22.sideアヴィスト
それは本当に、なんの前触れもなく現れた。
いつも通りに訓練をしていただけだ。いつも通りに、リランが無茶苦茶な連戦をして、騎士も魔術士も誰一人としてリランに膝をつかせることができなくて。訓練が終わった者は、騎士団長とサネルガに助言という名のシゴキを貰って。俺はリランが倒れないか、気が気じゃないまま見守っていて。
いつもと違ったのは、エナーシャ王女がご見学にいらっしゃったことだけだろうか。それが引き金だった訳ではない。偶然居合わせただけだ。だが、こんな最悪な偶然は、誰も望んでいなかった。
「なんだ……?」
サネルガの呟きには、多大な警戒心が含まれていた。かく言う俺も、目の前に突如として現れた“奴”の魔力の気配に、頭より先に身体が反応していた。己の半身とも言える愛剣を抜いていた。
どういうことだ。何故、マイリーから“奴”の──“魔女”の気配がするんだ。さっきまでリランと戦っていた時は、間違いなくマイリーの魔力だけだった。それが何故、急に“魔女”の魔力の気配を纏って立っているんだ。
リランがエナーシャ王女を背中に庇い、護衛騎士が剣を構える。この場にいる誰もが、マイリーの変化に戸惑いを浮かべながら各々の武器を手にしていつでも動けるように準備している。緊迫した空気が満ちる。固唾を呑んで現状把握に努める団員たちの中心で、リランが誰何した。
『誰ですか、とは、随分他人めいた言葉じゃなあ?』
──俺は、その話し方を知っている。
瞬時に脳裏に蘇った、衝撃的な記憶。
思わぬ形で成された、最悪な再会。
今でも耳に張り付いている、「殺して」という言葉。
あの時の表現できない感情が、ブワリと身体の奥底から湧き上がってきた。視界が真っ赤に染まり、反射的に“魔女”に斬り掛かろうと動いた。いや、動こうとしたところをサネルガに止められて、怒りのままに怒鳴り散らさんと口を開き掛けた。だが、目の前の奴の険しい横顔と、一瞬たりとも獲物から逸らさない真剣な眼差しに、ハッとさせられる。
「待て、アヴィスト。まだだ。エナーシャ王女が近い」
「…っ」
「リランちゃんが庇ってる。もう少し距離が取れてからだ」
「……ああ」
殺気立ちながらも冷静にこの状況を分析するサネルガに、溜飲が下がり、意識して息を吐く。そうだ、落ち着け。好機を待たないとエナーシャ王女も含めて、この場にいる全員が殺される。タイミングを見計らうのに努めなければ。
頭に昇った血の気も引き、視野も広くなる。リラン、エナーシャ王女、護衛騎士、マイリー…いや、“魔女”の四人を囲い、団員たちはいつでも戦闘を開始できるように構えている。恐れる気持ちもあるだろうが、ここにいる全員が魔女討伐を目標に掲げて、これまでの訓練を受けてきた。ただひたすらに、“魔女”を斃すために。いつか対峙した時に、少しでも喰らいつけるように。──そのいつかが、今この時だ。
『久しいのう? 元相棒よ。また共に血の海を作ろうではないか』
リランへ掛けられたこの言葉が、戦闘開始の合図になった。
ヒュンッ…という空を切る音とバチン!という何かを弾く音が、間を置かずに訓練場にいる者たちの鼓膜を叩いた。二つの音の出処は、この騒動の中心。“魔女”の攻撃魔術とリランの防御魔術がぶつかり合ったのだ。二度、三度と、攻防の音が連続して彼女たちの間を飛び交う。
魔女は己の足元から炎の筋を幾つも作り出し、それらを鞭のように撓らせて多方向から攻撃している。一方、リランは円形の水の膜を張って炎の鞭を相殺している。縦横無尽に繰り出される魔女の魔術操作力と、相手の攻撃力に劣らない強度を備え対抗するリランの魔術操作力は、一般術士のそれとは段違いのレベルだった。
──入り込む隙がない。
──援護どころか、足手纏いになる。
そう直感的に理解させられるが、それでも万が一に備えて体勢を整えておく。いつでもリランを助けられるように。
『ハハハッ! 善い、善いなあ! やはり妾の目に狂いはなかったということじゃ!』
攻撃の手を止めずに、口角を歪ませて魔女は嗤う。戦うことが、他者を傷つけることが、心の底から愉しいのだと言わんばかりで、強い嫌悪感を抱く。
何故、他の生命を脅かすのか。
何故、他者を恐怖へと追いやるのか。
何故、嗤っているのか。
何故。何故。何故──。
魔女に対する“何故”が数え切れないほど脳裏に浮かび、そのまますぐに憤怒へと変換されていく。
他人を言葉で貶し魔術で痛めつけるその姿が、お気に入りの玩具で遊ぶ幼子のようで、ただただ娯楽の一つとしか思っていないのだと理解させられる。こんな、相手の気持ちも考えず自分勝手極まりない奴に、生活が、日常が壊されるなど許せるはずもない。ましてや、愛する家族や恋人、親しい友人たちの生命が奪われるなんて。
剣を握る手に、ギリリと力が入る。ドクドクと速る心臓を落ち着かせるために、細く長い息を吐く。好機を、憎き相手に一太刀浴びせる瞬間を逃さないように、瞬きすら惜しんで目の前の戦いを見つめる。
視界を一点に集中し過ぎて耳鳴りがし始める中で、小さく…空耳かと思ってしまうくらい小さすぎる声が耳を掠めた。視線を動かすことはできない。だから、発声の方向と声音で誰だかを推測する──が、こんなタイミングで何かをするのは一人しかいない。なんの魔術を展開させようとしているのかは判らないが、サネルガのことだ、魔女とリランの均衡を崩そうとしているに違いない。そう予想して、俺は彼が作り出すその一瞬を逃すまいと、重心を下ろして剣を構え直す。
「……アヴィスト、行けるか」
「あぁ」
「まずはエナーシャ様たちを」
「分かった」
まずはエナーシャ様と護衛騎士を安全圏まで避難させる。そのための隙を作れと、サネルガは言っているのだ。今はリランが背後で二人を庇っているが、均衡状態の中で無闇に動けば攻撃が当たるかもしれない。それが解っているからこそ、護衛騎士もエナーシャ様を守りながらもその場を動けずにいる。リランもエナーシャ様の安全が確保されなければ、攻撃に転じられず防戦一方のまま魔力が削られていく。今の状況が続けば、ジリ貧になるのは目に見えて解る。だから、そうなる前に手を打たなければならない。
細く、長く息を吐く。肩の力を抜き、足先と指先へと力を込める。視界の端に、護衛騎士が僅かに身動いだのを捉える。恐らくサネルガがアイコンタクトを送ったのだろう。優秀な騎士は、それだけで理解したと思う。
大丈夫。前回よりも強くなっているはずだ─俺も、サネルガも、ここにいる仲間たち全員。リランに教えてもらった、身体に叩き込んでもらった、“魔女”の戦い方と応戦方法。それを今この場で発揮せずに、一体いつするというのか。
剣を下段に構えて腰を落とす。上体と重心を前方へと移動させ、合図と共に飛び出せるようにする。
「───今だっ!」
サネルガの声が響く。最初の一文字が鼓膜に届いた瞬間、俺は一気に“魔女”の許へと駆け出した。魔術の応酬の真っ只中へと飛び込むのは、自殺行為と同じこと。それは無魔でも解ることだから、有魔である奴にとって今の俺は無鉄砲に突っ込んできた非常識な邪魔者だ。俺を認知したその黒い瞳が僅かに見開かれ、驚愕の表情が覗く。そしてその、ほんの一瞬の間だけ攻撃のタイミングがズレた。
それを逃すはずがなかった。
伊達に戦場を潜り抜けてきた訳ではない。戦場において、たった一瞬の油断や緊張感の変化が戦況を一変させるということは、エナーシャ様を除いてここにいる全員の頭に刷り込まれている。
サネルガの防御魔術がエナーシャ様の目の前に展開され、同時に護衛騎士が彼女を抱えて安全地帯まで後退する。他の魔術士数人がサネルガに代わって、エナーシャ様の周りに防御魔術を張り、自分たちも魔女から距離をとって攻撃されにくい位置に着く。そして彼らの前に立ち塞がるように騎士団長が陣取れば、エナーシャ様の安全はほぼ確実と言っても過言ではない。
他の騎士たちも、魔術士たちの前に配置取って陣形を組む。“魔女”に対抗し得るのは、同じ魔術を扱う魔術士たちが要だ。物理攻撃も効かないことはないが、遠距離攻撃が主な奴に接近戦へと持ち込むには、かなりの能力を望まれるため分が悪い。決して仲間たちが弱い訳ではない、相手が強過ぎるが故の苦肉の策だ。
全てが、一瞬の出来事だった。俺が飛び込み、奴に一太刀浴びせんと腕を振るうまでの、たった一瞬の。
──だが。
「アヴィスト!」
リランの叫び声にハッとさせられるのと、己の足下から何かが膨れ上がったのは、ほぼ同時だった。咄嗟に踏み止まり、剣を身体の前に移動させると、ガガガッと鈍い振動が伝わってきた。無理やり重心をズラして、その場から離れる。距離を取って初めて、何が起こったのかを理解した。
つい先ほどまで俺が居た場所には、先の尖った岩が飛び出ており、向こう側から炎のベールが覆い被さろうとしていた。あと少しリランの声かけが遅かったなら、あと少し後退するのが遅かったなら、俺は無事では済まなかっただろう。冷や汗が頬を伝い、心臓が忙しなく動いている。油断していたつもりはなかったが、“魔女”の技量に改めて恐さを識る。
「アヴィスト、怪我は!?」
「ない。大丈夫だ。ありがとな」
「そ…、無事なら良かった…」
並び立ったリランのホッとしたような声が鼓膜を掠める。心配させた申し訳なさと情けない姿を見せた羞恥が同時に襲ってきて、なんとも言い難い気持ちになる。だが、そんなことを気にしている場合ではない。
「リラン、この後はどうする?」
「もちろん、──」
リランとおおよその攻撃計画を立て、それを団長とサネルガに伝える。もちろん視線で、だ。
その間、リランが単発の攻撃魔術を次々と発動させ、“魔女”の気を引いてくれる。決して弱くはないリランの攻撃を、やはり奴は不気味な笑みを崩さずに無動作で防いでいく。
そこに、サネルガから指示された魔術士たちの攻撃が加わり、四方八方を取り囲まれる形となった。嵐のように激しく攻められているというのに、自身を防御魔術で囲ってしまえばいいのに、“魔女”は休む間もなく繰り出される攻撃一つ一つに対して、毎度ご丁寧に防御魔術を展開させている。それはもう、憎らしいほど完璧に。己との力量差を見せつけんばかりに。
『クックックッ…、微温い、微温いなぁ…。なんとまあ、稚拙な攻撃じゃこと。発動速度がまだまだ遅い。見なくとも、どこに来るのか手に取るように判るぞ!』
「あぁ、そうかよっ!」
敢えて目元を隠し余裕を表す嘲りの言葉を発するのに、サネルガが声を荒げて一段階攻撃力を上げた。それを合図に、魔術士たちもギアアップする。誰が、どこに、どの魔術を放っているのか分からなくなるくらい、怒涛の攻撃だった。魔術が相殺し合う光と土煙で、だんだんと奴の姿が見えなくなる。
攻撃の速度は、反撃されないギリギリの遅さから始めようと予め決めていた。俺たちを虫けら扱いする奴からの反撃はないだろうと予想していたが、それでも万が一があるかもしれない。だから、ギリギリ。その見極めラインは、リランに頼るしかなかった。それでも絶対とは言い切れなかったから、反撃してこなかった事実は予想通りとはいえ俺たちにとって幸運だった。侮られたまま、段階を踏んで攻撃を強くしていく。これが俺たちの計画だ。
この数ヶ月、リランに散々扱かれてきたのだ。比喩ではなく血反吐を吐くほどに、努力に努力を重ねてきた。何度も屈辱を味わわされ、闘志を燃やし、心身共に鍛え上げられてきた。それこそ、魔術の発動速度を調節できるくらいには。
数ヶ月前、圧倒的な強さを前に、文字通り手も足も出ない状況に恐怖し、絶望し、己の弱さに打ちのめされた彼らは、ここにはいなかった。これまでの鍛錬と仲間の力を信じ、強敵を相手に臆することなく戦える者たちが揃っている。怖さはある。だがそれ以上に、「討ちたい」という思いの方が強かった。
攻撃の中心地から、防御魔術の気配が薄まっていくのが分かった。これはいけるのではないか? そう思わずにはいられなかった、その時。
『──調子に乗るなよ、虫けらが』
畳み掛かる攻撃の合間から、地を這うような声音が響いた。瞬間、膨大な魔力が膨れ上がり全ての魔術が吹き飛ばされた。その余波は発動途中の魔術にまで及び、何人かの魔術士が膝を着く。
『黙っておれば、うるさい魔術を何度も浴びせおって。耳障りにも甚だし…』
「掛かれぇっ!!」
苛ついた“魔女”の言葉を遮ったのは、団長の野太い号令だった。一斉に動いたのは、騎士たち。選手交代だ。
団長の声に負けず劣らずの怒号を放ちながら、陣形を守りつつ斬り掛かる騎士たち。これまで魔術士たちが攻撃している間中、ずっと我慢していた滾る闘志を爆発させた。今度は物理攻撃の猛襲である。仲間の邪魔はせず、だが敵の命を刈り取るために手は止めない。一瞬でも攻撃の手を止めてしまったら、その隙を突かれて最悪全滅だ。ここを死守することが目下最重要事項なのだと、この場にいる者たち全員の共通認識である。
俺も他の騎士たちに混ざって剣を振るう。右、左、上、下。斬り上げ、振り下ろし、突き入れたら一歩下がる。緩急をつけ、タイミングをバラし、次の攻撃の予測を立てさせない工夫を幾つも混ぜ合わせながら、ひたすらに攻めまくる。──だが、一ミリたりとも奴に傷を付けることができないでいた。あれほどまでに魔術士たちの攻撃を受けていたにもかかわらず、魔力の減少を感じさせない防御の堅さに、舌打ちしたくなる。
己の剣が阻まれる感覚と、仲間の攻撃を防ぐ瞬間を観察する。神経を研ぎ澄ませ、“魔女”が操る魔力の流れを感知することを意識する。どこかに穴はないのか。俺たちの刃が届くための隙間が。
──“そこ”に気づいたのは、擦り切れそうになるくらい神経を張っていたからだと思う。
足を前後に位置させ、膝を折って低く低く…地面スレスレに這い蹲るような姿勢で構える。右手に剣を、左手は地面に着けて。ゆっくり息を整えながら、仲間の間の通り道を探る。
団長と目が合った。途端、俺の両隣にいる騎士たちに目線だけで指示を送る。すると彼らは、互いに半歩にも満たない分の距離を詰め合って“魔女”の意識を逸らしてくれる──俺が死角に入るように。この、一秒にも満たない間に成される判断と動きが、団長を最強足らしめている意味なのだろう。そしてその団長に鍛えられ上げられている騎士も、指示の内容を寸分違わず汲み取り、実行する。左の騎士が横薙ぎに、右の騎士がタイミングをズラして上から振り下ろす。どちらも魔術で防がれた──が、俺の狙いはそこだった。
防御魔術が解かれるのと、俺が地面を蹴るのは、ほぼ同じタイミングだった。俺の全力を以て“魔女”に肉薄し、そのスピードを活かして下方から突きを繰り出す。剣先を滑り込ませるのは、騎士たちが攻撃した中間地点。
故郷の仇。両親の仇。身体を乗っ取られた幼馴染みの苦しみの元凶。
この刃に、これまでの全ての憎悪を乗せて。
「──っはあ!!」
『っ…!?』
ガキィン…!と、ひと際高い音が鳴り響いた。
目を瞠る“魔女”と視線がかち合った。
漆黒の瞳の中で、ぐるりと感情が渦巻いた。
「くそっ…!」
失敗したことを悟った瞬間、俺は飛び退いて奴と距離を取る。
くそ、くそ! 防がれた。あと少しだったのに! あと数センチのところで防御魔術に阻まれ、俺の剣は奴に届かなかった。せっかく仲間が作り出してくれたチャンスだったのに、それをモノにできなかった。
これまで感じ取った魔力の流れから、気づいたことがある。近い箇所に展開された魔術が同時、若しくは僅かな時差を以て解かれた際に、魔力の余波が生じてその近辺に新たな魔術を発動させるのにタイムラグが生まれる。だから、俺は仲間の攻撃を防いだ魔術がなくなる一瞬を突いた……はずだったのに。
思わず悪態が口を吐いてしまうほど、俺は一気に焦燥感を抱いた。
──どうする。今の失敗が今後にどう影響するか。
警戒度を更に高め、息を詰めて奴の動向を注視する。俺の攻撃が失敗に終わったことを認識した仲間たちは、団長が指示するより早く奴から距離を取っていたため、”魔女“の近くには誰もいない。だから、誰も俯いてしまった奴の表情を窺えなかった。
騎士も、魔術士も、誰もが息をすることすら忘れてしまうほど、緊迫した空気がこの場を支配していた。瞬きすることもできず、指先一つ動かすこともできず。この張り詰めた状況に、キリキリと頭の奥が痛み始めたかと思った、その時。
ギロリ、と。
奈落を閉じ込めたような瞳が、俺を射抜いた。
ハッと息を飲んだ瞬間、視界にフワリと春が舞い込んだ。同時に、鼓膜が破れるのではないかと思わず耳を塞ぎたくなるほどの大きな衝突音が、眼の前から発せられた。
「アヴィスト、大丈夫?」
「……」
「……アヴィスト?」
「…っ、あぁ。大丈夫だ」
掛けられた声に、咄嗟に返事ができなかった。状況を把握できずに鈍くなっている思考でなんとか返せた言葉も、酷く曖昧な雰囲気を含んでいる。それでも、春色の彼女は「なら良かった」と、こちらを振り返ることなく安堵の声を漏らした。
──何も、反応できなかった。
気づいた時には、リランに庇われていた。“魔女”の一挙手一投足を見逃すまいと、瞬きも呼吸もせずにいたのに。攻撃対象の俺も、サネルガも、団長ですら反応できなかったのに。リランだけは、まるで俺に攻撃がくることを、そのタイミングすら事前に解っていたかのように動き、俺を守った。
「リラン、どうして…」
「……アヴィストに傷を付けられたからね。怒って攻撃してくると思ったんだ」
「傷……?」
小声で問い掛けると、同じく小声で返答される。俺が奴に傷を付けた…? 防御魔術が発動されていたのに?
疑問の呟きを聞き取ったリランは、「掌を見て」と促す。よく目を凝らすと、左の掌に薄っすらと赤い線が刻まれていた。あれを俺が? いつの間に?
「さっきの攻撃、咄嗟に左手で魔術の発動を補助したんだよ。アヴィストの剣と魔術が衝突した時に、剣の勢いまで殺せなくて余波が傷を付けたって感じかな」
リランの説明に、まさか、という思いが沸き起こる。完全に失敗したと思っていた。せっかくのチャンスを無駄にしたと思っていた。だが、そうではなかった。ほんの少しだが、“魔女”に一撃を与えられていたのだ。
『……ほんに、頭にくる奴じゃのう。やはりお前は、あの日に殺しておくべきじゃった』
怒りを抑えきれないといった声で俺を睨む“魔女”。その身体から放たれるビリビリとした威圧感と殺気が、より一層増しているのを肌で感じる。それに怖気づかないと言ったら、情けない話だが嘘になる。タラリと頬を滑り落ちるのは冷や汗だ。
『その、妾の不意を突こうとする攻撃の仕方が癪に触る…。二度も─しかも魔術の才能の欠片すらない、無魔にされるのが我慢ならん…。これまで殺した中で、一番手こずらされた彼奴の戦い方と全く同じじゃ。彼奴も無魔だった。よもや、彼奴と何か関わりがあるのかのぅ…?』
苛立ちを隠さないその表情で、口元を歪ませながらブツブツと話している。何かを見極めようとするかのように、スッと漆黒が細められた瞬間──一直線に春が飛び出し、突進していった。
ガリガリッ!と削り合わさる音が響く。リランも“魔女”も、各々が氷の剣を作って武器として使い、すぐさま斬り合いに発展していた。だが、そこは魔術士同士の戦いだ、当然合い間合い間に攻撃魔術も使っている。誰も立ち入れない、完全に二人の戦場だ。
「さっきから何訳の解らないことを言ってるの?」
『お前こそ何を言うておる。元相棒じゃろうが。覚えがあるのではないか?』
「意味が解らない。相棒になったつもりもない。そんなことより、マイリーさんを返して」
一瞬でも気を抜けば命取りとなりそうな戦いの最中にも関わらず、会話をする二人。今まで魔術士と騎士を相手にしていた“魔女”も、その“魔女”に引けを取らず互角に渡り合っているリランも、会話する余裕があるとは。それとも会話できるくらいの力で戦っているということだろうか。どちらにしろ、周りの俺たちは見ていることしかできない。
歯痒い思いで、それでもリランを助太刀する機会を逃すまいと、剣を握る手に力を込めた。
二人の戦いの均衡が崩れたのは、突然だった。
“魔女”の…いや、マイリーの両目から赤い液体がドロリと流れ出たのだ。
「なっ…!?」
『……ちっ、もう耐えきれなんだ。使えない身体じゃ』
「どういうこと!?」
『どうもこうも、妾の魔力に馴染まなかったというだけのことじゃ。この女の身体はもう仕舞いじゃ』
驚愕するリランとは対照的に、奴は至って冷静だった──血を流しながら。俺は、マイリーの口端から顎へタラリと伝う赤を見て、あの日の記憶が蘇る。そして察してしまった。
「早くマイリーさんから出て行って!」
『出て行ったところで、もう手遅れじゃよ。これは壊れる』
はぁ…と溜め息を吐いて、首を横に振る。落ちこぼれを卑下するような、その仕草すらリランの神経を逆撫でする。彼女の攻撃に、怒りからくる荒々しさが足された。
それでも、満身創痍のはずの奴はなんなく防いでいる。それどころか──。
『やはりお前の魔力の方が、妾との相性が良いのう』
トロリ、と。甘い蜜が零れるような声音で。
トロン、と。愛しい者を見るような表情で。
リランに囁き、リランを見つめた。
ガラリと変わった“魔女”の雰囲気に、俺は言語化できない嫌な予感がした。
「リラン!!」
俺の焦った声は、果たして“魔女”の魔術に覆い込まれた彼女に、届いただろうか。




