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それでも無価値な復讐を  作者: 今井 初飴
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第28話 長い恋の終わり


 雨は不安そうだった。いつになく人といたがり、夕ごはんの後、理恵さんが帰ってからはずっと俺の部屋にいて、識司さんからの手紙を読んでいた。

「どうしよう、何を話していいのかわからないです。識司さんも大変な時なのに」

 あんまり考えすぎるとまた熱が出るよ、とからかうと、雨はあれはたまたまです、と口をとがらせた。俺は笑って雨の頭をなでた。

「雨の思ってること、素直に話したらいいと思うよ。今度は聞いてくれると思う。だから、怖がらないで、遠慮しないで、思ってることを話しておいでよ」

 雨の白い髪は柔らかくてさらさらで、俺の髪とは全然違う。雨は頭をなでられることにもすっかり慣れて、おとなしくなでられている。

「でも私、何だかわからなくなっちゃった。識司さんがここを出てくれるなら、もう私は何もしなくていいんでしょうか。それなら忙しい時に時間を取ってもらわなくても良かったのかしら」

「話はしておいた方がいいよ。せっかくだし、ここを出た識司さんがまた会ってくれるかわからないんだし」

 雨は手紙を開いたり閉じたりしている。

「ひとりでいる時は、何でもいいから識司さんの声が聞きたいって、ずっと思っていたのに」

 雨はため息をついた。こんな雨も見納めかもしれないので、俺は相談に乗るふりをしながら雨を眺める。美人は3日で飽きると言うが、いくらか慣れこそすれ、やっぱりきれいな雨を眺めていると心が高揚する。悩んでいても、悩みすぎていやになっても、飽きて俺に悪戯してきても、全部可愛い。

「そろそろお風呂に入っておいでよ、今日は早く寝ないと。明日は早いんだから」

 俺にちょっかいを出すのにも飽きたようだ。雨は俺の背中に背中を預け、足を投げ出して手紙をいじっている。もう考える気もなさそうなので風呂を促すと、今日はずっと寝てたから眠くないです、と雨は俺の背中でひねくれた。不安だからひとりになりたくないのだろう。

「また寝るまで手をつないでてあげようか?」

 肩越しに声を掛けると、雨はますますひねくれて俺の背中をぎゅっと押した。笑わないで、と怒られる。

 怒った勢いで雨は立ち上がった。風呂に行くことにしたらしい。元気になって良かった。

 雨、俺も何だかわからなくなっちゃったよ。

 そっとポケットから指輪を出してみる。この小さな指輪で、雨のこれからを俺とつなぐことができたら。

 渡せるかどうかもわからないけれど、俺は指輪に手を合わせた。


 ここに来て俺はだいぶ早起きになった。約束の6時に余裕を持って支度を済ませることができた。雨は黒いもこもこになっている。

 行こうか、と声を掛けると、雨が冷たい手で俺の手を握った。雨は固い表情で前を見ている。つないだ手から緊張と俺を頼る気持ちが伝わってきた。

 だから俺も大丈夫、という気持ちを込めて雨の手を握った。俺たちは手をつないで礼拝堂へ向かった。

 時間よりかなり早く着いたはずだが、識司さんはもう礼拝堂の前にいた。

「おはよう。早いね」

 識司さんも少し笑顔が固い。俺も挨拶を返した。雨の手に力が入る。識司さんは礼拝堂の扉を押した。鍵は開けてあったようだ。

 ごめんね、ここも寒いんだけど、と言いながら識司さんが中に入る。俺は雨の手を引いて入り、中ほどまで先導して、足を止めた。雨が俺を見上げる。

「2人でよく話してきなよ」

 雨は俺を見つめ、うなずいた。雨の手が離れる。

「黒栖君」

 識司さんが俺を呼んだが、俺は答えずに会釈だけして礼拝堂を出た。あの人と話すと何だか巻き込まれてしまうから、話さない方がいい。

 カタクリはまた日影に入って花を閉じていた。咲いている時の華やかな形と違い、つぼみだとひどく簡素な感じだ。

 2人は今どんな話をしているのだろう。雨は泣いていないだろうか。識司さんは。

 どう決着してもいい、雨も識司さんも、前を向いて進んでいけたらいい。雨がもし泣くようなことになっても、泣いた後しっかり歩き出せるなら。

 寒さを感じて、俺は立ちあがった。それでも昨日よりはかなりあたたかい。春はやはり近付いているんだな。今日は無闇に歩き回らないでおこう。少しでも2人の邪魔になりたくない。その場で屈伸とかどうだろう。

 俺はやり始めてすぐにつらい割にあたたまらないことに気付いてやめた。やっぱり足踏みか。どうせなら何か踊るか。いや踊りなんてできないしそもそも知らない。盆踊りでは余計寒くなりそうだ。

 正面の方なら窓もないので、俺は礼拝堂の前をひたすらダッシュでもしていようかと移動した。しかし走ろうとして気付いた。日影は凍っているところがある。あたたかいと思ったのに、まだ凍るのか。ここを不慣れな俺が走ったら危険だ。

 やはり踊ろうか。カタクリと礼拝堂の扉の前を結局うろうろ歩きながら考えていると、またしても、早くも礼拝堂の扉が開いた。

「黒栖君」

 早いよ。もっとしっかり2人で話してから俺を呼んでよ。このタイミングは、また巻き込まれそうな奴だよ。

 にこにこして俺を呼ぶ識司さんに、俺はあからさまにいやな顔になった。

「そんな顔しないで、ほら、証人」

 いやだ。この人のこういうところは苦手だ。にこにこして穏やかなのに絶対折れないんだ。

 俺は識司さんに迎えにまでこられてしまい、捕まって礼拝堂にいやいやながら連れてこられた。

 雨が泣いている。ああ、ほら、まだ途中じゃないか。

 識司さんを横目でにらむと、識司さんはにこにこ笑って俺に座るように促した。俺はいつでも走れるように椅子の端っこに座った。

「黒栖」

 すると泣いていた雨がこっちに移動してきた。俺は雨が座るための場所を空けざるを得ず、つまり雨の隣に座ることになった。走り出せなくなった。しかも雨はそっと俺の肩に頭を寄せ、また泣き出した。もう逃げられない。何だ、雨も共犯か。こんなの振りほどける訳ないじゃないか。

「雨さんにね、言ったよ。俺はすごく雨さんが大切だけど、こんなに離れていたから、もう一緒にはいられないよって」

 識司さんが笑っている。俺は識司さんを見た。

「黒栖君と約束したからね。ちゃんと言ったよ」

 識司さんは穏やかに、しかししっかりと俺に伝えてくれた。

 識司さん。やっと向かい合ってくれた。俺は胸が詰まるようだった。

「雨さんは大切な人だから、幸せになってほしい。俺は、雨さんの幸せは、雨さんが明日を楽しみにして眠れることじゃないかと思う。俺のことを思ってくれるのは嬉しいけれど、俺のことで泣くのはこれが最後にしてほしい、って」

「識司さん」

 識司さんは少しだけ泣いていたが、笑顔を崩さなかった。別れを切り出す方は泣かない。そう決めたようだった。泣くより、その方がつらいと思う。しかし敢えて識司さんはその役目を受け持った。

 雨を解放するために。

 雨もわかったのだろう。雨は泣き続けていたが、取り乱してはいなかった。俺の肩に寄り添い、もう少しだけ泣いてから、識司さんに向き直った。

「私も識司さんに幸せになってほしいと言いました。つらいのを我慢してしまったり、無理に笑ったりしないでほしい。あなたがそうしてくれるなら、私、あなたのことでもう、泣きません」

 涙は溢れていたけれど、雨はがんばって少しだけ微笑んだ。識司さんが眩しそうに雨を見る。

「やっとお別れだね、雨さん」

「識司さん、本当に、大好きでした」

 これからも。雨は小さく言ったが、これからはもう胸の中にしまっておけるだろう。

 2人の長い長い恋が終わった。

 雨が立ち上がる。深く礼をして、雨は俺の手を引き、歩き出す。遠去かる足音を聞きながら識司さんは背中を向け、下が赤いステンドグラスを見上げた。

 もう少し待てば、それでもステンドグラスの美しい光が識司さんを包むだろう。七色の光は識司さんの涙を彩って、少しでも癒やしてくれるだろうか。

 雨は俺の手を握り、先に立って歩いた。俺は何も言わず手を引かれて歩いた。雨の涙は止まらなかったが、雨は真っ直ぐ前を見て礼拝堂を後にした。


 全てが終わった気がする。

 寮に帰り、俺と雨はそれぞれの部屋に戻った。何も話さなかったが、今日、ここを出ようと思った。雨もそう思ったはずだ。

 時折雨の嗚咽が聞こえる。俺は聞かなかったことにしよう。

 雨は朝食の時間になっても食堂に来なかった。理恵さんは社長もいないみたいなんですよ、と心配そうに言った。誉茉子さんがいないのはいつものことだ。

 俺は識司さんは礼拝堂の方に行っているからしばらくそっとしておこう、と言った。

「ここを出るんだ、いろいろ思うこともあるんじゃないのかな」

「そうですね、でも何も出ていなくてもいいのに」

 理恵さんは小さく言ったが、母屋がなくなることにより、会社をもう少し広げることができ、社員食堂も作ることになったのだ。わかっているから、それ以上のことは言わなかった。

 俺と理恵さんは2人でごはんを食べることになった。理恵さんも昨日は興奮していたけれど、落ち着いて少し不安が出てきたようだ。話がしたいらしい。

「お嬢さん、帰ってきたらびっくりしますね。お家がなければ会社に来ると思うから、そうしたら送って行くことにはなってるんですけど」

 順子さんが家出から帰ってきた時の環境の変わりようを思うと可哀想になる。理恵さんは順子さんの部屋のもので識司さんが置いて行くものを、母屋が壊されてしまう前になるべく寮に隠してしまうつもりだと言った。気に入ったものが残っていれば、まだ少し頑張れると思うから。俺はそうだね、とうなずいた。

 識司さんは隣市のアパートに住むという。誉茉子さんとまだ離婚はしていないようだが、どうなるかわからない。

「だって奥さん、アパートになんか住めるはずないもの。服だけで一部屋分あるんだから」

 じゃ浮気相手と一緒になるのかな、と俺が呟くと、理恵さんはいやいやと手を振った。

「野辺さんはあの市の飲み屋のお姉ちゃんにお熱なんです。だからあの市で一人暮らしなんかしてるんです。奥さんと結婚したがる男の人は何人かいると思うけど、この前の坂部さんみたいに、奥さんが耐えられないと思う」

 すごい情報網だ。俺と雨は浅はかだった。男女って一体何だ。俺は今朝何だかすごく素敵なものを見た気がするのに、一気に現実に引き戻された。きっとまだ泣いている雨に教えたい。いや、雨は知らなくていい。

 俺がげんなりしていると、理恵さんがあれ何、と叫んで立ち上がった。見ると、有澤家の前に、大きなトラックがバックしてきている。

 識司さん、まさかあれをぶつけて家を潰すつもりか?金曜日以降じゃなかったのか。

 理恵さんも同じことを思ったらしく、慌てて外に飛び出した。俺も飛び出そうとして、俺は止まった。

 赤い外車も来た。

 トラックを掠めて飛び込んできた。理恵さんが転がるようにして車を避ける。

「奥さん!これ、何ですか!」

「邪魔よ、理恵!転がってる暇があるなら、荷物を運ぶの手伝いなさいよ!」

 誉茉子さんは持てるだけのものを持ち出す気だ。運ぶ先があるのだろうか。怒鳴られ、理恵さんが慌てて走り出す。

 理恵さんが大きな箱や袋を抱えて懸命に往復するのを心の中で応援しながら、俺はせめて食器を片付けた。

 理恵さんには申し訳ないが俺は息を殺し、できるだけ存在を消すことに集中した。誉茉子さん怖い。

 会社が始まる時間になってもトラックは動かず、出勤してきた車が通り抜けられなくてみるみる前の道に溜まっていった。しかし会社の人が苦情を言いに言っても、相手は誉茉子さんだ。

 識司さんが8時半頃母屋に戻ってきて、惨状を見て慌ててトラックを動かすまで、会社の大騒ぎは続いた。


 結局誉茉子さんはトラック2台分の荷物を運び出した。

「もう、夜逃げの後みたいです。テレビも、フライパンも、何にもないんです。お米まで持っていったんです。社長はゴミが減って良かったね、なんて言ってるんです」

 理恵さんがカップ麺をすすりながらぼやいた。

「もう私何にもできないです。社長もお嬢さんの荷物をまとめたらもう来なくていいって言うんです。あと少ししかないのに。それに」

 理恵さんの目に涙が浮かぶ。

「奥さん、あれだけ色々持って行ったのに、お嬢さんの部屋は手付かずだったんです。奥さん、あんなに言ってたのに、お嬢さんを連れて行く気がないんです」

 理恵さんが堪え切れないように泣き出し、カップ麺を盛大にすすった。俺はうんうん、とうなずきながら理恵さんの話を聞いた。雨はまだ姿を見せない。

 もうお昼だ。そろそろ出ないと、乗り継ぐ列車がなくなってしまう。

「雨ちゃん、また具合悪いんですか?」

 涙を拭きながら、理恵さんは箸を置いた。俺は曖昧にうなずいた。

「私、もう帰ります。もう来ません。雨ちゃんにもう一度会いたかったけど……」

「理恵さん。きっとまた雨と一緒に訪ねるよ。手紙も書くよ」

 はい、私も書きます、と理恵さんも言って笑った。

「お世話になりました。ありがとう。文明さんにもよろしく」

「私、雨ちゃんと渋久さんて、お似合いだと思いますよ」

 理恵さんは帰り際、ぴかぴかの笑顔で俺に言ってくれた。

「頑張ってね」

 俺は大きなお守りをもらったような気持ちになって、うん、とうなずいた。


 だが俺たちはまた帰れなくなった。


 順子さんの遺体が見つかった。

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