#38「M8-103と橘希織花」
その日、8歳のその少女は、中東のとある紛争地にいた。
『103、目的はテロ勢力の殲滅だ。攻撃方法はお前に一任する。標的は黒いエンブレムを掲げた戦車と歩兵だ、間違えるなよ』
耳元の無線機に、無感情な男の声が聞こえてくる。
「〜〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜!!」
一方で、少女の目の前からも声がした。黒を基調とした服の、武装した男達が発するその言語は、彼女には分からない。だが向けられた銃口を見るに、その意図は察することができた。
「……殲滅します。"シュトナ"」
たった一言。たった一度掲げた右手。
そのせいで、1人の兵士の生涯が幕を閉じた。
「!? ーーーーーッ!!」
隊長らしき男の号令で、何百もの銃弾が少女に浴びせられた。
その一発は少女の肩をかすめた。鋭く不快な痛みと、肉が燃えているのかと錯覚するほどの熱に、彼女は顔をこわばらせた。
だが、それだけだ。他の凶弾は全て、彼女の目の前で弾かれて消えた。そこにある、白く輝く防壁によって。
そして、か弱い少女が蜂の巣にされる様を見てなお、無線機の向こうの男達は、彼女を心配も哀れみもしなかった。
『推測通り、"仮称・物理防壁魔法"の精度は約95%。急所は防御したが末端に負傷。精密操作訓練の不足が原因と推定。記録しておけ』
『はい』
代わりに、無機質に記録をとった。少女という、たまたま二足歩行をし言語を操り魔法が使えるだけの、人権も何も持たない実験用マウスの記録を。
「!? ーーーーーッ!!!」
血しぶきを浴び続ける少女は、そのことに疑問など持っていなかった。
『素晴らしい戦果ですね……本格的に商品化を進めて良いのでは?』
『ああ。飯を食わせ眠らせるだけで体内マナを回復し、何度でも戦える最強の生物兵器……これをこの紛争地帯に売り出し、我々は新しい時代の武器商人になるのだ』
自分が生涯モノとして扱われることにも、何の感情も持っていなかった。
あの日までは。
ある日、実験用カプセルの中で眠っていた少女は、けたたましい警報の音で目を覚ました。完全防音のはずのカプセルの中から、なぜ警報音が聞こえたのか。
「い、103!! す、すぐにあの侵入者の暴走を止めろォ!!」
彼がカプセルを開けたかららしい。この非合法研究施設の研究者の1人であるその男は、少女に向かって叫んだ。大の大人が、少女に向かって、助けてくださいと。
「了解」
少女は渋る様子もなく頷き、カプセルの外へ足を踏み出した。しかし、侵入者と言われても具体的には今どこに──
「よいしょおッ!」
「ぶへぇ!?」
──ああ、この人物か。
先の研究者を殴り飛ばし気絶させたその短髪の女性は、防弾チョッキの上から青いジャケットを羽織っていた。
ジャケットに縫い付けられたエンブレムを、少女は知っていた。魔法官──魔法にまつわる事件の捜査・解決に当たる、専門の警察官──その証である。
「ふぅー、これで全員ですね。いちいち峰打ちで済ませるのも大へ……おや? すっぽんぽんの女の子……?」
その女性は、少女を見て目を丸くした。
「なるほど。子供を使って人体実験をしている施設という話は、本当だったようですね……大丈夫ですか? おうちはどこか言えますか? 大丈夫、私は警察の人間なのです」
女性はそう言いながら、脱いだ青いジャケットを、少女に羽織らせた。
「家……私生活のための居住地。私にはありません。生まれた時から、ここにいるから」
「…………そうですか」
その話ぶりは8歳児にしては流暢過ぎるということすら、少女は知らなかった。だから魔法官の女性はあっけにとられ──そして、少し悲しそうな顔をした。
「辛いでしょうが、確認をさせてください。君はここにいる人達によって作られ、自由を奪われ、薬品を投与され、そして紛争地などで戦闘実験をさせられた。合っていますか……?」
「? 何が辛いのか理解しかねます。ですが、すべて事実の通りです」
「…………っ」
涙。それは、心に強いストレスを感じた際などに、目から水滴がこぼれる生理現象。
それが何故今、目の前の彼女の目からこぼれるのか、少女には分からなかった。
「……ごめんなさい。えっと……君と同じような実験体の子は、他にここにいますか?」
「いいえ。他の個体は出荷、あるいは処分され、今は私しかいないと聞いています」
「分かりました。では見回りでそれを確認したら、君も私と一緒に行きましょう」
その言葉と共に、自分に向けて差し出された手を、少女はじっと見つめた。
「……何故でしょうか。私に下された命令は、あなたの暴走を止めろというものです」
「? なーんだ、それならもう達成されています。ほら私今、暴走してるように見えますか?」
「いいえ。あなたは平静状態そのものです」
「ですよね? はいっ、他の命令も無い! じゃあ私が命令しちゃうのです! さっ、帰りますよ!」
そうして女性は、少女の手を無理やり引っ張っていった。
「……あっ、申し遅れました。私、魔法官の橘希織花と申します!」
そう言葉を添えながら。
そうして連れてこられたのは、辺境の小さな木の小屋だった。
「ここが、あなたの家ですか? 人間の生活圏から離れているようですが」
「いえいえ、実家じゃなく緊急の隠れ家なのです」
「?」
緊急? それは、何に対して?
「ごめんなさい。さっき、魔法官──警察として、君を助けに来たと言ったのですけれど」
少女が尋ねるより早く、橘は語り出した。リビングのテーブルにティーポットを置きながら。
「あれは嘘です。いえ、研究所を制圧して君を保護するという所までは命令に従いましたが……君を警察上層部に、引き渡すわけにはいかなかったのです」
ぶかぶかのジャケットに包まれながら、少女はぽかんとして橘を見つめている。
「君は彼らに、中東に武器として売り出すために作られていたようなのですが……そういう国際問題が関わっているのです。中東やその他各国との関係悪化を避けるために──」
橘が二つのティーカップをテーブルに並べるのを、少女はじっと黙って見ていた。
「まあ、その……警察上層部は、表向きは保護したように見せかけて、中東に君を無償で譲り渡そうとしていたのです。売買はそっちで勝手にやれ、ってね」
かたん。橘が手を滑らせ、片方のティーカップを倒した音だった。
「私としては、それが許せませんでした。君の人権を無視した行いが、どうしても……だから、命令に背いちゃったのですっ」
てへっと、橘は年齢に見合わない仕草をして見せた。重苦しくなった空気を、誤魔化すかのように。
「……理解できません。あなたが私を匿うメリットが、理由がありません。私を上層部に引き渡せば、あなたは反逆者にならずに済むどころか、仕事を果たしたことで評価すら──」
「理由ならあります」
少女にとって、"初めてのこと"というのは、しばらく経験していなかった。
カプセルでの生活は、赤子の頃から経験していた。薬剤投与も、学習も、魔法の訓練も、実戦も、今の生活の中で行う活動は全て、幼い頃からすでに繰り返し続けていたことばかりだった。
だから、それは衝撃的だった。
「私が、不幸な目に遭う子供を、どうしても助けたかった。それだけでは不十分ですか?」
人に抱擁される──それは、初めてのことだった。
体温が二つある。それが混ざり合って──そんなはずはない。混ざり合うはずはない。
危険だ。仲間でもない者に、ここまで接近されるなど。ありえないが、今ここで攻撃をされたら──なぜ? ありえないと、今、なぜそう思った?
なぜ? なぜ自分は、この腕を振り払わない? 危険だとわかっているのに、なぜ? なぜ? なぜ? なぜ? なぜ?
「………………っ」
このなみだは、なに?
「……あなたは……この魔法は、なに?」
「魔法じゃありません。人の本能なのですよ。兵器じゃない。君は、人です」
着信音が鳴った。数十秒後の出来事だった。
「あっ……もー、せっかくカッコつけていたのに……おや、銀から。しばらく顔を出せないって言っておいたのに……あ、てかスマホも足つくから捨てとこうかな……?」
涙をぬぐい終えた少女は、独り言をぶつぶつと漏らす橘をふと見上げた。
その手元のスマホには、ピンク色のカバーがついていた。そしてそこに、白い線で模様が描かれていた。
「……花……?」
「ん? ああ、この花ですか? 綺麗でしょー、桜という名前なのですよー……あっ!」
はっとした直後、橘はすたすたと少女に歩み寄って来た。
「そういえば、お名前がまだありませんよね? さっきは番号で呼ばれていましたし……えと、なんてお呼びしましょうか?」
「103番、と」
「そうじゃなくて、人間の名前ですよ! 何かありませんか? こう呼ばれたいとか」
「…………」
名前。普通は親や祖父母が子や孫に付けるもので、その人の願いを込める。だが少女には、心なき兵器だった彼女には、願いなど無かった。
否。"無かった"だけで、"今も無い"わけではない。
一つだけ、嬉し涙を流させたもの。目の前の、彼女の温もり。まだどういうものか分からない、不思議な感情。それをそばに置いていたい。
「…………きりか」
それが、唯一の願い。
「へ? え、私と一緒!?」
「いけませんか?」
「や、良いのですが……んー、じゃあこうしましょう!」
橘は、スマホの画面にぽちぽちと文字を記して。
「『桜キリカ』! 今日からよろしくお願いします、キリカ!」
画面の4文字を少女──キリカに見せながら、橘はにこっと笑った。




