第18話 魔女と泥酔と嘘から出たまこと
これだけ酒を飲み比べたのは初めてだった。同じ銘柄でも年によって違ったり、同じ会社が作っても名前でこんなに違うなんて知らなかった。
そしてこうして利酒をする時は酒は飲まずに吐き出すことも。
俺はこんなに短時間にこの量の日本酒を飲んだのは初めてだった。話し終えてすっきりしたような結城さんが、じゃフミ、蔵の説明をしてみろ、と立ち上がるのと一緒に立ったら視界が回った。雨に支えてもらわなかったら転んでいた。ちょっとまずいなと思いながらメモを取り出す。
「ええと、うちで作っているのは純米酒と吟醸酒、大吟醸があって、この樽は」
「こらフミ、その酒は何がどう違うか説明しろ!」
「はい、それは米をどれだけ磨くかで」
「割合はどれがどうだ!」
文明さんはまるで試験を受けているように結城さんに怒鳴られながら、蔵の施設や酒造りの手順を説明してくれた。俺も必死にメモを取る。
しかし世界がぐるぐるして何だかわからない。
「渋久さん大丈夫ですか」
「何でえ、お前あれ全部飲んだのか。吐き出さないと酔っ払って味なんかわからねえだろう」
俺はすみません知らなくて、と言ったつもりだったが、呂律がまわらない。
「次に、このタンクですが、これは」
「おいフミ、酒も人もちゃんと相手を見ろっていつも言ってるだろう。この兄ちゃんが話を聞けるか。椅子持ってこい」
「いや、大丈夫……」
座ったら寝る。
「こんなに飲ますなよ」
「どんどん飲むから強いんだろうと思って」
「大丈夫ですから、続きを……」
「やめとけ、無理だ。明日にするぞ。フミ、寮に置いてこい。水飲ませて、少し吐かせとけ」
「わかりました」
酔っ払いの相手は慣れているようだ。勝手に話が進む。俺の意見など何も通らない。
「そうだ、みんな勝手だ」
「何ですか?」
文明さんに抱え上げられそうになり、俺は突然爆発した。
「みんな勝手なんだ!結城さん、あなたその、人も酒も相手を見ろって、ちゃんと識司さんにも教えたんですか!」
結城さんは驚いて戸惑いながらおお、と答えた。
「全然!あの人全然見ないよ!俺にそんなに大事な人任せたらだめでしょう!」
「え、渋久さん、どうしました急に」
「雨も変だよ!だいたい前の人を全然忘れる気もなくて結婚してくれっておかしいよ!」
「女性の方から結婚申し込まれたんですか、渋久さんかっこいい」
「そりゃ受けるしかねえだろう」
「かっこよくないよ!受けないよ!何も知らないからそんなこと言うんだ!」
「黒栖、ねえ、帰りましょう」
「雨、雨、俺を好きになってよ。そしたら結婚するから」
俺は雨に抱きついて、そこで動かなくなったらしい。
「フミ、バケツだ」
結城さんの指示は的確だった。
眩しくて目が覚めた。
あれ。俺どうしたんだろう。布団で寝ている。
起きようとして、何か柔らかいものに触った。すごく柔らかくてすべすべだな。しなやかでさらさらしたものも手に触れる。手触りがいい。ふにふにするな。何だろう。心当たりがないので少し撫で回した後、俺は布団を跳ね除けた。
「……雨!」
布団をはがされ、突然光に晒されて、雨は嫌がるように丸くなった。
雨。雨が何で俺の布団に。
俺はそこではっとカーテンの閉まっていない窓を見た。こんなところ誰かに見られたらまずい。すごくまずい!
とにかくカーテンを閉め、時計を見るともうじき理恵さんが朝食を持ってきてもおかしくない時間だった。あの人は絶対襖を開ける。
「雨、雨、起きて」
声をひそめて雨を揺する。雨はううとか声は出すけれどちっとも起きない。やはり寝る時もいつもと同じようなきっちりした黒いワンピースを着ている。寝顔がかわいい。
なんて観察している時間は本当にないのだ。早く起こして部屋に戻さないと、いやちょっと俺Tシャツとパンツじゃないか!
何でこんな、着替えないと、雨も起こさないと、俺何かしでかしてやしないだろうか。もう訳がわからない。
雨、頼むから起きて、と泣きたくなっていると、勢いのある足音が軽やかに響いてきた。
「おはようございます渋久さん。大丈夫ですか」
「開けないで!」
俺の悲鳴は間に合った。動きかけた襖はぴたりと止まった。
「今着替えてるから、開けないでください!」
「大丈夫ですよ、夫の見慣れてますから」
「俺は慣れてないです!」
わかりました、と声がして理恵さんの気配が襖から離れた。俺は心底ほっとした。今のやりとりで雨も起きたようだ。ぼんやりと目を開け、体を起こす。
「私ちょっと出かけますので、食べ終わったら棚に置いておいてください。蓮野さんも起きてくださいよ」
理恵さんが隣の部屋に声を掛け、雨が普通に返事をしそうになったので俺は慌てて雨を布団でくるんだ。
「雨、静かに、静かにして……!」
「はい?何ですか」
「何でもないです!」
一旦止まった理恵さんの足音は、無事に遠ざかっていった。俺は安堵のため息をついた。
「うう」
腕の中から声がした。俺は抱きしめたままの布団の中の雨を思い出した。慌てて布団から出す。
雨は寝ぼけたようなぼんやりした顔で、おはようございます、と言った。前髪に寝癖がついている。悲鳴をあげられるとか、避けられている感じはない。
雨は当然のように俺の布団の上に座っている。ワンピースが皺になっているので、やはり結構な時間一緒に寝ていたようだ。俺はさっき雨のどこを触っちゃったんだろう。
「雨、何でここにいるの」
俺は一番の疑問を口にした。雨がぼんやりしていた目をぱちくりさせる。
「黒栖がおいでって言ってくれたから」
「俺が?」
何も覚えていない。
同じ布団の上に雨がいて落ち着かないが、掛け布団を握りしめ、必死に冷静になって考える。
昨日の俺は。
昨日の俺は、酒蔵を見せてもらって、試飲し過ぎて泥酔して、記憶がない。
俺は頭を抱えた。何だか変なことを言ってしまった気がする。今更恥ずかしくなってきた。
文明さんにここまで連れてきてもらい、吐くときに水をもらったり、だいぶお世話になった記憶がうっすらある。布団も敷いてもらった。
けれど雨がここにいる理由が思い出せない。俺が招いたらしいが。
「雨、あの……俺、雨に何か、その、失礼なこととか、してないよね……?」
考えても思い出せないので、諦めて俺は最大の懸念を質問した。雨は失礼?と首をかしげた。そして考えながら少し俺の顔を見て、くすっと笑った。
「黒栖は優しくしてくれましたよ」
「……」
何をだ!
雨は何も思い出せず焦る俺に、おかしそうに言った。
「私、怖い夢を見たんです。それで夜起きて、怖くて、それでもしあなたが起きてくれたら少し話相手になってもらおうと思って訪ねたら」
俺は雨にどうしたか尋ね、怖い夢を見たから、と雨が答えたら、それなら一緒に寝ると言って布団に引っ張り込んだのだそうだ。
何なんだ俺。最低だ。
「ご、ご、ごめん……!」
顔があげられない。しかしこの今握りしめている掛け布団に引っ張り込んだと思うとこれも見ていられない。ああ、本当に俺、最低。
「謝らないでください、確かに少しびっくりしましたけど」
でも、と雨は少し目を伏せて微笑んだ。
「嬉しかった。久しぶりに人がそばにいてくれて、すごく安心しました」
雨の物事の捉え方は少し独特な時がある。普通、女性なら知り合い程度の男性と同じ布団に入ったら、不安になるべきではないのだろうか。そんなことするような男は、まず理由も聞かず殴ればいいのだ。犯罪は未然に防ぐ努力をしてほしい。特に、雨は美人なんだから。
しかし雨は全くそんなことは考えないようだ。
「私、今までずっとひとりでしたから、怖い夢を見ても誰かにいてほしいなんて思ったことはなかったんです。でも、昨日は、とてもひとりではいられなくて、すぐあなたを思い出して。……迷惑でしたか」
「いや、迷惑って訳じゃ」
大きな目で心配そうに覗き込まれる。そんな顔をされたら怒れない。掛け布団を意味もなく握ったり離したりしながら、俺は諦めた。間違いがなかっただけて良かったことにしよう。
「でも雨、今度、は絶対ないけど、今度万が一こんなことがあったら蹴飛ばしていいから」
「できません。義足、置いてきちゃった」
雨は悪戯っぽく笑って、体の向きを少し変え、左足が俺に見えるように座り直した。スカートを押さえて足の形が見えるようにする。
ああ、本当にないんだ。俺は改めて思った。
「外して休んでいたので、隣だから、改めてつけるほどではないと思って。気付かなかったんですね」
「うん、ごめん、変なこと言って」
俺は気遣いのできなさに落ち込んで謝る。
「いいえ、そんな、ごめんなさい私こそ」
雨は慌てたように座り直してスカートを直した。
「雨は悪くないよ。ごめん。俺が変なこと言ったから。いや、そもそもこんなことになったのも俺が悪いし、元はと言えば俺がバカな飲み方したのが悪いし、そうなったのも俺がちゃんと勉強しなかったのが悪い……」
どんどん落ち込んでしまう俺の頬に、雨がそっと指で触れた。同じ布団の上だから距離が近い。
「黒栖はいい人よ」
微笑む雨は寝起きでもきれいだ。
「言いそびれていたけれど、昨日私が襲われた時も、悪く言われた時も、庇ってくれてありがとう。勇気がある、強い人だと思いました。昨日の朝、ステンドグラスが傷付けられて、あなたは泣いてしまったでしょう。優しい人だと思いました。他にも色々、あなたが色々な顔をするたびに、楽しかったり、心配だったり、私も色々思ったわ。今までずっと同じ日を繰り返してきたから、ここに来てあなたと過ごして、もう何十年分も笑ったりどきどきしたりしたみたい」
だから、寂しいって気持ちも思い出してしまって。
雨が微笑んだままうつむく。
「あなたなら頼っても大丈夫だと思いました。だから訪ねたんです。一緒に寝てくれながら、あなたはもっと俺を見て、って言いました。やっぱりあなたも私と同じなんだって思いました。寂しいんだなって」
俺が寂しいのだとしたら、雨のせいだと思う。他のことはこんなにわかってくれるのに、雨はそのことだけは、わかろうともしてくれない。
心が人の体のどこに宿るのかは諸説あるが、胸にあると考える人が絶えないのは、やはりこんな時に痛むのが胸だからなのだろう。
何だか久しぶりだ、こんなの。
あれ。
俺ははっとして雨を見た。雨はきょとんとした。
俺、本当に雨を好きになっちゃった!
「雨、俺」
思わずずっと握っていた掛け布団を放り出し、身を乗り出すと、
「きゃー!」
雨がパンツ姿の俺に悲鳴をあげた。ここまでしといて、それはもういいんじゃないか。俺は雨が器用に片足でぴょんぴょん跳ねて部屋を逃げ出すのを呆然と見送った。