第12話 魔女に突然届いた手紙
どのくらい気を失っていたのかわからない。
雨が目を覚ますと、久しぶりに見る兄が険しい顔で下を見ていた。つられるようにそちらを見ると、愛しい背中が床に這いつくばっていた。
「さ、とし」
雨は思わず声を上げたが、掠れた小声しか出なかった。しかし兄も識司もすぐに気付いて雨のもとへ駆け寄った。
識司さん、どうしたの。そんなことしないで。お兄さん、そんなこと識司さんにさせないで。
雨は言いたかったが、声が出ない。体も動かない。指一本動かないのに、動きたいと思っただけで体中に痛みが走った。
兄が厳しい顔で何か言った。集中できず、言葉が理解できない。識司が泣きそうな顔をしている。識司がそんな顔をすると、雨も悲しくなる。
「雨さん」
識司の声だけが不思議なくらい雨に吸い込まれる。この人の穏やかな声が好きだ。もっと名前を呼んでほしい。
雨は識司を見て微笑んだ。会いたかった。
「雨さん、あなたは轢かれたんだよ」
識司がゆっくり説明する。雨はぼんやり識司を眺めた。どうも集中できない。雨はだいぶ後からそれは麻酔のせいだということに気付いた。
「さと、し、すき、い、っしょに、い、き、たい」
雨が長い時間をかけてようやく言うと、識司は泣き笑いのような表情になった。
「雨さん、ごめんね。あなたの左足、助けられなかったよ」
雨は識司を見た。言葉の意味がよくわからない。が、雨は精一杯微笑んだ。
「あ、なた、が、いたら、いい」
識司は崩れるように雨の視界から消え、兄が怒ったような顔で識司を支えるのが見えた。識司は泣きじゃくっていた。雨は識司に触れたくて、泣く識司をせめて抱きしめたくて、激痛を堪え手を動かそうとして、また意識を失った。
再び雨が目覚めた時、兄はいたが、識司の姿はなかった。ふわふわした夢のようなさっきより、意識も痛みも鮮明だった。
「さとし、は、どこ」
雨は兄に尋ねた。兄は答えなかった。雨は突然恐怖を覚え、ベッドから全力で転がり落ちた。まさか雨が動くと思わなかったらしい兄の足元を這い、廊下に向かう。体中の管が外れ、床がみるみる血に染まる。しかしすぐに兄に押さえられ、もがきながら、雨はやけに軽い左足に気付いた。
下がない。
助けられなかったよ、と泣く識司を思い出した。足より、泣いているかもしれない識司が心配だ。
識司さん、どこ。泣いているなら、私が側にいなくては。識司さん。
看護師と医師が駆けつけ、雨は必死にもがいたが、また意識を失った。
退院するまでずいぶんかかった。
姉弟子も一度見舞いに来てくれた。
だが、識司はあれ以来一度も姿を見せなかった。
兄は忙しい中何度も来てくれたが、生活もあるから雨が断って帰ってもらった。退院したら兄のいる海外にくるように言われたがそれも断った。
私は婚約して、相手がこちらにいるから。
兄はそれはもう忘れなさい、と言った。あの人はもう他の人と結婚したよ。
雨は信じなかった。兄は何か隠している。しかし兄はそれ以上識司のことは教えてくれなかった。
どうして来てくれないのか。誰も知らず、誰も教えてくれない。
雨は必死に体を治し、退院した。退院とはいえ、雨はまだ1人では動けず、介助を頼まねばならなかった。それでも雨は退院してすぐ識司のアパートに向かった。しかしそこは今は誰も住んでいないようだった。雨ははっと気付いて、これから住むはずだった住まいの方にも行ってみた。雨は階段を上れなかったので、介助の人に部屋番号を伝えて見に行ってもらった。しばらくして介助の人は老婦人を伴って戻ってきた。老婦人は言った。その人は住んでいない、今は自分たちだけだと。促されて見上げると、該当する部屋の窓が開き、老婦人の伴侶らしい老人が手を振ってくれた。その部屋に間違いなかった。
もうどこを探していいのかわからない。雨は思い余って識司の会社に向かった。
こんな状態で突然訪ねて迷惑がられるだろうと思ったが、会社の人は優しく接してくれた。
お茶を出してくれた女性に、大変でしたね、と声を掛けられた時、雨は思わずその人に問い掛けた。
「識司さんがいないんです。識司さんに何かあったんですか」
女性は取り乱す雨を優しくなだめ、今社長が来て説明しますからね、と答えた。雨はごめんなさい、と呟いた。識司の名前を口にしただけで懐かしい。
社長は間もなく来てくれた。一度会ったことのある男性だ。
「酷い目に遭われましたね。犯人は捕まりましたか」
「いいえ、そのような連絡は受けていません。それより識司さんが」
身を乗り出す雨を制し、社長は考え込むように長く黙った。
「清水識司は、もうここを辞めました」
最後の糸が切れてしまった。雨は言葉を失った。しかし社長は続けて言った。
「でも、私は彼がどこでどうしているか知っています。けれど、あなたには教えられません」
「……どうして……」
「彼がそう望んでいるからです。彼はもうあなたの前に姿を見せません。あなたは彼を探してはいけません。あなたは彼を忘れて、幸せになってください」
社長は痛みを堪えるような顔で笑った。
「できません」
雨は声を絞り出した。
「できません。あの人を忘れることなんてできない。結婚されたことは聞きました。私が嫌になったのならそれでいい。でもどうして直接言ってくれないの。もう一度、もう一度だけでいいから、会いたい。識司さんに会いたい」
社長に言っても仕方のないことはわかりながら、雨は叫ばずにはいられなかった。
「あの人がいなければ幸せなんてわからない。あの人が私の幸せなの、識司さんがいなければ私は」
嗚咽でこれ以上続けられなくなり、雨は顔を覆った。泣き続ける雨を、社長はずっと待っていてくれた。
「彼……あいつは、あなたのことを一番大切に思っていますよ。おそらく、今でも。そのあいつが決めたことなんです。どうか、汲んでやってください」
雨は顔を上げた。涙を拭き、呼吸を整える。
「……取り乱してすみません。わかりました。もう、探しません」
そして雨は静かに尋ねた。
「識司さんは、幸せでしょうか」
社長は窓の外を見た。しばらく答えはなかった。雨は静かに待った。社長はゆっくり息を吐いた。
「あなたが幸せになってくれたら、きっと幸せだろうと思う。あなたが幸せになることが、あいつの唯一の希望なんです」
それから少しだけ昔の識司の話をした。社長は識司の父親と昔一緒に働いていて、識司のことは生まれた時から知っているのだそうだ。立派になって、いい奴だった。ぽつりぽつりと社長が話し、雨は微笑んだ。本当に尊敬していました。社長のようになりたいって、いつも言っていました。
「……蓮野さん、話したいことがあったらいつでもいらしてください」
「ありがとうございます。でももう、大丈夫です」
雨はそのまま消えてしまいそうに微笑んだ。
「思ったように、させてやりたかったなあ」
別れ際、社長も泣いているように見えた。
雨はそれから何年もかけて一人で外出できるようになった。姉弟子が亡くなり、葬式に参列するため青森まで行った時、人形遣いの魔女を紹介してもらった。人形遣いの魔女は義肢の職人も教えてくれた。義足を作ってもらう間に、義足を使いやすくなる魔法も教えてもらった。人形遣いの魔女は、雨の力に感心していた。
姉弟子の跡目を決める時、力の順から、雨が取り仕切るべきと言う声が多くあがった。師匠の時は経験不足を理由に姉弟子が継いでくれた。雨は左足を見せて、自分の先を見通せない若輩者であること、この体では満足に働けないことを説明した。魔女が自分の運命を占えないことは当然過ぎて理由にもならなかったが、片足が義足であることは再考の材料になったようだった。北方の魔女は流派の違う花と刃の魔女が統括することになった。
雨は淡々と日々を過ごした。依頼された薬を作り、護符を書く。忙しい方が良かった。少しでも時間があると、識司を思い出す。この世界のどこかに識司がいると思うだけで、何もかも捨てて探しに行きたくなる。
でも、それは識司が望んでいないのだ。
雨は幸せとは何かを考える。雨にとってそれは識司だった。識司がいて、笑って、喜ぶ。怒ってもケンカしても、識司がいてくれたら幸せだった。だから、それ以外の幸せがわからない。しかし雨は幸せにならなければならない。識司がいないままで。
雨はふとした時によみがえる識司との思い出を何度もなぞることにした。朝起きたら、識司はあの時はこうして、違う時はこうだった。それから、それから。
雨はずっとなぞり続けた。新しい毎日、同じことをしていても違う毎日に過去を当てはめ、その中に漂う。あの時の識司は、ああして、こうして。
初めは気が狂いそうになった。その気持ちを無視して続けたら慣れた。
あの時の識司は。雨の中の識司はもう新しくならない。ずっと、何度も何度も見た、同じ識司と雨は寄り添い、何とか歩き続ける。心を擦り減らし、雨は識司を思う。雨が少しでも早く擦り切れて、消えてなくなることを願いながら、これが雨の幸せだと信じて。
識司は今、幸せだろうか。
識司といたこの街は離れ難かった。
雨はたまらなくなると識司と歩いた道や川原をそぞろ歩き、あちこちに識司の面影を追った。季節が移り変わり、渡鳥が入れ替わるのを識司と見た。雨は何度も同じ思い出をなぞった。時は流れ、街は変わって行く。その中を、雨はずっと変わらない識司を抱いて彷徨い歩いた。
手紙が届いたのは雨がそんな日々を繰り返してきたある日だった。
雨は驚いた。胸がいっぱいになって、しばらく封を開けられなかった。差出人など書かれていなくてもわかる。懐かしい、識司の字。
会いたいと書いてあれば飛んで行きたかったが、昔を懐かしむようなことくらいしか記されていなかった。それでも雨は一文字一文字を愛おしむように読んだ。しかし雨はふと不安になった。
何か変だ。識司が何かひどく暗い気持ちを抱えている気がする。雨と同じ、会えない辛さだろうか。
違うような気がする。何か、もっと強い、でもひどく良くないもの。
識司は自分のことで辛い時、それを見せないように我慢してしまう癖があった。会えなくなる前も、雨の前ではなるべく落ち着いて穏やかに振る舞っていた。それが何かがきっかけで緩み、奥の強いものが滲み出てしまったような。
雨はたまらなく不安になり、迷った挙句、十数年ぶりに識司がもといた会社を訪れた。
急なことなので今日は訪問の約束だけして帰るつもりだったが、会ってくれることになり、雨は待たせてもらうことになった。
事務所は建て替えられていた。事務員の女性も代わっていて、雨は長い時間が過ぎたことを改めて思った。
お待たせしました、と入ってきた男性を見て雨は戸惑った。社長ではなかった。似ているけれど、ずっと若い人。
「あれ、魔女の方ですか?先代のお客様か」
その人も一瞬戸惑ったが、すぐに思い当たったらしく笑顔になった。
彼が今の社長で、雨が以前話した相手は彼の父親だそうだ。引退して、今は名ばかりの会長職でのんびりしてますよ、と現社長は笑った。笑うともっと似ている。
お会いいただける日のご予定を伺いたくて、と雨が言うと、では今電話してみます、と社長は受話器を取った。少し話していたが、少し待てるなら今から来てくれるという。願ってもないことだが、迷惑ではないだろうか。
「年寄りは昔の話が何より楽しみなんですよ。あなたのお時間さえよろしければ、是非付き合ってやってください」
雨は感謝して、待たせてもらうことにした。
程なく現れた会長は、開口一番、あなたは変わらないなあ、と笑った。雨も立ち上がり頭を下げた。会長は黒かった髪が真っ白になって、働き盛りという風だったのがすっかり好々爺だ。
「そうだ、あなた、足は大丈夫なんですか」
「義足を作りましたので、普段の生活は全く問題ありません」
それは良かった、と会長がまた笑う。そして、今日はどうしました?と促され、雨は慌てて手紙を出した。
「識司さんから手紙をもらいました。あれ以来、初めてです」
会長は雨の手の、差出人のない封筒を見た。
「どんなことを書いてきたんですか?」
「あの頃が懐かしいと言ったようなことです」
「会いたいとか、そう言うことは……」
何も、と雨は短く答えた。
「あの、識司さんに、何か変わったことはなかったでしょうか。何か、そう、何かいいこととか」
手紙には微かな高揚感が残っている気がした。
「いいこと……そうだ」
会長は少し思案して、すぐに手を打った。
「そうだ、蓮野さんが来たんだからあの雑誌持って来りゃ良かったんだ。家にあるんだ、今とって来るから」
「親父、あの雑誌なら会社にもあるよ。みんなに見せるって買って来てたろ」
社長が横から口を出し、休憩室にあると思うから見てくるよ、と席を立った。
「立派な息子さんですね」
雨が言うと、会長はいやいやまだまだ、と顔の前で手を振った。怖いもの知らずで危なっかしくて見てられないよ、と目を細める。雨が微笑んでうなずいていると、社長が戻ってきた。
「ほら親父、これだろ」
「そうだそうだ、これね、蓮野さん」
会長が慣れた手付きで老眼鏡を取り出し、雑誌をぱらぱら広げて雨の前に差し出した。
「手紙書いて寄越すくらい、あいつも落ち着いたんだろう。蓮野さんも、あの頃とは違うでしょうから」
雨はぼんやり笑った。自分では何が違うかよくわからない。あの頃も今も、雨は識司にすがって生きている。
「あいつの婿入りした先は造り酒屋なんですが、そこの社長やっててね。賞を取ったんですよ」
小さな記事には有澤酒造とあった。名前がわかれば住所は調べられるだろう。
「しゃ……いえ、会長さん。私、ここに行ってもいいでしょうか」
会長は雨を見た。
「何をしに?」
雨は目を伏せた。わからない。何か理由をつけて、ただ会いたいだけなのかもしれない。でも。
識司が助けを求めている気がする。説明はできないけれど。
今度こそ、識司が辛いなら側にいて支えたい。あの時、識司が諦めて手を離すのを、雨は掴めなかった。今、その手を掴むべきなのは、雨ではないのかもしれない。それなら、その人も支えたい。
雨は思いを言葉にできず、うつむいた。
会長はため息をつき、笑った。
「こんなに長い間、あなたは私なんかの言ったことを守って、あいつを探さずにいた。そのあなたが行かなきゃいけないと思うんなら、そうしなきゃいけない時なんだろう」
雨は会長を見つめ、深く頭を下げた。
別れ際、会長が見送りのために玄関まで出てくれた。雨がもう一度頭を下げると、会長はぽつりと尋ねた。
「蓮野さん、失礼かもしれないが、あなたご結婚は?」
「ご縁がなくて」
雨が曖昧に笑うと、会長は勿体ないなあと笑った。
「俺があと三十年、いや四十年若くてうちのばあさんと出会う前だったらなあ」
雨が残念です、と微笑むと、会長は目がなくなるほど笑った。




