第三話「シンボルエンカウント」
「そういえば、アルミさんは許可証って持ってねぇの?」
グリムがその事実に気がついたのは、歩き始めて数分が経過した後である。
道は未だにほとんど緑一色だ。彼はそんな事実に「これが麻雀なら最高だったのにな」なんて事を思いつつも、歩みを止めずにいた。
そのうちに浮かんできた疑問が、その許可証についてだ。許可証とは、現代に生きる人間及び魔族や亜人族などにも欠かせない必須アイテムである。現代人の大半が許可証を持っているのだ。
だが、問いを受けたアルミ本人は少し不思議そうな表情を浮かべるばかりで、しばらく何も言わずに考えこんでしまう。そして、数秒の後に困ったような笑顔でこう言うのであった。
「……ん~えっと……その、許可証って何かな?」
「えっ!? 携帯許可証の事だっつの。知らないわけないだろ?」
「うえぇぇ? えっと……えっと……あっ! もしかして携帯式魔法使用許可証の事を言ってるのかな?」
「えっ? ああ、おう……」
慣れない正式名称で呼ばれ、今度はグリムの方が困惑する番だった。
携帯式魔法使用許可証。通称「許可証」。もしくは「携帯」と略され呼ばれている代物だ。
これはその名の通り、魔法を使うために必要不可欠な携帯端末の事である。当然、田舎物のグリムですら知ってるどころか持っている。もっとも、今は壊れてしまっているが。
その事実を思い出し、グリムはまた少しだけ表情を曇らせる。
だが、それとは対照的にアルミは照れを誤魔化すような真っ赤な笑顔で、八の字を描いて飛びまわっていた。
「やーもう! あれのこと、ケータイってばっかり呼んでたから一瞬何の事かわからなかったよー! どうしても許可証って呼び方が慣れなくてねぇ。時々、書類とかに書いてあるのも見るけど、そういう時って確実に正式名称の方で書かれてるから本当に慣れなくてー!」
「そっか。でも、ケータイって呼び方ちょっと古くね?」
「……えっ!?」
「それひと世代ぐらい前に流行った略称だろ? でも今は、みんな口をそろえて許可証って言ってんじゃん。何でか知らんけど」
「そう……なの?」
「つか、妖精種の寿命って確か十年ちょいぐらいだろ? だったら生まれた時点でもうケータイって呼ぶ世代じゃなくね? 今何歳?」
「……!」
アルミが急に真顔になった。大量の極小の汗を流している。雰囲気からして冷や汗のようだ。更に表情が固まってしまっていいる。兎にも角にも焦っている事だけは確かなようだ。
グリムは、アルミの態度に首を傾げるが、まあそこまで気にせずに会話を再開させる。
「ま、そんなのはわりとどうでもいいんだ。それより話は戻すけど、アルミさんは許可証持ってんの?」
「えっ? ……ああ、うん! もちろん持ってるよ!」
「そっか。良かった」
グリムは安堵する。
許可証を持っている以上、“魔法”が使用出来るという解釈で間違いは無い。
彼の携帯端末型の許可証が壊れている現在、頼れるのはこの妖精種だけだ。この状況で、魔法が使えないというのはあまりにも絶望的過ぎる。それ故、こうして魔法が使える存在が友好的な態度で接してくれるのは、何ともありがたい事であった。
グリムは、眼の前のアルミがやけに頼もしく見えてくるのを感じた。だが、これだけで安心するのはまだ早い。一口に魔法とは言っても数多くの種類があって、この妖精種がまともな魔法をいくつ使えるかも不明なままだ。だから彼は質問を飛ばしてみる。
「それで、術は何個持ってて、今何個使えんだ? 出来れば用途も頼む」
術とは、魔法を使う上で必要な『型』の事である。
魔法というのはそもそも、何かを生成したり、制御したり、還元したりする力の総称である。その際に、何を生成し、何を制御し、何を還元するのかを細かく決めた物を『術』という。
現代では、術を複数ストックしておいて、場面や用途に応じて使い分けるという形式がメインである。
余談だが、自分の持っている術を聞かれた時の反応で、その人が自分の術にどれだけ自信を持っているのかもだいたい察する事が出来る。どうやら、このアルミという妖精種は自信たっぷりのようだ。
何故ならば問われたその瞬間、得意げな顔を隠しもせずに見せつけてきたからである。
「えっ、術~? そんな、大した事ないよぉ。そうだねぇ……役に立ちそうなのはだいたい七つくらいかな~。現状ならどれでも使用出来るよ!」
「なんかその口調ムカつくけど、だいたいわかった。その感じだと自信あるんだな。良かった。で、用途は?」
「ごめんね。ちょっと調子乗ってた。それで、用途の説明は大まかでいいかな?」
「ああ。主な用途だけでいい」
「なら、だいたい撹乱、探知、攻撃、防御、強化、応急、警報って感じかな。加えて、応用である程度広げられるかな。他にもある事にはあるけど、この状況で役立ちそうな物じゃないかな。指先をちょっと光らすだけの術とかいらないよね?」
「ああ、確かにいらないな。でもやっぱ、転移魔法とかは無いんだな」
「それはっ! そんな超凄い魔法使えてたら、今頃こんな危ないくせに給料の低いところで働いたりしてないよ!」
数ある魔法の中でも転移魔法というのは相当高度なものであり、世界でも使える者は限られているのだ。アルミが少しムッとしたのも無理は無い。
だがグリムとしては単なる冗談だったので、とりあえず軽く謝る事にする。
「すまんすまん。それにしても見事なバランスだよな……さすが妖精種なだけある」
「えっ? ああ、うんうん! でしょでしょー!」
何故か変なところで動揺しているアルミを無視し、グリムは思考を動かしていく。
過去は魔族のみが使える技術とされていた魔法だが、現代では当たり前のように人間も使えるようになっている。魔法を使えるか否かは生まれた時の素質で決まるらしいが、今では人間も魔族も亜人族も人口のほぼ全員が使えて当然という風潮が出来上がっていた。今や、魔法は学校でも教えられるような必須技能となっている。
そんな中、術の平均ストック数は一般的に一人五つ程度とされている。もちろん、小中学校の授業で教わるような初歩的な物を除き、実際に仕事の現場などで使用出来る物の数だ。一つの術を覚えるのに多大な時間を要するのもあり、個人が持てる術の数はそう多くはない。加えて説明すると、それら全てをバランスよく揃えている人間は珍しいとされていた。
だが、このアルミは人間でないというのもあり、かなり理想的な術の揃え方をしていた。少なくとも、今この場を切り抜けるには最適とも言える組み合わせである。
「って、七つって何気に多くね?」
「えっ!?」
「ていうか、妖精種って人間より寿命短いのに、何でそんなに多く取得出来んだ?」
「ああ、それは……ええと……」
妖精種は内蓄魔力が多い事で有名だが、だからと言って術が多い理由にはならない。いくら食材を多く持っていても、短い時間で多くの料理を作れる事にはならないのと一緒だ。どうも、先ほどから色々な部分が怪しい妖精である。
七つといえば、後もう少しで精霊クラスに匹敵するほどの術数である。一分野特化の精霊ですらも十が平均値だというのに、この妖精はそれに肉薄しているのだ。この妖精の正体が一気に怪しくなってくる。
と、グリムがこんな思考に身をゆだねている時だった。唐突に、アルミが彼の肩を叩いた。
「ん?」
「え! ええとね……! その。そろそろ、魔物が出歩いてる地帯に付きそうだから、ここから先は静かにお願いね。どんなのが出てきても、絶対冷静さを欠いちゃ駄目だからね!」
「ああ、おう……」
どうやら歩いているうちに、もうそんなところまで来ていたようだ。
グリムは、アルミの少し誤魔化すような口調に不信感を抱きながらも、とりあえずそんな事を言っている場合では無いと気持ちを切り替える。
ここに来る前に受けたアルミの説明によれば、魔物というものは自らのテリトリーを徹底して守るものらしい。故に、安全地帯という物は確実に存在するそうだ。先ほどまで歩いていた密林地帯が安全地帯という事だったが、もう少し歩けばこの安全地帯を抜ける事になるらしい。
グリムが目を凝らし、少し先の方に視線を飛ばす。すると、絶えず生え揃えられていた木々の群れが途切れ、その先に草原が広がっているのが確認出来た。恐らく、その草原というのが危険地帯なのだろう。彼は気を引き締め、アルミの方へと視線を向ける。
「で、ここからどうするんだ? あんな開けた場所じゃどうあがいても隠れられねーぜ? かと言って、戦って勝てる相手なのかよ?」
「大丈夫! 戦ったら結構不味い相手なのは確かだけど、隠れていけば問題ないんだよ」
「だから、その隠れる場所がないって言ってんだけど……」
「それを作れるのが、魔法という技術なんです! 早速、お披露目になるね」
アルミは、Tシャツの中に手を突っ込み、がさごそとまさぐりまわす。そして、再び手を外に出した時、その手には小型の携帯端末が握られていた。一世代前に流行った折りたたみ式のものだ。
それはどう見ても、シャツの中から取り出したようにしか見えなかった。一体、あの薄い布の何処に仕舞っているのかと疑問に思ったグリムだったが、ここでいらぬ突っ込みをして話をややこしくするのも面倒だったので、なるべく気にしないようにする。
それよりも、彼女の持っている携帯許可証が超小型だった事の方が驚きであった。流石に小粒とまではいかなくとも、妖精サイズの携帯端末の大きさなど推して測るべしである。
グリムは最近の技術の進歩に驚きつつも、ここで携帯許可証を取り出した意味を考え、即座に小声で話しかける。
「まさか、魔法を使うつもりか?」
「もちろん! ちょっと待っててね……」
アルミは許可証を両手で操作し、画面を切り替えていく。明らかに慣れていない動きだ。こうして見ると、機械音痴の人が頑張って操作しているようにも見えてくる。というか、動きからして間違いなくそうだった。
そんな者にとって、携帯許可証のシステムは天敵とも呼べるだろう。携帯許可証を操作し、魔法を使用可能にするのには結構面倒な操作が必要になってくるからだ。しかし、これでも昔と比べたらかなり簡略化されているのである。
というのも、何百年か前に始まった魔法規制により、現代の住民のほとんどが生まれた時から魔法を封印される事となっているのは周知の事実だ。その封印を一時的に解くのがこの携帯許可証である。だが、そんな便利な品が生まれる数十年前までは、紙の許可証をわざわざ国に届けなければいけなかったのだ。そうする事により、封印魔法を解除する力を持った者がその人の元へ派遣され、必要な時だけ魔法を解いてくれるという仕組みになっていたのである。
それが現代になって手続きやらが簡略化し、今では電話どころか専用アプリケーションでいくつか受け答えをするだけですぐに魔法が使用出来るようになっていた。こんな一見雑な仕組みで、今まで問題が起こっていない事が驚きである。
兎にも角にも、たったそれだけの操作に今更手間取るこの妖精種は何なのだという話である。
グリムは手を貸そうと一瞬考えるが、彼女の許可証があまりにも小さすぎて自分じゃ操作出来ないという事実に気がつく。
こうして互いにじれったい時間を過ごす事、数分。
アルミの携帯許可証の画面に承認の文字が浮かび上がった。
すると、アルミの携帯から半透明の鍵のようなマークが浮かび上がり、彼女はそれを自らの胸のあたりに突き立て、半回転させた。
これは鍵魔法といって、封印に対して唯一干渉可能な術である。携帯許可証の中に内蔵されている魔鉱が、これをつくり出しているのだ。
そして、この鍵を魔力封印箇所に刺す事により、封印を一時的に解除出来るのだ。
「ふう、できたよー! これで全解禁かんりょー! 後はパスワード言うだけで出るよー!」
「……お疲れさん。で、まずはどの魔法を使うんだ?」
「そうだね。まずは手始めに……と!」
アルミは、まず画面に表示されている術リストの中から一つにカーソルを合わせる。
それから目を閉じ、すぅ、と小さな身体で大きく息を吸う。これは一見不要な行為にも見えるが、実際は集中のために必要な動作である。別にしなくても魔法を出せる事には出せるが、こうした方が若干ながら威力や精度が向上するのだ。だから、出来る時はこうした方がいい。
そうしてアルミは勢いよく目を開き、右手を前に突き出し、許可証を持った左手をそっと口元に寄せ、何故かほんの少しだけ恥ずかしそうな笑顔でこう告げた。
「ふぃふす☆あんぐる~!」
妙に力の抜けるこの発声は、パスワードの音声認証のために放ったものである。
パスワード、それは封印を概ね解除した後の待機状態における、最後の一線である。これを口にする事により封印が一時的に完全解除され、魔法が発動するという仕組みになっているのだ。
ちなみに、パスワードなのに発声していいのかという点については問題ない。何故なら、パスワードの言葉自体に深い意味は無いからだ。むしろ、声に微量に含まれている魔力で識別しているという側面の方が強い。そもそも、パスワードを言う段階になったらもうほとんど認証は済んでいる状態なので、セキュリティという一面においてこれは大した効果を発揮しないと言われている。
大事なのは、発声によってタイミングを見計らう事である。
だからむしろ、術名と全く同じパスワードにしている人間も多々いるぐらいである。今回の場合もおそらくそうだろう。
「……いや、それにしても酷いネーミングだな。まるで語感だけで決めたような……」
「ていやっ!」
グリムの発言を無視したアルミが、右手を弾くように振り上げる。
直後、薄青い蒸気のような光が、彼女の右腕から飛び出して勢いよく空へと駆けあがっていく。この光は“魔力”というエネルギー体だ。魔力とは、人間や魔族に生まれつき宿っている「気」のような力の事であり、可視のエネルギーである。余談だが、魔力の色は個人によって異なるものだ。
また、使えば使うほど消耗するエネルギーではあるものの、時間経過と共に回復するという特性も持っていた。一般的な魔力回復のペースは三分に一程度と言われていて、人間の社会人ならばだいたい内包魔力が百あればいい方である。あくまで一つの基準でしかないが。
そんな魔法の使用方法には二種類あり、純正魔法と改正魔法というのが存在する。後者は人間が使いやすいように工夫を凝らした魔法使用法であるため、人間ではない亜人種の場合は前者を使用する事が多く見られた。
そもそも魔法のシステムとは、世界中に空気のように存在するエネルギー体である「マナ」や既存の物体や現象に対し、干渉可能な力である「魔力」をぶつけ、全く別の物に変質させるという所から始まる。
アルミの用いる純正魔法というのは体外に魔力を放出し、直接マナや物質や現象を変質させるというタイプのものだ。
「えいっ!」
アルミがまた一声あげると、空中に立ち上った青く濁った光が弾け、いくつかに枝分かれしながら様々な方向に分散されていく。青白く細くなったその線は、高速で遠方へと飛び去っていく。そうして待つこと数秒、遠方から戻ってきたその魔力の線は、アルミを突き刺さんばかりの勢いで向かってくる。その軌跡はアルミの目のあたりを狙っているようだが、彼女は抵抗する事もなく、きちんとそれを眼球で受け止める。すると、光はまるで取り込まれるかのように、ゆっくりと彼女の眼球に収まっていった。
そんな光景を見て、グリムは思う。一体何が起きているのだと。
「えっと……これはどういう術なんだ?」
「今の術の事?」
「ああ、それ……」
「これは光に干渉するタイプの術なんだ。初級純正魔法、異能型ってところかな」
「異能型? めずらしいな」
「そうかな?」
魔法の種類には“魔導型”と“異能型”の二種類が存在し、いわゆる魔導型はマナに干渉するためのオーソドックスな魔法なのに対し、異能型は既にその場に存在している物や現象、つまり物理的なものに干渉するための魔法である。
要するに魔導型の魔法が岩を生み出してコントロールするものだとしたら、異能型の魔法は本物の岩を念動力のような力でコントロールするものなのである。どちらかといえば、魔法というより超能力というニュアンスの方が近い。一時期、本当にそう呼ばれていた時期も存在するぐらいだ。
「兎にも角にも、生き物の視界には光が大きく関係している事は常識だよね? この術は、光の反射をコントロールして、自分の視界を自由に移動させるための術なんだ。加えて、飛ばした魔力に含まれている情報を観測する事によって、更に多くの情報を把握する事が出来るの。これが私の探知用の術」
「へぇ……すっげぇな」
聞いた感じだと、ゲームでいう視点移動が現実でも可能になる術のようだ。
地味ではあるが、使いこなせるのならば相当便利である。索敵にはもってこいだ。
「で、どうだった?」
「魔物が一体、あの草原地帯を動き回っているみたい。でも大丈夫。もう一つの術で何とかしのげるから!」
アルミは再び許可証を軽く弄って、使用術を切り替える。
そして、またも口元に許可証を寄せ、もう片方の手を前に掲げながら、またしても何故か引き攣った笑顔でパスワードを口にする。
「てぃ、てぃんくる☆らいと~!」
瞬間。またも彼女の身体から青白い光が漏れ、即座に弾けて無数の光の線と化し、二人の周囲を勢いよく駆け巡っていく。
グリムが不思議そうな顔を浮かべる。と、その次の瞬間に変化は訪れた。彼が、何の気無しに自分の手を見ようとしたところ、その腕が見当たらない事に気がついたのだ。いや、腕だけでは無い。自らの全身どころか隣に居たはずのアルミまで消えていたのだ。グリムは、茫然となって呟いた。
「……あれ? これ、もしかして……消えてるのか?」
「そ。これは単純に光を操作する術なんだ。ちなみにこれも異能型だね。光の屈折を操作したから、今の私たちは魔物から視認出来ないようになってるの」
「なるほど……これがさっき言ってた撹乱用のってわけか。でも、姿消しただけで大丈夫なのか?」
「うん。これは魔物の特徴なんだけど、基本的に連中は視認でしか他の生き物を確認出来ないんだ。それと、音にもそれなりに敏感だけど、別に大きな音をたてなければ平気だから。歩く足音ぐらいじゃなんともないよ」
「そっか。それならいけそうだな」
「じゃ、持続時間が切れる前にさっさといこっか」
「持続時間はどんぐらい?」
「うぅーん。結構その日のモチベーションやマナの濃さや魔力残高によって左右されるけど、今の感じだとだいたい十分オーバーくらいかな?」
「充分じゃないか。でも、ま、何が起こるかわかんねーし急ぐか」
「うん……!」
こうして二人は密林地帯を越え、草原エリアへと一歩踏み出す。
草原、とはいえそんなに広い場所では無い。何せ、片方を峠道で、もう片方を海で囲まれた狭い道のような草地だ。縦横無尽に駆け回れるスペースがあるわけがない。
そんな中、犬と同程度の大きさを誇る謎の生命体が一体、草原をゆっくりと歩き回っていた。狼の頭に羽虫のような翅を無理矢理くっつけたような生き物が、顎の横から生えている銀色の蛙のような四本脚で闊歩しているのだ。
これが、アルミの言う魔物の姿であった。小型な上にたった一体のみであるが、それでもグリムの気持ちを萎えさせるには充分すぎる程の存在感を放っている。
「うぇぇ……気持ち悪ぃ……」
「ちょっと……たとえ小声でも声出さないでくれないかなー。命がかかってるんだからね」
ここでグリムは大人しくしていてもよかった。
しかし同時に、グリムの中の衝動が騒いでしまっているのだ。故に止まれない。
一体だけの魔物に怯え、見つからないように進まなければならない。この事実はグリムの気分を少しだけ高揚させた。ゲームをしていても、滅多に味わえるシチュエーションではないからだ。
グリムは気持ちそのままに、アルミに対して少しだけ食い下がる。
「じゃあ、一個だけ質問に答えてくれたら黙る」
「もー、何?」
「あの気持ちの悪い魔物? は、なんつー奴なの?」
「……あれはフェルルっていう魔物。跳ぶのと飛ぶのが両方出来て、追跡されるとすぐ追いつかれるんだ。すれ違いざまに頭を噛み砕かれた人間も居たみたい。内包魔力もかなり高いみたいで、鎖を生成して拘束してくる事もあるみたい……」
「つまり?」
「ばれたら非常に不味いから黙っててくれないかな」
「了解ー」
グリムは、こんな状況を不思議と楽しんでいる自分が居る事に驚きを感じていた。
というよりは、彼には実感がないのだ。自らが危機的状況に居るのだという実感が。
恐怖が麻痺したわけでも、感情が停滞したわけでもない。ただただ、実感だけが追いついてこないのだ。
彼は、なるべく足音を殺すようにしつつも、気持ちはゲームをしているのとなんら変わりのない程度のものだ。恐怖も臨場感も感じてはいるものの、それらは全て実感を伴わない遊び感覚のものである。
だから彼は性懲りもなくまた小声で呟く。
「おっ、霧だ。ラッキー」
彼が、なるべく魔物を避けるよう迂回するように歩いていくと、周囲が徐々に白く染まっていくのが認識出来た。突然の濃霧である。
完全に偶然だったが都合が良かった。これによって、よりフェルルから姿を隠しやすくなる。この濃さならば、術が解けてもすぐには見つからなさそうである。
先の景色はうっすら輪郭が見える程度だ。
しばらく歩いていると、草原の先に濃い緑色と茶色の景色が見えてきた。密林の安全地帯だ。
よし、これでゲームクリアだと意気込むグリム。
しかし、そんな彼の見立ては甘かった。そう。あまりにも甘すぎたのだ。
「えっ?」
突然、グリムの全身に違和感のような奇妙な感覚が走り抜ける。
その正体はすぐに判明した。グリムが視線を下ろすと、そこには自身の手足も身体もあったのである。
つまり、透過の効果が切れていた。アルミにかけられた魔法が、まだ五分も経っていないのに切れたのだ。
その上、いつの間にかあれだけ濃かった霧も消滅し、全ての景色が明るみになっていた。グリムとフェルルを隔てる濃白が消えてしまったのである。
それに加え、慌てて周囲を見渡しても妖精種が見当たらなかった。
「あれ、どこ行ったんだ? なあ、アルミさん?」
試しに声をかけてみるが、返事は無い。
いつの間にか、アルミという妖精種が消えていた。先ほどまで姿を消す魔法を使っていたせいで全く気付けなかったが、どうやらグリムの気付かぬ間に何処かに行ってしまったらしい。
つまり彼は、いきなり無防備な状態で取り残されたのだ。
「……もしかして、見捨てられた……とか?」
グリムは、おそるおそる魔物の方に視線を向ける。
すると、血に飢えたその魔物と偶然目が合ってしまった。グリムは、未だかつて無いほど霧が消えてしまった事に対して憤りを感じてしまう。霧さえあればこんなに早く見つかる事無かったのに、と激しく後悔する。
思わず叫びそうになる彼だったが、それよりも早く魔物が吼えた。
フェルルというその魔物は、完全にグリムをターゲットとして認識してしまったらしい。
「……やっべ。どうしよう、これ……とりあえず……!」
――――さて、どうするか。なんて悠長な事を考えている余裕も無い。
グリムは回れ右してダッシュの態勢を取る。こうなってしまえば逃げるしかない。
だが、それよりもフェルルの方が早かった。フェルルが軽く吼えると、その足元の地面が盛り上がり、そこから一本の鎖が飛び出してきたのだ。
高速で射出された鎖はグリムに追いつき、彼の右脚に何重にも絡みつく。
鎖は意外と重く、彼はバランスを保てなくなり派手に転ぶ。グリムは、地面に生えてる草の柔らかながらも刺々しい感触に、思わず眉をひそめてしまった。
「うっ……! ちくしょう魔法かよ!」
どうやら、このあたりの魔物は封印処置すら施されていないようだ。今や人間や魔族ですら許可証がないと魔法が使えないというのに、そんな軽く吼えるだけで魔法が使えるなんて随分いい御身分であると、グリムは思わず不満を漏らしそうになる。
だが、そんな事を気にしている余裕など、彼にはもう残されていなかった。
背後を見れば、ゆっくりと魔物が近寄ってくるのが視認できる。アルミの話だと、フェルルは素早い移動が売りだったようだが、何故かその動きは非常にゆっくりだ。おそらく、グリムを外敵とすらみなしていないのだろう。
捕食される恐怖。しかし、グリムの脚はしっかり固定されていて動かせない。なんとか態勢を整え、しゃがむ格好を取る事ぐらいなら可能になったが、この状況を彼一人ではどうする事も出来ない。
魔法さえ使えればまだ何とかなっただろうが、それすらも現在許可証が壊れているので不可能である。その上、アルミまでもが居ないならどうする事も出来ない。
「……やばいやばいやばいって! ちょっとタンマタンマタンマ……」
グリムの嘆きを聞き届ける者は、この場になど居なかった。
せめてアルミという妖精種が居ればまだ何とかなっていたはずなのに、彼女は一体何処に消えてしまったのか。グリムは追いつめられた頭で必死に考える。
だが、その必死さに反して結論は案外あっさり出てしまった。この状況から考えて、彼は間違いなくあの妖精種に嵌められたのだ。案内すると嘘をつき、魔物のところまで連れていって餌にさせるという罠に。彼をここまで連れてきたのは妖精種であり、助けると言った癖に土壇場で消えたという事はもうそういう事だろう。
冷静に考えてみれば、あの妖精種には妙なところや後ろめたそうな部分が多々あった。目的や正体が何だったのかは結局わからなかったままだが、とにかく彼女はこの状況を作りたかったのだろう。そしてその思惑は見事上手くいったわけだ。
「……ああ、もう焦っても仕方ねーか。もういいや。来世で幸せに、だな」
ちょうど眼の前には、一体のフェルル。ただでさえ巨大な口を開け、今まさにグリムを喰らおうとしている。
もうグリムの力だけではどうする事も出来ない。
許可証さえ無事で“魔法”を使う事さえ出来れば、グリムはこんな魔物に殺される事は無かっただろう。
だが、彼の胸中には未練らしい未練も、恐怖らしい恐怖も無かった。自分でも不思議だと思えるぐらいに心が乾いているのだ。少なくとも、死、という概念に対して何も思えない程度には。
どの道、足掻いたところで状況が好転するとも思えなかったので、彼はもう大人しく目を閉じる。祈る言葉すらも無い。それすらも無駄だと判断したのだ。
そして、魔物の巨大な口が閉じていく気配を彼は全身で感じとった。彼はそれでも何も感じぬ心に不満を覚えながらも、それでも無駄な抵抗することなく死を受け入れる。
死の寸前。グリムは、このままいけば最期に聞く音が獣の口の閉じる音になる事に気が付き、更に気を落とすのであった。
だが、次に聞こえてくるはずの音は、彼の予想とは全く異なった小さな小さな「声」であった。
「ろう……☆ えくすきゅーしょんっ!」
唐突に聞き覚えのある女の声、そして、背後からフェルルの蛙脚を刺し貫く細い光。
細い光のようなものに貫かれたフェルルの蛙脚のうち一本が力を無くし、だらんと地面に投げ出される。それによりバランスが崩れ、巨大な狼頭が地面へと勢いよく倒れこむ。顎からの落下。そのせいで生じる震動。フェルルの鋭く細い眼が裏返り、白眼となる。
どうやら今ので相当強く頭を打ったようだ。この狼頭の魔物は、しばらくは起き上がれなさそうであった。更に、それと同時にグリムの脚を拘束していた鎖も徐々に透明になっていき、最終的に空気に霧散するかのように消滅していく。
これで、危機は去った。
しかし、グリムの脳内を埋め尽くすのは安堵では無く疑問だった。
「……今のって、まさか……?」
グリムは、倒れている魔物に向けていた視線を離し、少しだけ上方向に移動させる。
すると、そこにはサンバイザーと白くて長いTシャツといった、特徴的な服装の女小人が宙に浮いていた。弓を放った後のような姿勢でこちらを見据えているその顔立ちは、小さいながらもそれなりに美形である事がよくわかる。背中から伸びる半透明の薄い翼からして、この生き物が妖精種である事に間違いは無かった。
見たところ、この妖精種が先ほどの痛々しいパスワード名を叫んで何らかの攻撃魔法を放ち、魔物にダメージを与えたのだろう。つまり命の恩人だ。そして、この妖精種をグリムは知っていた。
というか、それはさっきまで姿を消していたはずのアルミの姿そのものであった。
「アルミさん?」
「そうだよ、私だよ! 大丈夫だった!?」
まさかの登場に、グリムは何と言おうか非常に迷った。まず一番最初に「今まで何をしていたんだ」という一言が浮かび、その次に「助けてくれてさんきゅー」という一言が浮かんだ。が、グリムは、それでは今の自分の気持ちを表現しきれないという事に気がついた。
それらの言葉では、彼の胸の内にある猜疑心を上手く表現出来ないのだ。
だから、彼がまず最初に放った一言は、先ほど浮かんだ言葉のうちのどれでもなかった。
「うーんと、何で俺を助けたんだ?」
アルミがグリムを罠に嵌めようとしている可能性を考慮するなら、こういう台詞が適切だろうと彼は判断した。何だかんだいって助けてくれたはいいが、先ほど突然消えたという謎の行動のせいで、彼はどうしてもアルミを信用しきれずにいるのだ。今後、彼女の行動については少し疑ってかかるべきだと考えたのである。
それに、もし裏切っているとしたら今彼を助けるのもなかなか不可解ではあるので、そういう意味も兼ねての発言だ。
しかし、この発言を受けたアルミの方は、今はそんな場合じゃないと言いたげな真剣で切実な表情を向けてくる。
「ちょっと待って! 詳しい話はここを抜けてからにしよう! さ、走れる?」
「え? ああ、まあ。大丈夫だ」
「じゃあ急ごう! 今のは単に気絶させただけだから、このフェルル、起きあがったらまた襲ってくるよ!」
「マジで……じゃあ本当に急ぐか!」
グリムは言われるがまま走り、草原地帯を抜けた先にある木々が密集した安全地帯に向けて走りだす。
ここは左右が海と壁に挟まれていて、前後が安全地帯に挟まれているという危険地帯だ。だから、この場所を何とか抜けようと全力で走る。妖精種も横から同じぐらいのスピードで飛び、グリムについてくる。
そんなこんなで、彼らはどうにか魔物が気絶から醒める前に安全地帯までたどり着く事が出来たのであった。草原地帯は縦に長かったので、ついた頃になるとグリムの息も絶え絶えになっていた。
「ふーっ……死ぬかと思った」
「ごめんね……助けるのが遅くなっちゃって……」
「ああ、結局何だったんだ……」
姿を消す魔法で一緒に進んでいたのに、突然本当に姿を消して、しばらくして助けに戻ってくるという行動はなかなかに不可解である。
グリムは何よりもその理由が気になった。たとえそれを聞いて嘘が返ってきたとしても、その嘘も一つの判断材料になる。だから、何の情報も無い今よりはマシになるというわけだ。
しかし、彼としてはそういう複数の意図を込めた質問をしたつもりだったのだが、返ってきた答えは実にシンプルだった。それでいながら更に不可解な答えであった。
「ジャミングされたの……」
「はぁ?」
「私の魔法に、何らかの力が干渉してきて強制解除されて……」
「よくわからんけど、それってアルミさんが姿を消した理由にはなってなくね?」
これは、正直に言った言葉にしては真実味に欠け、かといって嘘をつくつもりで言った言葉にしては些か不自然過ぎた。
グリムは頭の回る方では無かったため、この言葉をどう受け取るべきか判断に迷ってしまう。
結局、これだけで結論を出す事は到底出来ず、ひとまずアルミの言葉を待つ事しか出来なかった。
そうして三拍程度の間を置いて、アルミが改めてその小さな唇を開く。その表情には迷いが感じられた。
「……その、急に頭が痛くなって飛んでられなくなって、ずっとグリ君の足元で倒れてたの……」
「随分と、それは突拍子の無い話だな。よくわからんくて、あまりにも実感がわかねぇ」
「私も、こんな事初めてだったからよくわからないんだ……でも、感覚的にはジャミングっていうのが一番しっくりくるというか……」
「具体的にそれは、どういう事なんだ?」
「えっと、魔法の仕組みについては知ってるよね?」
「ああ、一応」
魔法の仕組みとは、魔力を用いてマナに干渉し変質させるか、魔力を用いて既に存在している物質や現象に干渉するかのどちらかである。それぐらいならグリムも知っている常識の範疇だが、しかしそれでも「ジャミング」という言葉に関しては聞いた事も無かった。だから、彼の表情は疑い半分の怪訝そうなものとなっていた。
けれども、それに対してアルミは真剣な顔で頷く。
「なら話は早いかも。ようするに魔法の基本は魔力で、それを上手く操作出来なかったらどんな魔法も上手くいかないって話なんだけど、今回、魔力がまるで誰かに妨害されたかのようにコントロールが効かなくなってしまったの……」
「へぇ。でもそれ、単にアルミさんの調子が悪かっただけじゃねぇのか?」
「そうかも、しれないけど……でも、本当に抑えつけられたような異和感があって……そしたら急に頭が痛くなって……」
「そんな話、聞いたこともねぇよ。気のせいじゃないのか? やっぱ」
「そう、なのかな……?」
「ああ、俺はそう思うぜ。とりあえず、こうしてても仕方ないし、先進むか」
「うん……」
そこで会話が途切れ、二人は再び歩き出した。
お互い、何か言いたい事はあれど上手く言葉にする事が出来ずに、ただただ時間が経過していくのを実感する。
安全地帯を抜けた先には何があるのか、グリムは猜疑心に駆られてそんな質問すらも出来なかった。
どうやら今回の安全地帯はそれなりに長いようで、沈黙はその長い間続いた。その間、グリムはひたすら居心地の悪さを感じていたわけだが、妖精種の方は一体何を考えていたのか。
彼はまだ、その答えを知らない。




