第玖話 泥仏様
第玖話 泥仏様
黒沼繭という少女について考える。
化粧町の名家、黒沼家の娘だという。
狐面で素顔を隠した、しかしどこか雛と似た雰囲気を持つ少女。
化粧町の風習に対して、“禊の儀”に対して。
あるいは古い縁起に対して。自分たちの血脈に対して。
数々の疑問を投げかけ、ときに忠告めいたことをほのめかしながら、彼女はなにひとつとして真実を語らない。
それだけではない。
彼女が本当に黒沼家の娘かどうか。
それすらも、真実かどうかわからない。
いっさいが霧の中にあって、なお惑いをもたらす。
俺の中で黒沼繭という少女は、いつしかそんな化物のような存在になっていた。
◆
朝、起きて。
もう一度眠ろうと思った。
「さ、サトリちゃん? 朝だよ? 起きようにゃん」
止められた。
仕方なく、目の前の珍妙な存在に声をかける。
「あの……雛さん? ちょっと質問してよろしいでしょうか」
「なんで敬語にゃん!?」
「あ、いえ、ちょっと離れてもらえませんかね? 近いので」
「なんで!?」
涙目になる彼女を無視して、質問。
「その、あなたの頭に乗ってる猫耳は、どうされたんでしょうか」
雛の頭の上には、彼女の黒髪に合わせてあつらえたような、見事な猫耳がのっていた。
「昨日あれから作ったの! どうにゃん? 似合ってるにゃん?」
雛は必死だ。
意味不明だ。
実際似合ってるけど。
かわいいけど。それだけに。
「なんだろう。いい年した身内がこんなことしてると思うと、気持ちが沈んでくる……」
「そこまで!?」
「雛もさ、再来年には成人式するような年なんだからさ、もうちょっと、さあ……思いつきを行動に移す前に、立ち止まって考えようよ」
「それサトリちゃんにだけは言われたくないっ!」
もー、もーと言いながら、雛は真っ赤になって反論する。
「だいたい、サトリちゃんがあんな女狐にぼーっとなってるからわたしがこんな格好してるんじゃないの!」
「女狐て……昨日も言ったろ? 俺は別にあれを好きなわけじゃないし、狐面が好きなわけじゃない」
「ほんとに?」
「ああ」
言いながら、つい猫にするように、頭をなでてしまう。
「ふぇ? あ、わ、わたし、やっぱりこの猫耳ずっとしてる!」
「それは絶対止めとけ」
とんでもないことを主張しだした雛を、俺は冷静に止めた。
◆
どたばたの後。
食事をとってから、白沢家別宅を出た。
“禊の儀”も七日目、最終日。向かう先は奥の居黒沼家。
黒装束に狐面の少女。あの黒沼繭の、おそらくは領域だ。
空は、朝からうす暗い。
灰色の雲は低く、いまにも降ってきそうな曇り空。
中でも奥の居。化粧町の奥座敷になる、三方を山に囲まれた沼沢地は、それ自体が光を拒んでいるのだろうか。ひときわ暗く感じる。
いちど舗装道路まで出て、御山を左手に見ながら南へ。
未舗装に変わった道をまっすぐ南に進んでいくと、奥の居の入り口が見えてきた。
泥の湖。
そんな表現がふさわしいだろうか。
蓮の葉がまばらに浮いた泥沼のあちこちに、緑の陸地が、まるで島のごとく浮いている。
島を渡すように、丸太を何本か並べただけの粗末な橋が据えられており、それが沼沢地の向こう側へと続いている。
その半ばに、人の姿がある。
女だ。装いは、雛や俺とは対照的な黒装束。
顔は見えない。目深に差した赤い塗り傘が、その顔を覆い隠している。だが。
――黒沼、繭。
こちらに歩みくる姿を見ながら、確信する。
身に纏う雰囲気は、間違いなく彼女のものだ。
ちらと横を見ると、雛は足を止めている。
彼女が沼沢地を渡り、こちらに来るのを待っているのだろう。
ほどなくして、少女が目の前に姿を現した。その顔は、やはり狐面で覆われている。
白沢だけではなく、この奥の居においても狐面を外さないのには、なにか理由があるのか。
ひょっとして、少女が狐面で現れたのは、白沢家をはばかったからではなく、外の人間である俺に関係しているのかもしれない。
「御当主」
「御伽人」
白沢雛と黒沼繭。
ふたりの少女は対峙し、瓜二つの声をたがいに掛ける。
「“禊の儀”。男。青峰佐鳥。御伽人、白沢の雛。ななつ。泥仏様に参らせ給わん」
「“禊の儀”ななつ。泥仏様。黒沼家当主、黒沼繭。当主立会いの下、青峰佐鳥の参拝を許す」
息がつまった。
彼女は言った。
黒沼家当主、黒沼繭、と。
それはつまり、黒沼の叔父がすでに亡いということ。
亡き叔父に代わり、彼女は黒沼家当主の座に収まった。
――どうやって?
ふいによぎった思考に、背筋が冷える。
普通に考えれば親子相続だ。
しかし、俺は知っている。黒沼の叔父に、子はない。
だったら、養子か。それとも……なり代わったとでもいうのか。
藤原の姫と、化物の娘。彼女が語った、あの不気味なおとぎ話のように。
考えていると、雛が俺の袖を引いた。
「サトリちゃん。わたしはここまでだから、気をつけてね」
「え?」
言葉の意味がとっさにわからず、聞き返す。
「奥の居は黒沼家の領域なの。だから白沢家の人間は、たとえ御伽人でも入れないの」
雛が理由を説明した。
そういえば、黒沼繭は言った。
「当主立会いの下、青峰佐鳥の参拝を許す」と。
それは雛に代わって彼女が儀式に立ちあう、ということだったのだ。
この少女と、ふたりきりで。
想像するだけで、寒気がする。
だが、行かないわけにはいかない。
「では、ついて参られよ」
そっと、黒沼繭が手を差し出して来る。
白い手だ。思いながら、手を伸ばしかけて、ためらう。
少女の手が、この世ではない異様の世界に引き寄せる誘いの手に見えた。
横で、雛がうなずいた。
すこし拗ねたような顔だったが、それで踏ん切りがついた。
たとえ向こうでなにがあっても、雛はここで待っていてくれる。それを確信できた。
少女の手を握る。
白く、冷たい手。暗い沼沢地の中で、それは冷めた光を放っているように見えた。
◆
沼沢地は長々と続く。
目の前で、朱塗りの傘が揺れている。
黒沼繭は無言のまま、滑るように丸太橋の上を歩いていく。
彼女に手を引かれたまま、二十分も歩いただろうか。ようやくにして沼沢地を越えた。
山に囲まれた、小さな平地。一面の田畑、まばらな民家。
沼地を過ぎれば、見える情景は化粧町の、他の地域と変わりない。
まれに出会う人たちも、同じ。
黒沼繭に会釈をし、俺を居ないもののように扱う。
――穢れ、か。
ふと思う。
穢れとは、なんだろう。
化粧町は清浄で、外の世界は汚れている。
だから、話さない。だから、触れない。だから、認めない。
たとえそれが真実だったとしても。
あるいは、隠された深刻な理由があったとしても。
この、ある種選民的な穢れ思想こそが、化粧町を閉ざしている、この小さな世界を形成している、原因だ。
空は、ますます暗くなる。
未舗装の道は、奥の山へとまっすぐに続いている。
さらに数十分も歩いただろうか。一軒の大きな屋敷が見えてきた。
三段がさねの石垣の上に建てられた屋敷のつくりは、白沢本家のそれと相似形。
ただ、違う点があるとすれば。
山崖を背にした屋敷一帯が、黒い沼で覆われていること。
「これが……黒沼家」
「やっと、口を開いてくれたね。佐鳥ちゃん」
静かに、黒沼繭が口を開いた。
「ええ。これが黒沼本家。といっても、わたしのほかには、使用人が何人かいるだけだけれど」
「お前は、何者なんだ」
「その答えは、儀式を済ませてからにしよう? もっとも、あなたが儀式をちゃんと終えたいなら、だけど」
「ここまで来たんだ、逃げないさ。儀式からは、な」
話しながら、屋敷の裏手に回る。
黒沼は、山崖の際まで続いている。
奥の居入口の沼沢地でみたように、丸太橋がかかっていて、崖の中にぽっかりと口を開けた洞窟に続いている。
手を引いていた狐面の少女が振り返り、言った。
「――では、案内致しましょう。泥仏様の元へ」
◆
洞窟の中は異様だった。
ロウソクに照らされた狭い横穴。
地面を浸す泥の上、渡された板橋の上を歩いていくと、開けた空間に出た。
そこにあったのは、木造の庵。
見るからに年代を重ねた、古い庵の戸は開かれていて、奥には陶製の仏像が見えた。
少女に誘われるまま中に入って、絶句した。
仏像の膝元から、庵の両脇、そして側壁にしつらえられた棚に至るまで、ずらり。
古いものから新しいものまで。数千にも及ぼうかという膨大な数の泥人形が並んでおり、それが庵の中を異境に変えていた。
「これぞ、黒沼家泥仏様。白沢家影仏様と対を為す秘仏にして、化粧町を化粧町たらしめている、要」
絶句していると、少女が淡々と説明する。
黒沼の泥で作った泥人形に、おのれの名を記した木札を埋め込み、仏さまの元へ納める。
泥の仏。穢れを祓い吸い取り肩代わりする、もう一人の自分。つまり泥仏様は、一種のかたしろなのだろう。
――なるほど、化粧町を化粧町たらしめている要、ね。
穢れ思想が作る、化粧町という狭い世界。
これはその象徴ともいえるものだ。
「……どうする? 儀式を止めるなら、これは最後のチャンスだよ?」
黒沼繭は、相変わらず俺を惑わせる。
だが、いまさらだ。
「続けるさ。それが真実にたどり着く手段ならな」
少女の指示のもと、俺は“禊の儀”最後の神域での儀式を、無事済ませた。
儀式は終わった。しかし、それはまだ、始まりに過ぎなかった。
◆
帰り道を、また二人で歩く。
俺はふたたび、問いかける。
「儀式は終わった。教えてくれるよな? お前が何者なのか」
「ええ。儀式が終わったのなら、話さない理由はないし」
言ってから、しばし無言。
やがて少女はぽつりと口を開いた。
「わたしの名前は黒沼繭。黒沼家の当主。ただ、三年前に亡くなった先代様とは、直接血のつながりはない」
「ちらっと聞いた。先代と叔母さんの間に子供はいなかったって」
すこし不審げに首を傾けてから、少女は頷く。
「だから先代様は、最も血の近い縁者から、娘を貰いうけて養子にした。その縁者の名は――白沢義盛」
思わず息をのんだ。
伯父、白沢義盛の娘、ということは。
俺の心を読んだように、少女はうなずいた。
「そう。わたしの旧姓は白沢――つまりわたしは」
「雛の……姉、か」
妹だよ、と狐面の少女は訂正した。
事実を聞いて、俺はすこしほっとした。
人か、化物か。判然としなかった彼女が、たしかに血縁だとわかったからだろう。
それにしても、妹だという彼女より、雛のほうが精神的によほど幼いように感じる。
まあそこは、黒沼繭が早くに当主を継いで、苦労してきたからなのだろうが。
「なんで“帰れ”なんてメッセージを? ご丁寧に石にくくりつけて。一度なんて死にかけたぞ?」
つぎの疑問を口にする。
“帰れ”。二度にわたって送られたこのメッセージも、彼女を分からなくしている要因だ。
だが、俺の問いかけに、彼女はなんのことか分からない、という風に首を傾けた。
「帰れ」
反芻してから、少女は思い当たったのか、うなずいた。
「あれはわたしじゃない。たぶん赤谷仁の仕業。別宅に放り込んであった手紙は見たけど、仁の筆跡だった……でも、死にかけた?」
「でっかい石を西入り谷の崖の上から落とされた」
初耳だったのだろう。
狐面に隠されてわからないが、少女は驚いたようだった。
「ごめんなさい。許してあげて」
「なんでお前が謝るんだ」
ぺこりと頭を下げた少女に、理由を問う。
「許嫁だから」
もっとも、仁は雛のほうがいいみたいだけど。
少女はそう、付け加えた。
それで、はっきりした。
ちぐはぐに見えた黒沼繭の行動。
その、別の軸と見えた一連のメッセージは、別人のものだったのだ。
理由も単純。仁少年は雛のことが好きで、だから俺のことが気に入らなかった。
別宅に投げ込まれた石の文も、西入り谷の崖から落とされた石も、仁少年の、ホウジ神社での妨害の延長線上にあった事件なのだ。
見えなかった黒沼繭という少女が見えてくる。
俺は彼女に対する最後の疑問を口にした。
「なぜ、なぞなぞを?」
「言ったでしょう? 選んで欲しかったから。でも、もう意味がない謎かけかな」
この件に関しては、少女はそれ以上説明しようとしなかった。
雨が、ついに降ってきた。
いつのまにか、奥の居の入り口。
あの広い沼沢地まで来てしまっている。
沼の向こうには、じっと立って待つ少女の姿が見える。
足を滑らさないよう気をつけながら、雛がこれ以上濡れないよう、急ぐ。
白装束と黒装束。
二人の少女は再び対峙する。
「黒沼家当主、黒沼繭。儀式の無事を認める」
「御伽人、白沢の雛。承った」
雨が降っている。
その中で、雛は俺に向き直った。
目が、爛々と輝いている。口元が喜びに歪んでいる。
抑えきれない歓喜を漏らしながら、雛は俺に対して告げた。
「よくできたね、サトリちゃん。これでもう――逃げられないよ(・・・・・・・)」
意味が、わからない。
分からないまま、呆然としたまま。雛を見返す。
とたんに雛は、狂喜を爆発させた。
「あははははははははははははははははははははは……」
雛は狂ったように笑う。
狂ったように哂いつづける。
この瞬間。俺の中の化粧町は、音を立てて……崩れ落ちた。
◆
“禊の儀”っていうのはね、佐鳥ちゃん。
たしかに穢れを祓うっていう意味合いもある。
だけど、化粧町の外で生まれた人間がこれを行うってことには、特別な意味があるの。
その人間を、化粧町の人間として迎え入れる。
条件は、たったひとつ。伴侶が化粧町の人間であること。
そういうケースでは、たいてい伴侶が御伽人になる。今回みたいにね。
……耳に入ってないか。
じゃあね、佐鳥ちゃん。やっぱり「よろしくね」だったね。