第十三話
「補助金のファイルどっかいった」
しばらく机の上をガサガサしていたマノンさんが青い顔をして言った。
「それならあの棚の上に置いてあったと思いますよ」
確かさっき横を通ったときに見かけた気がする。
「そうだ! 他のやつ取りに行くときに置いたんだった! ありがとう!」
マノンさんは急いで席を立ってファイルを取って戻ってくると、
「ここに入れてくれた、よくある間違いリストめっちゃ助かってるよ!」
と、ファイルの一番初めのページを開きながら言った。
それは、私が事務長に許可を取って作った、研究員たちがよくやるミスをリストアップしたものだ。
提出頻度の高い書類から順に作成している。
「ここ重点的に見ればいいから、初めての書類でも直しやすいもん」
「ある意味同じ間違いを繰り返してくれる研究員のみなさんのお陰ですけどね」
私の呟きにマノンさんは、あははと笑ってから、
「てかさ、これ研究員の方とも共有したらいいんじゃない?」
と、早速事務長のところに行って掛け合ってくれた。
事務長や他の事務員も賛成してくれて、所長に話をしてくれることになる。
「これでだいぶ楽になるんじゃない」
「研究員のみなさんが見てくれるといいんですけどね」
「返されて訂正するより効率いいと気付けば見るわよ。超激務だからね。研究の内容によっては深夜までとか、泊まり込みとかざらだし」
確かに、ほぼ定時で帰れる事務方と違ってなかなかきつそうだ。
ただ、そのしわ寄せがこっちにくることもよくあるので、あちらだけが大変だと言われるわけにはいかない。
働き始めて三年目。
失敗もするが、だいぶ仕事にも慣れて、やりがいを感じるようになってきた。
「ヴィオラお疲れさま」
研究所を出たところでニコと合流する。
今日は、以前イリスさんに持っていったお菓子のお店に併設されているカフェでお茶をする予定だ。
ぜひ行った感想を聞かせてほしいとイリスさんにも言われている。
かなり羨ましそうで、ものすごく前のめりになっていた。
ニコは最終学年で忙しく、待ち合わせて出かけるのは久しぶりだ。
「ずっと研究室で座りっぱなしだったから外はいいね。開放感」
ニコが、「飛べそう」と言いながら、体を伸ばしている。
「卒業研究の方はどう?」
「うん。実技が一切入らない内容にしたから大丈夫」
ニコが言うところによると、これまで浪人や留年をしていたのは実技が苦手なのが原因らしい。座学の成績は普通だと言っていた。
「六年生は実技の授業がないから、随分気持ちが楽だよ」
話してるうちにお店に着いて、予約していた席に座ると、スパークリングジュースを手に取ってグラスを合わせた。
カチンと澄んだ音がする。
「内定おめでとう」
「ありがとう」
ニコは先日無事に研究所の校正、校閲部署から内定をもらっていた。
「夢を叶えたんだね。すごいな」
私はポツリと呟く。
ニコは夢の有る無しで人生の良し悪しは決まらないと言ってくれたけど、やっぱり少しだけ引け目を感じる。
ニコはそんな私の様子に、グラスを置いて口を開いた。
「⋯⋯あれからちょっと考えたんだけどさ。夢って、結局たくさんある靴の中の一足みたいなもんだと思うんだよね」
「靴?」
発言の意味がよくわからなくて、ニコを見る。
「履く人を選ぶ靴とか、履きこなすのが難しい靴があってさ、そういう靴を履くのに労力をかける人もいるけど、そんなのに興味がない人もいるでしょ。けど、興味を持たないその人たちが靴を履いてないわけじゃなくて、みんな種類は違うけど、それぞれ靴を履いてる」
「うん」
「みんなちゃんと自分の靴を履いて歩いてるんだよ。それにさ、靴はずっと履き続けてるわけじゃないし、別の靴に替えることもあるだろうし、なんなら裸足で駆け回ってる人を羨ましいと思うこともあるかもしれないじゃない」
「⋯⋯そっか」
ニコの言葉がストンと落ちてきた。
ちゃんと私も自分なりの靴を履いて歩いていて。
それが、夢だとかそうじゃないとか大事なのはそんなことじゃなかったんだ。
それから、運ばれてきたチョコレートケーキとフルーツケーキを半分こして、ハーブティーを飲む。
お土産にクッキーを買って店を出たところで声をかけられた。
「こんにちは」
その声音に、もう心を乱されることはない。
「こんにちはマリエル」
落ち着いて挨拶を返す私に、マリエルが、ふんという態度で目を細める。
それからニコの方を向いて、
「ニコラさん、こんな風に遊んでるとまた留年しますよ」
と、明らかに愛想悪く、媚びたところのない口調で言ったので、そちらに驚かされてしまった。
「あはは、厳しいな。がんばります。マリエルさんは資格試験もあるんですよね。勉強がんばってくださいね。試験前に風邪を引いたりしたら大変ですから、体調管理も気を付けてくださいね」
「うっさいな。言われなくてもわかってるし」
これがマリエルの素なんだろうか。
あざとさも意地の悪さもない、反抗的で手のかかる妹のような。
結局マリエルはそれ以上何も言わず、バツが悪そうに去っていった。
「僕、マリエルさんに嫌われてるんだよね」
いや、むしろかなり心を開かれているような気がする。
「前に結構失礼なこと言っちゃったから」
何を言ったんだろう。
男性に対してあそこまでマリエルの態度が変わるなんて。
二人にどんなやり取りがあったのかはわからないけど、なぜかモヤッとした気持ちになる。
その理由がどこにあるのか。
「じゃあ、帰ろうか」
ニコの呼びかけに私は頷く。
日の落ちかかった空に、月が輝き始めていた。
── ─
夏の名残も遥か遠くに消えて、冬の気配に包まれている。
母に頼まれた買い物を終えて歩いていると、
「ヴィオレット」
懐かしい声がした。
振り返ると、目に入る赤銅色。
「アルシェ」
しばらくぶりにあった彼は少年っぽさが消えて、はっきりと大人の男性に変わっていた。
最後に会ったときよりも髪が伸びている。
「久しぶり」
言いながら、思ったより動揺していない自分に気付いた。
「ヴィオレットの家に行ったら、買い物に出たって言われたから。会えてよかった」
偶然じゃなくて、私を訪ねてきたのか。
「どうしたの? 用事?」
「うん、話したいことがあって」
アルシェは緊張しているのか顔色が白い。
そういえば、私もアルシェと向き合って話すべきだと思っていたのに、なんだかんだと先延ばしになっていた。
「じゃあ、どこかお店に入ろうか」
私が言うと、彼は目に見えてホッとした表情になる。
近くのカフェに入ると、窓側の席に二人向かい合わせに座った。
ソファが柔らかい。
私が紅茶を選ぶと、アルシェも同じものを頼む。
⋯⋯。
⋯⋯⋯⋯。
沈黙が流れた。
他のお客さんのカップを置く音が聞こえてくる。
しばらくして紅茶が運ばれてきた。
その水面を見つめながらアルシェが口を開くのを待っていたが、彼は一向に黙ったままで、私はどんどん焦れてくる。
「アルシェ、何か話があったんじゃないの?」
「あ、うん。そうなんだけど、何から話していいのか」
そんなに言いにくいことなのか。
困ったように笑うアルシェを見たら、ふと昔を思い出した。
そうだ、アルシェは元々こんな感じだった。
自分から積極的に話すような人ではなかった。
仕方ない。
「魔法学校の研究生になったって聞いたけど」
「うん」
アルシェは多少緊張が解けた様子で頷く。
「この春で修了予定」
「そうなんだ。もう決まったの?」
「うん。もうほぼ決まったところ」
そう言って、紅茶を一口飲んだ。
「その後はどうするの? そっち方面に進むの?」
魔法関係の仕事に就くのだろうか。
そんな私の問いかけに、アルシェが、え?と訝しげな顔をする。
「え? 何?」
私はなぜそんな顔をされたのかわからず、狼狽えてしまう。
「いや、もちろんこれまで通り店で働くけど」
「店? アルシェの家のレストラン?」
「そうだよ」
「お店継ぐの?」
「うん⋯⋯なんでそんな驚いてるの?」
なんでと言うか。
「だって魔法の研究がしたくて魔法学校に行ったんでしょ?」
だったらそっちの道に進むんじゃないかと思うのは当然だと思う。
だけど、アルシェは怪訝そうなまま、
「そもそも店の役に立つことが学べそうだから魔法学校に行ったんだよ」
と、答えた。
何かお互いの前提みたいなものがずれていて、話が噛み合っていないことに気付く。
「あのさ、アルシェ。最初から全部話してくれる?」




