第捌話 崖様
第捌話 崖様
「化物はいるか?」
と問われれば、わからない、と答えるほかない。
見たことがないものはわからない。
わからないものは判断しようがない。
判断しようのないものを、俺は常識だけで否定したくない。
それでも。
強いて言うなら、俺は化物の存在に肯定的ではなかった。
なぜなら、俺がいままで見聞してきたものの延長線上に、化物の実在を示唆するものはなかったからだ。
――そう、つい先日までは。
現在は――揺れている。
ひょっとして、化物はいたかもしれない、と思い始めている。
何故なら。真に迫ってその存在について語る人間に、出会ってしまったから。
黒沼繭。
化粧町奥の居黒沼家の娘。
彼女の語る、不気味で奇妙な化粧町の縁起。
――化粧町は、かつて化物の住処だった。
――白沢家と黒沼家は、化生の血が入った家系だ。
事実を証明する手段は一切ない。だが。
化生を封じたという、ホウジ稲荷。そしてホウジ稲荷を取り囲むように配置された神域。
その厳重さ、周到さ。費やされた労力と込められた執念。少なくとも、当時の人間は、化物の存在を信じていたに違いない。それも極めて深刻な実感と持って。
自然、思い返す。
ホウジ稲荷で感じた視線を。
脳の端をよぎるだけで寒気を覚える、あの体験。
たとえ心の中で描いた化物を恐れているだけだとしても。
心の中にそれを描かせた、旧い狂気の産物は……化物と呼んで、差し支えないのではないだろうか?
――それすらも、真実とは限らないけどね。
頭の中で黒沼繭――狐面の少女がささやく。
仮面の奥にどんな顔が隠されているのか。わからない。
だけど、俺はあの狐面の奥に、雛の顔を見てしまっている。
藤原の姫と入れ替わった化生のように、何の気なしに雛の姿で現れる。そんな姿を、思い描いてしまっている。
俺にとっては、黒沼繭こそが化物だった。
◆
“禊の儀”六日目。
心中の迷いを映したように、この日は朝から曇りだった。
「今日は涼しくていいね」
出発の折、雛はそう言って笑った。
たしかに、その通りだ。思えば化粧町に来てから晴れの日ばかりだった。
そのせいで、“禊の儀”のあいだ中、炎天下での化粧町巡りを強いられていた。曇り空は、言われてみれば、むしろありがたい。
「そうだな。じゃあ行くか」
「うん。でもサトリちゃん、ほんとに大丈夫? しんどいのなら、もうちょっと休んでからでもいいよ?」
病み上がりを心配したのだろう。
雛が朝から何度目かの提案をしてきた。
「大丈夫だよ。さっきも言ったろ? もう風邪の気は消えちゃったし、かえって調子がいいくらいだって」
「むー。サトリちゃん。無理しないでよ?」
すこし膨れて、雛が言う。
「大丈夫だよ」
笑顔で答えて、曇り空の化粧町へと歩き出す。
向かう先は、北西。龍神川が西に折れ、山間の谷を通って化粧町から出て行く、その間境。
西入り谷。そう呼ばれる土地だ。
「あと、どうだろう。一時間くらいかな」
遠くに見える山間の谷を見ながら、つぶやく。
川上原の民家や田んぼを、縫うように進むこと一時間。ようやく龍神川が見えてきたところだ。
よほど大きいのだろう。
西入り谷の切り立った岩肌の崖は、こんな遠くからでも視界に入る。
「崖様ってのは、あの崖のことか?」
「そうだけど、そうじゃないの」
雛は、よくわからないことを言う。
首をひねっていると、彼女は言葉を探しつつ、説明を始めた。
「よく見て? 崖の中腹に、仏さまが彫られてるの、分かる?」
「ん? んー……言われてみれば、そう見えるな」
雛が指をさした先には、たしかに仏像と思しき影があった。
崖に仏像を彫る、いわゆる磨崖仏だ。崖の見えている部分がおよそ50メートルだとすれば、磨崖仏の大きさは15メートルほどか。
「あれが、西入り谷の崖様。西入り谷の岩崖に掘られた、仏さまなの」
「……すごいな。どうやって掘ったんだろう」
「わかってないの。しかも……まあ、近づいてくと、わかるかな? サトリちゃん。崖様の姿、気にしてみて」
雛の言葉を聞いても、しばらくは理由が分からなかった。
気づいたのは、龍神川を越え、川下原から西入り谷に入る直前になってから。
すでに見上げるほどに近づいた崖様は、その視線をずっと俺に投げかけ続けている。
「気づいた? 崖様はね、村のどの位置にいても、こっちを見ているの」
「ほんとに不思議だな……タネとかどうなってるんだろ」
「また。タネとか言わない」
雛の説明に首をひねっていると、叱られた。
叱られながら、考える。化粧町のどこからみても、こっちを見ているのなら。
ホウジ稲荷を見張り続けることも、さらにはホウジ稲荷に封じられた化生がどこに逃げても、その姿をとらえ続けられるはずだ、と。
◆
西入り谷に差し掛かると、川土手が緩やかに広がっていく。
それが西入り谷にぶつかるまで続いていて、この川土手に囲まれた土地とその周辺が、地名としての西入り谷になる。
その、入り口。
川土手を登る木造りの階段、その下に、御当人の老人が立っていた。
「“禊の儀”。男。青峰佐鳥。御伽人、白沢の雛。むっつ。西入り谷の崖様に参らせ給わん」
「“禊の儀”むっつぅ。西入り谷。御当人。武藤為助。承ったぁ」
谷に入る手前のところで白衣姿の御当人と挨拶を交わしてから、階段を登って行く。
そして、俺は絶句した。
目の前に広がったのは、龍神川と、それを囲う広い河原。
無数に転がっている石は、まるで敷き詰められたかのよう。
賽の河原。
そんな言葉を連想する、光景。
それは化粧町に来る時、バスの中でみた、夢の中の場所。
「ここは……」
「ここが、西入り谷。崖様とともに龍神川を見送る場所だよ」
雛の説明をうわのそらで聞きながら、川原に降りる階段に足をかける。
「崖の手前、崖様の足元に、石が積んであるでしょ? あそこだから」
ついて来ながら雛が説明する。
見れば、川原の片隅に、ゴザのようなものが敷かれている。
その四隅に、石が塔のごとく積まれている。まるで、賽の河原のように。
中央には台があり、風よけに巻かれた和紙の中で、蝋燭の炎が揺れている。
そこに立ち、真上の崖様を眺めながら、拝む。
頭上の崖からは、崖様がこちらを見下ろしている。
間近で見て、仕掛けが分かった。
眼窩が、抉れたように掘りこまれている。
その中で、瞳の部分だけが白く球状に残されていた。
これなら、どの方向から見ても、目玉がこちらを向いているように見える。
だが、そんなことは二の次だった。
ひたすらに、この場所が気にかかる。
儀式を済ませてから、俺は河原を先に進んだ。
両側を崖に挟まれた暗がり。
賽の河原は奥までずっと続いている。
――間違いない。
心の中でつぶやく。
いつのまにか早足になっている。
勘違いではない。感覚が覚えている。
もう少し進めば、夢の中で雛が居た場所に着くはずだ。
「ちょっと、サトリちゃん、待って!」
雛の制止も耳に入らない。
走って。
走って。
目的の場所が見えた。刹那。
――死。
猛烈な悪寒。
本能の訴えに全力で従い足を止める。
その瞬間。
鼻先を黒い何かが横切った。
直後、足元の小石がはじける。
驚き見れば、そこには大きな石。
握りこぶしより大きいそれが、頭上から落ちてきたのだ。
足を止めなければ、石は頭を直撃し――おそらく俺は死んでいた。
「サトリちゃん!?」
悲鳴を上げる雛を尻目に、ひやりとして頭上を見上げる。
暗い谷からのぞく空は、曇りのために白い。
だが。
その中に。
一瞬だけ、見えた。
黒い影が、こちらを覗きこんでいたのを。
――自然の落石じゃない……落としたんだ。誰かが。
ぞっとして、石を拾い上げ、見た。
よりおぞましいものが、俺の背筋を這い抜ける。
石には、見覚えのある筆跡で、こう書かれていた。
――帰れ。
黒沼繭。彼女が残した文と、同じ筆跡。
ということは。俺を殺そうとしたのは、彼女に他ならない。
「サトリちゃん、大丈夫!?」
雛が駆け寄ってくる。
俺はとっさに石を川の中に放り投げた。
なぜ、そんなことをしたのかは、自分でもわからない。
強いて言うなら、落石の犯人と狐面の少女を、即座にイコールで結んでしまうのに、違和感を覚えたからか。
「大丈夫だ。びっくりしたけど、怪我はない」
「ほんとにだよ。この辺り、危ないんだから、気をつけないと。というか、川の中に石を放り込んじゃ駄目だよ」
「ごめんごめん」
謝りながら、あらためて辺りを見回す。
ちょうどここは夢の中で雛と出会った場所だ。
あまりにも見覚えがありすぎて、思う。
ひょっとして、俺は小さい頃、本当にこの場所に来たことがあるんじゃないかと。
「雛、俺、昔ここに来たことってあるか?」
「ないと思うよ? わたしもサトリちゃんとこっちに来た覚え、ないし」
雛は否定した。
だが、やはり、似すぎている。
記憶の中の光景と、あまりにも重なりすぎる。
もし、あれが実在する別の場所だというのなら、それはどこなのか。
あのとき出会った少女は、雛でない別人だと言うのか。考えるだに、うそ寒いものを覚える。
ぞっとする感覚を引きずって、俺は西入り谷を出た。
帰りに御当人の老人が、雛に話しかけてきて、しばらく足を止めることになった。
だいぶよいよいで、記憶が定かでないようだが、俺のことも知っているらしかった。まあ、例によって俺自身は幽霊扱いだったが。
「しかしぃ、白沢のお嬢ちゃんも大きくなったもんじゃ。先代さまも満足じゃろ……まあ、娘さんのほうに子が無かったのだけはぁ、心残りぃじゃったろうが」
――は?
老人の一言が、思考を凍らせた。
白沢の祖父に娘は一人しかいない。
黒沼家に嫁いだ、伯父と父の妹。それが、子供を産まなかった?
なら、黒沼繭。そう名乗ったあの少女は……誰だ。
寒気が、収まらない。
彼女ははたして、人か、化物か。
それすらも、わからなくなってしまった。
◆
龍神川を川沿いにさかのぼり、上川原のバス停まで帰ったところで、ちょうど昼になった。
バス停のそばには、木造りの、簡単な待合所がある。そこで弁当を広げて、昼食を取った。
それから、家に帰ってしばらく休憩。
縁側で鬱陶しい空を見ながら、考える。
頭の中に渦巻いているのは、黒沼繭のことばかりだ。
はたして彼女は何者か。
そもそも人間なのか。あるいは黒沼繭に化けた、ナニモノカか。
なぜ、“禊の儀”の妨害をするのか。なぜ、いろいろな謎かけを俺に問い続けてきたのか。
わからないまま、謎が頭の中に渦巻いている。
「サトリちゃん、大丈夫? ぼーっとしちゃって」
雛に心配されながら、夜になって布団に包ってからも、ずっと彼女のことを考えていた。
そのせいで、だろうか。それとも無意識に彼女を避けてしまったのか。いつのまにか俺は寝てしまっていた。
深夜になって目を覚まし、はっと気づいて、あわてて縁側へ向かおうとした、その時。
外から声が聞こえてきた。
「なにをしに来たの?」
「なんだと思う?」
雛の声だ。相手は狐面の少女、黒沼繭。
ふたりに見つからないよう、注意深く縁側をのぞく。
曇り空は、まだ続いているらしい。漆黒の闇の中、黒装束と白装束、相似形の少女が、縁側の上と下で相対している。
その姿を見ていると、思い出す。
藤原の姫と、入れ替わった化物の娘の話を。
不吉な予感に駆られながら、ふたりの様子をうかがいつづける。
「……出てって。わたしの場所に入り込まないでよ」
「つれないね」
仮面の奥から苦笑がこぼれた。
「邪魔するつもりはないよ……いまさら、雛になるつもりなんてないから」
彼女がさらりと口にした言葉に、ぞっとする。
雛になる。彼女はたしかにそう言った。
おとぎ話の中の、化物の娘のように。
考えるうち、雛が口を開く。
「だったら、なんでここに?」
「懐かしかった。ただ、それだけ……それも、許せないの? あなたが?」
「っ、いいから出て行って!」
くすり、と、鼻で笑った気配。
そして彼女は言った。
「じゃあ、またね。佐鳥ちゃんも」
いきなり声をかけられ、心臓が跳ね上がる。
「……サトリちゃん?」
「……悪い。さっきから居た」
雛に言葉を向けられ、おずおずと縁側に出て行く。
俺の方に視線をやってから、雛は狐面の少女に睨むような視線を向けた。
「あなた、気づいて」
「あれ? ここは感謝してもらうとこだと思ったのに……まあ、今晩はお暇しましょうか。またね、佐鳥ちゃん。いや、よろしくね、かな?」
そう言って、静かに。
狐面の少女は闇の奥に姿を消した。
頭の中に渦巻く謎をすべてぶつけたかったが、そんな暇もなかった。
彼女の幻影を追うように、俺は暗闇を見続ける。その隣で、なぜか雛がじっと眼を眇めている。
「サトリちゃん」
「ああ。すまない。盗み聞きするつもりはなかったんだが」
「サトリちゃんのあれを見る目、ちょっとおかしかった」
すこし、不機嫌な様子。
しかし、その理由は明後日向きだった。
「ひょっとして、ああいうのがいいの?」
「なにがだ?」
意図を理解できず、問い返す。
「だから、ああいう、ケモノっぽい感じとかが、好きなの!?」
「……いや、なにを言ってるんだお前」
「わたしも、その、お面とか付けて、にゃーとか言ったほうがいい?」
「見てみたいし言って欲しいが、話が違う。なんで俺はこんな質問受けてるんだ!?」
「だって、サトリちゃんあいつのこと、いやらしい目で見てたもん! なんかわたしの時と違うっ!」
脳が理解を拒絶するような超理論だった。
もちろん事実ではない。だから、とりあえず正直に説明する。
「いや、いやらしい目では見てない。どっちかというと得体の知れないものを見る目だ」
「……ほんとに?」
「なんで疑わしげなんだよ。というか、お面かぶった女が好きとかどんな特殊性癖だよ。俺の性癖はそこまで特殊じゃない」
なぜ俺がこんな弁解をする羽目になっているのかは不明だ。
しかし一連の会話を、なぜか斜めから捻るように受けて。
翌朝、雛は猫耳姿で現れたのだった。




