プロローグ
――父は、宇宙飛行士だった。
ロケットの打ち上げが近づくにつれ、テレビでも、ネットニュースでも、父の名前を見かける機会が増えていった。教室でもそれは例外ではなく、友人と呼べるほど親しい相手がいなかった私でさえ、何度か話題の的にされたものだ。
現代において、宇宙はかつてほど遠い場所ではなくなっていた。
宇宙飛行士本人が、宇宙での生活を動画サイトやSNSに投稿する時代だ。食事、睡眠、無重力の中で水が丸く浮かぶ様子。そういったものは、特別な科学番組を待たずとも、誰もが手元の端末で眺めることができた。
「さまざまな宇宙開発が進むと共に、直接宇宙に関わるということへのハードルは、これから少しずつ下がってゆくのではないかと思っている」
担任の教師は、授業の中でそんな未来の展望を語った。
それが本当に授業の一環だったのか、それとも宇宙飛行士の息子である私を意識しての言葉だったのかは分からない。ただ、その言葉が私の中で特別な火を灯したわけではなかった。
私は宇宙飛行士になりたい。
いや、なるのだ。
そう思い始めたのは、もっと幼い頃だ。父の背中を見て育ったからなのか、家の中に宇宙の話が当たり前のように転がっていたからなのか、自分でもはっきりとは分からない。けれど私にとって月へ向かうことは、将来の夢というより、すでに決まっている目的地のようなものだった。
気づけば私は、宇宙へ向かう最短距離を走っていた。もちろん、これは比喩だ。けれど、あの頃の私には本当に翼があるような気がしていた。努力と才能の果てには、どこまでも広がる星の海があり、そこへ辿り着くための道を、自分だけは間違えずに進めると信じていた。
ある日、父は見ていたテレビから視線を外し、私を見た。
月への執着を見抜かれたのだろう。父は珍しく、私という飛行体の軌道を修正しようとした。
「一人では宇宙には辿り着けない。友達を作りなさい」
その指令には、非常に困惑した。
友達の作り方とは、いったい何なのか。
参考書を読めば身につくものでもなく、訓練を重ねれば上達する技術でもない。少なくとも当時の私には、そう思えた。
結局、初めて友人と呼べる人物が私の前に現れたのは、それからしばらく経った、ある夏の日のことだった。
なぜそこまで時間がかかったのかと問われれば、理由は単純だ。私がそれまで努力してきたものは、ほとんどが一人でどうにかなるものばかりだったからだ。自分の利益と目的だけを追いかけ、他者と足並みを揃えることを軽んじていた私は、周囲から見れば近づきがたい子供だったに違いない。
その友人について、ここで詳しく語るつもりはない。
ただ、紆余曲折を経て私に友人ができたことを知った父は、少しだけ肩の荷が下りたような顔をしていた。
その時点で、父は私が宇宙飛行士を目指すことを、歓迎していたわけではなかったのだと思う。反対はしない。けれど、賛成もしきれない。その中間のどこかで、私という息子を見守っていたのだろう。
それから数年後、私はもう日本にはいなかった。
国内の凝り固まった感性と、私自身の感性がうまく噛み合わなかったこともある。だが、それだけではない。新しい空の色を探しに行きたかったのだ。父が見たものとは違う角度から、自分だけの月を見たかった。
この頃になると、父は私の熱意に根負けしたのか、あるいは何か思うところがあったのか、以前よりも頻繁に連絡を寄越すようになっていた。
――調子はどうだ。
「別に、何も変わらないよ」
――ちゃんと母さんには連絡するんだぞ。
していないわけではない。そう反論しかけたところで、父は続けて言った。
――いや、そうじゃない。そんなことを言うつもりじゃなかった。すまない。
電話越しの声だけでは、その謝罪がどんな表情からこぼれたものなのか、私には分からなかった。
「今日あたり、母さんが送ってくれたものが届くって言ってたから、そのお礼ついでに連絡するよ」
じゃあまた、と言って通話を切る頃には、ちょうど仮住まいの前に着いていた。
部屋の中には大きな段ボールが二箱置かれていた。発送者は母の名前で、先ほど父が口にしたものだとすぐに分かった。要は仕送りである。大家が中に入れておいてくれたのだろう。あとで礼を言いに行かなければならない。
箱を開いた途端、懐かしい匂いがした。
ほんの一瞬、郷愁に足を取られかけたが、我に返るには三つ数える程度で済んだ。梱包用の紙や緩衝材を取り除くと、故郷の食材が次々と顔を出した。
二つ目の箱を開けたとき、私は不覚にも笑みをこぼした。
袋に入ったそれは、鈴の形を模したカステラだった。
月に一度現れる満月のように丸い菓子を、ひとつ口へ運ぶ。
舌にざらりと触れる砂糖。鼻を抜ける香ばしさ。奥歯で噛みしめるより先にほどけてゆく、やわらかな生地。
変わらず美味だ。
「月に降り立って見渡すと、どうなっているのか、知りたくないか?」
私は、はっとした。
部屋には誰もいない。
昔からこの菓子を食べるたび、父の言葉を思い出す。
きっと、あれが私を月へ駆り立てた最初の言葉だった。
――月はこのカステラのようだ。きらきらしていて、甘い。踏むとふわふわしていて、面白い。半分は焼けたような茶色で、半分は綺麗な白だ。おまけに、何も聞こえないはずの宇宙空間から、鈴の音が聞こえてくる。
幼い私ですら、それが事実ではないことくらい分かっていた。
そんなわけがない。ありえない。
そう口にして反論した私に、父は薄く笑みを浮かべた。
――そうやって、自分が作り上げた常識にとらわれるな。本当の月の姿は、色は、音は、実際に月へ行った者にしか分からない。望遠鏡で見たものも、テレビで見たものも、端末で調べたものも、自分自身の目で見たものじゃない。それを真実だと錯覚しては駄目だ。
父は立ち上がり、ベランダから空に浮かぶ月を眺めた。
まるで、月へ帰りたがっているように、私には見えた。
――嘘だと思うなら、自分の目で確かめてみるんだな。自分の目で見たものが、知り得たものが、お前の真実だ。
不意に、父は鈴カステラを私の口もとへ運んだ。
悪戯好きそうに笑っていたその顔を、私は今でもよく覚えている。
私は宇宙飛行士になりたい。
いや、なるのだ。
あの夜、私は鈴カステラをもうひとつ口に入れ、窓の向こうの月を見上げた。
遠く、冷たく、けれどどうしようもなく甘そうな光が、そこにはあった。
「なぁ……月は、見えているか?」




