第19話 魔女に捧げる指輪
食堂に行くと、文明さんがお茶を飲んでいて驚いた。朝の挨拶もそこそこに昨日はどうも、なんて言っているうちにまた自己嫌悪がよみがえる。
「ご迷惑をお掛けして本当にすみません」
とにかく謝った。文明さんはいいえこちらこそ、と短く返してくれた。
「今日は大丈夫ですか。理恵が朝飯を用意していますが」
「はい、もう何ともないです」
早い時間に潰れたからか、そういえばもう平気だ。朝ごはんも食べられる。普通にごはんを食べる俺を見て、文明さんはへえと感心した。
「魔女の薬って、本当に効くんだなあ」
昨日文明さんに吐かせてもらったあと、雨が薬を飲ませたのだそうだ。常備薬として持っていたのをわけてくれたらしい。
そうでなければ今日一日起きられなかったと思いますよ、と真顔で言われ、俺は昔二日酔いで酷い目にあったことを思い出した。それを免れたなんて、なんてありがたい。
噂をしていたら雨が来た。そして俺を見るなり赤くなって顔を伏せた。文明さんがおや、という顔をして俺を見る。雨、何故いつもあんなに冷静なのにこういうとき顔に出すんだ。
何でもないですはは、と笑ってみたが文明さんは皆まで言うなとでも言いたそうな顔でうなずいている。詳しく言ったらそんな感じのことがなくはないのだが、雨が赤くなっているのは単に俺のパンツが恥ずかしかったからだ。あなたの嫁は見慣れてるって言ってた奴だよ、と相当言いたかったが我慢した。何を言っても藪蛇になりそうだ。
文明さんは理恵さんと違って口数が少ない。俺も何となく話しにくくて無言でごはんをすませた。雨もすぐに食べ終わった。
食器を洗って棚に置く。理恵さんはまだ帰らないようだ。どこへ行ったのかな。
「ああ、そういえば今日はお祭りでしたね。理恵さん、お祭りに行ったんですか」
「いえ。……理恵に聞いていませんか」
いいえ何も、と俺は答えた。
「お嬢さんが昨日から帰ってないそうです。昨日は終業式で半日のはずだったのに」
中学生の娘さんか。
「それは心配ですね」
識司さんも心配しているだろう。あんなことの後だから顔を合わせたくなかったが、何か手伝った方がいいだろうか。文明さんもそれで来たのかな。
「違います。社長には一応挨拶はしましたが、普通でしたよ。以前も何度か無断外泊したことがあるから、今回もそうじゃないかと思うんですけどね。祭りだし、春休みだし」
理恵は心配し過ぎなんです。そこがいいところなんですけど、と文明さんは少しのろけた。俺は理恵さんが普通だと思うけれど、母親もあれだから、そんなものなのかもしれない。
「朝、女の子たちが神社の奥の湧水を汲みに行くから、それを見てみるそうです。この町の女の子ならみんな行きますから」
「それは、何かの行事ですか?」
「おまじないみたいなものだと思いますよ。水を飲むときれいになったり、好きな相手にかけると気持ちが通じたりするとか。女の子のものなんで、俺はちょっと詳しくはわかりませんが」
そうなのか。俺も理恵さんが帰ってきたら聞いて行ってみようかな。
「じゃ、支度ができたら出かけましょうか、渋久さん」
「えっ」
文明さんが祭りを案内してくれるのか?昨日そんな約束をしたのだろうか。
「片道一時間くらいはかかるので。今出れば午前中には帰ってこられます」
祭りは歩いて行けるところでやっているのかと思った。神社が遠いのか、それとも奥の院とかそういったところまで行くのだろうか。
考えている俺を見て、文明さんは昨日の話覚えてないですか?と真顔で言った。
「すみません、何も」
正直に白状する。文明さんはすみません飲ませ過ぎました、とまた謝り、そろそろ結城さんも来ます、と言った。
結城さん?改めて蔵を見せてくれるのか?
「事情は車で話しましょう。蓮野さんはここにいてください。理恵もそろそろ戻るでしょう」
雨がうなずく。雨には話が通っているようだ。別行動なのか。ここに来て初めてのことなので少し不安になったが、文明さんも結城さんもいてくれるから俺の方は大丈夫だろう。
しかし、雨が心配だ。俺は昨日雨が平野さんという女性に包丁で襲われたことを小声で伝えた。文明さんはその後に来たから知らないのかもしれないと思ったから。
しかし文明さんの嫁は理恵さんだった。見てきたように知っていた。雨は理恵さんと祭りを見る約束をしているそうだが、その上危険がないように理恵さんの友達も一緒に行ってくれるそうだ。何でも中学から評判の仲良し元気娘の三人組で、みんな地元で嫁いで未だに鉄の結束らしい。
他のふたりともいい子ですが、三人揃うと少し手に余ります、と文明さんが真顔で言う。それなら安心か。
「もちろん社長も近付けさせないように言ってあります。任せてください」
文明さんは真顔だ。俺は変な顔をしていたと思う。それはありがたいような気を回し過ぎなような、そもそも識司さんは今日は忙しくてそんな暇もないんじゃないんだろうか。
雨は少し緊張したように座っている。本を読む余裕はないようだ。人見知りなのだ。でも理恵さんがいれば何とかしてくれるだろう。
俺は雨に何か言いたくて、でも文明さんの手前言葉を選んでいると、寮の玄関が開く大きな音がした。
「じゃ渋久さん行きましょう。蓮野さん、少しお借りします」
「フミ!クロ!支度はできてんだろうな!」
文明さんが雨に声をかけ終わり、玄関先の結城さんが大声を出す。阿吽の呼吸だ。
え、クロって俺?
いつそんなに親しくなったんだろうと思ったが、文明さんがどんどん行ってしまうので、俺は雨にじゃあまた後で、と声をかけるのが精一杯だった。
白い軽自動車の後部座席におさまった俺は、またしても昨日自分がしたことを人に説明されることになった。
俺は昨日、2人に雨が俺を好きでもないのに結婚を迫ってくることを大層ぼやいたらしい。いつの間に。まさか全部話してしまったのだろうか、と俺は焦ったが、さすがの酔っ払いも識司さんに言われて、とまでは言わなかったようだ。泥酔者にも一分の理性があって良かった。
ともかく、2人は雨の気持ちが追いついていないことが俺が結婚を受け兼ねる原因と理解していた。では雨の関心を引くため俺が何をしたかと言うと、まだ花もプレゼントもろくに贈っていない。それではいけない、女性には贈り物だ、と言うことになったらしい。
しかし俺は雨の好みを何も知らなかった。好きな花も、お菓子も、好みの色もわからない。唯一知っている雨の好物はたまご、贈り物の候補にするにはちょっと違う。
ではいっそのことインパクト勝負に出よう、と話がまとまり、この遠出となった。だがどうまとまったのだったか。
文明さんに淡々と説明されても、そういえばそんなことを話したかも知れないかなくらいしか思い出せなかった。
「クロ、酒に飲まれてるようじゃ立派な記者にゃなれねえぞ」
俺は記者じゃないし、何故そんな犬みたいな呼び名になってしまったのか。
「それで、お前、いくら持ってんだ」
「え」
「お金だよ、クロ、いくら持ってきたんだ」
助手席の結城さんが振り返る。お金って言っても、いつもはバイトでかつかつな俺が持っている金額なんてたかが知れている。旅先だからいつもより多いくらいだが、告げると結城さんは明らかに期待外れという顔をした。
俺が静かに傷ついていると、結城さんは文明さんにお前はいくら出した、と聞いた。文明さんは短く五十です、と答えた。
「そうか、フミ、ずいぶん頑張ったんだな。クロ、金額の多寡じゃねえのは当然だけどよ、もう少し出してやってもいいんじゃねえか。一生のことだぜ、女は意外とそういうのは覚えているもんだぞ」
「……あの、俺は何をしようとしているんでしょうか」
「指輪を買いに行きます」
文明さんが淡々と答える。俺は後部座席で立ち上がり頭をぶつけ、文明さんに危ないですから座ってください、と注意された。
「いいかクロ、昨日も言ったけどな、改めて言うぞ。相手に求婚までされてるんだ、嫌われてる訳がねえ。好かれてねえんじゃねえ、お前が好きになるのを怖がってるんじゃねえのか?お前がもう少し踏み込んで、他の男のことなんか考えられねえくらい夢中にさせたらいいんだよ」
「そ、そういうことじゃ……」
結城さんはいやいや、いやいやいやと首を振り、強くうなずいた。
「今日は祭りだ。うちの町の祭りは、昔は若いもんが年に一度相手に気持ちを伝える場だったんだ。俺と婆さんもそれで見合いに漕ぎ着けたし、フミも理恵坊に求婚したのは祭りの日だった。きっとうまくいくから、やってみろ!」
そういえばタクシーの運転手さんもそんなことを言っていた。由来と言われていることは色々ありますが、今でも残っているのは結局縁結びですよ。
指輪か。指輪を贈ったら、雨は喜ぶだろうか。少しでも俺を意識してくれるだろうか。
「……あの、ちょっと寄り道してもらえませんか。電話したいんです」
文明さんがはい、しばらく行けば電話がある店がありますのでそこに寄りましょう、と答えた。
山の中にぽつりと古民家風の蕎麦屋があった。文明さんが車を停めてくれたので、俺は急いで蕎麦屋の横の公衆電話にお金を入れた。遠距離だし、多分説明が長引くからはじめから百円だ。
「はい、渋久でございます」
「あ、お母さん?俺、俺だけど、お金貸してほしいんだ」
「はあ?」
電話越しの声が突然凄んだ。
「どこの俺様が就職もしないで借金よ。バカ、死ね」
電話が切れた。姉だ。よそ行きの声がそっくりでわからなかった。嫁に行ったのに何で実家にいるんだ。俺の百円。
しかしあてはそこしかない。俺はもう一度百円を入れた。
「はい、渋久です」
さっきの不機嫌そのままの声。これなら最初から姉だとわかったのに。
「黒栖です。姉ちゃん、今外からなんだけど急ぎの用事があるんだ、お母さんに代わってよ」
「お母さんは松子おばさんと旅行よ。正月言ってたでしょう」
言ってた。まさか今日とは。
「何で姉ちゃんが家にいるんだよ、旦那さんと健司はどうしたんだよ」
「旦那は出張、健司は春休みよ。留守番しにきてあげてんのよ」
絶対食費光熱費を浮かせに来たんだ。いいや、そんな話をしている場合ではない。俺はまた百円を追加する。
「姉ちゃん、一生のお願いがあるんだ、お金」
姉は切った。
「姉ちゃん、切らないで、お金もうそんなにないんだから!話を聞いてよ!」
俺はまた百円を投入して姉が出た瞬間から叫んだ。
「お金貸してよ、絶対返すから、十、いや二十万」
「バカじゃないの」
切らないで、と俺は懇願した。
「どうしてもいるんだよ」
「あんた二十万もないの。そんなお金何に遣うのよ」
俺は口籠った。ああ、お母さんさえいれば何とか借りられたのに。
「……指輪を買おうと思って」
「就職してもやし食って買いな」
「待って、それじゃ間に合わないんだよ、今日いるんだよ、俺が結婚できるかの瀬戸際なんだよ!」
さすがに姉も黙った。俺はまた百円を追加して、婚約指輪を贈りたい人がいること、祭りの勢いを借りて成功させたいこと、だからどうしても今日中に指輪を買いたいことを説明した。
「その人はまだ会ったばっかりで、紹介できてないんだけど、俺、その人のためなら、就職する。働いて絶対返すから、お姉さま、どうかお願いします」
姉は少し考えているようだった。俺はまたお金を追加して祈るように返事を待つ。
「わかった。二十万ね。とちぎんでいいんでしょ」
「あ、できれば郵便局に」
姉は私に信号の向こうまで歩けって言うの、と怒りを爆発させたが、俺は何とか拝み倒した。この辺りにとちぎんはないから、下ろすのが面倒そうだ。
姉は絶対返せよとか、すぐに就職活動始めろよとか、料金が切れるまで言っていた。俺は全てにはいで答え、姉に徹底して感謝した。
車に戻ると、文明さんは何も聞かずに発車した。俺は疲れながら、お金を下ろしたいので郵便局にも寄ってください、とお願いした。文明さんは店に行く途中にありますから現地に着いてからでいいですか、と言った。そのくらい時間があいた方が却っていいだろう。俺はそれでお願いした。
山を越えると比較的大きな町だった。この県の県庁所在地だそうだ。初めて来たが、楽しむ余裕はなかった。
無事振り込まれていたお金を下ろし、初めて宝石店に入る。男三人の組み合わせはかなり違和感があったが、そんなことは気にしていられない。店員さんを捕まえて、あれやこれや相談した。文明さんと理恵さんがここで婚約指輪と結婚指輪を買ったそうで、店員さんが文明さんを覚えていた。
予算とすぐに持ち帰れるもの、だいたいのサイズで用意してもらうと、候補は数個しかなかった。だが初めてなのでどれがいいかわからないから、その方がいい。雨にはシンプルなデザインが似合うと思い、すっきりした指輪を選んだ。
普通は刻印などしてもらうそうだが、その暇はない。後からでも頼めるそうなので、とにかく買って帰った。姉が二十万振り込んでくれたおかげだ。送金人名としてゼッタイカエセバカクロとあった。俺は小学生の頃姉が体操着を届けてくれた時以来、久しぶりに姉に感謝した。
帰り道、結城さんが機嫌よさそうに仕込み歌というのを聞かせてくれた。有澤酒造で歌われているものという訳ではないそうだが、なかなかの喉だった。他にも地元の結婚式で歌われる歌も歌ってくれた。結婚式に呼んだら歌ってくれるそうだが、式なんかできるだろうか。俺は疲れて、いい声を聞きながら少し眠ってしまった。
2人が頑張ってくれたおかげで、何とか午前中のうちに帰ってくることができた。間に合いそうだとわかった頃に起こされて、車の中で説明された。
午前中に、同じ窓の光の中に2人で入ると結ばれる、と言うおまじないもあるのだそうだ。縁結びの連続だ。これを昔からやっていて成功者を目の当たりにしてきたなら、確かにこの地域の人は今日を逃したくないだろう。
有澤酒造に戻り、3人で雨を探す。理恵さんはお昼はみんなで寮に戻ると言っていたらしい。もちろん理恵さんも窓の伝承を知っているから、俺が探しやすいようにそうしてくれたのだろう。
でも俺は雨を探しながらはたと気付いた。
あれ、そういえば今朝、俺は。
何も伝承を知らない、あんなめちゃくちゃな状態でもおまじないは効くのだろうか。しかし、もう済みましたとも言いにくいな。
大きな木造の門の前で行われている試飲会は好評そうで、たくさんの人だかりだった。法被を着た人が忙しく会社と試飲会のテントを往復している。識司さんも忙しそうだ。
事務所の玄関のガラスの扉が開け放たれている。法被姿の識司さんが入って行って、荷物を持ってまた会場に向かう時、雨がそっと姿を現した。
雨は死角になるような物陰に驚くほど静かに佇んでいて、きっと俺以外は気付かなかっただろう。雨はすぐにその場を離れ、寮の方に戻って行った。何故あんな所に、と思って、俺ははっとした。
ガラスの扉も窓の内に入るのだろうか。雨は識司さんか通り過ぎる瞬間に、同じ影の中に入りたかったのだ。雨も理恵さんに聞いたのだろう。雨のいた所に少しだけ、ガラスの扉の影がかかっていた。
俺はポケットの指輪の箱を放り出したくなった。できなかったけれど、もう渡す気はなくなった。
俺はお昼になるまでその辺をぶらつき、雨を探せなかった風を装って帰った。
寮で雨を捕まえ、待ち構えていた面々は遅れた俺を責めたり、慰めたり、励ましたりしたが、俺ははぐらかして指輪を出さなかった。文明さんが理恵さんと抜け出し、多分本当に指輪を買ってきたのか話して戻ってきた。その後理恵さんにかなりあからさまに催促されたから。
しかし俺は話に乗らず、男2人は何か察して会社が忙しそうだから少し手伝いに行こう、と三人娘を連れて出て行った。雨は急にみんないなくなったのできょとんとしていたが、俺を見ておかえりなさい、と微笑んだ。
ああ、雨。あなたはきれいだ。




