第十一話「今日の魔女は掃除機で飛ぶ」
―――と、私がそう締めくくろうとした時でした。
「なぁんかぁ、とっても大変そうだね☆」
真横から、いきなり甘ったるい声が聞こえてきました。
私は、突然の衝撃に目を見開きます。確かにこれはレースなので、そりゃいきなり誰かが接近してくる事だって多々ある事でしょう。
しかしさっきまで、周囲には私とロボット型の子しか居ませんでした。
それはもう直前に確認した事なので、間違えようのない確かな事実なのです。
それなのに、真横から誰かの声が聞こえたのです。
ロボット型の子では無いでしょう。何故ならば、あの子はもっと後ろに居たはずなのですから。
ならば一体何者なのでしょうか。私の隣に居るのは、本当に誰なのでしょうか。
私は、おそるおそる隣を見ました。
するとそこには、金色のスティック型に跨って飛行している、スタイルの良いお姉さんが居ました。
今回、私はそのスティック型掃除機を詳しく観察する事が出来ませんでした。何故ならば、そのお姉さんの格好があまりにも衝撃的だったのですから。
そうなのです。まず特筆すべきは、お姉さんの格好なのです。
お姉さんは、白い魔女帽子を目深に被っていました。そしてそれより下は、まるでウェディングドレスのようなデザインの真っ白な衣装となっていました。両肩と鎖骨を大胆に露出させているデザインの物です。まあ、スカートの丈は相当短くなっていましたが。
両手には純白のアームカバーがはめられています。その肩には、あたかも使い魔か何かのように、小さな白猫のぬいぐるみまで乗せられています。いえ、糊か何かで張り付けられている、と言うのが正しい表現でしょうか。白猫ぬいぐるみは、その肩から微動だにしていなかったのですから。
兎にも角にも、その人は、まるで白い魔女のようでした。
それだけに、履いている白いスニーカーがとても浮いていましたけれど。
そんな純白の魔女さんは、私に向けて柔和な笑みを浮かべました。
長い黒髪を風に靡かせ、大きな垂れ目を思い切り細め、不気味な程口角を上げて微笑んだのです。
「あっ、はじめましてさんだね☆ミ わたしはねぇ、うーんとっ、白魔女さんっていうの♪ 以後、お見知りおきを^^」
……うわぁ。
とっても気持ち悪い人が来ました。
ちなみに台詞の中の「☆ミ」や「♪」は、きちんと「ほしみ」や「おんぷ」といった読み方で、わざわざ全部口に出して言っています。最後の「^^」に至っては、なんと「あくさんしるこんふれっくす」と二回連続で言っていました。
何で記号をわざわざ口頭で言うのでしょうか。意味が分かりません。
なんかもう色々と気持ち悪いです。わざとこのキャラクター性を演じているのでしょうか。狙いすぎて意味がわかりません。滑っているを通り越して、何かもう恐いです。
加えて、まるで頭のおかしい人を演じているかのような、妙にわざとらしい感じが拭えません。もしかしたら本当にただの演技なのかもしれません。けれども、それを実行出来ている時点で充分変な人です。ええ、もう普通に不気味な人です。
大人びた容姿とは裏腹に、声がやけに甲高く幼い、というのも不気味なポイントです。
一体なんなのでしょうか、この状況は。
何故、こんな気持ち悪い人に絡まれなければならないのでしょうか。最悪です。
前には急転直下、後ろには執念を燃やすロボット型、これだけでもう「前門の虎、後門の狼」状態なのです。じゃあこの人は一体何なのでしょうか。
私は、何も返事が出来ぬまま表情を硬直させます。
すると、白魔女さんは人指し指を立て、不思議そうにコキリと首を傾げました。
「あっれれぇ~~っ??? 自己紹介、失敗しちゃったかなぁ☆」
ちなみに「???」は、ちゃんと「くえすちょんまーく」と三度言っています。凄まじいお人です。
私は答えません。関わり合いになりたくなかったのです。私の肩に座るキャットさんも、何やら沈黙を保っていました。ほんとに何でしょうか、この状況。
これはちょっと無理です。私は、機体を左に傾けて、出力を弱にします。
これで少しでも離れたかったのです。
しかし白魔女さんはこちらから視線を離さずに、私のクーちゃんにくっ付いて移動してきました。寸分も離れません。
それどころか、逆に接近されてしまったような気がします。
白魔女さんは、どんどん私との距離を詰めて行き、ついに吐息が顔に当たる位置にまで来てしまいました。
なんか口臭がミント臭いです。すっげえ嫌です。
ですが白魔女さんは、不気味な笑顔を絶やさずに言葉を続けました。
「あれれ、どおして逃げるのかな。同じ魔女仲間同士なんだから、もっと仲良くしようよ☆」
「っ……!」
言われて初めて思い出しました。
私は今、魔女のようなコスチュームを身に纏っているのです。
橙色と焦げ茶色に彩られた、ハロウィンの魔女風の衣装です。
どうやら、白魔女さんはこれを見て、私を同族か何かと勘違いしたようでした。
ですが、これはキャットさんに無理矢理着せられた物なのです。私も好きで着ているわけではないのです。
ちなみに説明が遅れましたが、魔女、というのは立派な魔族の名称です。
決して、魔法を使う女の人という意味ではありません。
魔女とは、魔法を使うのに長けた、人間の女性によく似た見た目の種族なのです。
この感じですと、白魔女さんは種族的な意味の「魔女」だという可能性が高そうです。
それにしても、昔は箒に跨って空を飛ぶイメージがあった魔女も、今となっては掃除機に跨って飛ぶようになってしまったのですね。何だか、時代の流れを感じざるを得ません。
――――今日の魔女は掃除機で飛ぶのですね。勉強になりました。
とはいえ私の方は、こういう魔女風の衣装を身に纏っているだけで、いたって普通の人間です。
白魔女さんとは違うのです。
……そうだ。これを言えば、付きまとうのをやめてくれるかもしれません。
私は、勇気を振り絞って声を発しました。
「……わ、私……魔女じゃ、ないですから……!」
「ええ~~~うっそぉ~~~!!! だってこれ、魔女の服だよ☆」
そう言うなり、白魔女さんは私の肩をつんっと指で軽くつついてきました。
全身に怖気が走ります。怖気が全力疾走です。
つい、喉奥から「ひいっ!」といった情けない声を漏らしてしまいます。
……っていうか、何でこの人は当たり前のように簡易保護障壁を突破し、私に直接触れているのでしょう!?
私の全身と全心を恐怖が支配していきます。
ですが、そこについて深く考える前に、白魔女さんからの追撃がきました。
頬や脇腹をトントンとつつかれます。考える暇もありません。
「ひぃっ! ちょ、やめっ……」
「ほらほら~☆ 早く言わないともっとしちゃうゾ~♪」
それにしても本当に気持ち悪いお人です。
確かに、私が今着ているのは、歴史上の魔女達が着ていた伝統衣装のような物に酷似しております。
ですが、私のこれはただ真似ているだけなのです。魔女の服ではありません。完全に言いがかりでした。
私は、胸に浮かんだ疑問や不満を、すぐに口に出そうとします。
しかし、息を吸い込んだ段階で、白魔女さんに首筋を指でなぞられてしまいました。
またしても「ひいっ」という声を出してしまいます。身体中を不快感が包みます。
本当に気持ち悪いです。是非やめていただきたいです。
私は、再度抗議の声を上げようとしました。
けれども、その前に白魔女さんが、私の背中を軽く指でなぞりました。
背中がゾワっとしました。全身に鳥肌が立ちました。流石にもう限界です。
私は、本体側のハンドルから手を離し、その手を強く振って白魔女さんを牽制し、それから大声を上げます。
「触らないでっ!!!!!」
切実でした。
色々と尋ねたい事もありましたが、そんな事を言っている暇がありません。
もうこれ以上は御免なのです。この人とは話したくありません。
これは何の罰なのでしょうか。一体、私が何をしたというのでしょうか。
私は、全力の眼力で、涙目になりながらも白魔女さんを睨みつけました。
すると白魔女さんは、物足りなそうな顔を一瞬浮かべつつも、何とか手を引っ込めてくれました。
「はいはい♪ ま、いっかぁ☆ 今回は軽く様子見だしね☆」
そう言う白魔女さんの表情は、作りすぎたような笑顔でした。
と、ここで私は、とある発見をしてしまいました。
あまり気付きたい事では無かったのですが、一度見てしまった以上は記憶から消せません。
私は、ショッキングな物を見てしまったのです。
それは、白魔女さんの衣装の隙間からのぞく、いくつもの内出血の痕でした。
アームカバーの隙間からも、何やら切り傷のような物がちらりと見えていました。
ゾッとします。痛々しい話を苦手とする私は、すぐに顔面蒼白になってしまいます。
すると、私の視線に気が付いた白魔女さんが、またしてもニッコリ笑いました。
私は、身体の芯が冷たくなっていく感覚に、身を貫かれてしまいます。
白魔女さんは、ウェディングドレス風衣装の裾を捲り、白い腿に刻まれた痛々しい紫色を見せつけてきます。掃除機に跨っているというのに、随分とまあ器用なものです。
そして、私に向かって、囁くようにこう言うのです。
「これペイント、お洒落でしょ☆」
「はあっ!!!?」
思わず私も顔をしかめてしまいます。
すると、白魔女さんはいきなり、内出血の部分を指で軽くこすりだしました。
それから「ほらっ!」と言って、その指先を私に見せつけてきます。
と、ここで私も気が付きます。内出血をこすった指先には、紫色のインクが滲んでいたのです。
どうやらあの内出血風ペイントはファッションのようでした。意味がわかりません。
こうなってくると、アームカバーからのぞく切り傷も、どうせシールか何かではないのかと思えてしまいます。よく見たら、案の定微妙に剥がれかかっていました。シールです。あれ絶対シールです。
白魔女さんのセンスはわかりません。
ですが、白魔女さんは笑顔のまま自由に話を続けました。
「ふふ、最近のマイブームだよっ☆ ちなみに最近はお話作りにも凝ってて、今は“幽霊に出会った女の子が掃除機レースで活躍する話”を作っているよ♪」
その話の内容には、とてつもないデジャヴを感じてしまいますのでやめて欲しいです。
……なんかその主人公、私みたいですね、とは絶対に言いません。
なんかもう嫌です。この人本当に気持ち悪いです。無理です。
私はもう閉口し、白魔女さんから視線を背けました。
こういう時に限って、ブーストが尽きているのが辛いです。逃げられないのは本当に辛いです。
そろそろ急転直下も迫ってきているので、もうそろそろこの状況を何とかしたいところです。
しかし、終わりは唐突にやってきました。
白魔女さんが、何の前触れも無くこう言ったのです。
「さぁてと、わたしはそろそろ行くかな♪ 楽しかったよ☆ バイバイ、アプリ・アクセルハートちゃん☆」
どうして私の実名を知っているのでしょう。
名乗った覚えは全く無いはずなのに、なんか当たり前のように呼ばれてしまいました。
なんか恐いですし、気持ち悪いです。最悪です。
私は、全身からブアっと汗が流れ出るのを自覚しつつも、しばらく硬直してしまいました。
あまりの衝撃に、まともな思考が出来なくなってしまったのです。
そのせいで私は逃げ遅れてしまいました。
いつの間にか、私の方へと顔を突き出していた白魔女さんから、私は逃げる事が出来なかったのです。
白魔女さんは魔女帽子を一旦脱ぎ、その長い黒髪を靡かせつつも、その顔を私の方へと接近させていたのです。
気付いた時には、もう何もかも全てが手遅れでした。私の頬に、蛞蝓が這うような感触が届けられます。
端的に述べましょう。
――――汗を舌で舐めとられた上で、頬にキスまでされました。
一瞬、何が起こったのかさえも認識できませんでした。
思考がフリーズします。私の脳が、現実を受け入れる事を全力で拒んでいます。
それから、白魔女さんが帽子をかぶり直しながら言った一言が、私の心を折るトドメの一撃となりました。
「う~ん! 甘ぁい☆ ごちそうさまっ!」
生まれて初めて人を殺したいと思いました。
ていうか人体の構造的に甘いわけがありません。嫌味でしょうか。
何にせよ、もう全部無かった事には出来ないのでしょうか。
私は、狂おしい程湧きあがってくる殺意と嫌悪感、それから恐怖と抵抗感、加えて吐き気と不快感を抑えきれずに、喉奥から感情の滲んだ音を漏らします。
「い……っ……い、い、いいいいいいい、いいいい……!」
私の脳は、ついに現実を認識してしまいました。
できれば一生目を背けていたかったのですが、もう無理です。
私の中の感情は、一気に爆発して弾け飛びます。
私は、喉にかかる負担も顧みず、全力で心の底から大きな声で叫びます。
「いっ、やあああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!!!!」
我ながら悲痛な叫びでした。
喉奥から何らかの臓器が飛び出してしまいそうな程、私は力強く、腹の底から叫び続けました。
もうわけがわかりませんでした。
感情が暴れまわって、もう自分が何を考えているのかさえもわかりません。
白魔女さんはキ●ガイです。本当のキチ●イです。
よくもまあ出会って数秒経たない相手に、ここまでの事をしてくれたなあと、逆に感心してしまいそうになるぐらいですよ。
私は全力で頬を拭いました。最悪です。
腕に口紅がつきました。汚らしいです。汚らわしいです。
早くお風呂に入って、全身を洗わないといけない気がします。出来る事なら、この皮膚ごと新調したい気分です。
いえ、この穢れを祓うには、神社に行った方がいいのでしょうか。
わかりません。何もかもわかりません。
そして、こんな私に追い打ちをかけるかのように、白魔女さんは笑みでこう言いました。
「マーキング、しといたから☆ またね☆」
「うっさいバカ死ねぇっ!!!! 死んでしまえっ!!!!」
柄にもなく大声を上げてしまいます。
怒鳴るなんて久しぶりです。喉がとっても痛みます。
それでも言わざるを得ませんでした。
あの人、まるで反省していません。どういう事ですか。あまりにも非常識ではないのでしょうか。
しかし、白魔女さんは満足そうに私に投げキッスを飛ばした後、一瞬で姿を消しました。
チカッと何かが光ったと思うと、その直後に、白魔女さんは影も形も無く消えていたのです。
転移系の魔法でしょうか。しかし転移はかなりの大魔法であるため、こんな簡単に使えるはずも無いのです。何やら色々と謎のある相手です。
ですが今の私には、そんな事など限りなくどうでもいい事でした。
……あの野郎逃げやがった。
私は、多少錯乱した脳裏で、白魔女さん……いえ、白魔女の野郎をどう潰すかを考えます。もっとも具体策は浮かばないので、とりあえず妄想で、という事になりますが。
しかし、全然スッキリしません。やはり無駄でした。だって私は、本物と遭遇したとしても、もうどうする事も出来ないのですから。
何だか、全身を妙な倦怠感が包みます。怒って疲れたせいでしょうか。心が動いてくれません。
―――それどころか、私の心の奥にあった大事な物がプツンと音を立てて切れてしまったような、そんな感覚さえもがあります。
そんな私に対し、先ほどまで黙っていたキャットさんが言葉をかけてきました。
「災難だったね。アプリ」
どういうわけか少し棒読み気味です。
その意味はよくわかりませんが、災難だった事には違いなかったので私も同意します。
「……うん」
「悪いね。あればっかりは、僕にはどうする事も出来ないよ。あっ、君の簡易保護障壁は別にイカれてないからそこは安心していい。あの人が異常なだけなのさ。それにしても、あの人も変わった掃除機を持っていたね。見たかい?」
簡易保護障壁に異常がないだなんて、どうしてそんな事がわかるのでしょう。
何か確信でもあるのでしょうか。何故だかとても胡散臭いです。
……と言う事はキャットさんは白魔女について何か知っているのでしょうか。
それにしても簡易保護障壁ごしに触られるなんて、宿主の最大の危機だというのにキャットさんはやけに冷静です。
すぐに掃除機の話を始めようとしてきたあたり、神経を疑ってしまいます。
だから私は苛立ち気味に答えます。
「……そんな余裕が、あったように見えた?」
「オォウ。そうだったね。ま、まあ、あの掃除機だけどさ……スティック型なのにも関わらずホースがついていたのだよ。それはつまり……」
「…………解説は、もういいよ。しなくていい」
「えっ?」
キャットさんが不思議そうな声を上げます。
ですが、これは私なりに今考えて出した結論なのです。
解説などもういらないのです。もうそんな物は無駄なのです。
私は、掠れた声で、気持ちを言葉にしていきます。
「……もうやだ」
「へっ? い、一体どうしたんだい、アプリ!?」
「……わからないの!? もうやりたくない! 疲れた! 辛い! もうやめるっ!!!!」
「と、突然何を言い出すのだい!?」
キャットさんは驚きの声を上げますが、ここまでの事がありながらどうしてわかってくれないのでしょう。
私は、今ので相当嫌な気持ちにされてしまったのです。だからやめたいと言っているのに、キャットさんはどうしてそれをわかってくれないのでしょうか。
……今、白魔女がした行為が「そこまで酷い行為」に見えなかったとでも言いたいのでしょうか。だとしたら常識が狂っています。
今の私は本気でした。
ふと、気付いてしまったのです。このレースが、全く割に合わない苦行だという事に。
正直、このレースを始めてから、全くもって嫌な事続きだったと思います。
それなのに達成感の一つも碌に得られないのです。一応、ロボット型を抜いた時に、それなりの達成感があったのは事実です。しかし、それもすぐに無力感へと変わってしまったのです。あんなのまともな達成感とは言えません。
それに、あれだけ頑張って闘ったロボット型すらも、結局はまだレースに残っているのです。苦難を乗り越えれば、こんな私でも変われると思いました。でも無理だったのです。
私は、ただ辛い思いをしただけだったのです。何の成果も上げられないまま、こんな危機から逃げるためだけの無益なレースを、ただただ無理矢理やらされていただけだったのです。
しかしどうして私が、こんな思いをせねばならないのでしょうか。
キャットさんが私に乗り移れるのだから、キャットさんが全部やれば良かったのです。
これは本来、私の負うべき苦難では無いのです。
私はただ、泥を被っただけなのです。
何度も何度も辛い思いをし、心が折れて泣きながらもここまで来ましたが、もうなんか無理です。
これから先、あの白魔女と再会する可能性を考えると、身の毛がよだちます。他の変な参加者と遭遇する可能性だってあるのです。
そもそも目の前の急転直下や、後ろから迫るロボット型の女の子の相手も、私には荷が重すぎるのです。
もう限界です。もう無理です。
こんなのやってられるか、ですよ。
別に、さっきの白魔女に腹を立てたのが全て、とは言いません。
今の私を追いこんでいるのは、今まで襲いかかってきた全ての苦難と、これから先に待ち受ける苦難の両方なのです。
それが今となって決壊してしまった、というだけの話なのです。
私は、ハンドルを握る手から、ほとんど力を抜きました。もう嫌なのです。
レースは、もうやめです。
私は、投げやりになって言い捨てました。
「……私、もう、どうでも良くなっちゃった。これ以上頑張れないし。もういい。この身体は好きに使っていいから、後はもうキャットさんが頑張ればいいと思うよ……私はもう、やめる……」
「ちょ、ちょっとアプリ!? それは本気かい!? あ、ちょっと! ねえってば!」
キャットさんの声に、なんとも言えぬ必死感が混じります。
……どうしてそこまで必死になるのでしょう。これでレースを再びするというキャットさんの目的は叶ったはずなのに、そこまで私の成長に固執するのは違和感を感じてしまいます。まるで私がやる気を出さなかったら不味いかのような必死さです。それほどまでして私の成長が見たいのでしょうか。
ですが先ほど言った通り、私は本気なのです。
そもそもレースに参加しなければ、泣く事も、吐きそうになる事も、キスされる事も無かったのです。
そして、これから先に似たような展開があるのならば、もう絶対に耐えられません。
だいたいにして、次は白魔女に何をされるかわかった物じゃありません。
それにですよ。
あれだけ頑張ってロボット型を抜いたというのに、ちゃんとした達成感の一つもまともに得られないまま、更なる苦難が待ち受けているなんてあんまりじゃないでしょうか。なんて悪質なゲームなのでしょう。
今の私には、全身を隙間なく満たす無力感しかありませんでした。
もう頑張れません。もうやりません。もうやめます。二度とやりません。
キャットさんに関しては、もう玉砕覚悟で無理矢理警察に突き出します。そうすれば専門家を呼んでもらえ、私とキャットさんは別離する事が出来るのです。
今までは、抵抗が恐かったからやらなかっただけです。
しかし今は、もう全部どうでも良くなってしまいました。
やりませんよ。絶対。レースなんて。
私は、眩しい青い空に向け、暗い溜息を吐き捨てました。
「……もう、レースなんて絶対やらないから。これは本気」
こうして。
わたくし、アプリ・アクセルハートは全てを諦め、途中でレースを投げ出しました。
そもそもにして、これ以上、私が頑張る義理も無いのです。
私は頑張るのを放棄し、憑依される感覚に身を委ねます。
キャットさんが、一応、レースを続けてくれるそうです。
これで満足し、いっそ成仏してくれたら最高なのですがね。
ですが、これはもう「私のレース」では無くなってしまいました。
私のレースは終わったのです。
これから先は、キャットさんのレースとなります。
私はもう失格です。精神的に。
―――そして、レースは後半戦へと突入するのでありました。
おまけ
魔女について
・「魔女」は魔族なので「人間」とは全く異なる種族。
・人間の女性に非常に似ている姿だが、体の内部構造はまるで別物。臓器の数や配置、ひいては役割もまるで違う。
・魔法や魔鉱を用いた技術力に優れ、掃除機を開発したのもこの種族であると噂されている。
・魔女は同族同士で独自のコミュニティーを築いているため、ほとんどの種族は魔女について詳しく知らなかったりする。そこには何らかの秘密が隠されているのかもしれない。




