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それでも無価値な復讐を  作者: 今井 初飴
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第11話 俺の大切な魔女(2)



 その日の帰り道、待ち合わせはなるべく雨をひとりで待たせることのないよう、識司が先に行ける時間を指定していた。そうしてこの前から待ち合わせ場所に決めたところに向かっていると、声を掛けられた。

「清水君」

 識司は声の方向を見ずに走り出したが、前を塞がれ止むを得ず立ち止まった。平野だ。後ろに小西と原田もいる。

「もう、ずいぶん待っちゃった。清水君の会社の社長、ひどいね。お父さんに言って潰してもらおうかな」

 この大都市にあの規模の工場を構えた人を、小さな酒造会社ごときがどうこうできるか。と識司は思ったが黙っていた。誉茉子はまだそんなことができると本気で思っているのだろうか。

「今度はあそこで待ち合わせしてるんでしょう。あの白髪の女と」

「見たのか」

 識司は思わず聞き返した。

「俺たちが交代であんたの会社から見張ってたんだよ」

「誉茉子にはお世話になってますから」

「あんたの今の家もわかるよ」

 平野たちが口々に言い、笑った。識司は気付かなかったことを悔やんだが、もう遅い。

「私、あなたと付き合ってあげてもいいわよ」

 誉茉子がにっこりと笑って首を傾げた。識司は後ずさった。

「いやだ。断る」

「私が付き合ってあげる、って言ってるのよ」

 誉茉子が苛々したように詰め寄ってきた。化粧品か何かの人工的な臭いが鼻をつく。識司は後ろを塞ぐ原田を強引に押し退け、距離を取って再度拒否した。誉茉子は目を見開き、突然識司を平手で殴った。

「何よ!あんな女のどこがいいのよ!」

「全部だ」

 識司は目も逸らさず低く言った。誉茉ちゃん、負けたねえ、と平野が茶化したが、識司がそちらを見ると黙った。

「もう俺たちに構うな」

 識司は原田と小西を押し退けた。今度は止められなかった。誉茉子が背中で何か叫んでいたが、識司は目もくれずその場を立ち去った。


 少し離れた待ち合わせ場所で、雨は少し不安そうに佇んでいたが、識司を見つけてぱっと顔を輝かせた。しかし、識司の表情に気付き、心配そうにどうしたの?と尋ねた。

「識司さん、何だか怖い顔してる」

 識司ははっとして頬を強く押さえた。

「ごめん、ちょっと、嫌な人に会って」

「あの人……?」

 うん、と識司はうなずき、このまま雨を連れ帰っていいものか少し悩んだ。雨に危害が及ぶのが一番怖い。

「雨さん、今日は雨さんの家に行ってもいい?」

「え?はい、大丈夫です」

 識司は雨と大通りまで出て、タクシーに乗り込んだ。雨はきょろきょろしている。少し遠回りして、途中お弁当を買って、雨の家に向かった。

 雨には何も説明しなかったが、タクシーも楽しかったようで嬉しそうにしていた。お弁当もおいしそうに食べていた。

 絶対この笑顔をなくしたくない。

 識司はお弁当を食べ終えると、今日起こったことを雨に説明した。雨は不安そうな顔をした。識司は雨を抱きしめた。

「引っ越すまでもう少しだから、それまで会わないようにしよう」

「そんな……」

 雨が言葉に詰まる。あと二十日ほど、雨には気が遠くなるほど長い。もちろん識司にとっても。でも、今までのように会っていたら雨の家もいずれ見つけられる。識司がずっとついていたいが、そうもできない。雨に何かあったら、どうしていいかわからない。

「怖いんだ、雨さんに何かあったら……」

雨は、識司が雨を抱きしめながら震えているのを感じた。雨を心配する気持ちが痛いほどわかった。識司が寂しいことも。雨は識司の背に手を回し、いたわるようにさすった。

「わかりました。私からは行かないから、でも、識司さんが会いにきて。今日みたいに。少し大変でしょうけど」

 でも、と識司が言いかけると、雨は少し笑った。

「後で護符を作って送ります。それを少しちぎって撒けば、少しだけあなたの姿が見えてもわからなくなるんです」

 魔女の魔法です、と雨は微笑んだ。識司もやっと笑った。

「毎日来たくなるかも」

「ではたくさん作ります」

 雨が優しく識司を見つめ、頬に手を添えた。

「大丈夫、心配しないで。私にはあなたがいるし、あなたには私がいます」

 識司は泣きたいような気持ちでうなずいた。


 識司は念のため郵便の配達も止めた。何か怖くてたまらなかった。雨からの手紙は程なく届いた。きれいな雨の文字がもう懐かしい。手紙には識司を思いやる言葉と、護符とおぼしき紙が3枚同封されていた。もう今すぐ会いに行きたいが、今日は約束もしていない。我慢して帰ることにした。

 この前からまわりの人の中の誰かが自分のことを見ているようでずっと落ち着かない。そんなはずがないと頭でわかっていても、視線が気になってしまう。こんなことで参るわけにはいかないので、識司は意地でもごはんをきちんと食べて、よく休んだ。引っ越して雨と一緒に暮らすまで、今が頑張り時だと思う。

 会社も協力してくれて、誉茉子が来ても受け付けないでくれた。ありがたかった。誉茉子が家の前で待っていた日は帰らずにホテルに泊まった。ホテルでは雨にたくさん手紙を書いた。3日続けたらさすがに来なくなった。

 その代わり、アパートにゴミが投げ込まれたり落書きされたりしたが、識司は構わず淡々と対処した。そして烏に伝言して、護符を使って雨に会いに行った。雨と会うと傷んだ心がほぐれて悲鳴をあげた。雨はよくそれを助けてくれた。雨のまわりはまだ特に変わりないようで、識司はほっとした。雨は2、3日おきに護符を作るたび送ってくれた。雨の字はお守りのように識司の心を励ました。

 識司がとにかく嫌がらせに反応しないでゴミや落書きを片付けていると、それもじきおさまった。そしてようやく何事もなく日々が送れると思っていたのに。

 母親から電話が来たのは識司が雨の家から帰って手紙を書いている時だった。夜も遅いのに。

「やっといたわね。あんたいつもいなくて」

「何だよ。この前大変だったんだ、もう有澤さんに俺のこと何も言わないでよ」

 識司がきつめに言うと、母親は笑い出した。

「何、お母さんのおかげでしょ、だから誉茉子ちゃんの誤解も解けて婚約できたんじゃない」

 識司は受話器を落としそうになった。

「俺の婚約者は雨さんだって……」

「都会の人は結局だめよ、高橋さんのとこのお嫁さんも逃げちゃったんだから。やっぱり地元の女の方がいいわよ」

 何言ってるんだ、と識司は怒鳴った。

「お母さん、俺の婚約者は雨さんだよ。有澤さんが何か言っても聞かないで、あと俺のことはもう何も話すなよ」

 母親は初めて識司に怒鳴りつけられて驚いたようだった。

「……でも、誉茉子ちゃんとお父さんの有澤さんが一緒に見えて、婚約したって……」

 識司は絶句した。

「そんなはずない、俺は知らない」

 母親の狼狽が電話越しに伝わってきた。

「あんたは仕事が忙しくて帰れないけど、それは帰ってくるために仕事を整理しているからで、もうじき帰ってきて結婚するって、お父さんとも日取りを打ち合わせて……」

「違う、それは嘘だ、俺は知らない、俺の婚約者は雨さんだよ!」

「……お父さん、お父さん起きて、識司が……」

 母親の声と慌てた足音が遠去かる。識司は電話を切った。

 何だ?訳がわからない。さっきまで雨を抱いていたのに、今も雨に会いたいって手紙を書いているのに。

 その後父親からも電話があり、とにかく一度帰って状況を説明することになった。識司はそれまでは自分抜きで何も決めないよう強く言った。

 翌日社長にそのことを説明して、休みをもらった。社長も識司の実家に電話してくれると言った。そのまま帰っていいと言われたが、最近ずっと迷惑をかけているので、識司はその日は働いていくことにした。昼休みに烏に事情を話し、雨に伝えてくれるように頼む。その日はできるだけ残業した。

 朝一番の列車で帰るつもりで支度し、眠れないのを無理矢理横になって、識司がようやくうとうとしたときだった。

 電話の音に識司は飛び起きた。受話器の向こうで母親が泣いていた。

「工場が、お父さんの工場が……」

 声にならないのを、工場で働いてくれていた親類が引き継いで説明してくれた。

 工場が燃えた。

 まだ原因はわからないが、ほぼ全焼したという。誰もいない時間で、怪我人がいないのだけは幸いだった。

 列車が動いたらすぐ行く、と識司はようやく伝えた。親類は、お前まで何かあると大変だから気をつけて来い、今から急いでも仕方ないんだから、と言って電話を切った。識司はまだ暗い部屋の中で茫然とした。

 眠れないまま朝一番で出発して列車を乗り継ぎ、実家に帰る。工場のまわりはまだ騒然としていて、焦げたにおいがした。生まれた時から見慣れた風景が消え、見たこともない黒い広い空間が広がっている。

 こんなに広かったのか。

 小さいと思っていた工場は思いの外大きく、広かった。

「お兄ちゃん!」

明美あけみ

 識司の妹の明美が泣きながら駆け寄ってきた。

「大変だったな。遅くなってごめんな」

 ううん、と明美は涙を拭い、お父さんが待ってるよ、と類焼を免れた自宅を指差した。

「お父さん」

「識司……」

 識司が見た父親の背中は驚くほど小さかった。一気に萎んでしまったようだ。

「すまないな、忙しいところ」

「何言ってんだよ」

 父親は書類を広げていた。識司も黙って向かいに座り、書類の確認を手伝った。

「誰もいない時間でなあ、それだけが良かった。東の、山側の方から燃えたそうでな。まわりにも広がらなくて済んで……漏電かな、古い工場だったから」

 父親が力なく笑う。識司は黙っていた。父がそういった点検を怠らない人だということはわかっていた。

「——お前が継ぐ前で良かった。工場は閉めるよ」

 ひとりごとのように父親が呟く。識司は顔を上げた。

「お前にも苦労かけたなあ」

「お父さん」

 識司は泣きそうになって、ぐっと堪えた。

 お父さんが今まで俺たちを支えてくれた。これからは、俺が。

 雨の笑顔が不意に浮かんだ。

 雨に、こんな苦労はさせられない。

「識司、お前は帰ってくるな。その、雨さんと、幸せになれ」

 識司の胸の内が見えたかのように父親が言う。父親は識司を見、初めて大きな声でカラカラと笑った。

「俺は母さんにこんなに苦労させた。お前まで、好きな人にこんな苦労させることはないだろう」

 ここは、苦労しないと認められない土地だ。そんなところにお前まで付き合うことはない。

「俺たちは、ここにしかいられないが、お前は他にも居場所があるんだ。お前は雨さんを幸せにしたらいい。俺たちのことは、心配しなくていい」

 識司は何も言えなかった。家族と、従業員を守り抜こうとした男の、最後のプライドを見た。

「有澤の親父は俺が何とかする。お前は、母さんや明美が何と言っても、もう帰ってくるな」

 そう言っていた父親はその後、過失失火が認められず重過失と判断された夜、首を吊った。


 喪主となった識司は、きっちりパーマの髪を結い上げて和装の喪服で現れた誉茉子を文字通り叩き出した。

 親父が死んだのはお前のせいだ。

 そう叫び、明美と母親に止められたような記憶がうっすらある。

 地べたに倒れた誉茉子は殊更その姿勢を保ち衆人の視線を気の済むまで集めた後、立ち上がり周囲に礼をして退場していった。実父の死に錯乱する夫を気丈に支える虐げられた妻のように。

 何故かわからなかった。どうしてほんの数週間前とこんなに違うんだ。

 工場は焼け落ち、父は死に、借金は父の保険金で払い切れるかわからない。そして、識司の婚約者と認知されているのは、姿も見せない都会の女の雨ではなく、甲斐甲斐しくあちこち動き回る地元の女の誉茉子だ。

 烏に懸命に話し掛ける識司を地元の人々は痛ましく見守った。誉茉子ちゃん、慰めてあげてよ、と見当違いの人に場違いな言葉を掛けながら。

 父の保険金が遂に足りず、家や土地を売り払っても借金が残るとわかった時、識司はもう諦めて遺産は相続しないことにした。今母と妹が住んでいる家も手放し、ここから出て行くことになるが、それしかない。

 しかし母親と妹は頑強にそれを認めなかった。彼女らには借金を返すあてがない。だが、家は出ない、と言い張った。

「長男でしょう、お兄ちゃんが何とかしてよ」

 いくら借金の額面を見せても、保険金と識司の給料の明細を見せても、彼女たちは理解しなかった。父の葬式にも参加できないほど弱って入院していた母は、地域の中核病院、近隣の地域全てから人が集まる病院の待合室で、識司の足に縋りつき、土下座し、拝み倒すという離れ業をやってのけた。妹はその母の背中にかぶさるようにして、彼女らの唯一の味方、長男であり兄である識司を、世間中に人でなしだと吹聴した。

 その日、葬式の時ろくに話もできず、しかしその後もこちらに残って識司を気遣ってくれていた社長が病院での顛末を聞いて会いに来てくれた時、識司は泣き崩れた。その重責を担うには識司はまだ若かった。

 社長に励まされ、泣きながら借金と財産を整理し、やはり手放すしかないという結論に至った識司を、翌日女たちはけろりと迎えた。

「喜んで、お兄ちゃん!私たちのことはもう心配ないわ!」

 個室の病室で明美が明るく笑い、母がうなずく。

「有澤のお義父さんが、借金全部返してくれるって!」

 ね、お義姉さん!と明美がこれ見よがしに誉茉子にべたつく。誉茉子はこれ以上ないほど嬉しそうに、にっこりと赤過ぎる唇を歪ませた。

「清水君、いえ、識司、そういうことよ」

 識司は足元が崩れてなくなるような錯覚を覚えた。

 雨。雨に会いたい。


 識司は烏に伝えた。

 逃げたい。雨さん、2人で逃げてほしい。どこか遠い、別の場所で生きたい。

 場所と時間を指定し、識司は手近な現金を全て持って、念のため隣町から呼んだタクシーで乗り換えの列車が停まる駅まで移動した。烏がどこまで飛ぶのかわからないから、目についた烏全てに話しかけた。

 雨に会いたい。

 いつ手が回るかわからない。もとのアパートには戻らない。会社にも行かない。実家も二度と帰らない。もう何もいらない。雨。雨だけが必要だ。雨にいてほしい。

 あのステンドグラス前で待ち合わせて、新幹線で遠くまで行こう。雨。雨がいてくれたら、いてくれさえしたら。

 ようやく駅につき、そこでも烏に伝言した。これなら確実に伝わる。

 しかし指定の時間を過ぎても、雨は現れなかった。

 今まで、こんなことはなかった。識司は何度も時計を見た。

 そうこうするうちに駅の放送で識司に呼び出しがかかった。識司は悪戯かと思い警戒したが、雨かもしれないと思い直して名乗り出た。

 呼び出したのは病院だった。母の入院した地元のではなく、こちらの、救急も受け入れている大きな病院。

 連絡すると、雨が運ばれたので来てほしいとのことだった。識司は立ちすくんだ。

 動かない体を引きずるようにして病院に到着すると、救急を案内された。そちらに向かうと、警察が2人、何か連絡を取っていた。識司は受付で名乗った。お待ちください、と受付が確認作業をする間に、それを聞きつけた警察官が、識司にちょっといいですか、と声を掛けた。

「蓮野雨さんのご関係の方ですか」

「婚約している者です」

 警察官は顔を見合わせた。

「ご家族に連絡が取れなくて」

 雨の両親は亡くなり、兄は結婚して海外にいるはずだ。それを伝えると、警察官の2人はさらに顔を見合わせた。

「これからお医者さんからも説明があると思いますが」

 2人は識司を雨の唯一の関係者とすることにしたらしい。説明を始めた。

「隣の区で車両の盗難がありまして、その捜査を鋭意続けていたのですが」

「何しろ持ち主から通報を受けてから、事故が起こるまでの時間が大変短くて、そうでなければ我々も是非このような事故は未然に防ぎたいと」

 要領を得ない説明に識司が苛立つと、2人はまた顔を見合わせた。

「つまり、あなたの婚約者の蓮野雨さんは」

「盗難車両に轢き逃げされて」

「おそらく左足は切断することになるそうです」

 雨が事故?

 轢き逃げ?

 左足を、切断?

 識司の目の前が真っ暗になる。

 ——俺が雨を外に出させたからだ。

「ああ……」

 識司は呻いて頭を抱え、そのまま廊下にうずくまった。

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