第1話 神々に捨てられた少女
第1話 神々に捨てられた少女
この世界には、神々が存在する。
天を司る神。大地を司る神。生命を司る神。そして、世界の運命を見守るとされる至高の神々。
人々は彼らを崇め、その祝福を受けることこそが幸福への道だと信じていた。
神に愛された者は祝福を授かり、神に選ばれなかった者は、ただ運命に従って生きる。
それが、この世界の絶対的な理だった。
――少なくとも、十六歳の誕生日を迎えるまでは、私もそう信じていた。
* * *
「リリア・エヴァンジェル。前へ」
荘厳な声が、神殿の大広間に響き渡った。
私はゆっくりと顔を上げる。
目の前には、白い大理石で造られた巨大な祭壇。その周囲には、金色の装飾が施された柱が天高く伸びていた。
天井には星々を模した宝石が散りばめられ、神殿全体が淡い光に包まれている。
ここは、王国で最も神聖とされる場所――神託の大聖堂。
十六歳を迎えた者が神々から祝福を授かる、特別な儀式が行われる場所だった。
私も今日、この場所で祝福を受ける。
そうすれば、ようやく自分の人生が始まるのだと思っていた。
「……はい」
私は祭壇へと歩み出る。
純白のドレスの裾が、磨き上げられた床を静かに滑った。
緊張で手のひらが汗ばんでいる。
けれど、それ以上に胸の奥にあったのは、小さな期待だった。
神様。
どうか、私にも祝福をください。
誰かに必要とされる力を。
誰かを守れる力を。
そして今度こそ、誰かに見捨てられずに生きていける未来を。
――前世の私は、いつも誰かの顔色をうかがっていた。
嫌われないように。
迷惑をかけないように。
誰かの期待を裏切らないように。
自分の気持ちを押し殺して、周囲に合わせて生きていた。
それでも、最後まで自分の居場所を見つけることはできなかった。
そして気がつけば、私はこの世界に生まれ変わっていた。
リリア・エヴァンジェルとして。
新しい人生なら、今度こそ変われるかもしれない。
そう思っていたのに。
「では、神託を始める」
祭壇の上に立つ神官が、両手を掲げた。
その瞬間、空気が震えた。
大広間に集まっていた人々が一斉に膝をつく。
天井から無数の光が降り注ぎ、祭壇の中央に巨大な魔法陣が浮かび上がった。
神々の存在を示す、神聖なる光。
私は目を閉じた。
まぶしい光が全身を包み込む。
温かい。
そう感じたのは、一瞬だった。
次の瞬間。
――バキンッ!
何かが砕ける音がした。
「……え?」
神官の顔から血の気が引いた。
祭壇に浮かんでいた魔法陣が、黒いひびに侵食されていく。
光は次々と消え、神殿を満たしていた神聖な気配が、嘘のように失われた。
ざわめきが広がる。
「何が起きたんだ?」
「神託が……失敗したのか?」
「あり得ない。神々の儀式だぞ……!」
私も何が起きたのかわからなかった。
ただ、胸の奥がひどく熱かった。
まるで、ずっと眠っていた何かが目を覚まそうとしているように。
そのとき。
天井の遥か上から、声が響いた。
『――その娘を、ただちに拘束せよ』
空気が凍りついた。
人々が一斉に顔を上げる。
神殿の最奥。
そこに設けられた神々の座から、七つの光が降りてきた。
光の中に現れたのは、人の姿をした存在だった。
黄金の髪を持つ女神。
白銀の鎧をまとった戦神。
顔を仮面で覆った知恵の神。
そして、ほかの神々を従えるように中央に立つ、白い衣の男。
至高神アステリオン。
この世界を統べる、最高位の神。
その姿を目にした瞬間、私は息を呑んだ。
神々が、私を見ている。
その瞳に宿っていたのは、祝福でも慈愛でもなかった。
明確な――恐怖だった。
「……どうして?」
思わず声が漏れた。
至高神アステリオンは、冷たい眼差しで私を見下ろした。
『リリア・エヴァンジェル』
「は、はい……」
『お前の存在は、この世界の理に反している』
言葉の意味がわからなかった。
「理に……反している?」
『お前の魂は、この世界に属するものではない』
周囲が騒然となった。
『お前に祝福を与えることはできぬ』
神の声が、大広間の隅々まで響き渡る。
『よって、リリア・エヴァンジェルを神域より追放する』
「……そんな」
頭が真っ白になった。
祝福を受けるために、私はここに来た。
新しい人生を、今度こそ大切に生きるために。
なのに。
「待ってください!」
私は震える声で叫んだ。
「私、何もしていません! 何か間違いがあるんじゃ……」
『黙れ』
たった一言。
それだけで、身体が石のように動かなくなった。
神々の力。
人間が逆らうことなど許されない、絶対的な権能。
『お前が存在するだけで、世界の均衡が崩れる』
アステリオンの瞳が細められた。
『お前を生かしておくことはできぬ』
その言葉に、私はようやく理解した。
これは追放ではない。
私を、この世界から消すつもりなのだ。
「……どうして」
唇が震えた。
「どうして、私ばっかり……」
前世でも、私は何も望まなかった。
ただ、普通に生きたかった。
誰かに笑いかけてもらいたかった。
自分がここにいてもいいのだと、認めてほしかった。
それなのに、この世界でも。
どうして。
どうして私は、また居場所を失わなければならないのだろう。
「嫌……」
涙が頬を伝った。
「私、まだ……何もしてないのに……!」
神々の表情は変わらなかった。
戦神が手を掲げる。
その手の中に、純白の槍が現れた。
穂先から放たれる光は、触れたものすべてを消滅させる神聖な力を宿している。
『終わらせよ』
アステリオンの命令とともに、戦神が槍を構えた。
狙いは、私の心臓。
逃げられない。
身体が動かない。
誰も助けてくれない。
ああ。
また、こうなるんだ。
私は目を閉じた。
せめて最後くらい、自分の気持ちを隠したくなかった。
「……いやだ」
小さな声が、唇からこぼれた。
「死にたく……ない」
その瞬間だった。
――ドクン。
心臓が、大きく脈打った。
世界が、止まった。
槍を振り下ろそうとしていた戦神も。
悲鳴を上げていた人々も。
空中を舞っていた光の粒子さえも。
すべてが静止した。
そして、私の視界に奇妙な文字が浮かび上がった。
《魂の封印を確認》
《適合条件――解除》
《原初権能との接続を開始》
「……なに、これ?」
聞いたことのない言葉だった。
けれど、不思議と理解できた。
まるで、ずっと昔から知っていたかのように。
《固有権能》
《創世の理》
文字が光を放った。
その瞬間、私の内側から、何かがあふれ出した。
それは炎でも、雷でもない。
もっと根源的な何か。
世界そのものを形作る、始まりの力。
私の足元に、見たこともない紋様が広がっていく。
神殿の床に刻まれた魔法陣とは違う。
もっと複雑で、もっと古く、そして――神々の権能さえ及ばない何か。
《神性干渉――許可》
《法則改変――許可》
《世界構造への接続――許可》
《新世界創造――実行可能》
文字を読むたびに、世界の仕組みが頭の中へ流れ込んできた。
重力。
時間。
空間。
生命。
死。
それらが、絶対のものではないと理解できた。
世界は、定められた法則によって動いている。
そして私は、その法則に触れることができる。
「……私が?」
震える手を見つめた。
指先に、小さな光が灯っている。
その光を見た瞬間、神々の顔色が変わった。
『まさか……』
知恵の神が、後ずさる。
『その紋様は……失われたはずだ』
黄金の髪の女神が、初めて恐怖を露わにした。
『あり得ぬ。原初の権能は、すでに消滅したはず……!』
至高神アステリオンの表情から、余裕が消えた。
『貴様……いったい何者だ』
私は答えられなかった。
自分でも、わからなかったから。
ただ、一つだけ理解できたことがある。
私はもう、誰かに一方的に命を奪われる存在ではない。
「……私を」
声が震えた。
けれど、今度は恐怖だけではなかった。
「私を、殺そうとしたんだよね?」
神々は沈黙した。
「私が何をしたのかも、聞かないで」
一歩、前へ進んだ。
足元の紋様が、静かに輝く。
「私が生きているだけで、悪いことなの?」
答える者はいなかった。
その沈黙が、何よりも残酷だった。
胸の奥で、何かが切れた。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう、嫌だ」
その言葉と同時に、世界が動き出した。
戦神の槍が、私へと振り下ろされる。
けれど。
槍は、私に届かなかった。
正確には、届く直前で、その存在そのものがほどけていった。
白い光が粒子となって崩れ、空中へ溶けていく。
戦神が目を見開いた。
『我が神槍が……!』
私は何もしていない。
ただ、そうならないように願っただけだった。
「……止まって」
その一言で、神殿全体を覆っていた神々の結界が消滅した。
黄金の柱に刻まれた神聖文字が消え、天井から降り注いでいた光が失われる。
神々の周囲を包んでいた輝きも、次々と薄れていった。
『やめろ!』
アステリオンが叫んだ。
『その力を使うな! 世界が――』
その言葉を遮るように、私の足元から光が広がった。
神々の身体を拘束していたわけではない。
命を奪ったわけでもない。
ただ、私を殺すために向けられた権能だけが、次々と無効化されていく。
まるで世界そのものが、私を守ろうとしているかのように。
《警告》
《権能行使による世界構造への負荷を検知》
《連続使用は推奨されません》
不意に、文字が浮かんだ。
同時に、激しい頭痛が襲った。
「っ……!」
膝が折れそうになる。
視界が揺れ、鼻の奥に鉄のような味が広がった。
何でもできるわけではない。
この力を使えば、私自身も傷つく。
それだけは、直感的に理解できた。
けれど、今は倒れるわけにはいかなかった。
目の前にいる神々が、再び私を殺そうとしているのだから。
『全員、下がれ!』
アステリオンの声が響く。
神々は一斉に距離を取った。
その顔に浮かんでいるのは、明らかな恐怖だった。
神々が。
この世界の頂点に君臨する存在たちが。
たった一人の少女を恐れている。
『その娘を生かしてはならぬ!』
アステリオンが、神殿中に響き渡る声で命じた。
『たとえ神域が滅びようとも、ここで始末せよ!』
その言葉を合図に、神殿の扉が開いた。
武装した神殿騎士たちが、次々と大広間へなだれ込んでくる。
彼らは私を取り囲み、剣を構えた。
「……どうして、こんなことに」
呟いた声は、誰にも届かなかった。
騎士たちの背後で、神々が新たな術式を展開している。
逃げ道はない。
力の使い方もわからない。
身体は痛みで震えている。
それでも、私は立ち上がった。
もう、誰かの言いなりになって死ぬのは嫌だった。
「私は……」
剣を握る騎士たちを見つめる。
「私は、生きたい」
そのとき。
「――だったら、こっちだ!」
聞き覚えのない声が、神殿の高窓から響いた。
直後、窓が砕け散った。
黒い影が、降り注ぐガラス片の中を駆け抜ける。
一人の青年だった。
黒い髪。
澄んだ青い瞳。
身にまとっているのは、傷だらけの黒い外套と、使い込まれた剣。
彼は床へ着地すると、迷いなく私の手をつかんだ。
「走れ!」
「えっ……?」
「説明はあとだ。ここにいたら殺されるぞ!」
青年は私を引っ張り、騎士たちの間を駆け抜けた。
「待て! その男も神敵だ!」
背後で神官が叫んだ。
青年は振り返りもしなかった。
「余計なお世話だ!」
彼が剣を振るう。
その一閃で、行く手を塞いでいた騎士たちの武器が弾き飛ばされた。
私の手を引く力は強い。
けれど、不思議と怖くなかった。
この人は、私を殺そうとしていない。
それだけは、なぜか確信できた。
私たちは神殿の回廊を駆け抜け、裏門へと飛び出した。
冷たい風が頬を打つ。
目の前には、深い森へ続く石畳の道が伸びていた。
「はぁっ……はぁっ……!」
息が切れる。
足がもつれる。
それでも、青年は私の手を離さなかった。
やがて神殿が遠ざかり、追手の声が聞こえなくなったところで、彼はようやく足を止めた。
「……もう、大丈夫だ」
私はその場に座り込んだ。
涙が、止まらなかった。
怖かった。
悔しかった。
何もわからないまま、命を奪われそうになったことが。
そして何より、自分の力が何なのか、わからないことが。
「……どうして」
嗚咽混じりの声で、私は尋ねた。
「どうして、助けてくれたの……?」
青年は少しだけ目を細めた。
「俺も、あいつらに追われているからな」
「……あなたも?」
「ああ」
彼は神殿の方角を見つめた。
その青い瞳には、憎しみとも悲しみともつかない感情が宿っていた。
「神々は、自分たちの都合が悪いものを消そうとする」
彼は静かに言った。
「そして、君はあいつらにとって、消さなきゃならない存在らしい」
私は、自分の手を見つめた。
先ほどまで光っていた紋様は、もう消えている。
けれど、胸の奥には、あの力の気配が残っていた。
《創世の理》。
それが何なのか、まだわからない。
なぜ私に宿っているのかも。
なぜ神々が恐れるのかも。
何一つ、わからない。
「……私、これからどうすればいいのかな」
呟くと、青年は少し考えた。
「まずは、生き延びることだ」
それから、私に手を差し出した。
「俺はアレン・クロフォード。君は?」
私は、その手を見つめた。
前世でも、この世界でも。
誰かに手を差し伸べてもらうことなんて、ほとんどなかった。
だから、どうすればいいのかわからなかった。
それでも。
今度こそ、自分の人生を生きたい。
そう思った。
私は、震える手を伸ばした。
「……リリア。リリア・エヴァンジェル」
アレンは、静かに頷いた。
「そうか。よろしくな、リリア」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。
神々に見捨てられた日。
私の人生は、終わるはずだった。
けれど、その日こそが。
世界の新しい歴史の、始まりだったのかもしれない。
そして、まだ誰も知らない。
神々が恐れた少女の名が、いつか世界の創世神話に刻まれることを。
遠い昔、神々よりも古い時代に。
世界を創った、たった一人の少女がいたことを。




