に匿われ、数年の時を過ごした。
「駄目…………喋らないで…………」
だが、この時のキリカは、自分の身のことなどどうでも良かった。
「えと、あと……なんだっけ………………いっか。もう」
なんて、あはは──そう笑う橘の鼓動は、どんどん弱くなっていた。体の力は抜け、今にも消えてしまいそうだった。
「ね、キリカ……わたしと、いっしょにいて、たのしかった……?」
楽しい。最初は知らなかった感情。
「…………楽しいって気持ち、わからないけど…………でも!! あなたの、ぬくもりが……だいすきでした………………!!」
今はきっと、この涙と胸の熱さが答えだ。
「え、へへ……よかったぁ」
呼吸が浅くなる。声が遠くなる。彼女はそこにいるはずなのに、無限の隔たりの向こうへと去っていく。
「……しろがね……がんばれ……まさ、むね……しっかり、まえだけみてね……」
去り際に彼女は言い遺した。
「…………きり、か…………だいすきだよ」
永遠に祓えない呪いを。
永遠に消えない愛を。
「……希織花、さん……………………?」
その呼びかけに、彼女は二度と答えなかった。
そうして、橘希織花は終わった。
そして、桜キリカが始まった。




